『古老軍物語』の改題本
―『古今軍鑑』解題と翻刻―
菊池真一
『古今軍鑑』の翻刻の転載について国文学研究資料館から許可が出たので、全文を掲げる。
ただし、振り仮名は省略。
一 『古老軍物語』と『武家功者咄』
前号において『武家功者咄』の解題と翻刻を掲載したが、その後、『武家功者咄』は『古老軍物語』の巻一・二の話を若干順序を入れ換え、字句・表記を変えて刊行したものであることに気づいた。両者の関係は次の通りである。(上が『武家功者咄』、下の括弧の中が『古老軍物語』)
巻上の一(巻一の一)
巻上の二(巻一の二)
巻上の三(巻一の三)
巻上の四(巻一の四)
巻上の五(巻一の五)
巻上の六(巻一の六)
巻上の七(巻一の七)
巻上の八(巻一の八)
巻上の九(巻一の九)
巻上の十(巻二の一)
巻上の十一(巻一の十四)
巻中の一(巻二の九)
巻中の二(巻二の六)
巻中の三(巻二の五)
巻中の四(巻一の十)
巻中の五(巻一の十一)
巻中の六(巻一の十二)
巻下の一(巻二の八)
巻下の二(巻二の七)
巻下の三(巻一の十三)
巻下の四(巻二の二)
巻下の五(巻二の三)
巻下の六(巻二の三)
巻下の七(巻二の四)
巻下の八(巻二の十)
巻下の九(巻二の十一)
『古老軍物語』巻一・二から『武家功者咄』三巻三冊が作られ、更にそこから一部を削除して『武家功者物語』二巻二冊が生れたことになる。
二 『古老軍物語』と『古今軍鑑』
さらに『古今軍鑑』が『古老軍物語』の巻五・六の話を入れ換え、字句・表記を変えて出来たものであることに気づいた。両者の関係は次の通りである。(上が『古今軍鑑』、下の括弧の中が『古老軍物語』)
巻一の一(巻五の九)
巻一の二(巻五の六)
巻一の三(巻五の十三)
巻一の四(巻五の五)
巻一の五(巻五の十)
巻一の六(巻五の十二)
巻一の七(巻五の四)
巻一の八(巻六の二)
巻一の九(巻六の五)
巻一の十(巻五の八)
巻二の一(巻五の三)
巻二の二(巻五の一)
巻二の三(巻五の二)
巻二の四(巻五の七)
巻二の五(巻五の十一)
巻二の六(巻五の十六)
巻二の七(巻五の十七)
巻二の八(巻六の三)
巻二の九(巻六の四)
巻二の十(巻六の六)
巻三の一(巻五の十五)
巻三の二(巻六の八)
巻三の三(巻六の九)
巻三の四(巻六の十)
巻三の五(巻六の十一)
巻三の六(巻六の十二)
巻三の七(巻六の十三)
巻三の八(巻六の二十)
巻三の九(巻六の二十一)
巻三の十(巻六の十五)
巻四の一(巻六の一)
巻四の二(巻六の七)
巻四の三(巻六の十四)
巻四の四(巻六の十六)
巻四の五(巻六の十七)
巻四の六(巻六の十八)
巻四の七(巻六の十九)
巻四の八(巻六の二十二)
巻四の九(巻六の二十三)
『古老軍物語』巻五・六から『古今軍鑑』四巻四冊が作られ、更にそこから一部を削除して『武家軍鑑』四巻四冊が生れたことになる。
三 『古今軍鑑』解題と翻刻
解 題
『古今軍鑑』については二本を確認している。国立国会図書館蔵本(232/62)は刷りが悪く、乱丁・落丁があり、刊記も「寛文十」「通油町」の文字を削っていて、遥か後年のものと推測される。底本とした国文学研究資料館蔵本について、次に書誌を記す。
図書番号「ナ4/419/1〜4」。
大本、無地青色表紙。四巻四冊。縦二七・一センチ×横一八・七センチ。
題簽は後補。無枠手書きで「古今軍鑑 一(〜四)」。巻一の題簽は「古今軍鑑」と「一」の間に「寛文板」とある。
内題なし。
目録題「古今軍鑑巻之一(〜四)目録」。
尾題は、巻一・三にはなし。巻二「二之巻終」巻三「巻四終」。
紙数は、巻一・二十三丁、巻二・十六丁、巻三・十三丁、巻四・十五丁。
挿絵は、巻一・九面、巻二・七面、巻三・六面、巻四・七面。
刊記は、「寛文十庚戌歳玄月吉旦」「通油町本問屋」とあり。
国立国会図書館蔵『武家軍鑑』四巻四冊(201/60)は、『古今軍鑑』の話を若干削ったものであるが、刊記には、「享保十六年辛亥七月吉日」「京堀川錦上ル町 西村市郎右衛門」「江戸本町三丁目 西村源六買板」とある。
翻 刻
一 本文は国文学研究資料館蔵本に拠った。翻刻・掲載を許可された同館に御礼申し上げる。
一 改行・仮名遣い・送り仮名・振り仮名は原本通りである。常用漢字については新字体とした。
一 振り仮名に二文字以上の繰り返し符号が用いられている場合は、符号を使わず、該当文字を当てはめた。
古今軍鑑巻之一目録
一 表裏の侍の事付楠三代忠義の事
二 敵にかへり忠したる者みなむくひたる事
三 大内義隆公家に武道を忘れてほろびし事
四 山名陸奥守のつまじがいの事
五 畑六郎左衛門箭疵をこりて死たる事
六 野中八郎手負武者をたすけし事
七 大将軍は鎧の毛を敵に見しらるへからさる事
八 三好修理太夫并松永弾正が事
九 安房の里見か事付唐の朱陳村の事
十 左京亮貞俊さいごのうたの事」(一オ)
一 表裏の侍の事付楠三代忠義の事
古士の物かたりにいはくそれ武士の名をかうふり弓矢とる身ならは忠義をむねとしてをごりをとゝめわたくしに邪欲をわすれて礼法をたゝしく君のために一命をかろくしてあやうきをすくひよはきにのそみてこゝろさしをあらたむへからすしかるをわづかの利欲にほだされてはみかたになる事もやすく又いさゝかのうらみをふくみては敵になるもはやく秋のあらしにちりまよふ木の葉のことくあなたこなたになりかはる者は武士道にもはつれ天理にもはなたれゆくすゑよきはこれ有へからすたとへは運により因果にまかせて心さしかたふかぬ人もなかくうつもるゝ事もあれ共ものゝふは名こそおしけれ後代につたへて人のあざけりをまねかんや骨は原上の草にうつもるれ共名はそのまゝくちすして世にのこる物そかし子孫のためとて不義」(一ウ)をいたさはやかて是わさはひを植て子孫にのこすと云ものなり不義にしてさかえ不忠をもつて世にたてるものは浮雲のことしとそ申す也何よりあはれに感ずへきは楠か子ともの有さまなり父の判官は兵庫のみなと川にしてうち死しその子帯刀正行は四条なはてにしてうち死しけり帯刀かおとゝ正儀は親と兄には智謀もをとりしかともをしわたりの大将にはまさりぬと人々申きとなりたひ/\いくさに手をくたきしか共宮方の運やつたなくおはしけん天下つゐに武家に帰して諸国みなおさまり将軍義満公の時代にはそむく人もなかりけり楠左馬頭正儀はいひもりの城にたてこもる恩地伊勢守あはせて六百よ騎なりけるかこゝをおとされて千剱破の城にたてこもる和田和泉守もいつみの国をおとされ是もちはやにあつまる正義は」(二オ)今は武家にもこころをよせられよいつみかはちやまと伊賀いせ五か国を給はるへきよし右馬頭頼之さま/\申されしか共ちゝ正成あに正行よりこのかた忠勤をつくしけれ共聖運よはくおはします事は力なし一たひ君に頼まれ参らせて今かゝるていなれはとておやあにの忠節を無になしてみやかたをそむき申事は有まし武士は名こそおしけれ五かこくにかへて永代のはぢをもとむへきにあらすと申かへしけるか正儀いくほとなくやまひをうけて死けりその子に次郎正勝は畠山にうちまけちはやの城をおとされよしの十津川のへんをかくれめくり数年ののち次男正元とみやこにのほり将軍をねらひ奉りけるか此事あらはれ郎従十八人もろともににし三条にしてうちはたされしとなりさすかに楠がすゑなりとてきせん上下あはれみかんじけり
二 敵にかへり忠したる者みなむくひたる事」(二ウ)
(絵)」(三オ)
古士の物語にいはくおよそものゝふは一たびけいやくをなしては二たひ変ぜさるを道とすいはんや郎従被官のものとして多年に大恩をかうふりなから一大事にをよひて心をへんじ我身をのかれて主君をすつるものは天道にすてられ神明仏陀にはなたれたちまちに罸をかうふり未来には大地ごくにおちん事道理あきらかなりいにしへは長田の庄司か主君義朝をころして平家のためににくまれ又河田太郎か主君泰平をうちて頼朝にちうせられし是みな恩をわすれて不忠をいたき欲にふけりて義をうしなひ身の後まても大なるはぢをのこす正慶二年五月にかまくらの高時入道は義貞のためにほろほされ一族郎従みなうち死す相模太郎邦時は高時入道のちやくしなりはゝは五太院右衛門尉宗繁がいもうとのはら也けれは宗繁かためには甥なりさためて二心はあらしとたのみて邦時を右衛門にあつけられ今ははやかまくら滅亡す」(三ウ)いかなるてたてをもめぐらしこれをかくしをきじせつをまちてとりたて亡魂のうらみをもはらし給へと有しに宗繁うけかひかまくらいくさのさいちうにむねしけかうにんに出てあつかりし邦時をはくはほうつきたる人なり義貞のかたへ出して我は一所の地をも申うけてうきよを心やすくすごさんと思ひかへり忠をいたしわが手前よりはたばかりて相模太郎をおとしてさかみ川のほとりにしてからめとらせくびをはねさせけり見る人きく人五太院右衛門をつまはしきをしてにくみしが敵の嫡々を出し侍るはさる事に似て又宗繁か所行さらに人倫にあらす不道不忠のものいけてをかんも中/\にくしとてちうすべきにさたまりしかは右衛門きゝつけてかまくらをにけ出てこゝかしこをさまよひしか三界ひろけれ共わが身ひとつのをき所なくふるき友たちおほかりしか共一飯をもあたふるものなくつゐに乞食してうへ死けりとなり五太院世かよの時は人みなもてはやし」(四オ)時めきけるほとにゑいくは身にあまりてをこりをきはめほしゐまゝのふるまひをいたしつね/\は神もなく仏もなしゐんくはのむくひといふ事はいさしらすをろかなる女わらはの申事なりなとくちにまかせていひちらしたるものそかし此心より天道をもをそれす邪欲不義のくはたてをいたし我身まてもうつもれはてゝあさましきばちをうけ後代まても名をなかしけるとかや
三 大内義隆公家に武道を忘れてほろびし事
古士の物語にいはく大内義隆公は中国のうち周防の国山口といふ所に城をかまへおはします御分国はいふにをよはす西国のしよ侍たちこと/\くはた下につき山口にしゆつしせられ天下にかたをならふる人なしもとより大名にてましますゆへ諸方より物の上手たるげいのうしやあつまり家々の大事秘伝をつたへ侍るによりて大内殿万事のげいのうにたつし給ひてくらきことなしことさらに儒教」(四ウ)
(絵)」(五オ)
