山本周五郎の生涯
山本周五郎は、明治三十六年(一九〇三)六月二十二日、山梨県に生れた。本名清水三十六(さとむ)。四歳の時、大雨による山津波で、祖父・祖母・叔父・叔母を亡くしたが、三十六の家は大月町の運送店の二階に別居しており、難を免れた。父は上京中であり、その後、一家は東京の北豊島郡王子町豊島に住むことになる。
明治四十三年(一九一〇)、豊島の豊川小学校に入学した。同年秋から翌年春の間に、横浜市中区久保町に移転し西戸部小学校へ転校した。明治四十四年(一九一一)には、学区の編成替えで西前小学校へ転学した。四年生のとき、受持ちの水野実先生から「君は小説家になれ」と言われ、小説家を志望するようになった。
大正五年(一九一六)には西前小学校を卒業した。東京・木挽町(現・銀座六丁目)の山本周五郎商店(屋号をきねやと称した質屋)に徒弟奉公する。洒落斎を雅号としていた山本周五郎店主から深い影響をうけた。大正十二年(一九二三)には二十歳で、徴兵年齢に達したが、右眼視力が弱く丙種合格となる。九月一日、関東大震災で山本質店は羅災し、一旦解散となる。その後、兵庫県の豊岡や神戸市須磨区に住んだ。新聞の募集広告で「夜の神戸社」へ編集記者として就職した。大正十三年一月には、神戸生活を切り上げて上京、下谷黒門町に下宿した後、新橋の板新道の芸妓屋蔦廼家へ転居した。
大正十四年(一九二五)頃、「日本魂社」に入社し、会員雑誌「日本魂」の編集記者となる。この年四月、『須磨寺附近』が「文藝春秋」四月号に掲載され、文壇出世作となる。この時以来、恩人山本周五郎の名をペンネームとする(異説あり)。昭和三年(一九二八)夏、千葉県浦安町へ移る。昭和四年(一九二九)秋、浦安から東京へ戻り、虎ノ門に下宿する。
昭和五年(一九三〇)十一月、宮城県出身の土生きよいと結婚、神奈川県南腰越(現・鎌倉市)に住む。昭和六年(一九三一)、東京府下荏原郡馬込村に転居、その後、馬込東に移転。昭和二十一年二月まで十五年間、馬込に住む。
昭和九年(一九三四)五月『青べかを買う』を「ぬかご」に発表。昭和三十五年の『青べか物語』の原形となる。昭和十年代は大衆小説作家として多くの短編小説を『新少年』『譚海』『講談倶楽部』『講談雑誌』『冨士』『キング』などに発表した。
昭和十八年(一九四三)、第十七回直木賞(昭和十八年上期)に『日本婦道記』が推されたが辞退した。以後、「賞」と名のつくものは受けていない。
昭和二十年(一九四五)五月四日、妻きよいが膵臓癌で死亡した。空襲が激しく、物資欠乏も甚だしく、本棚を解体して棺桶を作った。
昭和二十一年(一九四六)、一月、吉村きんと結婚。二月、馬込から横浜市中区本牧元町に転居した。七月、『柳橋物語』(前篇)を山本周五郎一人雑誌「椿」創刊号に発表した。
昭和二十三年(一九四八)春、中区間門町の旅館「間門園」の奥の六番の間を仕事場として使うようになった。昭和二十四年(一九四九)には「新青年」に『柳橋物語』を連載し、完結させた。昭和二十七年(一九五二)三月『よじょう』を「週刊朝日陽春読物号」に発表した。「後半期の道をひらいてくれた」と作者が大きな意味を認めている。
昭和二十八年(一九五三)には、『栄花物語』『正雪記』と力作をまとめる。翌二十九年には、『樅ノ木は残った』の連載を開始し、三十三年に完成した。二十九年十一月、間門園の別棟の独立家屋に移り、終生ここで仕事をする。昭和三十五年(一九六〇)には『青べか物語』を「文藝春秋」に連載、代表作の一つとなる。三十七年(一九六二)には『季節のない街』を朝日新聞に連載した。昭和三十八年(一九六三)、『さぶ』を「週刊朝日」に連載。三十九年(一九六四)には『ながい坂』の「週刊新潮」への連載を開始した。
昭和四十一年(一九六六)には六十三歳となり、心臓発作に悩み、肝臓機能も衰えてきた。四十二年(一九六七)二月十四日、肝炎と心臓衰弱のため、間門園の別棟の仕事場で死亡した。六十三年余の人生であった。
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菊池真一 kikuchi@konan-wu.ac.jp