啓発録
橋本左内
(原文+口語訳。共に『大日本思想全集』第十八巻〈昭和8年。大日本思想全集刊行会発行〉による)
◎稚心を去る
稚心とは、をさな心と云事にて、俗にいふわらべしきこと也、茶菜の類のいまだ熟せざるをも稚といふ、稚とはすべて水くさき処ありて物の熟して旨き味のなきを申也、何によらず稚といふことを離れぬ間は、物の成り揚る事なきなり。
人に在ては竹馬紙鳶打毬の遊びを好み、或は石を投げ虫を捕ふを楽み、或は糖菓蔬菜甘旨の食物を貪り、怠惰安佚に耽り、父母の目を竊み、芸業職務を懈り、或は父母によりかゝる心を起し、或は父兄の厳を憚りて、兎角母の膝下に近づき隠るゝ事を欲する類ひ、皆幼童の水くさき心より起ることにして、幼登の間は強て責るに足らねども、十三四にも成り、学問に志し候上にて、此心毛ほどにても残り有之時は、何事も上達致さず、迚も天下の大豪傑と成る事は叶はぬ物にて候。
源平のころ、並に元亀天正の間までは、随分十二三歳にて母に訣れ父に暇乞して、初陣など致し、手柄功名を顕し候人物も有之候、此等はみな稚心なき故なり、もし稚心あらば親の臂の下より一寸も離れ候事は相成申間敷、まして手柄功名の立つべきよしはこれなき義なり、且又稚心の害ある訳は、稚心を除かぬ時は、士気振はぬものにて、いつまでも腰抜士になり候ものにて候、故に余稚心を去るを以て士の道に入る始と存候なり。
◎振気
気とは、人に負ぬ心立ありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張の事也、振とは、折角自分と心をとゞめて、振立振起し、心のなまり油断せぬ様に致す義なり、此気は生ある者にはみなある者にて、禽獣にさへこれありて、禽獣にても甚しく気の立たる時は、人を害し人を苦しむることあり、まして人に於てをや。
人の中にても士は一番此気強く有之故、世俗にこれを士気と唱へ、いかほど年若な者にても、両刀を帯したる者に、不礼を不致は、此士気に畏れ候事にて、其人の武芸や力量や位職のみに畏れ候にてはこれなし、然る処太平久敷打続、士風柔弱佞媚に陥り、武門に生れながら武道を亡却致し、位を望み、女色を好み、利に走り、勢に附く事のみにふけり候処より、右の人に負けぬ、恥辱のことは堪へずと申す、雄々しさ丈夫の心、くだけなまりて、腰にこそ両刀を帯すれ、太物包をかづきたる商人、樽を荷ひたる樽ひろひよりもおとりて、纔に雷の声を聞き、犬の吠ゆるを聞ても、郤歩する事とは成にけり、偖々可嘆之至にこそ。
しかるに今の世にも猶未だ士を貴び、町人百姓抔御士様と申唱るは、全く士の士たる処を貴び候にて無之、我。
君の御威光に畏服致し居候故、無拠貌のみを敬ひ候ことなり、其証拠は、むかしの士は、平常は鋤鍬持、土くじり致し居候共、不断に恥辱を知り、人の下に屈せず、心逞しき者ゆへ、まさか事有るときは、吾 大御帝、或は将軍家抔より、募り召寄せられ候へば、忽ち鋤鍬打擲て、物具を帯して、千百人の長となり、虎の如く狼の如き軍兵ばらを指揮して、臂の指を使ふごとく致し、事成れば芳名を青史に垂れ、事敗るれば、屍を原野に暴し、富貴利達、死生患難を以て其心をかへ申さぬ、大勇猛大剛強の処有之ゆゑ、人々其心に感じ、其義勇に畏候へども。 今の士は勇はなし、義は薄し、諜略は足らず、迚も千兵万馬の中に切り入り、縦横無碍に駆廻る事はかなふまじ、況んや帷幄の内に在て、運籌決勝之大勲は望むべき所にあらず、さすれば若し腰の両刀を奪ひ取候へば、其心立其分別尽く町人百姓の上には出申まじ、百姓は平生骨折を致し居、町人は常に職業渡世に心を用ひ居候ゆへ、今若し天下に事あらば、手柄功名は却て町人百姓より出で、福島左衛門大夫、片桐助作、井伊直政、本多忠勝等がごとき者は、士よりは出申さゞるべきかと思はれ、誠に嘆かはしく存る。
箇様に覚のなきものに、高禄重位を被下、平生安楽に被成置候は、偖々君恩のほど男す限りなきこと、辞には尽しがたし、其御高恩を蒙りながら、不覚の士のみにて、まさかのときに、我君の恥辱をさせまし候ては、返す返す恐入候次第にて、実に寐ても目も合はず、喰ても食の咽に通るべき筈にあらず。
