『武辺咄聞書』第76話〜第80話

76

 寛永十五年二月廿一日の夜、嶋原の城より黒田・寺沢・鍋嶋の手へ夜討を打。黒田忠 之「手前屈強の兵数拾人討死」と江戸へ注進。鍋嶋「井楼竹束なとを焼れ中々城方強し」 と告来る。御三家も御召に依て御登城、諸大名皆被罷出「是は如何」と有る顔付也。紀 伊大納言頼宣卿御壱人は是を御聞「扨も目出度事、近日落城可仕候。其上鍋嶋か井楼を 焼候火の掛様、城内に在る者共最早武略のたけは知れ申候」と御申被成。皆々うけぬ顔 也。追付「落城」と告来候故、諸人頼宣卿をふかく感奉りしと也。

77

 天正十年三月廿八日、武田勝頼の御弟仁科五郎信盛被篭候信州高遠城を、織田信忠卿 旗本にて一時責に攻取給ふ。戸田半右衛門重政一番に懸入て、戸張隠の巣戸に衝木有。戸 田赤幌に金の戻竹の出し衝木に当て通る事不叶、尻居にどふと倒る。其隙に二番に続た る信忠卿の小姓山口小弁・佐々清蔵乗越て一番乗す。後に戸田語て曰「何時にても我ら か武辺の分にては、母衣指物の門木戸に構つかへへきなとゝ心付事にてなし。敵を見懸 けかゝる時は、万事を忘却し一念に先を掛勝負を決せんと思ふ故也。若大勇大胆成る人 は各別也」と語る。此半右衛門は後に戸田武蔵守と云。関ケ原合戦に討死せられ、首は 織田河内守長孝取たる也。長孝は有楽の嫡子にて雲生寺の兄なり。

78

 高遠城一番乗せし信忠卿の小性山口小弁・佐々清蔵は倶に十六歳なり。清蔵は越中の 国主佐々内蔵助成政と云大剛の大将の甥なり。小弁は京都伏見の人、賎者の子也。去共 容顔美故御禿に被召出、扨御小姓に成。佐々清蔵は観世流の能をよく致す。小弁は小歌 の名人にて倶に御寵愛也。此日戸田半右衛門と云大剛の者を越一番乗、殊にもき付の高 名する。両人共に手柄をふるひたり。其段御父信長公被及聞召、高遠にて手に合たる輩 戸田半右衛門・梶原治右衛門・桑原吉蔵・各務兵庫并両人の児小姓を被召出、御褒美御 感状被下。先山口小弁を召「此度高遠にての働希代の至也。城之介目曲尺を不違、一入 満足なされ候」と御誉、御手自国久の御腰物に御感状添被下。其次に佐々清蔵を召「高 遠にての働骨折の由。但汝は手柄致す筈也。大剛の内蔵助の甥なれは也」と被仰、長光 の御腰物に御感状添被下。信長公天才絶類の人傑なれは、其智世の及所にあらず。小弁 は賎者なれは手柄高名誠に希代也。清蔵は伯父の名迄上けたる御褒美の御詞、とかく大 将に成人才は一言一行大事の事也とそ。惜哉かゝる手柄の清蔵・小弁、其日数六十日余 りにて京都二条の城にて信忠卿を明智光秀奉討時、両人共に十六歳を一期にして討死せ し也。但清蔵は小弁に向「我々すはだ也。屍の上の恥、いさ武具して討死せん」とて両 人共に突て出、壱人宛敵を切付、其死骸を城内に引込、其具足甲を取て両人共着し、又 切て出大勢に渡し合せ討死せしに、さも美敷顔に血濺前髪も乱れ染りしを、見る人涙を 流し両人の首の前には群集せしとかや。


