武辺咄聞書

第36話

36

 関ケ原陣の時、肥後国宇土の城を被攻時、或夜清正密に下知せらるゝは「今夜は夜打 あるへし。不可有油断」と有。皆々物具して居る。田中兵助は上戸にて、数盃傾て物具 仕なから眠り居る。坂川は禁酒して不眠。夜討の時、日下部与助一番に駆出、一番鑓を 合。坂川忠兵衛も続て鑓を合。坂川・日下部鑓を合ると、伊藤新五左衛門・佐久間角助・ 井村彦右衛門・山田太郎右衛門、鑓を合る。城勢敗軍して引退。坂川忠兵衛追懸たれ共、 早く門を打故に不叶。是迄来たる印に我疵の血にて扉に手形して帰りしか、心に思ふ様 「若汗にてもや有ん」と思ひ、又立帰り門柱を十文字の鎌にて少し削て帰る。途にて田中 兵助鬨鉄砲の音に目を覚し、鑓取て走り出る。「早夜討は引退たり。扨も後れたり」とて かけ行「せめて退行敵也とも見ん」と思ひ、走る道にて坂川に行合。坂川か云「物別に なれ共、散りたる敵城へ取込事も有へし。急け」と云。田中「心得たり」とて、右手の 門口へ走り行。夜討の物主杉本次郎助、壱人柵の木戸口に残り「今夜の夜討物主杉本次 郎助」と名乗所へ兵助走り付、鑓を合。杉本次郎介、十文字の鑓にて兵助か左の腕を懸、 疼む所を其隙に杉本木戸の内へかけ入門を打故、兵助も引取也。扨其夜清正前へと夜筈 に合たる五六人の兵共罷出る。清正手燭燃し一々手疵を改め、又は具足甲の矢の痕刀痕 を見届く。田中兵助罷出「今夜の一番鑓は拙者にて候」と申。清正能々見廻し「枉着成 る事を云奴かな。今夜の一番鑓と詐を申候。一番鑓は日下部与助・坂川忠兵衛二人の内 ならん。其子細はあの与助忠兵衛を見よ。具足の胸板甲の錣に矢二筋三筋折懸たり。弓 は鑓前五間七間の内、扨は鑓脇を射る物也。惣掛りに成ては弓は不被射もの也。与助・忠 兵衛か具足甲に矢を請留たるは無疑。一番に鑓をしたるは必定也。兵助か申所、甚信用 に不足」と被叱。兵助血眼に成て「是を御覧被成候へ。鑓手を負候」と云。清正燈を寄 せ、能々手疵を見て「鑓手ならは左は脇の外、右は腕の内なるへし。其上左の手なれは、 腕の外は疵深、内の方は少ならんか。是は腕の外は疵なく、腕の内の方に疵有れは、鑓 にてつかれたる疵にあらす。己か自分に切たる物なるへし」と被申。兵助眼を怒らし涙 を流し「拙者鑓の相手は白紙四手の腰蓑して、鑓は十文字、冑は銀のおもたかの立物に て、杉本治郎助と名乗候。只今にも此城扱に可成候。其時は知可申」と散々罵るを、近 習小姓共呵て座を立る。扨其後十月七日に小西摂津守行長自筆の書状宇土の城へ到来。 「行長事十五日関ケ原口より敗軍、黒田長政手へ被生捕、運命尽たる仕合。其上十月朔日 に最期極り候間、早々其元の城可明渡」と申来に付、同八日に城代小西隼人切腹して宇 土城落去。其刻小西か家来、大形不残清正被召抱。杉本次郎助を呼「先月廿一日の夜討 の時、柵門にて其方と鑓を合たると云者有。覚はなきか」と被尋。杉本承り「引口の時、 遅くは候へ共壱人付来り、外張の簀戸口迄付来故、拙者立怺へ鑓を合せ、十文字にて彼 者の左の腕をかけ申候。手応仕候。扨木戸を打夜明見候へは十文字の鎌に血付有之候。其 者はとつはひの甲に鳥毛か黒熊の引廻し付候て直鑓を持候」と申候。則田中兵助也。清 正直に呼「手柄致候」とて、加増五百石賜る。兵助不興して、其夜一筆書置く。其趣は 「眼も開ざる主人に唯今迄奉公仕、世上の了簡無面目候。此御加増に本知相添返進仕る」 と書て肥後を立退、池田輝政へ奉公。後に大野久兵衛と打果したると也。此兵助は元は