仏経をがくもんしてし(ママ)のふかきむねをあきらめ手よくかき詩をつくり歌をよみ給ふに又ならふ人なし家の行義たかうして白衣なる事かりそめにもなしたつみの時よりひつしさるのこくまて御前につめけるにひた(ママ)をもくつろけ給はねは家中の上下もみなかくのことししかるに義隆公つねにの給はく武士の武篇する事は其身のやくなれはめつらしからすさのみにきどくといふへからす武士と名をかゝりなからぶへんなくは陶犬瓦鶏とてたとへは石にてつくりし犬は名のみ犬にて盗人をとがめす瓦にてつくりしにはとりは名のみ鶏にして八こゑをとなへぬかことしなとの給ふ是によりて家中上下ともに書典をがくもんし詩をつくり歌をよみぬれは君に忠有ものなりとおもひふかきむねをはしらすうはつらをはしりよみにならひおほえをのれにしかさるものを友とする事なかれといふふるきことばをよみては我より小身なるものをははなにかけては八分に見くたしつきあひをいたさ」(五ウ)すたゝ大身にのみちかつきかたらはんといたしまたは燕雀はいつくんそ鴻鵠の心さしをしらんといふ語をおほえてはまことにつばめすゝめの小鳥はいかてかんつるなとの大鳥の心ねをは知るへきやと思ひけるほとに大屋かたに居る人には分別も有小身なるは分別もすくなきもの也とあなとり大平りよくはいをかまへ大内殿の大魁なる家にすむものを小身なる家のかせ侍はいかてかたをもならへんとじまん高上の覚悟を上下ともにいたしけるゆへに行義たかき家なからかへつて無礼慮外をはたらき詩歌を心かけて花鳥風月にうそふき花車風流なる事公家門跡のことくにして弓矢の道をとりうしなへり大内殿はぶへんより国をきりおさめて武勇ゆへに武道をとりうしなひ給ふ也まして義隆公周易御伝受ありてより家中のものゝ本卦をとり人の性をぎんみしぎやうぎをみたさぬためとて木性のものには東のかたに屋敷をわたし火性のものには南のかたに」(六オ)家をたてさせ水性はきた金性はにしに住居をさせられこのさためをやふりたらはくせ事たるへしと仰あり其内に木性の者か金性の子をもては其子をにしのかたへあつけ火性のものか水性の子をもては北のかたにあつくるかやうにむつかしき事おほく法度つよきにより家中めいわくするものおほし又知行を給はるも学文よくぎやうぎつよく花車なる者にはおほく下されおもしろくうたをよみ詩をつくれは感にたえて加増を給はる此ゆへに武勇の侍はつゐに立身せすうらみをふくみものゝ用にもたゝぬうたよみ詩つくりはぜん/\にりつしん出頭してこびへつらひけるゆへに家老に陶五郎といふもの有かきつけをもつて大内殿をいさめ奉りける其中におよそ主君に奉公いたすに八つの役あり一には使役二には番役三には供役四には賄役五には普請役六には頭役七には奉行役八には軍陣役なり此八役よく仕りすくれたる人に御恩をあたへ給ふは」(六ウ)
(絵)」(七オ)
大将の智慮なりなを此内にもまへ七つはたれもすへし第八の軍陣役はさしもにおしき身命をすてゝ敵をしりそけ国をおさむる忠義の者なれは武家のひさうの役人なるに是には御恩すくなうしてたゝきやしや風流の人はかりに大分の所領を給はる此ゆへにぶりやくちばうの勇士はうらみをふくむこといふはかりなし大事にのそみてこうくはい有へしなと申いれしに義隆公大にいかり給ひみたるゝ時は武をもちひおさまる時は文を用るは聖人のおきてなりそれに武をしやうくはんせよといふは乱をまねく痴者なりとて内々陶を打へきくはたて有陶大にいかりてむほんをおこす日比うらみしぶへんの侍はみな陶かかたにあつまりきりくづしけれは詩つくり歌よみ共は一戦にもをよはすにげくつし義隆公も力なくおち行て陶に国をとられ給ひけりさてもろこしにも唐の穆宗皇帝の御時に天下おさまりてしつかなりけるに簫便緞文昌といふ臣下思ふやうはたゝ今」(七ウ)は天下太平の時節なりいはれさる武勇のつはものに禄をふさげてついえをなさん事しかるへからすとて諸軍勢共を毎年八人つゝふちをはなしておひ出すほとに兵共知行にはなれ山のおく野ゝすゑに諸牢人あつまりて強盗山賊になり世をわたるたよりとすそのゝち朱克融といふもの乱をおこして軍勢をあつむるにかの牢人しける兵共われも/\と来りけり穆宗大におとろき給ひこれをうたんとし給ふに諸国のつはものを召るれ共よき兵はみな朱克融にしたかひけれはみかとのかたへ参る軍勢はものゝ用にもたゝす毎度いくさにまけたりはか/\しき大将軍もなし禁中よりさしひきをなさるれは軍勢の心ひとつにならす打まけ侍りしとなり天下泰平のときにも武の道をすてゝおこりをなせは運かたふきて大事おこるにふせきかたしたゝかひをわするゝ時はかならすあやうしといへるは此事なり
四 山名陸奥守の妻自害の事」(八オ)
古士の物語にいはく明徳二年のころ山名陸奥守氏清おなしく播磨守満幸は将軍義満公をうらみ奉りてむほんをおこし一族郎従つかふ四千よ騎を二手にわけて都にをしよせかつせん有けるに将軍つゐに打かち給ひ満幸はしう/\廿八騎にて西国におちくたりそれより諸方流浪の身となりはてたり氏清は押小路大宮にて一色左京太夫にうたれ郎従こと/\く打死しけり山名氏清の子息宮田左馬助次男七郎は猪熊をくだりに南をさしておちられけるか身のをき所なくとんせいして紀伊国にしのひくたり伯父の修理太夫義理のたちに行けれとも目のまへに父のうたるゝをみすてゝおつるほとの不覚仁は親類にてもあらすとて対面なしそれよりなく/\まよひ出てくまのゝかたへ行侍りけり扨氏清のつまはいつみのさかひといふ所におはしけるかかゝるあくきやくをおこし都にのほり給ひて今いかなる事をかきかんするとてやすき心ちもなし」(八ウ)
(絵)」(九オ)
正月元日のひつしのこくはかりにいくさにうちまけきのふ御自害有し兄弟の御子はその場をのかれておち給ひたりと申来る女はうはきゝ給ひ思ひまうけし事といひなからまさしくうたるゝをやを見すてゝおちける子共の不覚さよあはれわか身ほと物うきものはよにあらしおつとはうたれて子は名をながす死するもいた(ママ)るも同しなげきをわか身に負て夢ならはさめもせんたゝかなしみはうつゝなれは一日もなからへて住へき心ちもなしをくれ奉りて何かせんとて自害をせんとし給ふをつきそひ参らせし人々これはそもいかなる御事そかゝるためしのなき世にも侍らす御くしおろして御あどをもとふらひ給ひてこそまことの御心ざしにても有へきとて刀をうばひとりさためて是へも敵のよせ来りみくるしき御事もあらんすらん一まども立しのばせ給へとてさはぎひしめきけれ共たゝふししつみて今の我身のかなしさは人めの事もしらぬそとよなどかきくとき給ふを」(九オ)御心にまかせてはかなふましとて御こしにのせ参らせ女房たちもあまた有しか思ひ/\に立しのひたゝかいしやくの女ばうになんばとのとておはせし御こしにつきてまよひいてらるゝいつみの国日根野といふ所につきて人々すこしやすみける折ふし御こしの内物あらゝかにうこきけるやうに聞えしかはなんばとのあやしみてすたれをかゝけ見参らすれは小袖のそてに刀のつかをとりそへじがいをしてふし給ふ是はいかなる御事そと人々あはてさはきまつかたはらのまつばらへかきよせさま/\いたはりけるがじかいもなかはにていまたしに給はすさらばねごろのかたへ入参らせとてかきいれたり御くすりの事は申にをよはすゆみづをたにのとにいれ給はさりけれはれうちの力もたえはてゝ今はたゝ時をまち参らする有さまなりかゝる所に宮田左馬助舎弟七郎兄弟の入道たつね来りなんばとのに申いれらるゝは今度いくさに敵にへたてられ父の御ともをも申さすくちおしくおほえてそのうへに」(十オ)道せはくなり立よるかけもなきまゝに兄弟なから出家いたし父のごせをもとふらひ奉らんと思ひ又御じかいの事を聞てやるかたなさに今一め今生の御いとまこひのため参りて侍ると申さるゝなんばとのかくと申されしかは母はすこし御目をひらき見あけて御かほをふりての給ふはまづあんじても見よ弓やとる人の子か廿ににあまりて父につれていくさに出て目のまへに親のうたるゝを見すてゝにくる身のかくてをき所なきまゝに入道したるそあさましく思ふにみつから人のわかれのかなしさにためしなき身のしがいしてたゝ今りんしうに取むかふ母をふかくしんともかいま一め見んといふは何事そ恩をうけぬれは一ぞくらうどうまても命をかへりみすうち死して名をあけしにその所をにけたる子共のみれんさは母とな思ひそ子にてもなきそやれ今は心もはたらきてみたるゝにわれに物はしいふなとてきぬ引かつきつや/\物もの給はす此よし兄弟きゝてまことにはつかしくも力なき事なりとて」(十ウ)なく/\立出て足にまかせてしのひさまよひけりさてはゝは此ほと御手に文のやうなる物をもち給ひしをすこしひろけてそのはしにものをかゝんとの給ふすゝりを取よせ筆をそめて参らすれはすこしかき給ふと見えしかみつからむねに引あてゝつゐにはかなく成給ふなんはとのもかなしさいふはかりなくたきゝをつみてけふりとなし奉るかの女ばうの御手をはなたれす持給ひし物はむつのかみ殿より十二月の七日に八幡より人をかへしてつかはし給ふ文也さま/\の事かきておくに
取えすはきへぬと思へあつさ弓引てかへらぬ道しはのつゆ
とよみてかきをくらるゝ女はうその文のはしにかきそへて
しつむ共同しくきへんまてしはしくるしき海の夢のうきはし
と今はの時にかきそへてつゐにはかなく成給ふなんば殿もあこかれて片野川のふちに身をなけられしそあはれなる
五 畑六郎左衛門箭疵をこりて死たる事
古士の物かたりにいはく新田義貞の侍に畑六郎左衛門尉時」(十一オ)能はむさしの国の住人なり十六のとしよりすまふをこのみて取けるほとに坂東にはこれにかつ者なし其後しなのゝ国に行て山坂をかけ海川ををよきれうすなとりに月日をあかしくらし馬にのりてがんぜきをはせ弓を引てたんれんをきはめ力すくれて心武勇なり太刀うちの手利にてしかも弁舌あり人にしたしくむつびて気情すくやか也新田の義貞にしたかひて軍にのそみては敵をなびけすといふ事なしされ共その心たけきにまかせて人ををそれす強盗をこのみ物をうばひとり仏神をたうとますほしゐまゝなるゆへに義貞の軍中にありてたひ/\軍法をやふりしかはころさるへきにさたまりたりしにすくれたる大剛のものなれは別儀をもつてなためをかれたり此なさけによりてふかく義貞に思ひつき心さしをたかへす義貞うたれ給ひて後は義助に属して敵をしりそけ城をおとす延元三年のころ諸国みな武家にしたかひ宮方こと/\く」(十一ウ)
(絵)」(十二オ)