ことさら我先祖は国家へ奉対、聊の功も可有之候得ども、其後の代々に至りては、皆々手柄なしに恩禄に浴し居候義に候へば、吾々共聊にても学問の筋心掛け、忠義の片端も小耳に挟み候上は、何とぞ一生の中に粉骨砕身して、露滴ほどにても御恩に報い度事にて候、此忠義の心を撓まさず引立、後還り致さぬ様に致候は、全く右の士気を引立振起し、人の下に安ぜぬと申す事を忘れぬこと、肝要に候、乍去只此気の振立候而已にて、志立ぬ時は、折節氷の解け酔のさむる如く、後還り致す事有之者に候、故に気一旦振立候へば、方に志立候事甚大切なり。
◎立志
志とは、心のゆく所にして、我こころの向ひ趣き候処をいふ、士に生て、忠孝の心なき者はなし、忠孝の心有之候て、我君は御大事にて、我親は大切なる者と申す事、聊にても合点ゆき候へば、必ず我身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文学の道に達し、古代の聖賢君子英雄豪傑の如く相成り、君の御為を働き、天下国歌の御利益にも相成候大業を起し、親の名まで揚て、酔生夢死の者にはなるまじと、直に思付候者にて、此即志の発する所也、志を立るときは、此心の向ふ所を急度相定、一度右の如く、思詰候へば、弥切に其向きを立て、常々其心持を失はぬ様に持こたへ候事にて候。
凡志と申は、書物にて大に発明致し候か、或は師友の講究に依り候か、或は自分患難憂苦に迫り候か、或は憤発激励致し候歟の処より、立ち定り候者にて、平生安楽無事に致し居り、心のたるみ居候時に立事はなし。
志なき者は魂なき虫に同じ、何時迄立ち候ても、丈けののぶる事なし、志一度相立候へば、其以後は日夜逐々成長致し行き候者にて、萌芽の草に膏壌をあたへたるがごとし、古より伐傑の士と申候んとて、目四ツ口二ツ有之にてはなし、皆其志大なると逞しきとにより、遂には天下に大名を揚候なり、世上の人多く碌々にて相果候は他に非ず、其志太く逞しからぬ故なり。
志立たる者は、恰も江戸立を定めたる人の如し、今朝一度御城下に踏出し候へば、今晩は今荘、明夜は木の本と申す様に、逐々先へ先へと進み行申候者也、譬ば聖賢豪傑の地位は江戸の如し、今日聖賢豪傑に成らん者をと志し候はゞ、明日明後日と、段々に其聖賢豪傑に似合ざる処を取去り候へば、如何程段短才劣識にても、遂には聖賢豪傑に至らぬと申す理はこれなし、丁度足弱な者でも、一度江戸行き極め候上は、竟には江戸まで到着すると同じき事なり。
偖右様志を立候には物の筋多くなることを嫌ひ候、我心は一道に取極め置き不申候はでは、戸じまりなき家の番するごとく、盗や犬が方々より忍び入り、迚も我一人にては、番は出来ぬなり、まだ家の番人は随分傭人も出来候得共、心の番人は傭人出来不申候、さすれば自分の心を一筋に致し、守りよくすべき事にこそ。
兎角少年の中は、人々のなす事致す事に、目がちり、心が迷ひ候て、人が詩を作れば詩、文をかけば文、武芸とても、朋友に鎗を精出す者あれば、我今日まで習ひ居たる太刀業を止て、鎗と申す様に成り度きものにて、これは正覚取らぬ、第一の病根なり、故に先づ我知識聊にても開候はば、篤と我心に計り、吾所向所為をさだめ、其上にて師につき、友に謀り、吾及ばず足らはぬ処を補ひ、其極め置たる処に心を定めて、必多端に流れて、多岐亡羊の失なからんこと、願はしく候、凡て心の迷ふは、心の幾筋にも分れ候処より起り候事にて、心の紛乱致し候は、吾志未だ一定せぬ故なり、心定まらず心収まらずしては、聖賢豪傑には成られぬものにて候。
何分志を立る近道は、経書又は歴史の中にて、吾心に大に感徹致し候処を書抜き、壁に貼し置き候か、又は扇抔に認め置き、日夜朝暮夫を認め咏め、吾身を省察して、其不及を勉め、其進を楽み居り候事、肝要にして、志既に立候時は、学を勉むる事なければ、志弥ふとく逞くならずして、動もすれば聡明は前時より減じ、道徳は初の心に慚る様に成り行くものにて候。
◎勉学
学とは、ならふと申す事にて、総てよき人すぐれたる人の善き行ひ、善き事業を迹付して、習ひ参るをいふ。故に忠義孝行の事を見ては、直に其人の忠義孝行の所為を慕ひ傚ひ、吾も急度其人の忠義孝行に負けず劣らず、勉め行き候事、学の第一義なり、然るに後世に至り、宇義を誤り、詩文や読書を学と心得候は、笑かしき事どもなり。
