武辺咄聞書

第41話

41

 庵原助右衛門物語に「清正は奇妙成る大将は勿論なれ共、殊に逞しきと存る。子細は、 高麗陣の時釜山浦より廿日路程の間は日本勢持固居る。七里八里十里程置ては城を架。是 を絆の城と云。戸田民部少輔は密陽の城に居る。清正は全州に有時、日本より御用有て 被清正を召返さる。清正全州より釜山浦へ出、日本へ帰朝せんとて打帰る。全州より五 日めは密陽に着陣の筈也。戸田民部は旧友なれは是を悦ひ、城を掃除して馳走用意甚し。 則民部方より家老真鍋五郎右衛門・神谷平右衛門を道迄迎に遣。午過に真鍋・神谷密陽 より四里程迎に出たれは、清正人数の先勢見ゆる。其比は東西廿日路南北十日路か間は 朝鮮東方治りて、廿里卅里の間敵なけれは、民部より迎の両士革羽織革袴にて武具を帯 する事なかりしに、清正人数は何も物具して箪食付け、旗差物推張、鉄砲にも火縄に火 を付たり。児小姓迄も鎧つつ面頬迄して中々いかめしき体也。妙法の旗推立、磨筒の鉄 砲五百挺真先に立たり。清正は溜塗の具足に金の蛇の目を書、例の銀の長烏帽子の冑の 緒をしめ、頬当・脛盾・臑当・飯箪迄付け、尤下掛の草鞋しめ、銀の九本馬藺の馬印を 自身背にさし、月毛馬に白沫かませて来り給ふ。民部より迎の両士路を除、畑中に下馬 して居る。清正見給ひて「民部殿より迎の使者、御大儀にて候。口上聞に不及。追付そ れへ着陣可仕候。殊外垢つき、小姓共もよごれ申候。風呂を被仰付べく候。下々にも卓 散に湯を浴せ給り候へ。此由先へ被戻、民部殿へ可被申」と高声に被申候。真鍋・神谷 「畏候」とて馬に打乗、先へ乗切て帰、主の民部に其通を云。偖清正程なく着陣也。屏重 門より民部迎に出て見れは、大馬印をさし中々いかめしき体なり。縁涯にて民部小姓両 人寄て、清正さし給ふ馬印の馬藺を取て旗籬に立る。清正縁へ上り給ふと、民部小姓共 寄て草鞋をとき、腰当も取る時、清正腰に付たる緋曇子の嚢を解て座敷へ抛入らるゝに、 畳へどうと落る。見れは米三升・干味噌・銀銭三百有。其重さ一提有。是は馬印をさす に腰軽けれは悪敷により如此と被申。民部興をさまし「十里弐拾里に敵もなきに、是は 如何成形勢にて候や」と被尋。清正「其事にて候。兔角物の大事は油断より出申候。尤 敵なけれは物具せすして身を安んする様に仕度物なれ共、もしもの時急事に出合、油断 しては只今迄の武辺水になる也。下々の士卒はさらてたに油断勝なるに、清正物具せす は下々猶帯紐解て怠るへけれは、身の苦みも不顧、油断なき為に自分も武具立候。総て 上を学ふ下と云て、大将甘けれは大に油断する物也。是を以常々如此に行儀強く仕候上 は、一人の心下万人に通るとかや申候」と被申。民部も感涙を流されけると也。

第42話

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 或老人の昔語に、

 庵原助右衛門は駿河の庵原殿也。兄を庵原弥平治と云。武者修行して小田原へ行、金 窪と云所にて攻合の時、北条安房守氏邦とせり合、只一騎乗出し土手へ乗上け討死する。 小田原衆不構して弥平治を棄殺す。弟助右衛門駿河にて是を聞、是非遺恨を晴さんとて 小田原へ行、度々の手柄有。助右衛門後に戸田民部方に居て一手の大将勤る。其後井伊


