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『武辺咄聞書』第1話 松平御家御相続御繁昌被成候事に付、老人の物語に、家康公は天文十一年壬寅十二月 廿六日、参州岡崎城にて御誕生被成候、但し御胎内十二か月と云々。御母は刈屋城主水 野下野守為妙の孫、右衛門大夫藤原忠政の御息女也。水野下野守信元同和泉守忠重の御 妹也。後に伝通院殿と申奉る。家康公御字は竹千代丸と奉号。天文十三年甲辰三月三日 夜、御父岡崎次郎三郎広忠の御夢想に、神々の永き浮世を守かな薮心は千代竹の宿 右の歌を金の短冊に書、松の枝に付て来ると見て夢覚たり。広忠卿不思議に思召、其後 参州大浜の称名寺十五世其阿弥上人に御語被成「扨々不思議の夢也」と被仰。称名寺上 人被聞「目出度御夢想、不可過之。殊更竹千代殿当年三歳に成給ふ。行末繁栄疑所にあ らず」と、祝ひの百韻興行有。称名寺上人、第三を被致候。玉をしく砌の月は長閑にて 此御夢想に不違、日を追、年お重て御繁昌也。慶長二年正月二日、伏見に御座候時、家 康公石清水八幡宮へ御参篭、目出度夢想を御覧被成、伏見の御屋敷へ御帰被成、御祝有。 其月十四日に、江戸御留守居酒井備後守忠利、封候一書を差上る。是御使番米津清右衛 門妻女、此月二日夜夢想に見たる歌并夢の記也。米津か妻女の記は、八幡宮の社頭へ家 康公御参宮被成候所に、白衣立烏帽子の神人、榊の枝に短冊を付て家康公へ奉る。神人 其歌を数返高らかに詠ず。盛りなる都の花はちりはてゝ東の松ぞ代をはつぎける 此記を家康公御披見被成に、二日夜八幡にて御覧被成候御夢想に少も不違と云々。其年 より四年め、関ケ原御陣にて天下御手に入なり。天正十年五月、明智日向守光秀逆心の 企にて、祈念の為愛宕へ詣て連歌興行せしに、時は今天か下しる五月かな と言ふ発句也。其十一句十二句目に御当家御繁昌の吉兆有り。 立つづく松の梢やしげるらん 御子孫繁昌の兆 浪にまかひの入海の里 江戸繁昌の兆 此懐紙を聚楽に秀吉公御座被成候時分より世に披露せしに、天正十八年に家康公江戸の 城へ御移り、其時より世上に松平御家次第に栄へ、江戸繁昌可有と申けるとかや。
『武辺咄聞書』第2話 大坂御陣の時、霜月廿八日に天満口仕寄御巡見被成。家康公、片桐市正且元か寄口備 前嶋へ御廻り、竹束の外へ御出被成、御立城中を御覧被成。本多上野介正純・永井右近 大夫直勝、矢表に立塞るを見て、小栗又市・横田甚右衛門・山本新五左衛門・山城宮内 少輔・嶋弥左衛門、同しく御矢表に立塞。上野介・右近、再三諌奉りけれ共、御承引な く、御目見に来諸大名御供の面々は竹把の内に罷在候。良久城中御覧被成候処に、鉄砲、 嶋弥左衛門か鎧の草摺に当る。然共身には不中。其後竹把の内へ入給ふ。近所仕寄の諸 大名参て御目見有り。然る所へ秀忠公御出被成。家康公御機嫌能「いさ/\将軍、城中 の様子御見候得」と、御同道にて又竹束の外へ御出、御立双城を御覧被成。本多上野介・ 安藤帯刀・成瀬隼人・永井右近、種々制止まいらすれとも、御挨拶もなく、静に御見物 |
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被成。其後茶臼山へ御還被成、半町程御通過被成候と、石火矢を城中より五つ六つ放し かけ候。片桐主膳、其玉を持て追付参らせ差上候。何も三貫目四貫目の玉也。城に篭る は天下の諸浪人なれは、家康公を見知り奉り、鉄砲の手垂とも筒先を揃へ奉打けれとも、 不中。後藤又兵衛政次、制止て「大剛勇猛の大将には鉄砲は当らぬもの也。若打当たり 共、名利を失ふ物也。位高き名将軍を打たる人、名利を不失は稀也。必無用」と下知し けるとかや。