詩文や読書は、右学問の具と申すものにて、刀●(キヘン+「覇」)鞘や、二階梯の如きものなり、詩文読書を学問と心得候は、恰も柄鞘を刀と心得、階梯を二階と存候と同じ、浅鹵粗麁の至りに候。
学と申すは、忠孝の筋と文武の業とより外には無之、君に忠を竭し、親に孝を尽すの直心を以て、文武の事を骨折勉強致し、御治世の時には、御側に被召使候へば、君の御過を補ひ匡し、御徳を弥増に盛んになし奉り、御役人と成り候時は、其役所役所の事、首尾能取修め、依怙贔屓不致、賄賂請謁を不受、公平廉直にして、其一局何れも其威に畏れ、其徳に懐き候程の仕わざをなし可申義を、平世に心掛け居り、不幸にして乱世に逢ひ候はば、各々我居場所の任を果して寇賊を討平げ、禍乱を克定め可申、或は太刀鎗の功名、組打の手柄致し、或は陣屋の中にありて、謀略を賛画して、敵を鏖にし、或は兵糧小荷駄の奉行となりて、万兵の飢渇不致、兵力の不減様に心配致し候事抔、兼々修練可致義に侯、此等の事を致し候には、胸に古今を包み、腹に形勢機略を諳し蔵め居らずしては、叶はぬ事共多く候へば、学問を専務として勉め行ふべきは、読書して吾知識を明かに致し、吾心胆を練り候事肝要に候。
然る処、年少の間は兎角打続き業に就き居候事を厭ひ、忽読忽廃し、忽習文講武といふ様に、暫く宛にて倦怠致すものなり、此甚だ不宜、勉と申すは、力を推究め、打続き推遂候処の気味有之字にて、何分久を積み、思を詰不申候はでは、万事功は見え不申候、まして学問は物の理を説、筋を明かにする義に候へば、右の如く軽忽粗麁の致し方にて、真の道義は見え不申、中々有用実着の学問にはなり申さぬなり、且又世間には愚俗多く候故、学問を致し候と、兎角驕謾の心起り、浮調子に成て、或は功名富貴に念動き、或は才気聡明に伐り度病、折々出来候ものにて候、これを自ら慎み可申は勿論に候へども、茲には良友の規箴至て肝要に候間、何分交友を択み、君仁を輔け、吾徳を足し候工夫可有之候。
◎朋友を択ぶ
交友は、吾連朋友の事にて、択とはすぐり出す意なり、吾同門同里の人、同年輩の人、吾と交りくれ候へば、何れも大切にすべし、乍去其中に損友益友候へば、則択と申す為肝要なり、損友は、吾に得たる道を以て、其人の不正の事を矯正し可遣、益友は、君より親みを求め、車を詢り、常に兄弟の如くすべし、世の中に益友ほど難有難得者はなく候間、一人にても有之ば、何分大切にすべし。
総て友に交るには、飲食歓娯の上にて附合、遊山釣魚にて狎合は不宜、学問の講究、武事の練習、士たる志の研究、心合の吟味より交を納れ可申事に候、飲食遊山にて狎合候朋友は、其平生は腕を扼り肩を拍ち、互に知己知己と称し居候へ共、無事の時、吾徳を補ふに足らず、有事の時、吾危難を救ひくれ候者にてはなし、これは成り丈屡出会不致、吾身を厳重に致し附合候て、必狎昵致し吾道を褻さぬ様にして、何とか工夫を凝して、其者を正道に導き、武道学問の筋に勧め込候事、友道なり、偖益友と申すは、兎角気遣な物にて、折々不面白事有之候、夫を篤と了簡すべし、益友の吾身に補ひあるは、全く其気遣なる処にて候、士有争友雖無道不失令名と申すこと、経に有之候、争友とは即益友也、吾過を告知らせ、我を規弾致しくれ候てこそ、吾気の附ぬ処の落も欠も補ひたし候事、相叶候なり、若右の益友の異見を嫌ひ候時は、天子諸侯にして諫臣を御疎みなされ候と同様にて、遂には刑戮にも罹り、不測の禍をも招く事あるべきなり。
偕て益友の見立方は、其人剛正毅直なるか、温良篤実なるか、豪壮英果なるか、俊邁亮明なるか、濶達大度なるかの五つに出でず、此等は何れも気遣多き人にて、世間の俗人どもは甚しく厭弃致し居候者なり、役損友は、佞柔善媚、阿諛逢迎を旨として、浮躁弁慧、軽忽粗慢の性質ある者なり、此は何れも心安く成り易き人にて、世間の女子小人ども、其才智や人品を誉居候者なれども、聖賢豪傑たらんと思ふ者は、其所択自ら在る所あるべし。
以上五目、少年学に入るの門戸とこゝろえ、書聯申候者也。