掃部頭直孝に仕へて一手の大将也。大坂御陣五月六日、河内国若江合戦の時、掃部頭先 手川手主水討死故、庵原助右衛門指揮をとり大坂勢を伐崩す。大坂大将木村長門守重成、 白幌に金の戻竹白熊の出慓にて踏止り防戦す。助右衛門自身十文字の鑓を持、長門と鑓 組、幅弐間計の足入を阻て戦。助右衛門十文字の横手を長門か母衣へ突込、前へ引倒さ んとする。長門は直鑓にて助右衛門か立たる岸へ鎗を突張引倒されしとするを、助右衛 門強く引伏るに付、長門は俯に引伏られ沼へ落る。助右衛門か郎等共沼へ飛下り長門か 頭を取る所へ、安藤長三郎走り来り其首を貰ふ。助右衛門申は「若き人の奇特にて候。木 村長門守と名乗り候か、長門にて無之も難計候。長門首に致てから我は是計にて名を揚 る事にてなし。大坂も今明日中には落着いたし候はん間、貴殿是程の首には取当りかた し。其方へくれる」とて、長門首を長三郎に取する。長三郎悦て是を持て行を、助右衛 門呼戻し「母衣に包み持参候へ。大御所様は御吟味強くて母衣武者の首母衣に不添は御 非太刀入候はん」とて、母衣指刀脇指迄くれる。助右衛門か郎等共「せめて是は此方へ 残し止ん」とて、白熊付たる金の戻竹は押へて不遣、于今助右衛門方に在と云。長門首 を家康公御実検に入。中々御感不斜。後伏見御城へ長三郎を召、五代青江と云御腰物を 被下たるにより、天下に其名高し。助右衛門家人共是を悔。助右衛門申は「我手前は掃 部殿能御存知なれは悔む事無用」といゝしと也。長門首を見たる人の咄に「四方白鍬形 の冑也。鍬形の角元は菊から草也」と云々。井伊兵部少輔直政家老に木俣土佐守大剛の 兵也。其子右京後に清左衛門と云。大坂御陣にて手柄有。右の右京か母は土佐守後家也。 其後家を庵原助右衛門娶て主税を産。此故に木俣右京と庵原主税は同母異種の兄弟也。

第43話

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 松倉長門守勝家身上果て、其家来飯村助兵衛と云士浪人して広嶋へ来る。皆々嶋原城 攻の事を尋。飯村一々語る。天野半之助可古問て云「嶋原攻の中に城より長門守殿手へ 夜討は不打か」と尋る。飯村云「中々雲火を設外聞を出し、夜討うたする事にてなし」と 云。半之助あさ笑て「松倉殿御家も末に成たるかな。古兵ならは左様には有まし。夜討 を打つ様にして社大利は有へけれ。左様の仕方は松倉殿の乙度也」と云々。

  私云、天野半之助は家康公御小姓、初は中根左源太と云。喧嘩して立退、大坂御陣 道明寺口にて松倉豊後守正重の手に付鑓を合る。其手柄にて御勘気御免、浅野但馬守長 晟へ二千石にて出る。安芸守光晟代迄奉公する也。

第44話

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 武田信玄を新羅三郎義光より二十七代と甲陽軍鑑に書載事は大成る誤り也。新羅三郎 より信玄迄十九代也。惣て甲陽軍鑑に疑敷事多し。天文十六年二月十五日に八幡宮へ信 玄詣給ひ、山本勘助を召西国の沙汰被聞しに、大内義隆を家老陶尾張守か討亡たる事を 語る。大内義隆は天文廿年九月の事也。勘助は何として五六年後に滅亡せし大内事を前 方に知て信玄に語りしや。天文廿三年八月十八日の川中嶋合戦と弘治二年三月廿五日の 川中嶋夜合戦と両度を誤て甲陽軍鑑には一度となし、然も年月も取失ひ永禄四年九月十 日と記せり。永禄四年九月十日の川中嶋合戦は上杉家に沙汰なし。我親松本大学物語り


