『武辺咄聞書』第111話〜第115話
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右に註す。上杉定実より兵部実之へ遣す長光の太刀は希代の物きれ也。其謂は、
宇佐美定行か父越中守孝忠と云。孝忠は越後の国主上杉相模守房定入道常泰の家老也。永正元年、房定の子上杉顕定と上杉朝良北条早雲と、武州川越にて一戦の時、越後より顕定加勢として、宇佐美越中守孝忠其子駿河守定行大将にて一万八千にて川越表へ出陣する。度々合戦有。或時斥候の敵一騎鑓持一人連て出るを、越中乗付、敵を切落し、其上に鑓持を切るに、鑓の柄にて請たりしに樫の柄を切落、鑓持の頭を向歯迄切付る。則宇佐美長光也。か様の事度々也。越中是を嫡子定行に譲る。右にも如記、永正六年五月、雨溝と云所にて上杉房能を長尾六郎為景生害し、国中過半為景付しか共、定行一人は為景に不随。主君房能男子なけれは一門の上杉兵庫頭定実を取立大将にし、千坂・斎藤・直江・本庄以下の上杉譜代の兵共を催し、上条の城、本庄・柴田・五泉等の城々に取籠、為景と合戦する。其時重代の長光の太刀を定実に進上。此時上杉方は軍兵纔にして、内には兵粮なく、外には可防手術なく候。宇佐美駿河守此時廿一歳、若輩といへ共諸人を呼集「主君の敵を討ん事、忠と云義と云、士の上の本望也。此度討死して名を可残。此定行も尸を義戦にさらし、各と同し枕に可成」と涙を流し諌励す。故諸軍も感涙し「是非討死の供可仕」とて上下心を堅くし、鉢形の加勢を待所に、房能の兄上杉顕定鉢形より越後へ打入、為景は越中西浜へ敗軍し、上条運をひらく。翌年為景と信濃士高梨摂津守正頼と一味にて越後へ乱入、顕定と一戦す。永正七年六月廿日に越後国妻有の庄長森原にて一戦し、顕定生害。五十六歳也。越後又為景方に成る。此時、上州白井城主上杉憲房(管領憲政の父なり)も顕定も同陣にて候へは、憲房は上州へ引退く。此時上条定実を長尾為景聟にして和談になれ共、定行は是に不随、顕定遺言に随、古河公方高基の御子を申請、顕定跡目となし、上杉四郎顕定と号す。鉢形へ入奉り、駿河守は越後松山の城に籠、永正七年より大永元年迄十四年の間為景と取合有。大永元年に管領憲房扱にて為景と駿河と和談、越後治る。大永五年、管領憲房逝去。子息憲政四歳成により、古河公方高基末子賢寿王殿を申請、上杉安房守憲広と号し、上杉相続有。此時古河公方より宇佐美定行に軍配団扇を被免。上杉相続の事偏に宇佐美か軍功と云々。
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岡野左内猩々緋の羽織に政宗と太刀打せし太刀跡二つ有。金糸のより金を入、縫合て其跡を顕し、是を着す。景勝米沢へ所替の時、左内も浪人する。政宗より三万石にて呼けれ共、左内は「蒲生家馴染有」とて仙台へ不行。蒲生秀行会津へ六十万石にて帰住の時、左内一万石にて蒲生へ帰参。名誉の士也。無隠福人にて、関ケ原御陣の時も永楽銭一万貫景勝へ上け「事欠は有間敷候へ共、下々へ被下候へ」とて上る。三十両、五拾両、百両、弐百両、諸傍輩に見継に渡す。常々月に二三度宛大判小判壱歩を書院一円に布満、其中に枕して金銀を詠慰にする。世の人「扨も/\見苦敷心入や」と嘲笑ふ。或時近辺に喧嘩仕出し、両方荷担出来、大事に及。左内其折しも例の金を書院に布て遊居る時也。近所へ喧嘩と聞と均、秘蔵の正宗の刀を指、彼所へ駆付、二夜一日取扱無事にする。其内かの所へ昼夜有しに、宿にちらしたる黄金の事少も不申出打捨置たり。其時左内か心ざしを世の人不感と云はなし。馬取の中間何として持たりけん、黄金一枚所持す。左内聞て「己は奇特者也。上中下共に金子を不持すり切ては、武辺も不成心掛も不叶。能こそ金を持候」とて褒美に黄金十両取らせける。此左内、後は岡野越後と云。蒲生下野守忠郷迄奉公して病死す。臨終に「常々御影にてたくはへ候」とて黄金三万両、正宗の太刀一腰、遺物に下野守殿へ上る。御舎弟中務殿へ三千両と景光の刀貞宗の脇指を上る。其外、五両、十両、五十両、百両、諸傍輩へ遺物に遣す。日来借置借状共は、挟箱に一つに有しを火中して正念して死す。其子左衛門尉相続、一万石取猪苗代の城主に成。其子源五郎は浪人する。元来切支丹宗門にて、ころぶとはいへ共、実は不知。夫故源五郎奉公不成して、大津三井寺にて病死す。左内か政宗と勝負せし時着たりし角栄螺の甲は、南蛮の伴天連より音物に貰たる物也。源五郎病死の後、其下人共、左内か鳩胸鴟口の具足并角栄螺の甲を持紀州へ下る所、布施左五右衛門と申人の買求めたりし由、三井寺の衆徒語りき。
