関山和夫「話芸の歴史」

(『日本の古典芸能』第9巻。昭和46年7月5日)



(前略)
 赤松法印という伝記全く不明の人物を史上に冠して諸説を生んできた講談が、御伽衆の中の「ものよみ」や「太平記読み」に端緒を見出し、後年、心学道話と軍談読みが混同しながら教育的職分まではたしてきたとする通説の原流には、やはり中世以前の法門講談・経典講釈の存在があったことを忘れてはならない。
(中略)
 「講釈」が平曲・説教浄瑠璃・祭文・落し噺などとともに古く仏教の唱導説教に発するという私の考え方はすでに述べた。「法門講談」「経典講釈」の用語は、遠く奈良時代にまでさかのぼることができ、中古・中世の仏教関係書にはしきりにあらわれる。現代でも浄土真宗ではる説教の重要な分野として「講釈」がおこなわれている。
 それは常に芸風唱導説教と並行しておこなわれてきたものである。唱導説教には二つの系列がある。一つは純粋経典講釈・法門講談であり、今一つは芸能性をもった唱導説教の系列である。講談の原流は主として前者の方に求めることができる。古い時代の講釈の形は、諸書に見出すことができるが、特に『伊呂波字類抄』に「講説・説教・談義」の区別が示され、ここにいう「講説」が純粋の経典講釈を指しているのは興味深い。『中右記』には全巻にわたって講師の講釈が記されている。この書で永清律師や湛秀己講が熱心な講釈をしているのは天仁三年(一一一〇)ごろであるが、同年二月十八日から『大安寺百座法談』がおこなわれ、法華経を中心にして般若心経と阿弥陀経の講釈が約三百座にわたっておこなわれているのは注目せねばならぬ。その他『中右記』には天仁元年(一一〇八)九月二六日法勝寺金堂において白河上皇が修した「百座仁王講」について激しい講釈の姿を描いている。その他、顕密諸宗が経典講釈をもって唱導とした資料は数多く見ることができるのであって、仏教の講釈が儒教の講釈とともに中古から中世にかけて盛行したことは容易に首肯できるのである。
経典講釈や法門講談の唱導は、性格においてはきわめて堅実で、難解で、且つ思索的であったともいえる。独自な個の宗教的信の世界において自己を深く追及する方法をとる。有名な法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍らの中世仏教の祖師たちは「法語」という唱導体において、言葉における論理性とそれに裏うちされた説教の働きを達成することに力を示したのである。「法語」成立以後は、日本仏教各宗において、その克明な講釈が説教の重要な一分野として盛行することとなった。従って講談の源流を追及する際には、この経典講釈・法門講談の究明にまでさかのぼらねばならない。それはまさに古き世の講釈の主流であったからである。
 仏教や儒教の講釈・講談の型が確立して歴史的展開をとげていく中世に、戦記物語(軍記物語・軍談)という説話文学の一種が出現したことは、講釈の歴史にエポックが画されたといえる。加藤盤斎が『長明方丈記抄』の中で『方丈記』は法説・譬喩・因縁の”三周の説法”になぞらえて書かれたものだといい、『本朝話者系図』が『徒然草』を噺の本とみなし吉田兼好を話者の一人として加えているのは、中世文学と話芸史のかかわりを如実に示している。戦記物語りもまた明らかに話芸の一翼をになう重要な存在で、話者の読みものとしてはまさに格好の作品であった。『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』はいずれも黙読ではなく、声をあげて読んできかせることによって一段と効果を発揮するものであり、『平家物語』や『源平盛衰記』は、諸行無常を説く末法思想下の唱導説教には最もふさわしいものであった。「平曲」は明らかに説教の一種である。戦記物語と法語とが密接な関係をもっていることは、いうまでもない。『平家物語』が「平曲」という音楽説教なり、『源平盛衰記』『太平記』が講釈説教となったのは説教の歴史からみて当然のなりゆきである。