『武辺咄聞書』第3話 家康公御、幼少にて駿府に被成御座候時、今川義元の妹聟鵜殿長持を尾張の大高の城 に差置、織田信長を押らるゝ。信長より砦をかまへ、大高の城と対城を取る。丹家の城 には水野帯刀・山口海老丞・柘植玄蕃を差置、善照寺城には佐久間左京、中嶋の城には 梶川平左衛門、鷲津城には飯尾近江守・同隠岐守、丸根城には佐久間大学篭置て、大高 城と取合。其外に寺部・挙母・広瀬とて三城有。信長下知して曰「若今川方より大高城 へ兵粮を入れは、鷲津・丸根は第一手先にて近けれは、早々貝を立へし。其貝を聞は寺 部・挙母・広瀬の三城は速に大高表へ可馳参。丹家・中嶋二城の兵は丸根・鷲津へ後詰 可仕」と定故、義元より大高城へ兵粮入候事不叶、大高城中難儀する。永禄二年四月、義 元より家康公へ使者を立「大高の城へ兵粮入給」と有り。「心得候」とて、四月十日に大 高の城へ兵粮入んとて、宵より其支度にて岡崎を打立給ふ。酒井与四郎正親(後に任雅 楽頭)同小五郎忠次(後に左衛門尉と号)石川与七郎数正(後伯耆守と号)等諌申は「信 長兼ての城の手配り能候へは、中々兵粮御入候事は難成候半」と諌申候。家康公御年拾 八歳、いまた何の御分別も可有御齢ならねとも、少も家老中の諌を用ひ不給「我次第に 致せ」と宣ふ。先勢を分け、松平左馬助親俊・酒井与四郎・石川与七郎等四千余を先手 となし、九日夜半に打立。大高城をも鷲津・丸根の敵城をも脇になし、乗越て寺部の城 へかゝらせ、家康公は逞兵八百余にて兵粮小荷駄千弐百駄を引連、大高城廿町脇に備給 ふ。御先手は大高・鷲津・丸根をも踏越、遥奥なる寺部城へ取掛け、急に攻入候。信長 方には不思寄、上を下へと返し、漸々取合防戦候。元来九日丑の刻の事なれは、暗さは くらし、遽騒き城方防得す。御先手は一の木戸踏破り、火をかけて颯と引取、又梅坪城 へ取かけ、二三の丸迄推入、火を掛て攻戦ふ。其火の光、天を曜し、鬨の音響渡り、鉄 砲の音頻也。大高の向城、丸根・鷲津両城に此体を見て「三河勢手先の城をは差置、は る/\奥へ働き入候は如何不審成り。先寺部・梅坪へ後詰せよ」とて、大高表を指置、皆々 寺部・梅坪へ馳向ける。家康公、忍ひを付置、丸根・鷲津両城より寺部・梅坪へ後詰に 趣たるを聞給ふとひとしく、急に采を振、兵粮を押立、何の障もなく大高の城へ入給ふ。 丸根・鷲津両城より是を見るといへ共、宗徒の勢は皆寺部・梅坪へ後詰に行、残る所は 留守居計なれは、無為方。家康公は思の侭に兵粮を入、人数をさつと引取、要害の地に 備へ立給ふ。丸根・鷲津両城の兵とも、寺部・梅坪より打帰て、大高城へ兵粮入たる事 を聞、手を拍て驚きつゝ「謀られけるよ」と頭をかき、後悔すれ共甲斐なし。御先手石 川・酒井・松平等も引返しけれは、家康公も岡崎へ帰城被成。皆々御前へ出「今日の御 手柄、申上も中々疎にて候。我等共若年より軍中に生長候へ共、かゝる手立は不及候。然 共猶心に疑候は、君今朝兵粮を大高城へ入候事は急き給はず、先御先手を出しつゝ、大 高を余所に見、丸根・鷲津をも踏越、はる/\奥の寺部・梅坪両城を攻させられ候は、如 |