かたふきける折ふし三百よきにて鷹巣の城にこもりけるに兵いつしかおちうせてわつかに廿七騎なり足利尾張守高経上野介師重両大将にて七千よきをもつてをしよせせめけれ共みかたのみうたれて仕出したる事ひとつもなし畑か甥に所大夫房快舜とてをとらぬ大かうの悪僧あり又郎等に中間の悪八郎とていぐちなる大力の者有又犬師子とてふしきなるかしこき犬一疋あり此三人の者ともやみのよには敵の向城へしのひいりかの犬をさきたつるによせて用心きひしくて入かたけれは此犬一こゑほえてはしり出る敵のねいりたるか夜まはりなきにははしりかへり主にむかひて尾をふりてつけけるあひた三人の者此犬をさきのあんないしやとしてへいをのりこへしのひ入ておめきさけひて切てまはるに敵軍おとろきさはき城をおとされどしいくさをして主をころし親をうちなとして十七ヶ所のむかひ城を毎夜ひとつふたつおとさず」(十二ウ)といふことなし馬をうしなひもののぐをすてゝはぢをかく事おほきゆへに人のわらひくさになる事をものうくおもひてひそかに酒さかな兵粮を城中へをくり入て我等のかたへは夜うちして給はるなと頼みかたらひけるもの多しと也中にも上木九郎家光といふ者ことさら兵粮を城につかはし内通するよしさたして畑をうたんと思はゝまつ上木をきれといふ秀句をかきて大将のぢんのまへに立たり是より上木をうたがふ人多し上木口おしく思ひ一族二百よきせめかゝるあまたのよせておなしくせめのほる城のうちより悪八郎五六十人してもうごかしかたき大石をまろばしかけたりけれはその石にあたりて打くたかれ手足をひしかれうたるゝ者数しらすそれよりよせ手ともはせめくちをのきてむかひ陣をとりゐたり城中もすへきやうなかりしに六郎左衛門太夫房悪八郎なと十六人城を出きつてかゝる畑は金筒のうへに火おとしのよろ」(十三オ)ひをきおなじけの五まいかふとにくはがた打てをゝしめ四尺三寸のたちに三尺六寸の長かたなにしほづくろといふ馬にのりて大勢の中にかけいり三千よきを一まくれにをひちらすかくて城にかへりたれは五きはうたれ九きのつはものはいたでをおひたりたいふ房は七ヶ所のきすをかうふりその日死けり畑はしやうじの板のそとよりかたさきまてしら羽のなかれ矢を射こまれ是をぬきけれ共矢しりあとにのこりたりとかくせしほとにやう/\ぬきてそのきす卅日はかりにしていへかゝりたるを今はくるしかるましと思ひ禁戒をやふりをかしけれは疵より血はしりてうんといふてそりかへる人々そらせしとをしつけしかとも大ちからなるゆへかなはすしてせほねをれて死にけりあくきやく無道にして血気の武勇をはたらき罪障ををそれす僧法師をころし宮寺をやきはらひ善をなす事すこしもなしそのゆへにやかくなかれ矢にあたりてわろき死にをいたしけりと人みな申あひけり
六 野中八郎手負武者をたすけし事
古士の物かたりにいはくゑちぜんの国金崎の城に春宮一の宮脇屋右衛門佐わつかの勢にてたてこもり給ひしによせて六万よきにてせめたゝかふされ共城のようがいよけれはよせ手まい日千人二千人にをよひて矢にあたり石にくたかれてほろふれ共さかもぎ一本をたにやふられす小笠原しなのゝかみ手の郎等八百よきにて東の山のふもとよりかつきつれてせめあかる城のうちより三百よきうつて出つゝふせきたゝかふに栗生左衛門といふ大ちからのつはもの火をとしのよろひにたつかしらのかふとをきかしの木のばうの長さ一丈二三尺なるを八角にけづりすぢがねいれたるを打ふり城よりかけ出て大勢にはしりいりかた手うちに二三十かさねうちに打たりしによせ手大せい打すゑられうちあけられみぢんにくたけてしに」(十四オ)けれはもとのちんに引しりそきける今川駿河守三百よき小船百よそうにのりてはまきはよりあかりきりきしの下なる鹿垣ひきやふりてたしべいの下へつきけり城中より二百よ人うつて出るによせてまつさかさまにまきおとされ我さきにと舟にこみのりてはるかにこきもとす所に中村六郎といふものいた手をおひて舟にのりをくれたちをつえにつきて舟をまねくあれは/\といふはかりにてたすけんとするものなしその時はりまの国の住人野中八郎貞国といふものこれをみてしらてあらは力なしみかたの兵の手をひく舟にのりをくれ敵にうたれんとするにまのあたりみなからたすけぬといふ事や有へき此舟こきもとせと云に人々耳にも聞いれす貞国はらをたて櫓を引うばひてさかろにたてみつから舟をこきかへしとをあさよりをり立てたゝ一人中村かまへにあゆみゆく城中より十二三人かけ出中村をうたんとす貞国さはかす長刀のいしつきとりのへむ」(十四ウ)
(絵)」(十五オ)
かふてきのもろひさないできりすへそのくひをとりてきつさきにつらぬき中村をかたに引かけしつかに舟にのりけれはてきもみかたもあつはれ大かうのものかなとほめぬ人はなかりき貞国はちからもつよくはやわさのかうのもの也わがしらぬ人なれ共みかたなれはあはれみあやうき中村をたすけたりし武勇といひ情といひ世にまれなる兵なりこれにつきて何よりものこりおほくはかなき事はそのかみ平家一の谷のおちあしに備中守師盛はいくさ場をのがれて小舟にとりのりこきいたすに忠度のらうとうに豊島の九郎実治たゝ一人きしにたつてたすけ給へとまねく師盛あはれかりて舟をこきよせさせはやくこれにのれとの給ふ実治きしよりとひのるにふな板にとひかゝり舟をふみかたふけたり大のおとこのよろひきなからとひかゝりてのりなをらん/\としけるあひたにつゐにふねをふみかへし一どうに海にしつみけり師盛はうきあかり給ふを伊勢三郎よしもりくまで」(十五ウ)にかけて引あけくひをとりけり実治をたすけんとして師盛うたれ給ふ情ふかき事なからのる者ものする人もかゝる急なる所にはこゝろすへき事なり
七 大将軍は鎧の毛を敵に見しらるへからさる事
古士の物語のにいはくいにしへはいくさのそなへといふ事さたまらす大将軍みつから手をくたしていくさ有けり保元より源平の乱みなかくのことし中比よりは大将軍みつから手をくたしてたゝかふ事も大かたのときはこれなく軍兵小勢にしていくさ急にせまる時は大将とても手をくたき合戦し侍り名越尾張守新田義貞なとのうたれ侍るみなこれみつからやゝもすれは一陣にすゝみて手をくたし敵の軍兵によろひの毛をみしられ侍りけるゆへなり貞治三年のころにや芳賀兵衛入道禅可といふ人かまくらの左馬頭基氏をうらみ奉る事有てむほんをおこしその子いがのかみ高貞次男するがのかみ八百よきにてむさしの国苦林野」(十六オ)につく左馬頭殿は八万騎にて出むかひたゝかひ給ふみつから一ちんにすゝみてあまりに手しけくかけたて/\たゝかひ給ふにのり給ふ馬の三頭平頸を三太刀きられてたをれふしたりこれを大将軍と見しりたる芳賀かつはものおほかりけれはかけよせ/\馬よりとひをり引くみてうたんとかゝる左馬頭殿はちから人にすくれ心はやくはたへたゆます目ましろかす太刀に手利の人なるゆへよせくる敵をうちすへきりたをしあたりをはらひ給ふ所に大高左馬助重成といふ兵いそきかけつけはや此馬に召れよとてわかのりたる馬を奉りわれは敵ののりすてたるはなれ馬に打のり両陣さつとわかれたり芳賀伊賀守又うつてかゝるその一族に岡本信濃守冨高といふもの申けるは大将軍をは見しり侍りさきにしら糸のよろひきて馬にはなれてをりたつたりつる若武者はたしかにかまくら殿と見すましたり鎧の毛をしるしにしてくみうちにすへき事いとやす」(十六ウ)かるへしとてみつから笠しるしをかなくりすてはむしやどもをはうちはらひ/\大将をめかけてすゝみちかつくかまくら殿のかたに岩松治部大輔といふものはよく遠慮ありていくさの変をはかる人なりけるか大将左馬頭殿のよろひの毛を何さま敵の見しりぬらんとすいりやうして御大事にかはり奉らんと思ひ大将にむかひて申けるは君の御よろひの毛を敵見しり侍りそれかしかよろひもさねよく侍れはこれにめしかへ給ふへしとてわか着したる紺糸の鎧にかまくら殿の白糸のよろひをにはかにきせかへ奉りてひかへたる所に岡本信濃守しら糸のよろひきたる岩松を左馬頭殿と目にかけて一もんじにちかつく岩松はまた君の御大事にかはらんとおもひ切たる事なれはすこしもためらはす二人共にひつくまんとしけるを岩松からうとう金井新左衛門といふものかけふさがり岡本と引くみ馬よりおちてさしちかへて死けりあやうき大将の御命を岩松かはかりことにてたすけたてまつり」(十七オ)けり芳賀はいくさにうちまけ侍りとなり
八 三好修理太夫并松永弾正か事
古士の物語にいはく阿波の国の住人三好修理太夫は十七歳のときより思ひ立て一夏百日の間求聞持の法をおこなひ三年のうち年ことにつとめらる是はいにしへたいらの清盛十八歳より陀貴尼天の法ををこなひてこれを成就せられしかはつゐに天下をとり給へり我もなをぐもんぢの法をじやうじゆして家をさかへんと思ふ心さし有ゆへなりとて三年すきて後は四国を順礼せらる是はものこと北条の時正さきの世に六十六部のしゆぎやうしや時政房と申せしか生れかはりて時政となり天下を後見せしことをきゝつたへて是又家のためなりと思ひてかくはせられしとなり此ゆへにや廿歳のなつ四国のふないくさに一ちんにすゝみ長刀をもつて敵十三人をふなそこにきりふせ五人の敵をはいしつきにて海中へつきたをしつゐに」(十七オ)
(絵)」(十八オ)
さぬきの国を手にいれ伊与土佐に長曽我部河野なといふもの有しをひまをうかゝひうちとらんと思ひける所に都の公方万松院義晴公の仰をかうふり京にのほりて天下の仕置をいたしければ近国の諸侍みな旗本につきしたかふすてに義晴公の御子光源院義輝公の御いもうとを三好か子息左京の太夫のつまとなされいよ/\ゐせいつよかりしに三好の家老松永弾正がしはさとして義輝公をうち奉る此ゆへに公方家三好家のはうばい中あしく成けれは松永は三好左京太夫のおつほねをつまとし大和国にとりのき筒井順慶をうちて威をふるふ筒井郎従みなこれにしたかふそのあひたに尾州より織田信長上洛して三好親子をうちとりぬさても松永弾正は和州に有て城をかまへ国中をなひかし欲心あくまてふかく民百しやうをむさほりけるほとにわか家中に出しいるゝ酒だるをせい高くつくらせ柳樽となつけそれをくつしてはへいのおほひの」(十八ウ)とちふきの板の料とす又くしがきの串もなかさ間半にけつらせさためてこれはかべしたぢにせんためとなりおりにふれことによそへて徳分なるさんようをたくみ兵粮玉薬はいふにをよはす天地の間にあらゆるもの一つもかけすたくはへもちたりあまりのをごりにや札をたてゝ弾正か分別是まてなり此城中にもしたらぬもの有と思はゝ申来り又は札をたてそへよほうびすべしとなりそのあくる日札を立そへたりそのことはに数年のあひた人民をむさぼり給ふにより何もたくさんに見えたりたゝし松永家に事をかくものふたつあるへし運と命とやかてみなになるへし此二つをはたれをむさほりたふろかしてとり給はん御分別有へし松永弾正殿参る惣百姓共とかきて立たりさるほどに信長公すてに松永か城にとりかけせめ給ふ所にいつみの堺へ文をつかはし加勢をこせといはせたりその使は筒井かわかたう弓削三郎とかやすくやかもの成」(十九オ)を筒井うたれて後めしかゝへけりしゆくんの敵なれ共世にしたかひてつかはれしか此つかひに成て城を出つゝやかてうらかへり信長公にかの文を見せたり信長その夜の寅のこくにつかひにそへて手勢百騎を城へいれらる松永は堺の加勢なりと心をゆるしけるに卯のこくはかりに城に火をかけ時をあけて切まはる城の外より時を合せてせめいりけれは内外の敵にたてあはんとしけるにかなはすして弾正は永禄十三年に腹かき切て死けり松永邪欲をかまへ悪行つもり人望にそむき天道のばちをうけてあさましくはてにける国中の諸人はみの笠をうりて酒をかひて松永めつきやくのいはひをせしとかや