右余厳父の教を受け、常に書史に渉り候処、性質疎直にして柔慢なる故、遂に進学の期なき様に存じ、毎夜臥衾中にて涕泗にむせび、何とぞして吾身を立て、父母の名顕し、行々君の御用にも相立、祖先の遺烈を世に耀し度と存居候折柄、遂々吾身に解得致し候事ども有之候様、覚申すに付、聊書記し、後日の遺亡に備ふ、敢て人に示す処にあらず、嗚呼如何せん。
吾身刀圭の家に生れ、賤技に局々として、吾初年の志を遂る事を不得を、然れども所業は此に在りても、所志は彼に在り候へば、後世吾心を知り、吾志を憐み、吾道を信ずる者あらん歟。
嘉永戊申季夏
橋本左内誌
右啓発録。距今十許年前。余所手記也。其言雖浅近。願当時憤●(リッシンベン+「兆」)之奮且●(ガンダレ+「萬」)。反非今日所及也。近頃偶●(テヘン+「僉」)旧簀獲之。因浄写一本。示愛友子秉及弟持卿。以為啓発地。嗚呼十年前既如彼。而今日如此。則自今十年之後。其将何如乎。繙閲間不覚赧然。
丁巳皐月
景岳紀識時年二十又四
以上、原文。
以下、口語訳。
稚心とは所謂をさな心のことで、俗に子供つぽいといふことである。何も人間のみに使用されるものでなく、譬へば果実、野菜などでも未だ十分に熟しない間を稚と称する。それは凡て水くさく、成熟した本来の味を具へない間を言ふ。何物によらず、この稚を離れない内は発展するものではない。
人間も勿論これの例外ではなく、竹馬、紙鳶、打毬の遊びなどを好み、石を投げたり虫を捕へたりする事に夢中となり、或は何の種類に関せず口当りの甘いものを貪り、勤勉する気なく父母の目を盗んで自己の修業を怠り、又は父母への依頼心が強く、厳格な父兄を恐れて、穏和な母の膝下から離れない類は、皆少年の水くさい心が原因となつてゐる。これも余りに年齢が幼なければ止むを得ないと許されもしよう。然し十三四歳にもなり、学問に志した後にもこの心が僅かでも残つてゐるならば、何事も上達せず、とても天下の大豪傑などになれる筈はないのである。
源平が東西に分かれて覇を争つた時、また近くは元亀、天正の頃までは、十二三歳で父母から離別して初陣し、多大の功名を顕はして天下に名を挙げた人物も少なくはない。この人々は既にその頃には全く稚心を去つてゐたからであつた。若し稚心が残つてゐれば、親の下から一寸も離れられないので、到底戦場の功名などは思ひもよらない。更に稚心の害を挙げると、これを除かなければ絶対に士気が振はないので、永久に腰抜武士として人々から軽蔑されなければならない。故に自分は武士道第一歩の心得として、稚心を去ることを主張する。
気とは何事も他人に負けてはならないとする気持で、人の下位に在ることをこの上もなく残念に考へるところから発する。所謂意地張りに外ならない。振とは確定した目的の下に一刻も油断なく、心の緊張を失はないことである。この気は生きとし生きるものの全部が所有し、禽獣ですらも相当に持つてゐる。非常に気の立つた禽獣は人を害し、苦しめる場合がある。まして人間は気の持方一つで、その人を如何なる地位にも達せしめることが出来る。
人間の中でも武士程気の強いものはない。故に世間では普通士気と称してゐる。一般の人々が、如何に若年であつても両刀を帯びた者に無礼な行動をしないのは、全くこの士気を畏れるからで、その人の武芸、力量、地位などを考慮した結果ではない。然るに長く泰平が続くに従つて士風は軟弱となり、武士の家に生れながら、第一に練習しなくてはならない武芸一般の修業を怠り、徒らに地位を望み、女色に耽り、利に走り、権力者に附く事のみに汲々として、前述した人に負けない魂、恥辱を死より重大視する、雄々しい武士精神が全然失はれてしまつた。現在の武士は腰に大小こそ帯びてゐるものの、大風呂敷を坦つた商人、樽を売買する賤しい人々より遥かに気力の点では劣り、聞えるか聞えない程の雷声にも恐れ、甚だしいのになると、犬の吠えるのを聞いても跡ずさりするやうにまでなつてしまつた。実に甚だしい変化で、而も悪い方面に変つたものではないか。