79

 千宗易利休居士を秀吉公御誅伐は利休娘の故也。利休子三人有り。嫡子道庵。其次件 の娘童名おきん、京都鵙屋か妻也。其次少庵、是は利休後の女房(法名宗恩)のつれて 来る子にて実父は軽き者也。然るに彼女希代の茶の湯者成を利休聞及て呼迎へ夫妻とな れり。利休娘鵙屋か妻成しか、夫におくれ後家に成たり。年未若けれ共子共数多あれば、 再縁する事もなく貞女の道を立居たり。天正十八年の春は世中且静成しかは、秀吉公も 諸大名の館へ御成有、御能も繁切々御鷹野にも御出有。弥生の初つかた東山辺へ御鷹野 に御出被成、南禅寺の前より黒谷辺へさしかゝり給ひ、御供には佐々淡路・前波半入・木 下半助其外御小姓三人計御供にて、御自身御鷹居させ給ひて山涯の細道を打過給ふ所に、 向の方より女姓壱人下女二三人召連、乗物をは跡に持せ破籠やうの物あやしき下部に持 せ、山々の花の梢を詠めやりいと静にのとやか成体にてあゆみくる。木下半助御先へ立 て扇を上け「上様の御成。笠帽子をぬけ」と呼。供の下部共も乗物を田の中へすへ、頭 を地に付、彼女姓も打驚たれ共、取静たるけはひにて帽子をぬき、額綿計にて長裳をか ひ取、朶おもけに咲乱たる花木陰に立寄を、秀吉公御覧するに、女姓の年比は三十余り にも成らん、白小袖に紅の中絹かさね、上には紫繻子に金糸にて花鳥風月の四文字を縫 たる袖ゆき長きを着、腰の廻りほけ(ママ)やかにけまはし長もすそを扼て花の本に立 隠れんと歩みけるに、長に及ふ下髪ゆらゆらとゆりかけたれは、乱れてかゝる青柳のい とゝいふはかりなきに、おもはゆけに秀吉公の御方をほれ/\と見返りたる目つき、顔 の匂ひ美敷わりなき有様、是も花かとあやまたれ、秀吉公の御供の人々も目も迷ひ胸打 さはく計也。秀吉公御小姓衆を以て「何者そ」と尋給へは、「千利休か娘、鵙屋か後家に て候」と供の下女申上る。秀吉公被仰は「内々美人なると聞しか、実誠也けり。宮女に もかやうなるは多くはあらし」と被仰。聚楽へ御帰の後、御艶書被遊鵙屋か後家を聚楽 へ召遣るに、彼後家申上候は「夫にはなれ悲しひの涙弥増、稚き子共も数多御入候へは、 ゆるし給り候へ」とて御請不申上。秀吉公冨田左近を以父利休に被仰出「鵙屋か後家を 聚楽へ御宮仕させ候へ」と頻りに被仰遣けれ共、利休は少も不肯「娘を商売物にして我 身を立ん事恥辱難遁」と終に御請申上されけれは、秀吉公義理の筋目は御破難被成けれ 共、無わり御心入の叶はぬ事を残念に思召事人情なれは、御心底には深く挿結て、一両 年過て、利休運の尽にや、大徳寺古渓和尚と相議して山門を再興し棟札を打、其上に利 休木像を造り山門に安置せり。其木像は立像にしてつぶぎりの紋の小袖八徳を着せ、角 頭巾を右へなけさせ、尻切を履せ、杖をつき、遠見仕たる体をそ作りける。其事世に無 隠。秀吉公御耳に達し、内々悪しと思召折節なれは、讒言も指つとひ、「利休近年茶具の 目利にも親疎の人々により私有」由をそ申上る。父子の間さへ遠さくる讒言也。いかに 況君臣の間をや。讒言度重りしかは、天正十九年二月廿八日利休御成敗に極り、被仰出 けるは「大徳寺の山門の上に己か木像に草鞋をはかせ置。此山門は天子も行幸、親王摂 家も通り給ふに、其上に如此の不礼の木像を置事、絶言語次第也。又定茶具の品を定る にも依怙有由被聞召間、御成敗被遊候」由にて、尼子三郎左衛門・奥山佐渡守・中村式 部少輔検使にて利休か宿所に至る。利休は少も不騒、小座敷に茶の湯を仕かけ花を生茶 を点し、弟子の宗厳にも常の如く万事を申付、扨茶湯終りて、阿弥陀堂の釜鉢開の茶碗 石燈篭をは細川越中守忠興方へ形見に遣し、又自分茶杓と織筋茶碗は弟子の宗厳にとら せ、利休は床の上に上り、腹十文字に掻切、七拾一歳にて終りぬ。宗厳利休の首を直綴


に包腰掛へ持出し、三人の上使に渡候。秀吉公則石田治郎少輔三成に被仰付、大徳寺山 門に上け置たる木像を引出し、利休か首をかんなかけにのせ、木像を柱にくゝり付、利 休か首を木像に踏せ、一条戻り橋に獄門に梟て被曝。毎日見る者市の如し。利休か嫡子 道庵は飛騨へ逃隠れ、鵙屋後家も行方なく成ぬ。少庵は京都に残候を、大政所殿御詫言 にて命御助け屋舗迄被下ける。弟子宗厳には茶杓と織筋の茶碗に一筆添遣す。「此織筋の 茶碗細工の茶杓、形見として遣候。一服一会可為本望」と書て利休判形して渡し、後迄 所持すと云々。

  利休子は少庵、少庵子は宗旦、宗旦子宗左と云。宗佐、寺沢志摩守・生駒壱岐守に 仕、後は紀州に奉公。

80

堀左衛門督秀政家老堀監物直政に男子数多有。嫡子を雅楽助と云。次男三十郎と云、秀 吉公へ御目見させ候。三十郎十三歳成。容顔美麗なれは、陪臣なれ共秀吉公御小姓に被 召出、御前不去の出頭也。三十郎を改、堀丹後守直寄と号す。或時秀吉公、女郎衆四五 人御供にて御数寄屋へ入給ひ、蝋燭を立炭を御置御慰被成候処、千利休か亡魂忽然とし て現来。其かたち影の如く黒き頭巾を着炉前に座し、熟々と秀吉公御炭を見る。其眼光 りを生し息さし火気出、女郎達は恐怖して秀吉公御傍挙居る。秀吉公炭を御置終り、利 休か幽霊を御叱「頭巾をかふり平座して我炭を見る事甚不礼成」とはたと御睨候へは、少 退て床脇に居る。秀吉公釜をも御かけ静に御座間へ御出也。御供の女郎達は御先に逃る。 さて秀吉公御小姓堀丹後、其時十五歳成を召て、「利休か幽霊数寄屋に有。其体不礼成に より是を叱。未罷有らは汝参り叱候へ」と被仰。丹後畏り則数寄屋に行に、廊下の窓の 戸を立少も明たる所をふさきつゝ行。御数寄屋に入て見るに何者もなし。罷帰其段申上 る。公御感にて紫の御羽織を被下ける。

 

 

 

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菊池真一

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