 『太平記』や『源平盛衰記』が物語僧(説教師)によって中世のころすでに講演せられたことは、唱導説教の一典型として確認されねばならない。近世講談の源として「太平記読み」が登場したのは、決して新しい試みではなかった。古くからあった説教(講釈)の一変型にすぎないのだ。説教の世界で伝承されてきた講釈の方法が変型を示す一例は戦国時代に見出すことができる。戦国大名をとりく御伽衆・御咄の衆の中に「ものよみ」と称する一群があることは前に述べた。前田家などに仕えた御伽衆の中に「ものよみ」と称して兵方・軍談を講釈したことは『前田家文書』などから察しがつく。それが旧来の説教講釈の型を踏まえながら芸能化された”よみ口”に変ったのは、やはり近世に入ってからであろう。『後法興院記』によれば、京の地に太平記読みがあらわれたのは室町時代であり、足利の世を大いに慨嘆し、烈々とみずからの主張を述べた武士たちであった。戦国武士たちのうち、能弁のものたちは軍書講釈を盛んにして回った。主人を喪失し扶持から離れた浪人が、諸国を遊歴して国主大名を訪ね、おのが戦歴を物語り、軍書を説いて戦場の様を論じ、仕官の途を求めた。中には才能をもちながら仕官できず、僅少の謝礼に甘んじたものもあり、中にはついに街頭に立って大衆に軍談を論じ、謝銭を求めて生活するに至ったものもある。辻軍談師はこうしておこり、時に『太平記』を読み、『源平盛衰記』を講じた。この軍書講釈師と太平記読みは、江戸中期に入って混同され、ついには街頭芸人となる。
 『燕石雑志』には「太平記を読みての物貰ひ、あはれ昔はたたみの上にもくらしたればこそつづりよみもすれ、なまなかかくてもあれよかし。祇園糺のもりの下などにては、むしろしきて座をしめ講釈めかしたるもをかし」と記してその昔の太平記読みの姿を想わせる。『続々武家閑談』によれば「赤松法印といへる者慶長の頃家康の前に出て度度太平記、源平盛衰記等を進講す、世人之を呼んで太平記読みと謂へり」とあり、これを講釈の濫觴とするという風に出ている。つまり「太平記読み」という呼称はそのまま講談師を意味している。講談が赤松法印から始まったという説は、関根黙庵『講談落語今昔譚』以下の近代の諸書に出ているのだが、赤松法印は伝記不明の人物である。
 赤松氏は、播磨国赤穂郡赤松からおこった。しかし、その族類はきわめて多く一般に村上源氏といわれるが、発生については秦氏の説もあり不詳である。『尊卑分脈』は村上天皇から発し、『太平記』にも「播磨国の住人村上天皇第七の御子具平親王六代の苗裔、従三位秀房が末孫に赤松次郎入道円心とて、弓矢取て無双の勇士有り」とあり、『赤松家条々事』『赤松記』にも「赤松の初は人王はじめて六十二代村上天皇と申云々」と載せて長く信じこまれてきた。従って、「村上天皇−具平親王…師房…師秀…則村」という系譜は、古くからできあがって伝えられてきている。(赤松略譜等)その他、赤松の出身を記すものはきわめて多い。
 赤松氏は、鎌倉末期の赤松則村(円心一二七七〜一三五〇)が建武中興政府に参加して依頼一躍史上に名声を高めた。鎌倉期には播磨国九条家領佐用庄を中心に赤穂・佐用郡に勢力を張っていた豪族だが、南北朝内乱を通じて勢力を著しく拡大し、播磨・備前・摂津・美作などの守護大名となり、中央政界に重きをなして四職家の一に数えられた。ところが赤松満祐(一三八一〜一四四一)の代に六代将軍足利義教を殺した、いわゆる嘉吉の乱をひきおこしたため一たん没落し、政則のとき、神器奪還の功により家を再興。しかし昔日の威はなくなり、義祐のとき家宰浦上宗景に滅ぼされてしまう。赤松家の系図は『浅羽本』以下多々あるが、義祐の子の則房の譜に「関ヶ原乱に石田治部少輔に一味して切腹、赤松嫡流此時絶畢る」とある。しかし赤松直系は絶えおわっても、その一族はきわめて多く、末流は今日にまで及んでいる。