それにも関はらず町人、農夫などは今でも武士を貴んで御武士様と称してゐる。これは武士の本質を認めて貴んでゐるのではなく、全く我君の御威光に畏服してゐるので、止むを得ず、表面上の武士といふものに頭を下げてゐるに過ぎない。昔の武士は平時には農民と変らず、鋤鍬を手にして畠で働いてゐた。畠で労働する点は農民と少しも変りはないが、心の持方に於て全然それとは異り、常に恥辱の何たるかを知り、人の下位に立つことを欲せず、如何なる事情でも節を曲げて権力に盲従することはなかつた。この故に一朝事が起つた場合には、朝廷或は将軍家から御召しがあり次第、直ちに鋤鍬を打捨てて武具に身を堅め、千人、百人の隊長となつて、虎狼に似た勇士どもを手先きとして、生命のあらん限り斬つて斬つて斬りまくり、成功すれば歴史上に不朽の名を増し、武運つたなく一戦に破れゝば、屍を原野に曝すことを少しも恐れなかつた。これ程の勇猛心は富貴にも曲げず、死の前にも躊躇しなかつたので、世間の人々がその心に感じ、義勇に畏れて心服し、武士を尊敬したのである。
今の武士をこれと比較すると余りの相違に一驚を喫しない者はあるまい。勇気がなく、義理には薄く、智略も不足してゐるとすれば、千軍万馬の中に斬り入つて、四辺に人のないやうに縦横に馬を乗り廻せと言ふ方が無理なのでもあらう。まして身は本陣に在つて遠慮大計の下に敵を鏖にする程の才能は決して望めるものではない。故に結局、現在の武士は町人、農夫に両刀を帯びさせたものと少しも違はず、寧ろ武士から両刀を奪へば、かの町人、農夫にも劣る者がどれ程居るかわからないと言つても宜しい。農夫は平常から労働に慣れてゐて、筋肉は大いに発達してゐる。町人も汚はしい商売であるが、利の方面に並々ならぬ苦労を積んでゐるので、智力がそれに相当する者でなければ渡世は出来ない。今若し天下に事が起つたならば、種々の功名を行ふ者は却つて農夫、町人から出て、第二の福島左衛門大夫、片桐助作、井伊直政、本多忠勝と言つた人々は、現在の武士から或は出ないのではないかと、心細くて仕方がない。これと言ふのも今の武士が余り士気に欠けてゐるからに外ならない。
これ程その本質に欠けてゐる者にすら、平常から高位、高禄を賜はり、何の不安もなく経済的の安定を得てゐられるのは、限りない君恩の為めだから、今更に我々は感謝しなければなるまい。これだけの御高恩を蒙りながらも臆病の武士のみで危険な場合に我君に御恥辱を蒙らせるとしたら、実に何とも申訳ない次第だと言はなければなるまい。これを考へると、心ある武士は床についても目が合はず、物を食しても味を知らないのが当然である。
現在我々が今書いた通りの御恩に浴してゐるとすれは、我々の先祖は君に対して幾分でも功労があつたものと見なければなるまい。その後代々無為徒食で居られることを思へば、僅かでも学問を心掛け、忠義の一斑をも小耳に挟んでゐる我我は、如何にしても一生涯の間には、露ほどの忠義を尽し、御恩に報ゆる目的で一切の艱難を忍ばなければならない。この忠義の心を常に引立たゝせて逆行しない為めには、前述した士気を忘れず、人の下位に立たない気位が絶対に必要である。但しこゝに注意を要するのは、如何ほど士気が立つても、自己の志が立たない以上は、春になつて結氷が解け、酒の酔のさめるやうに、本人の努力にも関はらず、士気は失はれ勝ちになるものである。故に気一度正確に持てば、次に志を立てるのが甚だ大切となる。
志とは心の赴く方向を意味するので、自分の心の向つて行く点について言つたものである。武士と生れて忠孝の心がない者は一人もない。忠孝の心があり、君と親ほど大切なものはないと合点が行つたならば、必ず自重して如何にしても弓馬、文学の道で名を揚げ、古来の聖賢、君子、英雄、豪傑と言はれる人々の仲間入りをして、君の御為めに一命を犠牲にし、天下、国家の利益になる大業を起して、親の名までを揚げ、この一生を無駄に費すまいと考へるのが当然で、こゝに至つて志は一定したと言ひ得る。一度志を立てた以上は、何よりも先づ目的を定め、一刻も徒費せず、確実な道を歩んでそれにまで達しるやうに努力するのが宜しい。
志は如何なる場合に立つか。大体それを次の四種に分類することが出来る。先づ第一は読書に依つて古来の人物の経歴を知つて自分もそのやうにならうと思ふこと。第二に師友から直接、間接に種々のことを聞いた結果発憤すること、第三には自己が何等かの理由で非常な逆境に陥つた時、反射的に大勇猛心を起すこと、そして第四には或事物に感激したことが原因となつて志を立てるもので、平常何の不足も感激もなく平々凡々に暮して、心の緊張を失つてゐるやうな時には志の立つものではない。