九 安房の里見か事付唐の朱陳村の事
古士の物語にいはくそのかみ源の頼朝公いしばし山のかつせんに打まけあはの国におち給ふ当国の住人安西三郎景益丸の五郎信俊といふ大かうの兵あり頼朝につき」(十九ウ)
(絵)」(二十オ)
て味方となる東条五郎金鞠次郎みな同しく属しけるに頼朝天下をとり給ひて後四人なから安堵して安房一国は安西金鞠丸東条の四家これを知行す其後此四家たかひに三家を打ほろほして一人の知行にせんと思ひ立て四人四方にわかれてかつせんやむ時なしこゝに上野の住人里見左馬助義豊といふもの安西か家にきたりふりやくちはうの勇士なりけれは安西かうちわをあつかり敵をしりそけいくさに打かつ事通力を得たるかことしつゐに三家を打ほろほして房州一国を安西一人して知行しけるかいかにもして里見をうたはやと邪欲不道の思ひに日ころ忠戦の恩をわすれたりしかるに里見左馬助ははしめ忠功のをんしやうに稲村といふ所を安西に申うけて城をかまへたりけれは稲村殿とそいひける安西かうたんとするいろ外にあらはれて見えしかは里見大にいかりてつはものを」(二十ウ)まねくに里見か日ころに情ふかくしかも武勇智謀あるゆへに兵みな里見にはせつきそのうへかの三家ほろひて後諸方にかくれゐたる兵共みな里見に付しかは安西はつゐにうたれ里見に国をとられけりそれよりこのかた安房一国の上下ともにさとみの家をもちつゝけて他国よりは一人もいれす又一人も他国にいつる事なく国のさほうは礼義あつく忠節をむねとす律義なる事いふはかりなしおやおうぢまこひこ玄孫のすゑ/\まても他国を見たるものなしされは白氏文集に朱陳村といふ詩一篇有これはもろこしに朱氏のものと陳氏のものとうちつれて二人兵乱をのかれて山ふかくわけいり家をつくり田畠をひらきてすみけるに朱氏のものゝむすめを陳氏のものかよめにとり陳氏の子を朱氏のむこになし子をうみ孫をまうけてはまたたかひによめにとりむこになし曾孫玄孫せん/\にさ」(二十一オ)かえ一門ひろく家をつくり山をひらき大なる村になり山中なれば役義もなしをのつから人からもゆるやかにしてきづかひなきゆへに命もなかく玄孫までもみるほとになかいきしてさしも一ぞくおほけれ共一人も他国にゆかす他国のものを一人もいれす朱陳の二氏はかりにて大にはんじやうせしとかや此心をふるき哥に
親のおや子の/\子まて山かつのほたの火消て形見とぞみる
とよみけりほたといふは大なる木のきれの事なり山家には大きなる木をきりてなかいろりにふすべをきよるもひるも開白以来火をけさすとなりまことにめでたきためしなりかのあはの国里見の稲村殿よりこのかた一国めてたくおさまり国人さらに他国へいてす余国の人を当国へいれす義豊よりもちつゝけてその子義弘は古我の公方義明に一味して北条氏綱と鵠の台といふ所にてかつせんしけるにうちまけて引こもるそれより」(二十一ウ)
(絵)」(廿二オ)
忠義といふまて義豊より六代目に関白秀忠公にぎやくしんをおこし此時に房州は他人の手にいりぬ
十 左京亮貞俊さいごのうたの事
古士のものかたりにいはく綸言はあせのことし出てかへらすといふ事あり天子のちよくめいは一たひいてゝかさねてへんがいなきものなりすへて上下ともにけいやくをたかゆる事は人倫の道にたかふされはかりそめにもいつはりをかたる事有へからず物をいつはりやくそくをたかゆれはその威かろくなりかさねてそのいふ事を人さらにもちひすとなりいはんや天下をたなこゝろの中におさめ四海をたもちて世をとらんとおほしめす君なとは其やくそくをたかへ給はゞたれかゐくはうにをそれしたかはん元弘の聖主二たひ天子のくらゐにかへり給ひけるにかねて天下につかはされし綸旨のおもむきさうゐし」(廿二ウ)給ふゆへに天下の武士うらみをふくみいく程なく諸国に旗をあけ武家にくみせしかは君大におとろき思召また方々へ綸旨を下され朝敵をたいぢしたらんものをんしやうはこうによるへしと有けるをいかなるをこのものかいたしけんだいりの陽明門のとひらに
賢王も横言となる世の中はうへをしたへそかへしたりける
又らくしよに
かくはかりたゝさせ給ふりんけんのあせのことくになどながるらん
とかき侍りしとなりされは二たひ天下をうしなひ給ひけり佐介左京亮貞俊といふ人はその折ふし平氏の一そくにて才智武略をかねたりしかは一方の大将ともなされんと身をたかくおもひける所にさかみ入道さのみにも思はれさるゆへうらみをふくみて有しをりんしをくたされて君の御みかたに召れしかは貞俊関東の手をはなれ御みかたに参りけりしかるにかまくらほ」(廿三オ)ろひて武家かたの上下みなしよりやうをはなれくひをはねられけり貞俊もかまくらの一ぞくなれはいけてをきては後あしかりなんとてころされけりすてにくひをきらんとする時念佛申て一首をよみけり
みな人の世に有ときは数なしてうきにはもれぬ我身也けり
ふるさとのつまにかた見とてこし刀と小袖とををくりけり女はう歌をきゝかたみを見て小袖のつまに
たれみよとかたみを人のとゝめけんたへて有へき命ならねは
とかきてそのかたなにてしがいしつゝ死けりあはれなりける事なりと心有武士は此君をいよ/\うとみけるとなん」(廿三ウ)
古今軍鑑巻之二目録
一 陣屋に女をいましむる事
二 赤松弾正と長山遠江守と勇力の戦の事
三 内海十郎後馬にのりて敵をうちける事
四 いくさには物見を詮とすへき事
五 敵思ひきりたるにはたてあふへからさる事
六 伊勢新九郎氏茂北条家ををこす事
七 上杉則政公の子息を敵氏康へ出す事
八 武田晴信公父信虎を追出しける事
九 信長智略をもつて今川義元をうつ事
十 伊勢の国司ほろびし事
一 陣屋に女をいましむる事
古士の物かたりにいはくおよそかつせんの勝負は運による事なりその中に大将のはかりことふかけけれはたとひ小勢にても大軍をきりくつし軍兵あれともいくさのそなへしとろにしてつはものゝ心われ/\なるはかならす敗軍となる事うたかひなしいはんや軍兵の勇気すくなくをくびやう神つきてにけくつす時は一陣やふれて残党まつたからすとて大軍なれともきたなきまけをするもの也たとひ一軍はくつるゝ共二陣三陣のそなへをよくして一軍のくつれかゝるを二陣のうちへかけいれす両方へわかれちらしつゞいて二陣せめよすれはみかたはあら手なり敵の一軍かちほこりてせめかゝる共かならすくつれやすきものなりそれにとりて軍兵の心よはくなるものは色と酒との二つなり此ゆへに陣」(一ウ)中の法をつよくし大酒をいましめ女を禁すへし楠正成か小車梅の新三郎か陣中の法をやふりて女ををきたるをいましめ新三郎をころしける事有男女を陰陽にわくれは女は陰にしてきたをつかさとり男は陽にしてみなみをつかさとるされはににや軍ににくるといふときに北の字をかく也陽は勝ことを表すそれに女の陰気におさるゝときは陽気たちあからずこれまけいくさのもとなり陣中に女ををく時は一にはいくさにをこたり有二には愛着に心ひかれ三にはをごりの心いてき四には無礼になる五には智謀をくらますこれらの事かす/\なり軍気を見るときも陰気にをされて陽気あからねは軍兵さらに敵にすゝむ心をこらぬものなりそのうへ遊女傾城ぢん中にあれはおもひのほかなるくぜついてきて遺恨になり同士うちをする事あるなりもろこしに漢の李将軍といふものはきこゆる大かうのづは」(二オ)ものにて智謀ならひなかりしに單于とたゝかひを決せんとして三十万騎のつはものをそつして敵国にせめ入陣をはりて旅をとゝのふ敵わつかに三万よきにて出むかひ陣をとりてひかへたりしかるにみかたの兵さらにすゝみいてゝたゝかはんと思ふきしよくなし李将軍思ひけるやうわつかの敵に機をのまれいさみすゝむいろのなきこそあやしけれとてみつからたかき山にのほり両陣の体をみるにみかたの陣に立あからんとする兵気を陰気たちかさなりてをさへてあけたてす李将軍つら/\是をあんするにみかた卅万騎の大軍の兵気なり敵わつかに三万よきなれは小勢なりみかたの兵気さこそ敵陣のうへにたちおほふらめと思ふ所に陰気におさへられて立あかる事を得さるはいかさま是はみかたの陣にをんなおほくまじはりてあるらんとすいりやうしてちん中をさかしけれはあんのことく三千余人の女をさかし出すされはこそとて此女をおひかへして後にまた山にのほりてみれ」(二ウ)
(絵)」(三オ)
はみかたの陣に兵気さかりにたち敵陣のうへにおほふいまは時いたれりと見すまし軍勢をすゝめてかつせんするに敵四方ににけちりうたるゝもの二万よ人なり一ときの内に軍に打かち李将軍その名を天下にほとこし侍りき
二 赤松弾正と長山遠江守と勇力のたゝかひの事
古士の物かたりにいはく文和二年六月に山名左京太夫時氏むほんをおこし京都にせめのほる宰相中将義詮朝臣出むかひかも川のひかしにして両陣たかひにいくさ有けるに義詮のぢんうちまけてちり/\になる其中に長山遠江守はあらひ革のよろひの妻とりたるにたつかしらのかふとのをゝしめ五尺計なる太刀二ふりをさし刃のわたり八寸はかりなる大まさかりをふりかたけてたゝ一騎おちゆく赤松弾正少弼氏範にゆきあひてたかひに名のる長山いふやうたゝ一うちに打ころさんこそかはゆけれにしにむかひて念仏申せとてかのまさかりにてかふとのはちくたけよと打ける所を赤松」(三ウ)たちをひらめて打そむけ鉞のえを左の小脇にはさみてえいやと引けるに二疋の馬一所に引よる両方なからたちにてきらすまさかりをうばひとらんとられしと引あひけるほとに蛭巻したるかしのえを中より引をりぬ手もとは長山か手にのこりまさかりは赤松か脇の下にとゝまりぬなか山今まては我にまさる大力あらしと思ひしに赤松に勢力をとられてかなはじとや思ひけん馬をはやめておち行けり赤松はきばをかみてせんなきちからわさゆへにあたら敵をのかしけるとそいはれき
