『武辺咄聞書』第106話〜第110話

 

 

106

 細川三斎に奉公せし老人、浪人にて京へ有しか、其物語に、

摂州一の谷二の谷と山並ひて峙。一の谷の峠を鉄蓋か嶺と云。美濃国菩提城主竹中半兵衛重治か甲は一の谷と云。明智左馬助か甲は二の谷と云。但し一の谷に並たる名物成により二の谷と云。柴田伊賀守勝豊か甲は鉄蓋か峰と云。是は一の谷より手上也と云事也。

惣て名物の甲は

  浅野若狭守か小水牛の甲       原隠岐守か十王頭

  日根野織部か唐冠          黒田長政か大水牛

  福嶋正則か四段鹿の角        本多中書か忠信か甲

  秀吉公の八日の月          蒲生氏郷か鯰尾

  伏木久内かわり蛤          細川三斎の山鳥

  武田信玄の諏訪法性         竹中半兵衛か一の谷

  台徳院殿の御召角頭巾の御甲     柴田伊賀守か鉄蓋か嶺

  明智左馬助か二の谷         矢田作十郎か鯉の甲

是等は天下に無隠名物とも也。

  加藤清正の長烏帽子         藤堂新七か帽子

是等なとも世に名高き甲也。

 

107

 津田長門守入道道慶の物語に、

日根野織部か唐冠の甲は立物は鐘馗耳弐尺五寸の脇立也。但右の耳の立物は半分折かゝりたるやうにする也。是は太刀打にかまふ故也。

 

108

 老人の物語に、

台徳院殿御所望にて、細川忠興より御召の御甲一羽(貴高家并味方の甲は一刎とは不云)被差上。則角頭巾の角のきつと立たる形也。其甲を土井大炊頭利勝披露也。秀忠公御意に入、御感悦不斜。則越中守を御前へ召、種々御褒美の時に、御甲に練繰のうち緒を忍の緒に付たり。上意には「忍の緒は麻布くけ緒かよしと被聞召たり。此うち緒か能か」と御不審の御尋也。其時忠興懐より桐の箱を取出し、其内に麻布の忍の緒を入つゝ指上て、大炊頭に向て「打緒を付置候は御祝儀迄の義にて御座候。是は御肌に付候物故、別に仕置、唯今御前にて付直し候」と被申上。秀忠公弥御機嫌也。其御甲を召、大坂御陣に切勝給ふと云り。

 

