『武辺咄聞書』第66話〜第70話

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 肥州嶋原一揆籠城の時、御検使松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄其外諸大名数多被遣。二 月廿一日の夜、城より黒田右衛門佐忠之陣へ夜討に出る。其夜の夜廻り番は松平伊豆守 家人岩上角之助・尼子八郎兵衛并紀伊大納言殿御使者山中作右衛門、夜討出たる所へ廻 り合。敵多勢柵を破らんとするを見て夜廻りの雑人共は崩るゝ。岩上・尼子・山中は立 怺へ、鎗おつ取/\柵際へ走り行時、柵を踏破り一揆共推込。則紀州殿御使山中作右衛 門(銀甲熊毛の棒の項上立并十文字の鑓)一番に鑓を合る。岩上角之助・尼子八郎兵衛 立双んて鎗を合せ、一揆共を柵外へ突却。山中鑓手負、岩上・尼子も注進の為に引取。其 跡へ黒田衆入代る。其後世間の沙汰に「夜討に鑓と云事はなき法也」と云。去人是を水 野日向守勝成に問。勝成曰「太閤御代、小田原にて岩槻十郎氏房家来広沢兵庫助重信大 将にて、蒲生氏郷の陣へ夜討に出候時、氏郷自身壱番鑓也。其相手は城方夜討の物主広 沢兵庫助也。氏郷方には蒲生左門・同五郎兵衛・佃又右衛門・北川土佐等鑓を合る。城 方の鎗は先広沢内田大八其外三四人なり。秀吉公大に御感有り、鑓に極る。日向国耳川 表根白にて宮部善祥坊か鑓も夜討也。大坂にて蜂須賀か家人稲田修理・岩田七左衛門・樋 口内蔵助・長谷川小右衛門鑓を合、両御所の御感状を被下候も夜討の時の鑓なり。紀伊 殿御使者山中作左衛門・伊豆守内岩上・尼子か嶋原表の鑓を夜討なれは鑓にてなしとは 不吟味也」と被謂し也。

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 小早川隆景は武勇と云智才と云、容儀骨柄誠に千万人に傑出したる英雄也。近代の名 将の内には是に勝るはあらし。智恵には秀吉公も手を置給ふ。伏見御城にて太閤と菊亭 右大臣晴季公と碁を被成。家康公・景勝なとも御見物也。一手すきにて六ケ舗碁になる 時、秀吉公色々御思案あれ共能手を被思召付候事不成して、御意には「此分別は隆景に ても成間敷」と被仰。家康公「中々御意の通」と御挨拶也。筑紫陣治て筑前五十弐万石 を隆景に被下。其後隆景考候て被申候は「天正十年迄御敵にて有し毛利か家人の小早川 に、何の御懇意に大国を可被下哉。是は皆西国への響き敵を可引付く謀に成物也。元秀 吉公御心より出たるに非す。然候へは以来は六ケ敷事也」と存、被申上候は「隆景子を 持不申候。北政所様御猶子の木下金吾秀秋を申請、跡目に仕度」と被願候。秀吉公御志 に叶ひ、即時金吾殿を隆景養子に被下。其にて隠居を被願候得は、備後三原にて隠居料 三十万石被下。隆景隠居し、筑前は秀秋に被譲。隆景分別者也と天下にての沙汰也。

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 亀田大隅高総は、元は溝口半之允と云。若年より手柄高名有大剛の兵也。忍岩槻の武 辺、泉州樫井にて鑓を合する迄の軍功、語とも尽し難し。持鑓は下坂忠親作にて十文字 也。鞘は鴟の觜にて栗色なめし皮、柄は惣青貝銅の金具也。江戸御城石垣御普請を但馬 守長晟に被仰付、亀田惣奉行也。石垣崩るゝ事両度。秀忠公普請場御巡見の時、亀田を 召「何とて石垣は節々崩候そ」と御尋被遊。亀田畏り申上候は「私鴟の十文字を持候はゝ


備ならば一度も崩し申ましく候へ共、石は非情のものにて候へは可仕様無御座候」と申 上る。御普請上りに「骨折候」とて御馬を被下。鹿毛駮也。大隅守、土井大炊頭家来品 川弥五左衛門に向て申候は「公方より御馬拝領仕候に、二毛の馬を拝領仕候て、外見如 何に奉存候。御馬は如何様にても不苦候間、御替被成被下候へ」と訴る。品川其段大炊 頭に達し「尤至極也」とて余の御馬を被下ける。