なり。末代にて兔や角と批判あらん事を悉く年月を記す物也。

第45話

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 「参州小豆坂の七本鑓は信長記に載たり。江州志津嶽の七本鑓は太閤記に有り。真田七 本鑓は何にも不記」と云は、側成る老人の云「いつにても語り聞せん」とて、或時三井 寺の高観音の舞台へ上り、毛氈敷て終日湖水を詠て遊ふ事有り。其時彼老人語る間、書 付是に記し候。初の真田陣は天正十三年閏八月の事也。二日合戦に鳥居彦右衛門元忠か 兵小見孫七鑓を合せ、同廿日丸子の城下へ岡部内膳正長盛一手にて働。真田安房守昌幸 と合戦の時、岡部か家人小鹿又五郎一番鑓。奥山新六・所藤内・近藤平太・内藤久五郎・ 向山久内・笛吹十助、能働也。家康公岡部へ御感状被下、家人七人に同感状被下。其内 所藤内は鑓下の高名との御文言也。小鹿又五郎は一番鑓を合「其方一身の覚悟諸手に勝 れ候」との御文言也。此小鹿は駿河衆也。今川範忠の二男小鹿孫五郎範慶の後胤也と 云々。又後の真田陣は慶長五年九月六日也。台徳院殿秀忠公御発向、真田昌幸を御攻被 成候。其時城の北の門は根津長右衛門持口也。御旗本の浅見藤兵衛独り夜明に付て堀の 浅深を捜る所を、城中より鉄砲雨のことく打立故、朱の十二引の指物も寸々に成、鉄砲 を避て地に平臥たり。かゝる所へ小栗治右衛門続て「金七/\深入すな」と呼を聞て「其 方に先をさすへきか」と云やひとしく、立上り門へ付く(金七と小栗か呼けるは藤兵衛 か童名也)。小栗見て則門へ付所に城内より真田か兵共混甲廿余輩門を開き撞と出る。浅 見・小栗立こたへ鑓を合する。両方の出し塀より差付て鉄砲を打事雨のことし。敵味方 鉄砲の煙にむせんて互に不見分。鎗の合音鉄砲の音、雷の如し。浅見か小者虎若、刀を 抜鑓下へくゝり入臑を払故、城方も浅見・小栗を不打得。小栗は内甲胸板三所迄鉄砲に 中り討死。浅見も鑓手一ケ所胸板に鉄砲中り地に倒るを、虎若両足を取て引出し背に負 て退く。浅見か云く「先小栗を退よ」と云。虎若腹を立「小栗か先途を見んとて是迄参 候はんや。主を捨他人を退は道に違はん」とて主をかひ負て退。浅見「指物を鑓合す時 たゝき落されたりと覚ゆ。不取返は退間敷」と云。「退口に指物落したるは武勇の乙度也。 鑓合の中に落したるは不苦」と虎若申断、浅見を引退る。城方にも手負死人を引込とて 浅見をも不追討。真田か兵山本清右衛門・依田兵部只弐人城より出て弐丁計に堤の有る 上に上り候。寄手を詠むれは秀忠公の御旗本より早り雄の若武者二三十騎馬を鼻を双て 駆来る。堤に両人か居たるを見て馬を踏放し鑓おつ取掛り来る。真田方斎藤左大夫は両 人か跡より走り来り先へ走り抜、鑓玉を取て名乗かけ/\仕候を見て、御旗本の兵共「あ れ遁すな」とて、小野次郎右衛門(此時御子神典膳と号)辻太郎助二人群に抜ん出真先 に来る。左大夫是を見て鑓をふり廻し、其侭引取誘引候。小野・辻か是を追て堤涯へ駆 来る時、堤の上より依田・山本立上り、鑓を直し候とひとしく、小野・辻鑓を打合、堤 の上と下にて突合候。城中より三十余人出重り候時、小野は元来早業にて身の軽き事無 類故、鑓をかさし堤上へ飛込候と、辻も飛込候所へ、朝倉藤十郎(後に号筑後守)中山 助六(後号勘解由)戸田半平・鎮目市左衛門・太田甚四郎(後に号善大夫)斎藤久右衛 門、押続き鑓を合候。依田兵部は朱具足にて面も不振戦ひしか、深手負て鑓下に倒伏を、 小野次郎右衛門其首を取んと太刀にて依田か内甲を切る。辻太郎助も依田か顔を切ると いへとも、真田方鑓先茅の穂のことく突懸しかは、首を取事不成。山本清右衛門も四ケ