三 内海十郎後馬にのりて敵を打ける事
古士の物語にいはく神南のかつせんに山名時氏うちまけて軍兵はう/\におちゆきけるに将軍義詮の勢追つめ/\うちとりける内海十郎範秀といふものにくる敵あまさしと追行て敵おほく打取たちをつはもとより打おりぬ馬は手をひてひさをおり一あしもすゝます」(四オ)十郎をりたつてはなれ馬あらはとりてのらんと見まはしけるにたれとはしらすさはやかに出立ける武者一騎三引りやうのかさしるしつけてはせとをるあはれよきてきやと思ひ内海馬の三頭にゆらりととひのる敵と二人馬にのりたり敵はこれをみかたそと心えてたれにておはするそ手負ならは我こしにつよくいたき付給へたすけ参らせんといひけれはよろこひ入侍りひとへにたのみ奉るといひもはてす刀をぬきてまへなる敵のくひをかきおとしなをその馬にのりなをりておちゆくかたきををひかけたるはなさけなくそおほえし
四 軍には物見を詮とすへき事
古士の物かたりにいはくおよそてきみかた対陣の時には物見といふ事かんようなり武田信玄公の歌に
軍には物見なくては大将の石をいたきてふちに入なり
とよみ給へるは此事なり物見になるへき人はかねていくさの」(四ウ)
(絵)」(五オ)
場かずを経て馬によくたんれんし功者武勇の有をもつてその役とすへし物見の武者は両陣のさかひ目にのり出したかき所にうちあけ敵陣の軍気をはかりしよ勢のいろめきはたらくやうすを見合せてかへる也大将軍たかひに馬を出し対陣をはるときは両陣ともにさき手の役として日くるれは野伏をちんのさかひにをきて夜うちをふせき敵をねらひうかゝはしむるなり物見のむしやをうたんとては野伏ふかく草にしのひて相待事有これをしらすしてさかひめを行過れはうしろより道を取きりかの草をこり立て打とめんとすそのときにをよひては馬たつしやを力とし野へも山へものりあけはせぬくる事かねてしあんよくせすしてはかなひかたし又陣をはる事は武者奉行の下知する事なれ共なを物見のれうけんによるへしたとひ一夜の陣とりにも城をまもりて敵をふせくこゝろはせ有へしをこたりぬれはあやまち有なり」(五ウ)北条氏直公と佐竹義宣と下つけの国にして対陣ありしとき氏直のはたもとより物見をいたしさかひ目にのりあらはれ敵陣の軍旗をみせらるゝ所に山上三衛門波賀彦十郎二騎あんないはよくしりたり敵陣のさかひ一町はかりのり入たるに敵の野伏はちのことくをこりたつて二騎の武者をとりかこむ三右衛門尉はあとの道をとりきられ北のかた敵地をさしてかけぬけ野はらをはせすきつゝ敵の草かり共をおひたをしのりたをしくひ一つとりて山にのりあけみねをまはりてみかたのちんにかけいりぬ彦十郎は敵にとりまはされけるに敵陣ちかくかけやふりつゝみつたひに道のあるを日比にしつてそれよりみなみをはるかにかけゆく陣中より騎馬のつはものすきまもなくとりかこむを二けん三げんつゝ馬をとはしはせぬけ大河に馬をのりいれ馬ををよかせみかたのぢんに入にけり両人の武勇たくひなしとて名馬一ひきつゝ給はりぬ」(六オ)
五 敵思ひ切たるにはたてあふへからさる事
古士の物かたりにいはく小勢にして大軍にむかふには道理としてかつへきゆへなし然共大軍にむかつていきんとすれは死し死なんと思へはいきる事小勢の軍の立やうによるへし十死一生のかつせんをいたせは小勢かつ事有大軍みたれやすしとなりされは窮冦には迫る事なかれといへり小勢にして大軍にせめかゝり身をすて命をかへりみさるにはたてあひてたゝかふことなかれたゝ陣をかたくしてまもるへしと也されはもろこし漢宣帝と申みかとの上将軍に趙充国といふもの有先零といふ所のものむほんをおこしけれは大軍をもつてをしよせたりしかるにむほんの者わつかの小勢にてあひたゝひしがうちまけて兵粮をつみたる車をもすて湟水といふ大河をわたりてにけんとするに道せはくしかも難所なれは心のまゝににけのびかたし充国はわさとしつかにをふて行」(六ウ)
(絵)」(七オ)
ある兵いふやう是ほとたつあしもなくにくる敵のしかもゆくさき難所なり急にをひつめて打とらさるへき今すこしはやく軍兵をすゝめ給へといふ充国こたへていはくかやうやるかたもなく引てゆく敵をは急にはをはぬものなりしつかにをふ時ははしりにけてあとをも見かへらすそれをもし急にをひかくれは行さきはあしたちわろしとてものかれぬ命そと思ひきりてとつてかへしたゝかふ時はみかたの軍兵をおほくうちとられまけいくさになりてやふらるゝ事有たゝかはすしてかつは良将のはかりことなりとてなをしつかにをひけれは我さきにとにけふためき水におほれ谷にまくれおちてむほんのともがらみなほろびたり先零の大しやうはかうさんしけり
六 伊勢新九郎氏茂北条家をおこす事
古士の物語にいはく北条新九郎氏茂入道宗雲はも」(七ウ)とは伊勢国に有てわつかにして住けるに有時思ひたつてするかの国今川氏親縁者なれは打たのみてかしこにおもむくあひともなふ人には荒木多目山中あら川大道寺有武新九郎ともたちとして以上七人なりしかるに其比今川家にむほんの侍おほかりしを新九郎武略をもつてたいぢす此いきほひをかんしてするかと伊豆のさかひ高国寺の城をあつけらるこゝにいづの国北条といふ所に堀越の御所とて公方あり外山秋山といふ両家老ありしを御所いかなるゆへにや切腹せしめらる此ゆへにいつの国さはきける折ふし新九郎わつかの小勢にて堀越にをしよせけれは御所は思ひかけぬことなれはふせくへき力なく大森山の中におちかくれ給ふを追つけてうち奉る是より松下江梨鈴木梅原佐藤上村なといふ在々所々の侍みな新九郎かはたもとにつき土肥山本高橋村田みなかうさんしてわつか」(八オ)三十日の内に伊豆の国をうちしたかへたりそれより新九郎有徳になり大場北条あたりの百姓諸侍に物をかしあるひは利足をとらすあるひはいたりてまつしき侍にはかしたるものをすくにつかはして取かへす事なし伊豆国中の課役をとらす礼義あつくあはれみをふかくせしほとに今まて堀越の御所より年貢課役をとりあけられめいわくにをよひける百姓共大によろこひて新九郎をとうとみ諸侍みな朔日十五日には出仕をいたすほとにをのつから威勢つよく成はしめ同道してするが来りし六人の者は家の子になりけり新九郎いかにもして絶たる北条の家をおこさはやと思ひ三嶋の明神にいのりける正月二日のむさうに新九郎入道宗雲ねすみとなり大杉二本ありしをくひをり其後ねすみは猪となりたりとみてさめにけり大杉二本といふはかまくら公方の官領両上杉なり我かならすこれをほろほし」(八ウ)
(絵)」(九オ)
て天下に猛威をふるひ名をほとこすへしと夢合をして時をうかゝふ所に扇谷の上杉家侫人の讒言をまことにして家老大田入道道灌をころしけるゆへに家中みたれたりまた両上杉の中わろくなりてかせんにをよふ新九郎入道この弊にのりて延徳年中に軍兵をそつしいずさがみをきりとらんとして合戦ありけり新九郎子息氏綱の世になりて両上杉もちゝも他界あり山の内は則政公扇谷は朝義公とあらたまる此ときさかみをうちしたかへ氏綱すなはち古我の公方晴氏公をとりたて参らせしに氏綱の子氏康の世となり上杉憲政とたゝかふ晴氏公上杉に一味してつゐに天文十五年四月廿日のかつせんに公方上杉うちまけて関東みな北条氏康の手にしたかひけり
七 上杉則政公の子息を敵氏康へ出す事
古士の物かたりにいはく上杉則政公は氏康にうちまけゑちこの国におち行長尾の景虎を頼みて上杉の名字ならひに官領職を景虎にゆつり給ふしかるに則政公いくさにまけておちられしに子息龍若殿をうちすてゝにけ給ふを龍若殿おつほねの子に妻鹿田新介舎弟長三郎そのをとゝ三郎介伯父に久里采女その子与右衛門御つほね以上六人其外親類合て廿人くみて御さうし龍若殿をつれて北条氏康へわたし降人に出たり氏康はにくきやつはらかなやしなひたてし主君なれはよのつねの郎等にかはりてなをも忠節あるへきにやしなひ君を敵にわたし降人に出るばちあたりを見こらしのためにころせとて一人ものこらずくひをきらる龍若殿をは神尾惣左衛門に仰せてくひをうたせられしか官領上杉の罸あたり癩になるその子また癩になりて家ほろひけりされは人のたのむましきは出家町人なり百姓は意地よくおもひつ」(十オ)めたる事はへんがいせぬもの也出家町人はかならす心を変改して大事になれは見はなすもの也則政こう御世のよかりし時なれは御さうし龍若殿をあつまゑひすのあらけなき生立にはなさし物といひ万事ともに花車におはしますやうにとて京より御乳人御局といふものをよひくたしたまふ俗姓もしれぬかぢばんしやうのむすめ眉目うつくしくをしたてもよしとて召かゝへてその一族しんるいのあきんとしよく人ばらみなよひくたされ五百貫七百貫の所領を給はりつくり名字をして侍になり御ざうしかたの衆とあかめられ大平りよぐはいをおもてとし官領の家老おほえの侍にも無礼くはんたいの山をいたし百姓をねめつけくはやくをむさほりてそろばんをはしきて算用をいたしこまかなる仕置はすれ共よき事はもとよりしらすゑいようにふけりて有けるほとに此大事にあふてをくびやう神」(十ウ)
(絵)」(十一オ)
にをそはれわか身のかなしさ命のおしさかつせんのおそろしさに手あしもなへていまは主君もいらぬそたゝ身かまへをやすくせよかくてをめ/\と龍若殿を敵にわたしかう人に出てころさせけるは町人の心たてきたなき所か此大事にあふてあらはれ出たるなりよくふんへつあるへきもの也大身の御子につけたてまつる人はそくしやう武勇ふんへつきやうぎにうとからぬをえらひてよくそたて参らすへきを見たてつけへし朱にまじはれはあかくなり墨にちかつけはくろしなるゝかたにしたかふは人のそたち也いやしき者にそたてさすれは大事にをよひて見はなしすつる也
八 武田の晴信公父信虎ををひ出しける事