志のない人間は魂のない虫と同じで、何時までたつても発展することは絶無である。然るに一度何物にも妨害されないほどの志が立てば、それ以後は日夜生成して行くもので、丁度芽を出したばかりの草に栄養味の多い土を与へるのと同じとなる。古来天下に名を揚げた人物も、別に目が四箇あつたのでもなければ、口を二つ所有してゐたのでもない。皆その大志と、堅固な意志とに依つて途に芳名を天下後世に垂れたのである。大多数の世間の人々がそれと反対に、平凡な一生を終るのは、これも矢張り志が小さく、意志が弱いからだつた。我々はこゝに於て志の大小が、その儘人間の大小を決定する最大の要素であることを知る。
又志を立てた者は、一定の目的から江戸を旅立つて行く者に譬へることが出来る。今朝城下を立てば今夜は越前の今荘、明夜は近江の木の本といふやうに、日毎に目的に近寄ることが可能となる。更に聖賢、豪傑の地位は日本全国に対する江戸のそれだと言ふことも出来やう。今日只今から聖賢、豪傑を志した者が、明日、明後日と順次にそれに合しない性質を少しづつ去つて行けば、如何程最初は才智の欠乏した者でも、遂には聖賢、豪傑の地位にまで達し得る道理ではないか。丁度これは足弱な者でも、江戸に行かうとする目的が堅ければ、何時かは到著し得るのと同様である。
次に志を立てた以上は、その目的を達しなければ意味をなさない。目的を達するには一途にその方面のみを志して他方は一切犠牲にする必要がある。自分の心を一途に向けなければ、戸閉りのない家にも似て、盗人や野犬などが勝手に入り込み、迚も自分一人で番は出来ないものである。又家の番人には他の人々を当てることも出来やうが、心の番人を一体誰が引受けるであらうか。結局自分の心を一筋に持ち、自身で十分に監視する以外はない。
目的に沿うて脇目もふらず一心に進むのは、特に少年には困難とされてゐる。兎角少年の間は人々の行ふことに目が散り、心が迷ひ易いもので、人が詩を作れば詩、文章を作れば自分もその方面に従ひたがり、武芸とても友人に懸命となつて鎗を練習する者があれば、今日まで習つてゐた太刀の業を中止して鎗を習ひ始める。これこそ決心の定まらない、少年にとつて第一の病根だと言へる。故に自分の知識が僅かでも開けたならば、万事遺漏なく深く考へ、自分の将来の方針を決定し、その後師についたり友人に計つたりして不足点を補ひ、方針を動かさないやうにして多岐に亙ることのないだけの用意と、覚悟とを怠つてはならない。凡て心が迷ふのは幾筋にも分かれてゐる証拠で、幾筋にも分かれることは自己の目的と方針とが一致しないことに外ならない。心が一定せず、常に動揺して昔から聖賢となり、豪傑となつた者は一人もないことを忘れてはならぬ。
志を立てる動機に関しては前述した四箇の種類が数へ上げられるが、自らその目的を達する手段の上には近路と遠廻りとがある。自分がその中で最も近路だと思ふのは、聖賢の書物又は種々の歴史本の中で、自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼つて置くか、又は扇面などに記して置き、日夜、朝夕それを眺め、常に反省しつゝ及ばない点について勉め、進歩を楽しむのが宜しい。志は立つても、学問に忠実でないと、何時の間にか立てた志も忘れ勝ちとなり、次第に時と共に愚鈍となり、道徳も低下することがある。故に次には学問に対する自分の考へを述べて見よう。
学とはならふと読み、凡て自己よりも優れた人々の善事、善行を模倣して、自分もその地位にまで達することを意味する。故に一例を挙ぐれば、忠義、孝行の人及び事を見ては、直ちにその人の平常の行動、又はその事などを倣ひ、自分も必ずその人に負けない程の忠孝の武士にならうと、堅く志すのが学問の第一義である。然るに後世に至ると、この学の意味を全然誤解若しくは制限して、単に詩文を創作し、読書することだけを学の全体と考へるやうになつて来た。学の本質から見るとこれほど妙な変化はないのである。