所迄鑓手負て、其上持鑓も打折候へとも、依田を肩に引かけ城中へ引入るを、寄手の人々 「遁すな」とて追来り候。城内より是を見て「あれ討すな」とて拾余人又門口より突て出 る。中山助六照守立怺て鑓を合る。太田甚四郎鑓脇を射て七八人物付しかは、流石の真 田も城中へ引篭、中山・朝倉・小野・鎮目・戸田・斎藤、勝に乗て付入にせんと追詰候 時、城中より雨の降ことく打立しかは、寄手地に伏て後陣の続を待也。然所へ本多佐渡 守正信下知して早々先手を引取。牧野右馬允康成も中の手へ向候所に、真田安房守昌幸・ 同左衛門佐信賀、八十余にて物見誘引に出候を、右馬允康成息駿河守忠成(此時は号新 治郎)采を取て追懸候。真田か兵池田市右衛門(家老出雲守子出雲は冠者嶽の城主)な と二十余殿して退く。牧野か兵西尾又六(後号善大夫)辻茂左衛門・今泉次郎作・福嶋 九大夫等追駆る。此時物際弐丁計に成時、真田父子八十計手鼓にて高砂を諷ふ。榊原式 部大輔康政是を見て「偖も悪き仕方哉。寄手を屑ともせず思はぬ振也。鑓を入て思ひ知 せよ」とて康政真先に馬を乗出し、其勢弐千余真田か跡を取切んと脇を廻り被懸候。渡 辺半蔵守綱は道筋を鉄砲打立/\進候を見て、真田か備色めき候。松沢五左衛門申候は 「榊原備は跡を廻り城へ乗入んとの気色見へ候。早々御取込可然」と諌に付、真田も高砂 のきりを不諷得、早々引取候。榊原・牧野、勝に乗て真田を城中へ追込申候。榊原牧野 門に付て攻候時、本多佐渡守方より「早々可引取」旨追々に下知仕候故、両将も引取候。 扨其上にて軍御評定有。関ケ原口遅り申候とて、森右近大夫忠政・日根野筑後守・石川 玄蕃を真田表に御残し、秀忠公は美濃表へ御急候。本多佐渡了簡にて和田峠をよけ加持 ケ原役行者へ御廻り被成候。榊原康政一手は弐千余にて旗を推立、和田峠を越申候。若 真田出候はゝ天の与へと待候得共、一人も不出候に付、諏訪へ着陣し、秀忠公を奉待付、 美濃口へ推出申候後に、伏見にて御吟味有之。小野次郎右衛門・辻太郎助・中山助六郎・ 朝倉藤十郎・鎮目市左衛門・戸田半平・太田甚四郎七人に御加増被下。世に真田の七本 鑓と称す。後に鑓下にて依田兵部を太刀付候事に付、小野と辻と初太刀を論して不止。辻 か云「依田は朱甲に朱頬を当たり」と云。小野か云「依田朱甲計にて頬はなし。我等其 内甲を切。初太刀勿論也」と諍。牧野右馬允是を扱ふといへ共証拠なし。右馬允老将な る故、家来二三人馬工郎に作り立馬買に上田へ遣し色々調儀して、山本清右衛門に逢て 其時の様子辻太郎助・小野治郎右衛門か相論を語る。山本云「其論尤也。誰にても候へ 正面を切たる仁初太刀にて候。依田は朱甲を着し頬は掛不申候。せはしく忙敷鎗下なれ は血の走りたるを朱の頬当と見られしも理りにて候」と云。立帰て右馬允に此段申に付、 康成則辻太郎助に物語有、小野か初太刀に極る。此度の手柄牧野右馬允・酒井宮内大輔・ 榊原式部大輔也。其内榊原は和田峠を越事尤勇功也。右七人の内中山助六は無隠馬の上 手也。蒲生下野守忠郷家中より佐野大夫方へ買取候音曲と云名馬有り。早馬也。かうか ひふし有故に音曲と名付。ふし有て猶よしと云心也。佐野大夫より秀忠公へ上る。其名 古龍と云。元来かけ飛の足にて乗物なし。高田馬場へ将軍家御成被成、中山勘解由照守 に彼古龍を乗せ給ふ。中々早き事申に不及。天下の人中山か馬上達者を誉たり。其古龍 後に血落て馬工郎手へ渡り、血を養生して井伊掃部頭直孝手へ遣す。其時は韋提天と名 付也。

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菊池真一

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