古士の物かたりにいはく甲州武田晴信入道信玄は伊与守源の頼義朝臣の三男新羅三郎義光より廿七代の末孫甲斐の源氏の正統なりちゝ信虎そのむまれ」(十一ウ)つき心たけく遠慮すくなく侍りしに晴信公はなをも万事我意にまかせほしゐまゝなりけれはかゝるものに家督をわたしては中/\家のめつばうにもやならんと思ふ心つきて二郎信繁にいとをしみふかき色あらはれしかは晴信いよ/\いこんに思ひかくて月日を過ける所に十六才の春三月にけんぶくしその年のくれにしなのゝ国海野口の城に初陣して平賀の源心法師といふ大力武勇のつはものをうち取給ふ十八才のとき信虎の聟するがの今川義元公をたのみはかりことをもつて父ををひ出されたり信虎口をしく思ひしか共あひしたかふ郎等は妻子をのこしをきけるゆへに是に心さしをひかれて晴信をせむへき力もなくみな信虎をすてゝ晴信にしたがひけりこれによりて信虎ぜひにをよはす方々流浪の身となり給へりかくて晴信は武威をほとこし名をあらはして卅一歳のとき天文廿年の暮入道して法性院信玄公」(十二オ)といひけるみつから護魔灌頂の行法をつとめ大僧正の官にいたり参禅工夫をこらしかくもんをつとめられしか共おやを追出しける事のはつかしくや有けん孝経論語は一代のうち手にとられさりしと也心さし武勇さかりになる兵をまねき諸方にとりかけて陣をはり城をせめおとして威ふるひ名をほとこして国をおさめられたり子息太郎義信永禄四年に川中嶋長尾輝虎とかつせんの事につき父の信玄をうつへきくはたて有けるゆへにその同類八十人こと/\くくびをはね義信公もほろほされぬ四郎勝頼はすわの頼茂がむすめのはらにて信玄妾のうみたる子なるを世にたてらる此人はちゝにまさるけつきのようしやにて侍りしか信玄すてに病死のゝちほしゐまゝにをこりて長篠かつせんに打まけよき兵はこと/\くほろひつゐに信長のために天目山にしてうたれ侍り武田の家こゝにたへたりそも/\信玄は上に父を追」(十二ウ)
(絵)」(十三オ)
放し下に子をころし不孝不慈のくはたてまことに天理にたがひいくほとなく国家めつばうしたりあくきやく無道のつもりはつゐにわさはひのたねとなる事いにしへ今ためしなきにあらすよく思ひはかるへき事にこそ
九 信長智略をもつて今川義元をうつ事
古士の物語にいはく今川義元は武田信虎のむこなり織田信長と敵対して多年にをよふといへとも信長たひことにうちまけてつゐに勝利をえたる事なしそのゆへは笠寺へんに少地もちて知行するさふらひ戸部新左衛門といふもの有才智ありてしかも手をよくかきけり此ゆへに世の人あまねくその名をきゝつたふ今川義元に思ひつきて二心なく忠節をつくしいかにもして信長をほろほしおはりの国を義元の手にいれんとねんくはんして尾州の事共をきゝいたし見出しするがへ書をくりて今川にしらせけるゆへにはかりこともあら」(十三ウ)はれもれきこへて義元つゐにをくれのまけなし信長これをしりてわが右筆に心をあはせ新左衛門か手本をならはするに一年はかりにして戸部かしゆせきにたがはすかきにせたりやかて新左衛門義元をそむきて信長に内通あるよし思ひのまゝにかきしたゝめ織田上総守殿へ戸部新左衛門とうはかきして此文を信長の家老に森三左衛門といふ才智武略の者をあきんとにしたてするかへもたせつかはしけるに義元運のつくる所にや新左衛門をよひよせらるゝに戸部は思ひもよらすいそき参りけるを三河の吉田にてくひをきらせらる是より尾州の事さらに駿河へしらする人もなしその四年にあたりて弘治三年五月に義元公二万よきの軍勢をそつして尾州にせめよする信長七百よきにていてむかひふせきけるに一戦にうちちらされたり義元のくんせいかちいくさに心をゆるし方々にゆきてらん」(十四オ)はうするほとによしもとのはたもとには人数わつかなり信長このひまをうかゝひてみつからつはものをあつめはたをまきかさしるしをかなくりすてするかせいにまきれ入たりよしもとは松かけに酒もりしておはしけるを信長にはかにときをつくりきつてかゝりつゐに義元のくひをとりたり大将うたれ給ふうへはぐんぜいともは一いくさをもせすして四かく八はうへおちうせたりこれより信長まうゐをふるひ名をほとこし給ふ也尾州の諸侍みな此威にをそれて清洲の城に参りぬ
十 伊勢の国司ほろびし事(巻第六の六)
古士の物かたりにいはくいせの国武井の御所は国司居住の城なり江州佐々木判官かむすめをもつて御台とさため此腹に三人の御子あり一男は長野殿二男は式部殿三はんは女子にておはしますかの一なん長野殿は大にこへふとり給ひて身のはたらきもじゆうならぬゆへ国人とも」(十四ウ)
(絵)」(十五オ)
はふとりの御所と申けるしかもうつけにて麦菽をたにわきまへ給はねはものゝようにたち給ふへきともおほえす国司の甥に民部少輔といふ人有是にはみなみ伊勢の木作といふ所に城をかまへてをかれたり木作殿のらうとうにつげの三郎左衛門といふものはおとこからも人にすくれ兵法にたつし智慮さかしき武勇のものなり人をちかつけてなれむつふにみなかうへをかたふけてうやまひしたかふされはつけはをのれか身をたかく思ひいかにもして立身すへしと心かくれともさしてこつくりの館にありてはいつの世にか名をしらるゝほとのりつしんなるへしとも見えす爰に尾州織田信長の家老瀧川伊与守はえんしやなるゆへこれをた(ママ)みていつる日のことく大身になりたち給ふ信長につかはやと思ひこつくりの源城寺のぢうそう義春房と云ほうしはりきりやう有て心かうなるものなるかしたしく」(十五ウ)むつひたりけれは此ほうしと心をあはせ一味して伊与守をもつて信長へないつういたしけり永禄十二年正月十に信長三千よきにてみなみいせほうくみといふ所にをしよせやきはらはる国司はつげか信長へないつうしおはりにかけおちしける事をいかりてつげが子ともをとらへてくもづ川のはたにてくしざしにしてころされぬおなしき年八月に信長大勢をもつていせへとりかけらる国司は小川路といふ所にいてはりて城をかまへふせきたゝかふに百日にもおちす信長あつかひを入てくはぼくありそのゆへは国司は伊勢国うち山の御瀬といふ所へいんきよ有信長の二男茶筌丸を国司のむこになしてすなはち国司職をゆつり給ふなりこれより無事になりいんきよをは大御所長野殿をは中御所ちやせん丸をは御本所と申て国中上下本御所につきしたかふ爰に元亀三年十二月に大御所よりその家老戸屋尾石見守をちやせん丸につけられし」(十六オ)家老織田掃部誓紙をもつて甲州にないつうし信玄をかたらひ茶筌丸をほろほさんとくはたて有よし聞えしかは織田掃部は日置大膳におほせてうたせらる源城寺の義春房は俗になされて瀧川三郎兵衛義春と名のらせ軽の左京進といふもの二人うつ手にむけられ大御所にはらをきらせ二人のわか君をもころし侍りそれより瀧川三郎兵衛つげの三郎左衛門を茶筌丸の両家老になさるかの左京進は国司とりたての侍にて大をんをかうふりけるしゆくんなるをそむき奉りて信長にしたかひ打手のつかひになりてしゆくんをころしその天ばつにやいく程なく惣身のすくむ病つきて死ける事こそおそろしけれ
二之巻終」(十六ウ)
古今軍鑑巻之三目録
一 京鎌倉両公方并両上杉管領の事
二 日本に鉄炮のはじまりし事
三 北条氏康鉄炮におどろきて武篇に成し事
四 板垣信形扇にかきたるうたを感する事
五 北条氏政今川氏真のたんさくを信玄公批判の事
六 多々良樋五左衛門しばりくひはねられし事
七 指物をおとし敵の首にかへて取もどしたる事
八 篠の才蔵軍法者を難せし事
九 横田甚五郎ほうびをうけさる事
十 北条左衛門大夫黄八幡の旗の事
一 京鎌倉両公方の事付両上杉官領の事
古士のものかたりにいはく足利尊氏天下をとり給ひてのち四海のまつりことをたゝしくとりをこなひ両公方をたてらる都には尊氏公の一男義詮を公方とさため武衛細川畠山を三官領とし一色山名京極赤松を四職とさだめて政道をもつはらとしかまくらには義詮の舎弟基氏の朝臣よりあひつゝき上杉を以て官領とし関八州をおさめらる此上杉といふは守邦親王くはんとうの公方としてくたり給ひしとき勧修寺の重房朝臣つき参らせて下向有しときに丹波の国上杉の庄を給はりそれより武家にくたり左衛門督になされ官領職に補せられすてにかまくらの公方基氏四代のまご左公衛督持氏のときは上杉重房九代のまこ安房守ふぢはらの憲実官領として東国」(一ウ)武家のとうりやうたりしかるに持氏公しさいありて京の公方と御中よからすその折ふし子息四人おはします一男賢王殿元服有へしされ共天下にをひてゑほしおやにとるへき人なしそのかみ頼義朝臣三人のなんしを三社の神に参らせてけんふくせしめらる一男をは石清水の八まんくうに参らせて八幡太郎義家と付らるその先例にまかせてつるか岡の八幡宮にてげんぶくせしめ八まん太郎義久となつけられたりくはんれいあはのかみ憲実さま/\いさめ参らせ此事ゆめ/\しかるへからすと申すにかへつて憲実をうつへきくはたてあり憲実これをきいてかまくらの山の内をしりそき上州白井の庄に引こもり京都へ申のほせしに公方は先祖の例を引てけんふくせしめらるゝ条さためて天下をのそむ思ひたち有故」(二オ)ならんとてくんせいをもよほし憲実に仰せてかつせんにをよふ持氏公かなはすして永亨十一年二月十日一なん義久ともに自害し給ふ二なん春王殿三なん康王殿は日光山におち給ふを結城七郎光久といふもの重代の主君にておはしますとて御むかひに参りて結城の家に入たてまつる憲実きゝつけてをしよせいけ取て都へのほせけるを仰によつてみのゝ国たる井のしゆくにてころしけり持氏公の四男永寿丸殿は長尾左衛門昌賢といふものもりたて参らせ主君にあふきてけんふくさせ成氏公と名つけて公方とす憲実は死して其子右京亮憲忠世をとり山の内にかへり威勢をふるひけるに成氏公ちゝの敵なりとて憲忠をころし給ふ此ゆへに憲忠にしたかひし兵共また成氏公をうち奉らんとす成氏公かなはすして古我といふ所におちかくれ給ふこゝにゑちこの上杉顕定定正兄弟か」(二ウ)
(絵)」(三オ)
まくらにくたりむほんのともからをたいちしてやて(ママ)東国の官領となり山の内と扇谷にきよぢうす成氏公をは古我にをきたてまつりて古我の公方とあふきけりこれより両上杉武家のとうりやうとして関東のせいたうをとりをこなふ成氏公の子息政氏公のとき両上杉中あしくなりてかつせんにをよふ後にわほくの事あり政氏公の子息高基公その子息晴氏公の時顕定は高梨にころされ定正は病死いたし晴氏公は北条の氏康にころされ給ひ是よりかまくらの公方はたへにけり
二 日本に鉄炮のはじまりし事
古士の物語にいはく本朝にてつはうのつたはりし事上代にはこれなし中比文永二年八月に大元の老皇帝このにほんをとらんとて兵船六万余艘にくんせいをのせて博多の津にをしよする日本にも出むかひてふせきたゝかふによせ手の方より鉄炮とてまりの勢」(三ウ)
(絵)」(四オ)
なる鉄丸のほとはしる事板を下すしやりんのことく霹靂する事閃々たる電光のことくなるを一度に二三千なけ出したるに日本の兵おほくやきころされ関やぐらにもえつきてうちけすへきひまもなかりけりと太平記には書侍り日本には此時分てつはうといふ物はしりたりけるにやまさしく日本につたはりしは永正七年にいつみの堺より小田原の山ふし玉龍坊といふきやくそうかひもとめて北条氏綱に奉る目あてをしてうたせらるまことにたくひなきたからなりとてひさうせらる氏康の世になりていつみのさかひより国康といふ鉄炮かぢをよひくたしてあまたはらせられしに根来ほうしに杉の房二王房なといふものくはんとうをめくりて鉄炮ををしへてひろめたり又甲州家には大永六年に西国のらうにん井上新左衛門といふもの信虎にはうこういたしてつはうををしへけるとなりいまた」(四ウ)