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上杉景勝米沢へ所替の砌、家中の士卒過半隙出る。永井善左衛門・青木新兵衛は越前黄門秀康卿へ被召出。後京にて加賀中納言利勝へ御茶湯にて秀康卿被出。御相伴は伊達政宗・今井宗薫・医師板坂卜斎也。数奇やにて政宗、秀康卿へ云は「上杉家中今度奥州にて骨折候内、能者を被召抱候。青木は鳥毛の棒のだし黒母衣十文字鑓にて働候。中々鬼と申共不可過」と被誉。秀康卿聞召違、永井善左衛門事と思召、御帰宅の砌、家老歴々居候中にて「今日政宗咄に『永井善左衛門、黒母衣にて働き、鬼にも可勝』と被誉」と仰有。何れも御挨拶申上候所に、落合主膳(一万石領本は御旗本後越前へ御付被成)進み出申候は「夫は青木新兵衛事にて可有御座」と申上る。秀康卿御機嫌そこね「我慥に政宗咄を直に聞たるに、何と聞違んや」と仰す。主膳申は「其時一所に稼候斎道仁(初は小田切所左衛門)唯今浪人にて伏見藤の森に罷在候。其時永井・青木か指物を御尋候へは知れ申事」と申て道仁方へ問に遣す。道仁返書に「岡野左内は角栄螺の甲、猩々緋の羽織。永井善左衛門は金抱半月の赤母衣。青木新兵衛は鳥毛の棒の黒母衣」と書付来る。秀康卿へ上けれは「永井も青木も皆我家人なれは何れも同前也」と被申つる由。新兵衛は後芳斎と号する由。
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元来永井は家康公御譜代也。小田原陣の後走りて蒲生氏郷へ奉公。氏郷死去の後上杉へ出る。元来大兵大刀の剛者也。奥州福嶋にて永井一騎にて物見に出る。菖蒲ばへの沼有。其内より政宗か伏兵六人起て永井を取包。永井六人の内へかけ入、四人討取、残二人は逃去。かやうの手から度々也。若き時三州長篠合戦にて太刀打して高名する。其時右の指を切れ、太刀を取落たるを、外の敵奪取、退行を、三丁程にて追付、其敵を打て又高名し、太刀を取返す。其時右の大指損し、後迄見ぐるし。人か其指の疵をとへは、永井か曰「馬に食れ候」と申つる由。惣て軍功に不誇仁也とそ。後には永井道存と云。御旗本へ被召返、御鑓奉行に成。此道存越前を暇取、浪人にて上州深谷に閑居。其砌御旗本衆よりも瀬戸の茶入を貰、秘蔵せしを、召仕の女取落して打破る。道存大きに怒て様々に叱。女迷惑して我鏡台の中より五倍子を入たる壷を取出し、其代に贖て道存へ出す。道存見て「やくに不立なれ共、是にて堪忍せん」とて秘蔵もせず打捨置たり。後に小堀遠江守、かの五倍子入壷を見て手を打、称嘆して唐物の肩衝に極る。則永井肩衝と名付け、後は公方の御物に成。又道存は板倉伊賀守勝重懇意なる故「将軍家御上洛の砌、御直に御詫言申上御旗本へ帰参させ候はん間御、上洛に先立て上京仕れ」との事にて、道存深谷を立て上京す。浪人一人を同道する。道存尾張の名古屋へ親類に逢に立寄。荷物は浪人に頼み、宮迄遣し「今夕夜舟に乗やうに名古屋より可行合」とて別れ行。其晩かの浪人、己か刀と道存か差替の刀と差かへ欠落す。道存宮へ着て大き驚き、され共無為方してかのかはりに置たるさび刀を尻付に入京着す。伊賀守所に落着。勝重の云「将軍家御上洛已前に牢払申付」とてためしの刀脇指数十腰に刃を付る。道存右の段咄してかの浪人の替に置たるさび刀をためし見るとて刃を付さする。さびてわけ見へね共、双をあわするに常の刀に非す。研屋か云「此刀は幾腰の中にも刃味のかやう成はなし。大切れ物か又はふつと不切かにて可有」と云。扨ためしもの有。一人の罪人に藤身有。外の刀共不切。かの道存のさひ刀にて切に、当る所たまる事なし。大切れ物には類もなしと誉る。其時さびを落し見れは、刀の出来只物に非す。「中心身を見よ」とてさひ朽たるを能ぬくひて見れば、正宗と銘有。道存も何れもふしきに思ひ、さびを落しとぎ立たれは最上の刀。本阿弥見て「正宗の刀、殊に出来物」と申に付、公方へ上り、永井正宗とて名物也とかや。
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関ケ原御陣の時、御先手より細川越中守忠興只一騎にて御旗本へ参り、山鳥の尾の甲に銀の天衝(或はくり半月)のさし物也。遠見するに唯其侭舞鶴の如し。家康公御覧被成「忠興武具の好、世に勝れ万事見事也。就中甲と立物立合よし」と仰らる。則銀の天衝のさし物御所望被成、台徳院様へ被為進と也。
菊池真一
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