盗賊にて、強盗の張本木津間の六兵衛か小姓也。石川五右衛門烹殺る時、牢より三条河 原へ引出す。見物の人々充満たり。兵助廿六歳にて見物の人に紛れ、五右衛門を縛りて 引て通る時、其侭走り寄り、縄取を唯一打にして「五右衛門殿、日来被懸御目候御恩報 し候」とて、かけ通る数万人どつと崩騒く内に無恙駆抜たり。ケ様の大胆者也とそ。

第37話

37

 老人の物語に、宇土城夜討の時日下部与助一番鑓也。後に清水伯耆と改名し、細川忠 興に奉公せし也。

第38話

38

 可児才蔵吉長は隠なき覚の者也。笹を指物にする故、笹の才蔵と云。広嶋に在りし時、 若者共集り語る。「年若き時何程覚の者も、年寄ては不可成。心こそ猛しとも若年とは違 ん」と云。才蔵老人なれは、気にかけて曰「年寄も人に可寄」と云。若輩共申は「何と 剛の者にても、足か弱して不可叶」と云。才蔵「それも人に依ふ」と云たり。誠に老年 迄甲冑兵杖を帯し馬を乗下立て走るに、若輩にも超たりし也。少年より愛宕を信仰し、 常々「我は愛宕大権現の縁日に死なん」と語りしか、果して六月廿四日に身を潔く物具 して薙刀を持将机に腰をかけなから息絶たり。人々「奇特也」といふ。遺言にて広嶋の 矢賀と云所の坂の脇に葬。石塔の銘曰「尾州羽栗郡可児才蔵吉長」と書たるとかや。往 来の人、心有るは皆墓の前にて下馬をすると云々。才蔵家老竹内久右衛門と云覚の者有。 いつにても才蔵知行半分わけ也。長久手合戦に、才蔵は秀次公に罷有。御敗軍に付、才 蔵を秀吉公御叱被成、夫より日陰者と成て居るを、福嶋正則七百石にて抱る。才蔵則三 百五十石分けて家来竹内久右衛門に遣すと也。

第39話

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 加藤清正と天草伊豆守一戦の節、清正自身の鑓の手柄は天正十六年十一月五日也。其 時清正持鑓片鎌を突折、片かまに成たりと云ふ事、天下一統の説也。然るに「其時折た るにてなし、元来片鎌也」と云説有り。乍去り寺沢兵庫頭忠高の家人の物語に「天草と の合戦は仏木坂といふ所也。清正十文字の鑓突折し片鎌を拾ひ、仏木坂の社の内に奉納 して于今有り。所望の人には取出し拝する」と也。清正鑓を見たる人の咄に「十文字の 月剣也。志津の作にて直刃、鞘穂は熊毛、横手は黒羅紗也。瘧を病む人には其熊の毛を 一筋抜て頂すれは則瘧落たり」と云伝ふ。

第40話

40 加藤肥後守忠広は父清正とは器量格別也。或夜の物語に忠広の曰「我は力を望に 思ふ也。其子細は十人力もあれは重き鎧二領も着たらは矢玉の気遣なからんなれは、只 力かほしき」と被謂。飯田覚兵衛申は「私は力は不入物と奉存候。子細は清正様薄金の 御鎧にて御幼少より数度の合戦被成候得共、遂に手もおわせ給はす候。唯時節到来にて


何程用心致ても命は定り候」と云。忠広詞なし。城より退出する時、玄関にて「御父に は天地を隔御生れ劣也。最早御家も末に成ぬ」と涙を流しぬと云々。

 

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菊池真一

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