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何成る御工夫にて候哉。其上やす/\と大高へ兵粮入給ひ、彼に付是に付、凡夫の及所 にあらす。御謀の御奥意を承度奉存候」と皆一同に申上る。家康公御笑ひ被成「是知れ 安き術也。鷲津・丸根両城は、大高の城へ兵粮を入を防ん為の手当にて、しかも寺部・梅 か坪の城より後詰するを頼居たり。今朝我若し大高へ兵粮を入んとせは、丸根・鷲津に 貝を立へし。寺部・梅が坪等の城に貝を聞て大高表へ馳集らは、兵粮入候事は扨置、味 方の大事に可及。是を了簡する故、先思ひも不寄寺部・梅坪両城へ攻かゝり、火をかけ て敵の気を奪ふによつて、丸根・鷲津両城も後切の放火を見て大高表を捨て、寺部・梅 坪へ助来れり。是所謂先奪ふ其所変て其兵を分者也。是を以鷲津・丸根に人数なし。我 兵粮を大高へ入るにやす/\と功をなし、少も気遣なし。兵法は神速を貴ふとかや。人 の不及に乗、不意の道により其守所を攻者也。是皆近き大高へ兵粮入ん為、遠き寺部・梅 坪を攻させたり。近して遠きを示す謀、別に珍しからぬ術也」と宣へは、家老物頭舌を ふるひ「此君、幼少より臨済寺の雪斎にたより、兵書を読習給ふと言共、ケ程の明智は よも不出。生付給へる名将也。老前き頼母敷」と感しける。是を大高の兵粮入とて、御 手柄初とそ。
『武辺咄聞書』第4話 大久保相模守忠隣は小田原城主也。幼少之時、新十郎と言。家康公御寵臣也。七郎右 衛門忠世が子なれは、御心安第一也しか共、如何成る事か有けん、慶長十八年の冬、家 康公関東御鷹野砌、十二月六日、中原にて忠隣預りのもの馬場八右衛門一通の訴状を上 る。是忠隣隠謀の企有事を申上。この段本多佐渡守正信御相談。其後京都へ切支丹御制 禁の使に相模守を被差登、京都へ着候時分を考へ、同十九年正月廿二日、小田原の城を 召取給ふ。京都へは其段被仰遣しかは、板倉伊賀守勝重上使として、相州か宿所へ被参 ける折節、相州は将棋をさして被居けるか、家人共密に告けるは「伊賀守上使は御流罪 の御意たるよし。如何あらんと」囁けるに、相州少も不騒、将棋さし終て後、上下を着 し、伊賀守に対面す。伊賀守上意の趣申渡す。其上井伊掃部頭直孝に召預させ給ふ間、江 州の配所へ可罷越由也。相模守奉畏旨御請申上る。家人共是を聞「無実の讒により身を 亡んより、一戦して可打果す」と罵りけれは、是より京中騒き立「すはや相模守か切て 出るは。火を掛へし」と言程こそあれ、上を下へと走散る。東西南北只乱のことし。二 条の御城にも御門々々をさし固め、皆弓箭を取、火縄をはさみけるに、相州是を聞、小 田原より持来る甲冑兵杖一つも不残板倉方へ渡しけれは、洛中皆鎮りけり。「能き仕方」 又は「忠臣也」と云敢り。其後配所にて、掃部頭、相州に対面し「何とて申分をもせら れぬそ。近比残多侍る」と被申けれは、忠隣「申分を仕らは、御赦免疑なし。左候へは、 讒言を聞し召入られ候君の非を顕し候に罷成候間、仮令無実に身を亡し候共、いかてか 主君の非を顕し候はん」と被申ける。「忠信義理ふかき人也」と、世挙て感せぬはなし。
『武辺咄聞書』第5話 真田左衛門佐信賀(一説に幸村とあり後に改名か)は、父安房守昌幸と同しく、高野 山九度山に配せられ、父昌幸は慶長の末に彼地に病死す。左衛門佐、独九度山に住居せ しか、大坂御陣の初、秀頼公より大野修理亮治長承にて御頼有しかは「大坂の城へ可篭」 とて内支度する。紀伊国守浅野但馬守長晟よりも橋本峠村近辺の百姓共に下知して「若 |