詩文の創作や読書は本来学問の一方法に過ぎぬ。云はゞ刀の柄や鞘、又は二階に昇る階段と等しいのである。それらを学問の本質と考へる人は、丁度柄や鞘を刀と考へ、階段を二階と思ふ人と愚かさに於ては少しも変りはない。実に浅薄な荒削りな思想ではないか。
学問の方針としては忠孝の筋と文武の業とより以外に何もあり得ない。一点の不純心なく君に忠、親に孝を尽して文武二道を励み、泰平の世に御側を召使はれた際には、君の御過失を矯正し奉る、御徳を益々盛んにし、若し何等かの役に命ぜられた場合には、自己の責任を十分に尽し、依怙贔屓なく、賄賂などを絶対に受けず、何処から見ても非難点が少しもなく、その役所内の同輩の尊敬の中心となることを、平常から心掛けるべきだ。不幸にして乱世に逢つたならば、自己の専門となつた方面から全力を費して賊を亡ぼし、国家を平穏の地に置くのが第一で、或は太刀、鎗の功名、組打の手柄、又は陣中に在つて謀略を出して敵を苦しめ、更に兵糧係及び手道具係となつたならば、迅速に事を整理し、味方に飢渇の思ひをさせず、兵力の減じないやうに平常から練習して置かなければならない。但し今述べたことを行ふにも、或程度の予備知識が根本となる。古今の様子を残らず知り、如何に急激の変化に出逢つても、断然処置に迷はないだけの決心が必要である。この予備知識を満たす為めに、常に学問を専務とし、自己の心胆を練ることが第一の要件である。
然るに少年の間は一生涯の目的が決定してゐない為めに、自己の責任にも冷淡で、従つて万事に忍耐が欠けてゐる。今本を読んでゐたと思へば二三日で止め、直ちに武術の方に熱中すると言つた風に、一事を根気よく長時間続けることは困難なのである。如何に困難だと言つても、この習慣だけは守りたいもので、勉とはそれに打勝つだけの忍耐力の養成を意味する。何事でも長時間の努力の結果でなければ、効果が見えるものではない。まして学問の本質が物の理を究明し、人としての道を明かにすることにある以上、短時間で仕上げようとしたり、方々に移つたりしては、真の道が発見出来ず、従つて実際的の効果を見得なくなる。更に世間には凡俗が多いので、少しばかり学問をすると、兎角慢心が起り、慎重な態度を失ひ富貴、功名の念に動かされたり、余りに度を過ごした得意になる人々も見かけるが、それを矯正する最も宜しい手段は良友の感化以外にはない。この故に友人を選択し自己の欠点を補ふことは、武士にとつて特に大切だと考へる。
交友とは自分が平素接してゐる友人のことで、択ぶとは多数の中から少数に注意してそれを引出す意味である。元来人間に交際が必要なのは今更言ふまでもないので、同門、同郷、或は同年輩の人々が、自分に交際を求めたならば、出来る限り大切にするのが宜しい。但し友人の中にも損友と益友とがある。こゝに選択の必要を感ずるのだ。損友には自分の得た道でその欠点を矯正してやるのが正しく、益友には自分から進んで交りを厚くし、万事を相談して常に兄事しなければならない。自分は世の中に益友ほど大切なものはないと思ふ。又益友ほど得るのに困難なものない。故に一人でもそれを持つてゐたら、この上もなく大切にしなければならない。
友と交際するにも一定の心得がある。昔の人は飲食、娯楽での他の遊び事の上の交際は不可であり、学問の研究、武事の練習、精神上の鍛錬から一致したものでなければ友人に持つなと言つたが、自分もそれには大賛成である。飲食及び遊山などの友人関係は、平常こと/゛\に肩を並べ腕を組んで、「貴公こそ自分を全部理解してゐる」などと言ひ合ふが、平生から自分の徳を補ふものではなく、万一の場合に自己の危難を救つてくれるものでもない。この種の人々に対しては特に自己を警戒し、余りに狎れ親しむことなく、自分の道が少しでも曲げられないやうに注意し、その上で相手を正道に導き、武道なり学問なりに懸命となるよう感化するのが真の友情といふものである。次に益友から受ける印象は確かに損友から受けるよりも悪いことがあるに相違ない。或は時には自分の感情を害する言行があらうが、これは前以て覚悟する必要がある。益友の益は全くその点に在るのだ。聖人の書かれたものに「士に争友あれば、無道なりと雖も、令名を失はず」とある。この争友とは益友のことだ。自分の欠点を遠慮なく告げ、自分をより正しい道に導いてこそ、自分で知らない欠点にも気付き、矯正するやうになるのではないか。若しこの種の益友の異見を嫌つてゐたのであれば、丁度諌臣を疎まれる天子、諸侯と同じく、結局は悪臣の為めに禍ひを蒙り、意外な災難にも遭ふのである。