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 小田原陣の砌、蒲生氏郷は金の三階笠の馬印を仕度と被望。秀吉公聞召「是は大剛の 名将佐々陸奥守成政か馬幟也。氏郷には如何あらん。但し今度手柄次第」と有る。氏郷 討死と極めて後影を書せ、日野の菩提所に納て出陣する。氏郷攻口は井細田口にて岩槻 城主太田十郎氏房持口也。五月三日夜空曇り暗く候により、氏房は広沢兵庫秀信を呼、夜 討可仕旨被申付。氏房其宵に力丸藤左衛門を遣し、宵込の鉄砲をかけ申候故、氏郷方に も先手の兵気遣に存、蒲生源左衛門・寺村半左衛門・小倉孫作以下弐千計にて心懸罷有 候。乍去三月よりの長陣故草臥、少し油断仕候。広沢兵庫は五十騎を二手にして、一手 は先手とし一手は我旗本を固。鉄砲三十挺両組に分け「皆々可放」とて請手に立宛半途 に待掛る。さて先手を門口より出す時、氏郷物見の侍町野万右衛門はたと行合。則立怺 へ弓取直し散々に射る。広沢先手推立出けれは、万右衛門不叶引退く。広沢先手雑兵共 弐百余、氏郷と土方河内守雄久か陣の境の柵へ●と突懸り柵を破る所を、内より氏郷先 手蒲生源左衛門・田丸中務・町野左近か勢弐千余突て出る。広沢か先手一たまりもせす はつと被追返。其所へ氏郷自身夜廻に被出行掛り給ふ故、銀の鯰尾の冑にて鑓提て逃る を追ふて被進候。蒲生先手の兵共氏郷に先立て追行候所に、広沢か請手の鉄砲二段に立 二三返打立候故、蒲生先手被打立引退く。広沢は鑓おつとり追返されし味方の人数をたゝ き返し、其身真先に掛て堀切の中に片足真向へ片足ふみ出し「一鎗参ん」と呼所へ、氏 郷自身駆付て広沢と鑓を始候。広沢か組付の士内田大八・安納彦内其外弐人推続鑓を合 候。蒲生左門・同五郎兵衛・北川土佐次に佃又右衛門(関庄蔵与力)進み行、氏郷と双 て鑓を合候。城方には今夜の物主広沢尾張守秀信(兵庫重信此時尾張守秀信と云)一番 鑓と頻に名乗候。氏郷は広沢を能敵と見て是を取んと飛込/\戦候得共、堀切の内に敵 弐人有て氏郷の突出し給ふ鑓を取はつし/\七八度か程仕候故、広沢を討取事不叶。広 沢利に乗て氏郷を取んと進戦候。蒲生左門大音上け「付入にせよ兵共」と頻りに呼り候 にて、城方弱り物離仕候て城へ引取候。氏郷追掛候へ共、早く城戸を打鉄砲稠敷打出候 に付、本の陣へ被引取候。合戦の中に秀吉公より黄幌の衆間もなく御使に被下候。氏郷 も胸板鎧の下算四所鑓痕有。鯰尾の甲に矢二筋打かけ十文字の鑓の柄にも五所切込有。元 来猛将たる事は天下の許す所なれ共、今夜の働殊に勇々敷見へたり。秀吉公御感に不堪、 氏郷を御前に召、御感状に金の三階笠の馬印を御免被成。其帰陣の刻、奥州にて会津輪 内・大沼・稲川郡・摩山郡・猪苗代・南山六郡と仙道白川・石川・岩瀬・安積・二本松 五郡、都合八十万石を氏郷に被下ける。今迄は勢州松坂十五万石を被預けるに、俄に大 身に被成ける。氏郷鑓の相手広沢兵庫は、小田原落去以後太田十郎氏房は北条氏直の供 にて高野山へ登山有しかば、広沢も弟関根織部諸共に太田氏房に付高野山へ登り候。家 中不残妻子を岩槻に拾置候。然る所に家康公御次男宰相秀康卿結城晴朝の養子に秀吉公 被仰付御入国有しかは、内々被聞召及、広沢関根兄弟の妻子に御扶持方被下候。翌年氏


房より暇給り、広沢・関根関東へ罷帰候得は、右の仕合故、直に秀康公へ被召出。後越 前へ御国替、一伯殿代に成敦賀町奉行に広沢を被申付。去る子細有て公儀の因人に成候 を、酒井讃岐守忠勝兼々大剛の者たるを聞及、広沢を申預り若州小浜へ参候。其子孫広 沢兵庫助とて酒井修理大夫忠直家老を勤罷在候由、長源寺上人物語也。

70

佃又右衛門物語に、小田原夜討の時氏郷内結解十郎兵衛と奥村桐之丞鑓を合る。是は 初柵へ一番に付たる五拾騎の内にて、さつと引取時結解十郎兵衛追付来る。奥村桐之丞 白羽織に黒き桐とう付たるを着跡に下り退けるを、結解追付て奥村か股を突く。奥村ふ り返り、鑓にて結解か甲を突て物別に成。去共其場鑓といわれす。右の結解は代々覚の 者なり。父十郎兵衛は蒲生下野守定秀に罷在、江州野良田合戦に浅井久政か兵百々内蔵 介を討取。此内蔵介は覚の者にて、名誉の刀を持、世上にて百々か念仏刀と異名を付る。 科人を成敗するに打放して其侭切口に吸付居て、念仏高声に唱て二つに放候故に念仏刀 と云伝。

 

 

 

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菊池真一

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