(絵)」(五オ)
たしかならす永禄五年正月にむさしの国松山の城に上杉則政公の麁子友貞といふ人こもりけるを北条氏康二万よきにてをしよせせめられしに甲州武田信玄加勢有しに米倉丹後守といふもの竹束を仕出し城中よりうちけるてつはうをふせき枩山をのつ取侍へりしと也米倉か子彦四郎てつはうにて腹をうしろへ打ぬかれ胴へ血のおち入てはらはりけるをあしけ馬の糞を水にたてゝのませしかは血一斗ほとくたりてたすかりけるとなり
三 北条氏康鉄炮に驚て武篇に成ける事
古士の物語にいはくほうてうの氏康は新九郎入道宗雲のまご也うぢつなの一男としてその年はしめて十二才の時城中にして鉄炮の目あてをうたせらるゝに諸侍てつはうめつらしきじぶんなれはこと/\くあつまりてこれをうちならふ氏康もちかく立出られしか打いだ」(五ウ)す音におどろき給ふ諸人めを引そてをひかへてわらひけりうぢやす口おしくおほして小刀をもつてじがいせんとし給ふときをの/\その小刀をうはひとりけれは氏康なみたをなかし給ふ御もりにつけられし清水が申けるはたけきつはものは物におとろくとむかしより申つたへたり馬もいたりて漢のよきはねすなきにかゝり人にひさうせられ侍る物におとろくは機はやにさときゆへなれは世にはほめたる事にいたすと申けれは其時しつまり給ひぬいとけなき時よりはぢをしりて心さしたけき大将にておはします廿四歳のとき河越の夜いくさに両上杉の人数八万よきにうちやすぐんぜい八千にてはかりことをもつて打かち給ひぬこれをもつて思ふに鉄炮は甲州へは大永五年につたはりしといへり氏康は永正二年にたんじやうありて十二才は大永四年なり北条家にてつはうのはしまりしは永正七年な」(六オ)れは信虎よりいせんにまつ伊豆にひろまりし事うたかひなし天正十八年北条氏直をたはら籠城の時大閤秀吉公数万騎勢をもつてをしよせある夜てきみかたてつはうのうちくらへ有しに天地しんとうしてくろけふりそらにみちたりみれ共火のひかりはあらはれてかきりなく見えてまん天のほしのことし氏直は高やくらにあかりてこれを見物ありて古哥を翻案して
地にくたる星かほりへの蛍かとみるや我うつ鉄炮の火を
とくちすさひ給ひけりその夜の有さままことに目をおとろかせし前代みもんの事なり
四 板垣信形扇にかきたる歌を感する事
古士の物語にいはく板垣のふかたは信玄公の侍として大かうの者なりけれは信州すわの郡代になされたりあるとき甲州にかへりやかて又すわへ参るへし」(六ウ)
(絵)」(七オ)
とていとま給はり子息弥次郎か所へゆきて万事のいけん申聞せたりをし板の折くきに物かきたる扇をかけて置たるを見て弥二郎か書けるよと思ひ子息をいましめていはく扇に物かくは知識公家児又はお屋かた様かあそはすものなりたとへはいかはかり手をよくかくとてもよのつねの者はむさとはかゝぬものそやと申けれは弥二郎申は十日いせんにお屋かたさま我等のもちたる扇をとりてあそはし下されたりといふその時板垣信形は座をたちて扇を取いたゝき見れは
誰もみよみつれはやかてかく月のいさよふそらや人の世中
とあり信形つら/\目をふさきしはしあんして申すやうさんぬる十月おやかた様御わつらひゆへは(ママ)れかし代官として人数七千騎を給はり笛吹のたうげへ打むかひ朝かつせんに打かちそれかし牀机にこしをかけかちどきをつくりしそのていお屋かた様のことくなりしを思ひの外晴信公御馬を出し御らんせられ御舎弟左馬頭信繁殿よりも手うへのふるまひ也」(七ウ)とをごるやうにおほしめさるゝゆへに弥二郎か扇にかゝる哥をあそはし下されたるよと申てそれより諏訪の郡代をあけんと申せ共ゆるされすとかく申入て甲州にてとしをとりたり是ふかく君をおそるゝのことはりをあらはしけるなり天道は盈るを欠事月のことしといふ事有月はみちて其まゝかへる十五夜は満月なれ共やかてかけ給ふ十六日の夜月をいざよひの月と申なり物みなみつれはかくる道理也十分なれはこほるゝといふ事かねてしあん有へしまんそくすれはかならすをこりをなすをこりはわさはひのもと也とたつときもいやしきも心得有へしまづしうしてへつらはぬ人はあれ共冨てをこらぬはなしと聖人もいましめ給ふ
五 北条氏政今川氏実の短冊を信玄公批判の事
古士の物かたりにいはくある時信玄公のたまはく人のがくもんある事は木に枝葉有かことしたゝし学とはしよもつをよむはかりの事にあらすをのれ/\か道をよく」(八オ)まなふをいふ也弓矢の家ならは武略忠功の人に近付一日に一様をきけは一月に三十ヶ条をおほゆをこたらすつとむれは一年には三百六十ヶ条の事をしるには去年の我に当年の我ははるかにまさりたる身そかし悪念の出るををさへよき工夫をいたしこれをおこなふたしなみあらははちにをよふ事有ましたとひ一文不通なり共此理にいたりぬるは学者智者といふへきとの物かたりおはしきある時長坂長閑するかの氏実公と北条の氏政公と二人の題なのり有たんざく二まいを信玄に参らする氏真は甥なり氏政はむこなり信玄いかにもよろこひたまはんと思ひしにさもなくていかに長閑三川の国岡崎の徳川家康当年廿五才はかりなり十九才より今まてに三河一国をうちしたかへその内に敵三千をみかた二百よきにてうちかちたる事も有ぶへんの侍おほく家康にはかしらをもあけぬほとにおさめたるかうたよみたりとも」(八ウ)物かきたり共きかす一文不通のやうに聞をよひし国もちの武勇なくして花車なるは猫の鼡はとらて毛いろのうつくしきことくなりぶへんにして無能なるはいたりてきやしやなるといふ也武勇は武士の能なり氏真の父義元は七年以前なりあやうき大敵を前にかゝへてふりやくのてたてはなく家ののふにもあらぬ哥道のすくれたるこそのこりおほけれいくさす(ママ)はしゆ/\の用にたて共さしきへはあけす茶臼はちやを引一能にて座上にもをくそや両人の歌と手跡はいしうすけいなりとひはんせられし
六 多々良樋五左衛門しばりくひはねられし事
古士の物語にいはく世にをくびやうものといふは大事にのそみて手足ふるひこしぬけてものいふ事もあとさきになり目くれ心きゆるはかりにて人心ちさらになしかゝるものはまた世にあまたたはなきもの也是は病なれ」(九オ)は薬にてすこしはなをる事も有され共物の用にはたゝすこれ程にはなけれ共卅四十のさかりすくるまてはなしうちの成敗ものを一度したる事もなくいくさばに出てもをひうちの首たにとりたる事なく人よりうしろにひかへてのき口はやく口はかりきゝて人のよしあしをいひさたするも又つきのをくひやうもの也はしめの者にすこしはかはれ共半町にけて一町にけたる者をわらふことくとをさもちかきもにけたるは同しをくひやう也さりなからはじめの者はわか身のうへひとつをとりみたしたるはかりなれはさのみにくからすつきの者はなましゐに人の上よしあしをさたしりこうかましきはにくき事也しなのゝ国上田原のかつせんにたゝらひ五左衛門といふもの卅七まてをのれは何もせすして人のほうへんを申とて信玄公大ににくみ給ひ日向大和内藤修理両人に仰せて書付をくたし一代の内一度の手からもなくてしよほうはいのよしあしをさたし」(九ウ)
(絵)」(十オ)
て人にはらをたゝするは大あくとうの用にたゝすなりとてからめとられあゐ川のはたにてしはり首をはねられける臆病さしをこりて臨終のわかさ諸人のわらひと成ぬ
七 指物をおとし敵の首にかへて取もとしける事
古士の物語にいはく天正十三年の秋北条の氏直と佐竹の義宣としもつけの国大わだとふぢおかといふ所に対陣しけるに両陣の間にせつしよ有て大かつせんなりかたくたゝ百騎二百騎出むかふてせりあひのいくさをいたしけり其中に北条かたのぢんより岡部権太夫と名のりてくろ糸おとしのよろひにおなし色のかふとをき猪のさし物をさし一陣にすゝみ出てあまたの敵とたゝかひしかある敵と引くみて馬よりおち上になり下になりてころひける岡部つゐに上になり敵のくひをとりてみかたのちんにはせかへらんとしけるにさし物をおとしたり敵これをひろひて取けれはむねんの事に思ひ打取たる首を」(十ウ)ひつさけ又敵陣にはせむかふみかたはこれを見てけしからぬ権大夫か有さまかなとあやしむ敵はこれをみて心かはりの侍かかうさんするかと目をそはめて見ゐたる所に敵陣ちかく馬をひかへ大音あげていふやう是は下総国の住人岡部権太夫といふものなり先陣のかけに敵にくみ首一つとりたりしか我さし物をとりおとしたりもんは猪なりされは此首はいまた大将のけんさんにいれすねかはくは此首をかへし参らせんわかさし物ひろい給ふ御かたとりかへてたべかしといふ敵これをみてやさしき侍の心はせかなさらはとらせよといふにひろいてかへりし河中喜平次といふ者さし物をもちてかけ出御心はせやさしくもかんじ入て侍りかへし参らすへしとてさし出す権太夫は御情ふかくおもひたてまつるとてもの御ほうしにさし筒へさしいれてたへとて馬の口を引かへしうしろむきて敵にさしいれさせ首を喜平次にわたしかへしてみかたの陣へしつ/\とかへり入」(十一オ)敵もみかたも希代の剛のものかなとほめぬ者はなかりけり
八 篠才蔵軍法者を難せし事
古士の物語にいはく福嶋左衛門太夫家にさゝの才蔵といへる武勇の者有一哲のかたくはものなりけれはさのみ立身もせすそれをもうらみすたゝいひたきまゝにものをいひちらす理にあたる事共おほしある時軍法者のしかもよろつの故実をしりたる人なりとて左衛門太夫殿に奉公をのそむ才蔵たちいてたいめんしよろつくんほうの事共をかたらせて聞けりかくてふるまひのせん出て才蔵しやうばんにてくひけるにやかて才蔵見かきりてめしかゝへられん事無用と申左衛門太夫殿それは何ゆへにかくはいふそ家中の上下共によき軍法者也といふにとの給ふ才蔵かしこまりて申やうそれかししやうはんしてめしくひけるに人はいとけなきよりはしをとりそめて此かた一日に二度三度まい日めしをはくふ事なり」(十一ウ)
(絵)」(十二オ)
それにかの軍法者は一はいのめしにしるを二度かけてたへたり是ほと見はからひのどんなるおとこか両陣数万の人数を見はからひいくさのかけ引いたさん事はかなふへからすたゝし軍法とは人数の一味すると軍勢の剛臆と運をはかるにありと申されき
九 横田甚五郎ほうびをうけさる事