然らば何を基準として我々は損友、益友を区別するか。先づ益友とは如何なる性質を持つてゐるかの問題から考察して見よう。益友の性質は次の五類に限られてゐる。第一は態度が公明正大で勇気ある人、第二は温良篤実な人、第三は絶大な元気があり、事物を躊躇なく断行出来る人、第四は非常に頭脳が優れてゐて平常の様子が朗かな人、そして第五は清濁を併せて呑み得る濶達な人である。但しこの第五の場合の清濁とは決して世の悪人までをも許す意味ではなく、多少の欠点が目立つ人でも平気で交際出来るほど感化力の強い人のことだ。これらの大部分は何れも平常からの態度、一拳一動を慎むので、世の俗人どもからは余り歓迎されない一般性を有してゐる。又損友の通有性は一定した節操がなく、権力者には御世辞を言つて気に入られようとし、平生の態度が全然軽率そのものである。慎重な態度を採らないから人々と何事でも話を合はせる。話を合はせるから、一方に於ては実に識見のあるやうに過大視され、他方では婦女子、小人などはその本質を知らず、表面に顕はれたものを中心として盛んに賞讃するが、将来聖賢、豪傑を志した者は、この種の本質を看破しなければならない。
以上の五筒条は入門の少年にとつて最も必要だと思ひ、条書きと説明とを加へたものである。
自分は厳父の教に従つて常に書史に接してゐるが、性来余りに一本気で怠慢な為めか、少しも進歩しないやうに思はれて仕方がなかつた。「何故これほど懸命となつても進歩しないのか」と考へると、種々それに連関した悲観説のみが頭に浮び、夜になつて床に入つても寝られない時が多い。「これではならない。こんなことでは駄目だ。何とかして天晴れな名誉を立てて父母の名を顕はし、将来は君の御用にも立ち、祖先の功に報じたいものだ」と常に考へ、枕に落ちる涙にぬれつゝ固く誓つてゐたものだが、次第にその効が顕はれて来たやうにも思はれる節があるので、後日の遺忘の為めに以上の心得書を草したのである。
勿論、当時人々に示さうなどとは思つてゐなかつた。
顧みるに自分の家は代々医を専門としてゐる。若し自分がこの方面に専心に従事したならば、最初からの目的を達する機会はないであらう。この点が自分にとつて最大の苦悩であつたのだ。然したとひ医を業としてゐても、目的さへ変化しなければ決して誰にも恥ぢる要はない。自分は自分の苦悩をかうして解決した積りでゐるが、果して妥当であるか否かは言表の限りではない。若し後世の人々が自分の心の悩みを理解して呉れたならば、自己の進んだ方面に対して同情を持つてくれるであらうと信じる。かう思ふのは余りに僭越だらうか。
嘉永二年戊申季夏
橋本左内誌す
この啓発録は約十年以前に自分が手記したものである。内容は浅薄だと評し得るが、当時、時代への反抗性及び自分の気概は寧ろ今日以上のものがあつたと言はざるを得ない。長年間本箱の片隅に置かれて顧みなかつたが、偶然に最近それを取出す機会を得たので一本を浄書し愛友の子秉及び弟持卿に示して、自分の過去に於ける気持を明かにして参考にさせたのだつた。自分の十年前はこの中に明瞭に現はれてゐる。十年後の今日は君等の御承知の通りな境遇である。今後十年を経た後に、一体自分の心境及び境遇は如何になつてゐやうか。その時更にこれを読み返して、赤面せずに済むならば幸福である。
安政四年丁巳五月
二十四歳の景岳記す
〔註〕
郤歩 あとずさり。
青史 歴史、古への未だ紙が発明されない以前は、竹の青皮を火であぶつて膏をぬき、万事を記したから青と言つたのだ。
酔生夢死 一生涯何等の事業をも為さないで終ること。
●(キヘン+「覇」)鞘 刀の柄と鞘。
浅鹵 考察の浅薄なこと。
粗麁 粗末。
小荷駄 馬に負はせる荷物、軍隊の兵糧及び雑具。
規箴 いましめ。
涕泗 涙。
刀圭の家 医家。
嘉永戊申 嘉永二年。
憤●(リッシンベン+「兆」) 心で怒ること。
赧然 紅くなる形容。
丁巳 安政四年。