 赤松の一族について『赤松家条々事』には、御一家衆として九家、御一族衆として十八家、当方御年寄として十六家が見えていて、この支族のうち当方御年寄に属する石野氏が、徳川時代に入って赤松を称した。『寛政系譜』に「則村−範資−光範−満弘−教弘−元久−政資−義充−義氏−氏貞(石野を称す)−氏満(前田家御伽衆)−氏置(家康御伽衆二千百五十石)−氏照−氏任−範恭(赤松に復す三千十石)−範主−恭富−範邑−範善−範亀」とある。この中で注目すべきは、前田家の御伽衆となった氏満と家康の御伽衆となった氏置の二人である。前田家と家康が「御伽の衆」の中でも特に「ものよみ」を重用したことは留意せねばならぬし、赤松氏の血統の中に講談をよむ要素が流れていたことも意を注がねばならぬ。更につっこんで考えれば、後の赤松一族が好んで軍記ものを読んで大名に奉仕したのは、かつての赤松氏のことが『太平記』以下の諸書に多く見られ、自分たちの先祖が非凡の武将であったことを強調鼓吹したかったという点も思われて興味深い。『太平記』巻五・巻六・巻七・巻八・巻十三・巻十四・巻十七・巻二十九・巻三十三・巻三十六・巻三十八や『応仁記』巻二・巻三、『応仁別記』『応仁私記』『永享以来御番帳』『文安年中御番帳』などに赤松一族の見事な活躍のさまが記され、いずれも講談として”よまれる”べき資格を十分に備えている。
 赤松法印については伝全く不明だが、家康に仕えた御伽衆のうちで赤松系に属して赤松を名乗り得る人物は、前述の『寛政系譜』の中の石野氏置(家康御伽衆二千百五十石)以外には見当らない。家康の御伽衆をつとめて軍談を講じ、『太平記』を読んだ石野氏置(赤松氏置)が僧形となつて赤松法印と称したのではあるまいか。かつての猛将赤松家の末の姿が、太平記読みとして、そこにあらわれる先祖を称揚したのも因果的に考えて興味深い。
 後の元禄一三年(一七〇〇)ごろ、浪花の赤松梅竜とともに江戸の堺町に葭簀張りの講席をもうけ、原昌元と名のって軍談を講じ、『太平記』を読んで大いにおこなわれたのが赤松青竜軒である。赤松青竜軒は名和清左衛門とともに江戸の講釈師として著名であるが、もともと播州三木の郷士で本名を赤松祐輔といい、伝記は不明だが赤松一族であることは間違いない。講談史上に赤松の名が大きくあらわれるのは興味深いことである。赤松の末裔が先祖の偉業を勇ましく披瀝することに大きな誇りをもつていたことは確かであろう。
 播州赤松からおこった大豪族赤松氏は、古くから諸国に拡がっていた。今日その遺跡は非常に多いが異流もかなりある。諸国の地誌によれば、赤松直系は、播磨・備前・美作・摂津・和泉・紀伊・伊勢志摩・丹波・但馬・阿波・三河・常総・波岡・磐城・安芸・上野・豊前など各地に及び、異流、末裔と称するものが各地におびただしくみられる。大赤松の史上の繁栄時を思うにつけ、近世における講談と赤松の関係を考えざるを得ない。
 更に別の途を考察すれば、説教史上に赤松明秀(一四〇三〜一四八七)という中世のすぐれた説教の巨匠を見出すことができる。明秀は紀州総持寺(西山浄土宗・和歌山市梶取)の開山で『総持寺伝』に「明秀上人は赤松義則の子、赤松則村円心の曽孫にして嘉吉の変に自刃せし満祐の舎弟なり」と明記される特異な人物である。明秀は浄土真宗の蓮如(一四一五〜一四九九)とともに中世日本仏教界に大きな足跡を残した大説教者であり、特に『愚要鈔』『曼荼羅註記鈔』(仮題)などの著書は彼の講釈説教の真髄を示したものとして注目される。この明秀の講釈説教もまた赤松法印に至る赤松氏の講釈の歴史の源流に厳存しているのである。
 要するに講釈は、仏教の経典講釈・法門講談を主流とする系列の中に儒教講釈が加わり、説話文学系の戦記物語の出現とともに変型して近世に至るのであり、「太平記読み」が忽然とあらわれて”講談”の原型をつくったのではないことを研究者は銘記すべきである(拙著『説教と話芸』参照)。
 赤松法印以後の近世の講釈は、次第に話芸としての形態を整えて現代に及ぶ。浄瑠璃作者の初代竹田出雲(?〜一七四七)がかつては今岡丹波と称する説教講釈師であったという伝説もあり、元禄の赤松青竜軒、名和清左衛門、享保の神田伯竜子、霊全(辻談義……説教の一)から滋野瑞竜軒、成田寿仙、村上魚淵を経て宝暦・明和のころの深井志道軒、馬場文耕から森川馬谷、赤松瑞竜、江戸後期から幕末の桃林亭東玉、鏑井北梅(小金井蘆州)、東流斎馬琴(三代目から宝井)、伊東燕晋、錦城斎典山、一竜斎貞山、邑井一、田辺南鶴、旭堂南麟、神田伯竜、神田伯山、松林伯円などが続出する歴史的展開はみごとであり、心学道話や儒者の講釈についても十分の研究の余地がある。(別項・延広真治「江戸の寄席」参照)
(以下省略)

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp