『武辺咄聞書』第6話

家康公大坂へ御立寄可被成前方に、家康公は真田隠岐信尹(真田一徳斎末子にて昌幸 弟也左衛門佐信賀か叔父なり)を御使にて、真田左衛門佐方へ被仰遣候は「秀頼合力の 心を翻し味方に参り候はゝ、信州にて壱万石可被下候」との上意也。左衛門佐承り「上 意之趣難有奉存候。然れとも信賀事は関ケ原一戦に御敵仕、其罪科に依て九度山に蟄居 仕候て山賎の体に罷在候処に、秀頼公より被召出相備八千余の大将に被仰付候儀、何よ り忝存候間、心替りの儀は罷成間舗」旨申切けり。此旨申上しかは「左候はゝ、重て信 濃国一円に可賜」と被仰出。隠岐守、此旨重て申聞候。左衛門佐大に怒て「忠儀に軽重 なし。禄の多少によるへけんや。一度秀頼公の御扶持を請候上は討死と志候。乍去若御 和談に成候は、領知の望なし、貴殿の合力を請、関東へ奉公可仕候。合戦有之内は大坂 に罷在討死仕候条、重て上意の御取次、可為無用」と申切けりとそ。

『武辺咄聞書』第7話

 左衛門佐信賀は、冬陣には出丸に居て加賀越前佐和山勢と戦、名を揚、夏陣には五月 六日誉田口へ出張、伊達政宗とせり合。前方後藤又兵衛・森豊前守勝永と申合「六日未 明に国分口へ出ん」と約束せしかとも、又兵衛独約束のことく夜通に平野へ詰、片山を 取敷、水野日向守勝成・本多美濃守忠政・松平下総守忠明・伊達政宗と戦、数刻及、終 に又兵衛討死せしかは、此口一番に破しに、森豊前守は葛井寺に至り、真田左衛門佐は 誉田に至り政宗と合戦し、政宗先勢を両度迄誉田へ追込、手柄を振申候。殊に子息真田 大助信隆、拾五歳にて高名し、高股に鎗手を蒙り、翌七日の合戦には、左衛門佐は秀頼 御馬の出る事の延引を待かね、大助を人質に本丸へ入ける。其跡にて軍始りしかは、真 田勘解由・大塚清安・高梨主膳と一所に左衛門佐討死す。四拾六歳也。首は越前少将忠 直卿の家人、西尾仁左衛門捕之。真田か首共不知して鼻にせんとしけるを、御使番真田 隠岐守通り懸り「其首は見知りたる所有り。其冑はなきか」と尋ぬ。「是に候」とて指出 す。真田家の重代抱鹿角の冑也。隠岐守申候は「是は我甥真田左衛門佐信賀か首也。向 歯二枚ぬけて可有」とて口を開き見れは、果して其通り也。其にて真田か首に極る。

『武辺咄聞書』第8話

 越前忠直卿御使番は金の九本馬藺也。其使番は皆諸国にて名有覚の兵共也。甲州浪人 原隼人佐と云者も使番也。真田左衛門佐と旧友なれは、冬御陣御和談に成と、真田方へ 隼人を振舞に招請し、種々の馳走也。酒宴始しかは、真田も小鼓を出し乱舞有。息大助 に曲舞二三番舞せ、扨其後茶を点し、懇意を尽して又書院へ出、真田申は「今度討死可 仕身にて候か、不慮の御和談にて今日迄の命をなからへ、二度見参仕る事、悦入候。信 賀身不肖なれ共、一方の大将を承りぬる事、今生の面目、死後の思出と存候。御和談も 一旦の事、終には又御弓箭に可罷成と存候得は、我等父子も一両年の内に討死とこそ思 ひ定候へ。臨終の晴にあれ御覧候へ。床に飾り置たる鹿の抱角打たる冑は、真田先祖代々 の家の宝なるを、亡父昌幸此信賀にくれ申候へは、是を着て討死仕候はん。若此冑御覧 に於ては、信賀か首そと思召、一遍の念仏廻向に預へく候。君の為義の為討死致すは武 士の習にて候へ共、世悴大助か是ぞとおもふ事にも不逢、一生浪人にて歳拾五六に成や ひとしく、戦場の苔に埋れん事、不便に候へ」とて涙くみけれは、隼人も涙をなかし「哀、