109

 酒井讃岐守忠勝家来杉原彦左衛門物語に、

我古主杉原常陸介親憲は上杉謙信より景勝迄代々の功臣也。夫故上杉家の事を詳に伝聞に、上杉家の竹に雀の紋は、元来上杉家の紋也。上杉は北家の藤原勧修寺内大臣高藤公の後胤也。勧修寺殿の紋、竹に雀也。此故に上杉も竹に雀也。然るを世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。上杉持分は福嶋城簗川城也。福嶋城には本庄越前守重長、其子出羽、甘糟備後、岩井備中、杉原常陸介楯籠る。簗川城には須田大炊介長義、車野丹波(是は佐竹家臣也。此時佐竹よりの加勢)、筑地修理、横田大学籠る。是政宗境目也。福嶋城より三里に瀬上と云所有。其近所に松川と云川有。大隈川の枝川也。其川政宗領の一の虎口なれは、本庄出羽・甘糟備後・岩井備中・杉原常陸・栗生美濃・岡野左内、五千余にて固之。され共景勝方は度々の勝軍に慣て、政宗方を物とも不思、網張り鳥なと取て慰居る。政宗は兼て瀬の上松川の百性共に金銀を取らせ「上杉勢油断せは合図可仕」と申置故、百姓共上杉勢の油断を見て莚又は幅連抔を竿に付け高く立並る。上杉衆見咎る。百性共の云「旗の如く見へ候はゝ、敵方へ多勢へ見へ候はんか」と答る。上杉衆「尤」とて其通にして置く。政宗方の遠物見是を見て、政宗陣所小山村へ註進する。政宗は前方に仙台を出、国見峠を越し、信夫郡瀬の上の川を渡り、小山に陣城を構へ被居候に付、四月廿六日の曙に二万計にて小山打立。但柴田小平治・中目大学・石川弥兵衛等五千を分け、簗川の城を押へ、政宗は一万五千にて松川へ取掛る。簗川城には景勝家老須田大炊罷有故也。松川陣城にては上杉方是を不知して居所へ遠見の者乗切て帰「政宗小山を立、簗川へ人数押候」と云。乍去此方も不可致油断と、当番の鎧組栗生美濃・岡野左内両組松川の瀬渡りへ打出る。然所へ小山の方より高野聖の商人参り申は「政宗殿三万計只今是へ掛り来り候。各小勢にて中々成間舗」と申て通る。本庄出羽其外諸大将追々に来りしか、高野聖の口上を聞、松川を阻て敵待べきか又政宗に渡させて半途を可打かと談合区々也。松木内匠か云「政宗は此方の不意を心掛たり。然共待受たる人数頭を見は必案に相違して勢ひ挫けんか。此方より川を可越」と云。栗生か云「此川凹にして薬研の如し。渡る事甚大事也。其上政宗大軍也。川を前にして政宗渡させ半途を打ん」と云。岡野進出「敵の内甲も見すして多少を測り大軍に聞怖して不進は後難遁難し。我は川を越て政宗を待ん」と云。栗生気色を損し「孫子が云如く、将不能料敵を少を以て衆に合せ、以弱撃強是を曰北。今大敵の堅きは大敵の擒也。愚なる所に非すや」と云。左内と問答再三成所へ、甘糟・杉原馳来り、杉原申は「長穿議は無益、先物見を出し、政宗か様子を見切せ可然」と云。本庄則、本条団右衛門ン井筒小隼人・猪股主膳を物見に遣す。猪股馳帰て「政宗は川を越申間布」と云。本庄出羽・甘糟其故を問。猪股か云「政宗は此方不意を利として寄来る。然共我備有を察して川端へ来るを一利として引取。若此方より川を渡して追来は廻して半途を討ん体に存候」と云。然所へ団右衛門・小隼人乗切て来り「政宗は川を渡して掛り来ん事半時に不可過」と云。出羽・常陸聞て主膳と団右衛門・小隼人か所存各別成、其故を問。主膳か云「政宗か諸軍馬の泥障を不取、弓靫等を常の如く付たり。其上小荷駄歩者を川下へ引はなれ立たるは、川を不可越体也」と云。団右衛門・小隼人か云「左様にてなし。政宗未川端へ不来何を以川渡りの用意可仕哉。渡るに及て其支度何の滞かあらん。又小荷駄歩者を川下へ遠く立るは、合戦を待たる敵也。政宗川端へ来り川越の支度を致す。其間を考へ半時に不過と積り候。凡皆々御了間も候へ。大軍にて是迄来り、政宗川を不渉して引取可申哉」と云。上杉家諸大将「尤」と同し、川端弐町計しさりて政宗か半途を討んと備を立る時、岡野は「先程の言葉を無にせんや」とて、組勢を連れ、松川を越て水を背にして備を立る。政宗を待。甘糟・栗生か云は「政宗馬武者を川上に立、歩者を川下へ立候はゝ、上流を馬武者乗切て下手に付て歩者を渡さんとの謀也。只今大軍一度に可乗越候間、左内を学て川を不可越」と下知す。