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世上騒き候へは、真田左衛門佐大坂走篭む事有へし。油断不可仕」旨触られたり。高野 門主并衆徒中よりも、其旨九度山辺へ申付る。真田は此色を察しつゝ「九度山近辺、橋 本・到下・橋谷等の庄屋・年寄・小百姓、不残振舞候はん」と触廻し、不残九度山宿所 へ呼寄、仮屋を打て、数百人並居、様々饗応し、酒を出し上戸も下戸も不論酒を強る事 不斜。皆酔臥、前後も不知成ける時、百姓共の乗来れる馬共にひた/\と荷をつけ、妻 子をは乗物に打乗せ、上下百余鉄砲弓を前後に押立、紀川を渡り、橋本・到下・橋谷へ かゝり、木目峠を越、河内へ入、大坂さして趣けり。道筋の百姓共は、不残九度山に集 り酔伏たり。在々所々には、女童扨は小百姓計なるに、真田は鑓長刀抜身にて鉄砲に火 縄はさみ通りけれは、可止様なし。百姓共は是を不知、沈酔して、其夜は真田か宿所に 酔臥し、夜明酔さめて見れは、真田宿所には一人もなし。雑具迄取払ひ、跡形なし。「是 は出し抜れたり」とて東西を尋れ共、昨晩退たる事なれは、可追付様なし。橋本・到下・ 橋谷の己か家々に帰尋れは、留守の者共「昨日の八つ時分に、真田殿は奥方御子達引連、 馬共に荷を付け、弓鉄砲押立てつゝ、河内の方へ通り給ふ」と告けれは、百姓共皆頭を かひて後悔すれ共甲斐なし。真田は大坂に着、其身計大野修理方へ行、其比は伝心月叟 とて薙髪成しが、玄関にて案内乞に、奏者番罷出「やまぶしは何方よりそ」と問ふ。真 田態と手を束ね「大峰辺の山伏にて候か、御祈祷の巻数差上、御目見を望候」といふ。奏 者番承り「殿には御登城にて御留守也。此方へ被通候へ」と番所の脇へよひ入「御帰宅 の刻、御目見へめされ候へ」とて待せる所に、若侍十人計、刀脇指の目利する。一人の 若者、真田に向て「和僧の刀脇指見せられよ」と言。真田聞いて「山伏の腰刀、只犬お どしの為迄なれは、中々掛御目候物にて無之候得共、刀の悪敷は元来知れ候得は、御慰 計に」とて指出す。若者するりと抜て見れば、出来恰好は不及申、刃の匂、金の光、兔 角不及云に、「扨も見事成」と誉る。外の若者見て「山伏は能刀さしたり。脇差も見せよ」 とて、抜見るに、是又見事さ言へき様なし。「さらは中小身を見よ」とて、銘を見るに、 脇差は貞宗、刀は正宗と銘有り。中身の見事さ無言計。皆々怪み不審して「いか様只者 にはあらし」と怪み思ふ所へ、修理城より帰り「玄関にて目見し給へ」とて、奏者番引 具して出るを見て、修理手を拍て「是は/\」と計にて、真田か前へ来り、手をつき、畏 て「近日可有御越とは承り候へ共、早速御出、満足不過之候。秀頼公へ可申上」とて、其 旨御城へ申遣し、書院へ請し入、馳走限なし。秀頼公より速見甲斐守守之御使として「遠 方早速馳参条、御満悦不過之候。旅宿不自由可有」迚、黄金弐百枚・白銀三拾貫目被下 けり。「組勢与力の事は重て可被仰付」と有しかは、玄関の侍共、興を覚しあゑり。真田 心立おかしき者にて、後々迄彼者に逢ては「刃物の目利は上りしか」と尋しかは、皆赤 面せしとかや。次の5話(第6話〜第10話)に進む 『武辺咄聞書』校訂本文メニューにもどる 武辺咄メニューにもどる はじめにもどる 武辺咄著書を見る 武辺咄論文を見る |
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菊池真一 URL http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/ Eメール kikuchi@konan-wu.ac.jp 又は kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp
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