武士程墓なきものは候はす。戦場に趣く身は誰か前後を定めんや。必冥途に参会せん」と 語りける。其後白河原毛なる馬の太く逞しきに、六文銭を金にて摺たる白鞍置て引出し、 真田ゆらりと打乗、五六返乗て静に乗納めなから「若重て合戦あらは、御城は破却せら れぬれは、平場の合戦なるへし。天王寺表へ乗出し、東の方の大軍に駆合、此馬の息の 継ん程は戦て討死可仕と存候へは、一入秘蔵に候」とて、馬より下て又酒宴になる。「大 方是か今生の暇乞たるへし」とて、盃を擬数盃の興を催して及夜半立別れける。果して 翌年五月七日に彼冑を着し、件の馬に乗て討死しけるこそ哀なり。

『武辺咄聞書』第9話

五月七日合戦前に、真田は「秀頼公御馬の出る事遅き故、子息大助を人質に城へ入ん」 と言ふ。大助此時十五歳也か「今日の戦に父御は討死と見へ申候。生れてより以来、父 母の懐に生立、拾五歳に成迄片時も離不申。去年御城へ入候とて、母上には生て別れ候。 其後文の便にも『互に命なからへ、逢度事は山々なれ共、父御の御最期を見捨、かまへ て生て戻るへからす。同枕に討死し、真田の名を揚よ』と常々御文給り候。只今父御を 見捨、御城へ入候事、存もよらず。父御御討死候は、御死骸に双て討死仕候はん。城へ 入る事は不可仕」と左衛門佐か鎧の袖に取付泣申候に付、父真田も軍兵も泣ぬ者はなし。 父涙を押拭、大助をはつたと睨み「武士の家に生るゝ輩は、忠儀名利を大切にして父母 を忘、其身を忘る。城へ入も秀頼公御最期の御供也。死は頓て冥途にて廻り逢へし。少 の別を悲む事、弓矢の家に生れたる身にて甚未練也。早々御城へ可入」とて取付たる手 を引離しければ、大助は残多けに父を見て「左候はゝ、御城へ参候。来世にては必参会 候はん」とて別れにけり。父もさらぬ振にはもてなせ共、涙にくれて東西も不分。大助 は城へ入とひとしく、落城迄つきたる郎等被推阻、只一人に成て、秀頼公の御供して芦 田曲輪朱三櫓へ篭居、七日朝食したるまゝにて、明る八日の午の刻迄矢倉の下に詰居 つゝ、秀頼公御先途の御供三十弐人の其内にて、皆一所に芦田曲輪に詰居けり。父か行 末無心元思て、城中へ遁入る人々には「真田左衛門は何と成候」と人毎に尋しかは、「真 田殿は天王寺前にて大勢中へ駆入、馬上にて戦ひ、其後鑓十本計にて鑓玉に揚られ、討 死せられ候」と慥に申者ありけれは、大助それより涙おし拭、物をも不言、古郷の母に 別れし時「最期に是を持討死せよ」とてくれたりし水精の珠数、鎧の引合より取出、念 仏申て、秀頼公御生害を待居たり。速水甲斐守不便に存、大助か傍に寄「貴殿は一昨日 誉田にて手柄成る太刀打高名し、高股に鎗手負たるときく。疵は痛候哉。秀頼様にも頓 て御和談にて御命無恙御出有筈なれは、貴殿は早々除給へ。人を添真田河内守方迄送届 けん」とすかしけれ共、大助いらへもせす、只口の中に念仏唱けり。八日午の刻、秀頼 公御自害有しかは、男女三十弐人皆自害して、矢倉に火を掛け同煙と立上りぬ。真田大 助も鎧脱置、腹十文字に掻切て、十五歳にて終りけり。見聞の人々「天晴勇士の子孫か な」と誉と云々。

 

『武辺咄聞書』第10話

10

 秀頼公最期の御供三拾弐人の内、高橋半三郎〔十五歳〕土肥庄五郎〔十七歳〕高橋十 三郎〔十三歳〕、右三人は御小性也。秀頼公最後の時、上臈共は皆介錯申付たり。三人の 児小姓と真田大助とは幼少なり。「加藤弥平太・武田左吉、介錯して取らせよ」と被仰付


しに、三人の小姓と大助、何も物具脱捨、四人西向に直り、手を合念仏高らかに唱、雪 のことくなる身を押肌ぬき、四人一度に声をかけいさきよく切腹せしを、弥平太・左吉 介錯し、各皆太刀を捨涙にむせひけるとかや。

 

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菊池真一

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