然とも布施次郎より北川図書・小田切所左衛門・志賀与三右衛門・安田勘助等廿騎計、左内か心底を恥、軍法を破りて川を越、左内か備へ加り、宇佐美民部鑓を横たへ残勢を押へて云は「少の言を恥大利を失ふ様なし。其外壱人も川を不可越」と下知す。少時にて政宗一万五千にて真黒に掛来り、先手片倉小十郎、二の先伊達安房、其外伊達重実・屋代勘解由・茂庭石見・伊達安芸・高野壱岐・桑折点了等段々に備て推懸る。郷人加りて二万計川原を一面に成りて見ゆる。上杉先手岡野左内、纔に四百余りにて鑓先を揃へ防戦へ共、正宗か大軍引包て打故、左内も百計に成て囲を掛抜遁出、川を渡りて引退く。正宗追に大はだ急に進み、其時上杉方の北川・小田切に向て「味方敗軍事既に急にして、我等討死可仕。会津に残置十四歳悴行末の安否無心元。必々被掛目を年来の懇意不空、景勝公へ奉公致させ給れ」と具足の上に着る猩々緋の羽織をぬき小田切に渡し「是を形見に見候へとて妻子に渡し給れ」と云。小田切か云「軍の習ひ我も又死生難計。若死をのかれは子息へ渡し可申」とて羽織を請取、腰にはさみ除く。北川「今は思置事なし」とて川中より取て返し、大敵の中へ馳入「我は是上杉景勝侍北川図書と云大剛の兵也。討死するを見て兵の手本にせよ」とて大音上て名乗つゝ、金の公卿の指物にて馬を大敵の真中へ乗込、十二三人物付終に討死す。布施安田・高力図書等は上杉家の精兵也。北川続て返合せ、火花を散して相戦各討死す。残る上杉勢川へ崩込被討者数不知。政宗も先手へ加り手を下し戦ふ。岡野は角栄螺の甲にそぼろの立物打て猪首になし、猩々緋の羽織に鹿毛の馬に乗、川涯にて引下り防戦。政宗能敵と見保て馬を乗付、左内を二太刀切付られ、左内訖と驚振返り、丁と切。政宗甲の真向より具足の胸板鞍の前輪迄切付、二の太刀にて政宗甲の錣を半分切落し、余太刀にて政宗太刀の鐔本より薙折て右の膝口迄切付る。太刀の先にて政宗馬おどけて飛しさり物わかれする。其隙に左内は川へ乗込退く。政宗拾騎計にて追掛「比興者返して勝負せよ」と呼れは左内ふり返り「眼の明たる剛の者は大勢の中へは返さぬ者そ」と罵りて南の岸へ駆上る。武具殊外見苦き故、政宗とは夢にも不知。後聞て残念かりたる由。岡野一組又後に加る輩、皆松川を渡り引退く。宇佐美兵左衛門拾六歳成か、松川の向の岸にて高名仕残るを、父民部見て馬を松川へ乗込、政宗の陣へ向ふ。栗生見て「民部先組は何れも川を渡しても再三他人をも制するが、何とて川を渡り敵へかゝるそ。貴殿は名将宇佐見の子息也。何とて言を違候哉」と呼りけれは、民部ふり返り「分別了簡は心より出る。あれ御覧候へ。悴兵左衛門向の岸に残り討死可仕体故、心乱申上はとかくに不及」とて乗込、向の岸へ行、兵左衛門を引つれ又此方へ乗戻す。其時政宗衆慕ひ来る。民部も外池甚五左衛門・町野主水返合を、川を渡り上にて戦、三人共に高名す。政宗先勢片倉真先へ乗越を、栗生横合に鑓を入を、片倉人数を川へ追ひたし、逃るを追て進み、本庄・杉原・岩井推つゞいて掛る。政宗第二陣は伊達安房・片倉をは不助合少引取る。杉原是を見て士卒を戒候は「敵は真の引様に非す。是を追事不可有」と云内に、如案安房は政宗旗本と一手に成て馳来る。上杉方の脇を廻り跡を取切んとするにより、上杉方惣敗軍に成て、福嶋の城へは田舎道十八里也(六丁一里也百八丁本道三里也)。是へさして上杉人数引退。政宗急に追駆る故、上杉方の手負死人不知其数。甲冑兵具も捨事道路に充満せり。尤肥過たる人馬皆行倒て息切る。其外も長柄并持鑓も尺の延たるは持とけかたく大方捨る。上杉方芋川縫殿・岩井備中・長井善左衛門・青木新兵衛・志賀与三右衛門・小田切所左衛門・宇佐美父子五十騎計跡に乗下り殿する。其内青木は鳥毛の棒の黒母衣、永井は金の抱半月の赤母衣にて殊に働き勝れて見ゆる。中に青木は小たけ成馬に柄の短き手軽き鑓故、自由を得て馬に乗り、下り地形により防戦。甘糟は上杉家にてさしもの大剛の大将、殊に白石の城主にて、政宗一の手先と云へ共、其年六月会津へ越留守に城代登坂式部逆心、白石を政宗に被取故、無念に思ひ、此度跡に引下り度々返合防戦。其外本庄・杉原・岩井・鉄・上野等の諸大将数度返合、松川より福嶋迄防退きに致す。福嶋城下の川へかゝる時、正宗方茂庭石見・屋代勘解由・高野壱岐か三備急に追来る。本庄・甘糟・杉原・岩井等の諸大将福嶋城大手口にて皆返合、馬より下り士卒をおりしかせ立固る。殿の五六騎の輩福嶋川へ掛る時、屋代・高野・茂庭等急に慕付る。小田切先川を渡し退く。二番は永井、続て乗越所へ、政宗衆三騎乗付、永井を後より三刀たゝみかけて切る。然共永井も度々の戦につかれ、其上多勢乗越、川音に紛れ敵の付るを不知所へ、青木新兵衛乗付、三人の敵を追払ふ。川の渡上りにて青木其旨断れは、永井驚き「努々不知」由にて下人に見すれは、母衣に三刀鞍に二刀跡有由申に付「今日は助られし」と永井礼を云たる由。小田切は川岸にて政宗衆二三騎に被取巻、馬より落既に討死とみゆるを、青木又すけて小田切を助る。川の渡り上にて宇佐美父子金津新兵衛・吉江喜四郎踏止り防戦。夫より物離す。岡野は堤に旗を押立、敗軍をまとひ訖と返合故、政宗も追止り弥物別れに成。岡野は其隙に旗押立、静々と福嶋の城へ入る。殿廿騎計も左内か跡に付て城へ越、堤より七八丁も除参る時に、政宗手廻り三百余り歩者はなく乗切て急に追来る。甘糟・栗生・本庄はやく人数を円居取込、殿の兵拾騎計猶柵の外に残る。宇佐美・永井・外池・志賀何れも柵を越て城へ入。青木は大母衣大だしにて柵を乗事遅りて能残る所へ、政宗乗付る。青木十文字にて防戦。政宗甲を突三ケ月の立物一方を突折、返鑓を取直し真中をつかんとする所に、政宗馬を乗返しかけ抜る。青木も政宗と聞後悔す。福嶋城主本庄越前守重長は先手敗軍を見て二千余にて城を出、信夫山の方へ廻り、政宗方右脇へ掛る故、政宗大軍一戦に不及、福嶋川を渡り向の川原へ引取、備へを立る。本庄重長も川岸に陣取相対して居る。又簗川城主須田大炊助長義は横田築地と佐竹義宣よりの加勢車野に向て「今朝政宗瀬の上に松川の手を攻破り福嶋の城へ追詰行。左候へは当城より政宗陣城小山へは程不遠。我等存るは政宗福嶋表に押詰、小山の陣城には留守居計にて無人に可有。此口に残置政宗衆五千を切崩、直に小山の陣城へ仕掛、政宗留守を攻破らは政宗跡の敗軍を聞、福嶋口より可逃帰と存はいかゝ可有。但三人の了簡いかゞ」と云。横田・築地・車野も「尤」と同し、須田は備へを二つに分、城より打出て政宗方五千にて阿武隈川の向迄出向。此逢隈川は奥州第一の大河也。然共大炊は能地の利川の渡様を知る故、一手は佐竹加勢車野・横田を加へ本瀬へ打向。須田は川上へ向。政宗衆是に騒て勢を二手に分て両口を防んとするに、備乱る所を上杉方どつと川を乗越す。須田二備を急に切掛る故、政宗五千人数惣敗軍に成を、大炊勝に乗て追討に三百余討取、夫より政宗本陣小山の留守へ押寄、政宗は福嶋表へ押詰たる跡にて留守のみなれは須田又勝て政宗衆百八十余人討取。其外兵粮以下残置甲冑兵具分捕にす。其内伊達家の相伝什物代々の宝とする看経幕(紺緒に黄糸にて法華経二十八品を縫)并竹に雀九曜星のまく迄奪取る。須田廿三歳、若輩と云共手柄を振たる働、其名天下に高し。則大炊早馬にて此口の勝を福嶋に註進す。政宗へも小山より討洩れの輩逃来て告知する故、大に周章騒く所へ、本庄重長川を渡して掛るを見て、政宗敗軍にて本道を退事不叶、摺神より信夫山へ引取。其夜陣取翌日は猶信夫山へ陣取居所へ、景勝八千にて前日会津を出簗川迄出る。政宗は福嶋表へ詰る事をきゝ、廿七日の辰の刻に簗川より福嶋へ押付き、景勝旗は五幅掛大四半紺地に朱の日の丸と白地に黒き毘の字只二本朝嵐に吹せ、福嶋さして駆る。政宗方物見馳帰り「景勝被出」と告候により、政宗陣騒立所へ「紺地に日の丸大四半向の山涯上方道二里程見ゆる」旨又註進す。其旗にて「謙信已来上杉旗本の印なれは景勝出る事無疑」とて、俄に陣を払ひ茂庭山へ掛り、政宗惣軍共に仙台へ引取。景勝は堺目打廻り会津へ帰陣也。其後天下太平に治り、諸大名へ将軍家御成有。景勝館へ成御の時は公方御馬立杉垣にて縦に立其前に打取にしたる伊達の重代看経幕九曜星の幕を打也。政宗は秀忠将軍家の御酒の御相手にて毎度御相伴に御供成し故、此由を見て無念たくひもなしとかや。上杉の武勇の威光須田か手柄申も中々疎也と云々。

右の政宗幕を取しは須田か組西村千右衛門(後号下総と)曾田宇平治と云兵也。此段の故に竹に雀の幕計を打取たるにて非す。

 

110

 越前の一拍殿に大井田監物と云御使番有。是は元上杉家の浪人也。此監物か孫の語るは、

 

竹に雀の紋は上杉代々の家の紋也。伊達の家に竹に雀の紋を付るは上杉殿より被申請たる故也。其昔越後の国主は上杉房能と号し、越の府内に在城也。其麁流上杉定実、是も越後上条の城主也。永正六年五月上杉家老長尾六郎為景逆心し、其主君上杉房能を雨溝と云所にて討亡。上杉家臣多中に琵琶嶋の城主宇佐美駿河守定行廿一歳なれ共、度々の戦功其名高し。此度千坂・斎藤・本条・金沢・直江等を催し房能吊合戦を思立、則上杉麁流上条定実を大将に取立刻、宇佐美重代の備前長光の太刀を定実に進上。此太刀大わさ物、殊に大剛宇佐美所持なれは定実悦ひ無限。則異名を宇佐美長光と云て秘蔵有し也。其後越後乱治り、然るに上杉定実女子有れ共男子なくて、聟伊達植宗次男伊達兵部とて十六歳に成を、定実孫と云又其生付賢き由聞伝、奥州へ申遣し、彼兵部を定実養子に定る。其砌定実より名乗の一字并宇佐美長光の太刀竹に雀の幕を贈り祝儀を表す。伊達兵部を上杉兵部実之と改名、天文年中既に越後へ参筈の所に、父植宗と兄晴宗と父子の取合起る故、兵部実之は越後へ行事不叶、信夫に止り住す。終に越後に不行。乍去母方相伝故、宇佐美長光の太刀と竹に雀の幕は秘蔵するを、兄晴宗所望にて相渡す。是より伊達家に竹に雀を用る由。宇佐美長光の太刀も伊達家に伝り有由。又簗川表にて右の看経幕取候両人の内、曾田宇平次は隠なき馬数奇にて、勢州神戸下総守友盛馬の名人と聞、形を馬取に窶、三年奉公して其乗形を習、会津へ帰り馬上の名人に成たり。上杉米沢へ所かへの時浪人して、越後村上の城主堀丹後守直寄へ奉公せしと也。又松川口より福嶋口にて働能輩多き中に、青木新兵衛・岡野左内・永井善左衛門を以第一とす。

 

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菊池真一

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