古士のものかたりにいはく天正九年三月に高天神の城は武田勝頼公より岡部丹後守にあつけをかれ横田甚五郎を相そへられしを家康公軍勢をもつてをしよせせめおとし給ふ岡部丹後はうち死しけり其外大勢うたれたるに横田甚五郎は敵大勢の中をきりぬけて甲府へおちてかへる勝頼公はかゝる大軍の中をきりぬけてかへりける事まことに大かうのものゝわさなり敵のとりまきたるときにのそみて死する事はやすくいくる事はかたし生かたき所にをいて生てかへるは猛将のするわ」(十二ウ)さなりと大きにかんしてほうびとして太刀一ふりを給はる甚五郎はこれを給はり三度いたゝきて後そのたちを勝頼公へかへし奉りていはくそれかしの父祖父またはやしなひ親いつれも数度の手からをあらはし信虎公信玄公より御ほうひ下されしとうけ給はることしそれかし廿八才にまかりなり此たひの大事によく切ぬけてかへり参りたるとの御ほうひは道理さらにわきまへ奉らす祖父の原美濃守やしなひ親の横田備中これらか名をたにうつみなかす有さまなれは忝き御ほうひなからもさし上奉るとて太刀をかへしけり諸人これれんちよくといひ日ころのことばをたかへさる事をかんし父祖父か武道のおもかけ残りけりと申き
十 北条左衛門太夫黄八幡の旗の事
古士の物語にいはく北条左衛門太夫はくしま上総守か子也父は遠江国高天神の城主なりしか甲州の西都にはつかうして信虎公にころされぬその子左衛門太夫は氏康に付」(十三オ)て相州玉縄の城を給はり上総守になされ武勇たくひなき人也武道をたしなみて毎月八幡宮の御縁日には精進けつさいし信心ふかき故にやふへんのほまれ世に高しその旗にはくちばいろに八幡といふ二字をすみにてかきたりみな人此旗出れは黄八幡とそ異名によひける敵其旗をみてはすはこそ黄八幡か打て出たるはといひくもの子をちらすことくにけくつしけりされはかつせんのたひことにかの旗をさきにたてうちわをあけて軍勢をいさめかつたそ/\といふて一生の内卅よとの大かつせんに打かちぬさてむさしの国川越の城に三千よきにてこもりしに今川義元公方晴氏公官領上杉憲政一味して数万騎をもつてせめられしかとも上総守ものともせす城つよくして二年を経たり氏康後詰してよせてを一時にをひちらし武州相州を氏康の手にいれしは北条かつさの守かぶりやくなり」(十三ウ)
古今軍鑑巻之四目録
一 北条武田今川里見家々そばだちし事
二 佞奸あるものゝ事付童坊のはじめの事
三 脇指に首をかへて首帳に付たる批判の事
四 比興なる侍は死ぎはわろき事
五 長尾輝虎入道謙信あらぎの事
六 馬場美濃守一生のうち手を負ざる事
七 正木大膳か事付小幡山城守武篇の事
八 大将軍は味方の軍勢をあはれむへき事
九 毛利元就ようせうのときの事
一 北条武田今川里見家々そばだちし事
古士の物語にいはくかまくらの公方威をうしなひ給ひしより諸方の武士そばたちをこりてひたすら戦国の世となり国々にかつせんやむ事なし大なるは少きをとりひしきつよきはよはきをしたかへてたかひにいきほひにのらんとすゑちごには長尾景虎かひには武田信玄するがには今川義元おはりには織田信長三河には徳川家康その外安房に里見義弘常陸に佐竹義重これらのともから蜂のことくにをこりて城をかまへ兵をあつめこゝに出あひかしこにをしよせあるときはうちまけある時はうちかちしはらくもしつかなる事なし中にもゑちこの景虎は上杉のゆつりをうけて官領職を給はり近衛の公方をもりたてみやこにのほり将軍義輝公にたいめんをとけすなはち輝の字を下され景」(一ウ)虎やかて輝虎と改名し武勇をふるひて世をとらんとすいづの北条氏康はくはんとうをしたかへ大軍となり猛威をほとこし侍る事いふはかりなし甲斐の信玄はその父信虎を追出しみつから武田の家督をうばひ武勇の名将とよはれ給ふ弘治二年の比今川武田北条の三家和睦の事有氏康の子息氏政は信玄のむことなり信玄の子息義信は義元のむこになり義元の子息氏真は氏康のむことなる是もなをはかりことのゆへなり其後また三家わかれていくさにをよふ事たひ/\なりと聞えし信長の義元をうち京の公方義輝は三好修理亮にうたれ三好は又信長にころされうちやす信玄輝虎入道謙信は病死なり今川の氏真は信玄にをひ出され信玄の子息勝頼は信長にうたれ信長は明智光秀にうたれ光秀はまた羽柴の秀吉に」(二オ)ころされ北条氏政氏直おなしく秀吉にたいちせらる其間の合戦に数万の軍兵いくはくか討死しぬらん
二 佞奸あるものゝ事付童坊のはじめの事
古士の物かたりにいはく世に佞奸のものといふは外のていは物やはらかに人愛よく身もちをりちぎにかまへなから内心にはよくふかくむさほる思ひ有てざいほうをつみたくはへてあき足期なく主君にちかつきてついせうをもつはらとしあしき事なれ共御意にいらんためにはよしと申いれあしきはうばいをもわか心にかなへはよきものと言上いたしよこしまのいたつらことを申すゝめわたくしのいこんをたつせんために公儀をかりてをどしひそかに君にざんげんしてそれか身上をはてさせやうやくをこりをくはたてゝあそびたはふる事をこのみかくのことくにおこなふほとに君のまつりことよこしまになり佞奸の出」(二ウ)
(絵)」(三オ)
頭人は立身し家中さたちてたかひにうらみをふくみ後には大なるわさはひとなる也小佞はすこしなるわさはひをおこし大佞は大なるわさはひをおこす小なるは家をうしなひ中なるは国をうしなひ大なるは天下をうしなふいはんや奉行頭人のねいかんなるは公事のうつたへもひいきへんは有て理有ものもまけ非道の者は勝になるかやうのともからははしらをくらふしみといふ虫の家をたをすかことくなれは主君よく人を見しりて佞人をしりそけて賢人をもとめたまふへしいにしへ鹿苑院義満公のとき右馬頭頼之御うしろみとして天下をおさめられしに義満わかくおはしますゆへにねいかんのものさま/\申ふくむる事有頼之おきてを出していましめらるれともねいかんのものたへさりしかは頼之分別をめくらして佞坊と名付てほうしを六人おなしやうにつくりたて上下をきせ刀をさゝせまるきづ」(三ウ)きんかふらせゑもんおかしけに出たゝせ随意阿弥本阿弥照阿弥波利阿弥高阿弥観阿弥と名をつけて将軍の御まへにつめさせ諸大名しこうの折ふし西かととへはいやひかしとこたへついせうをいひうそをつきよろつのそさうをふるまひ人にすりちかひへうげのものになりてかほをしかめ口をゆかめまひをどり座中の興をもよほし後にはわらんへのことくあかき小袖をちやくしいろ/\にもてあそひものとなるゆへに大名衆も童坊よとよひ給ふ諸大名もかはゆかりて時々物をとらせらるゝゆへに身上もよかりけりされは諸大名近習外様の衆あるひは人にへつらひまたはついせうをいひあるひはねいかんをふるまひまたはうそをいふ人あれは侍童坊とてあさけりわらひけるゆへにこれをはつかしく思ひてのち/\はついせういつはりねいかんの事をはをのつからとゝまりけるとかや童坊は此時より有とかや頼朝の」(四オ)御時伊賀坊正寛土佐坊正尊とて童坊のことくありけるも今将軍家の童坊のつくり馬鹿をいたし諸人のついせうをとゝめたるたくひにはあらすと聞えし
三 脇指に首をかへて首帳に付たる批判の事
古士の物語にいはく野瀬の五兵衛尉は武勇の侍也けるか信州海尻かつせんの時いかゝしてをくれたりけん首ひとつをもとらすくちおしく思ひけるか鞆平六といふものかふと首ひとつとりて実検にいれんとするを五兵衛はまへに立よりいかに平六殿けふはいかゝをくれたりけんよき敵にもあはす首ひとつをだにえとらすそのくひは名もきゝ給ひしにやざ(ママ)もなきざう兵のくひならはわれにたべかしけふのまうけにし侍らんかく申に給はらすは五兵衛かうんのさくる所なりといふに平六此きしよくをみていや/\とらせすはどしうちすへししからはそんなりと思ひやすきほとの事也名もしらぬ」(四ウ)
(絵)」(五オ)
首なれ共是参らするとてわたしけり野瀬は打わらひうれしうこそ候へ是は貴殿に参らするほとの物にはあらね共よろこひに侍るとてのしつけのわきざしをあたへて立わかれ実検にいれて首帳につけ侍りぬ後に平六此事を人にかたるそれより諸人きゝつたへて野瀬かわきさしに首を買かへてをのれが手からに帳につけしこそおかしけれいかならん首をもひろふてやり長刀太刀かたなにかへはやなといひあひけり野瀬は口おしく思ひて平六をうたはやなと聞えしに馬場美濃守山県三郎兵衛内藤修理高坂弾正このよしをきゝて首を買たる人は大かうのつはもの也それほとに心がくるはまことの勇士武略の人なり又首をうりて物をはとりなからその事をあらはして人にかたるは日比は大かうにもあれかしこれにとりては比興のをくひやう者也まつ大事のしるしを我まさしく取なから人にうり侍るは又かさねて手からして首は」(五ウ)いくらも取へき物をと思ふ武勇の心より売たらはふかくかくし侍れかし人にうりて賃をとりなから又我手からにすへきとのかくごはきたなきはたらき侍道にはつれたりとて信玄公へ申て平六は家をついはうせられしとなり
四 比興なる侍はしにきはわろき事
古士の物語にいはく武道をたしなむといふは第一に邪欲をわすれ人をそねます忠義をもつはらとすへしそれ人と生れては欲心なき者はなしたとひ人のもとより物をとれ共義をまもる事をかへりみてとるへきものをとりあたふへきものをはあたへてこそ道にもかなひ心もいさきよくみゆるにとるましき所に物をとりやるまじきものにあたへつかはし非道の徳分をいたすはみなこれを邪欲と名つくわつかなる利分に義理をはつしねんころすへきものにもわか徳なけれはそら見をいたし物をくるゝ人にはうちこほすやうについせうをかたりはうばいにりよくはいをかまへ」(六オ)人のぶへん立身するをあなかちにそねみてあしきやうにいひなし名をたてゝ人にさたをいたさせ口にまかせてをのれが手からを吹調し主君のよしあし批判申すともから是そ家中のさたつへきもとひなるそのかみ上州みのわのかつせんに甲州信玄公の侍大将山県三郎兵衛か同心に平野久助とて大かたの武篇もの有しかからめ手にまはらせ小菅五郎兵衛といふものゝ手につけらるをふてには城の意安かせいにて敵に鑓をあはせ手おふて引しりそく城中つよくしてよせてかたふきたちたるにゑちこ浪人に大熊備前守といふ武勇のものをふてにありて山県に属し敵とたゝかひけるに大勢こみあひたるまきれに大熊かさし物をとられたりその敵をおひかけくみとめて指物をとりかへしあまつさへかのさし物とりたる敵のくひをとりてみかたの陣にかへりぬたくひなきはたらきなりとて信玄公大にほめ給ひぬからめ手に有ける平野久助」(六ウ)
(絵)」(七オ)
これも大かうのはたらきてきみかためをおとろかすさる程におなしくほうひ給はりしに大熊備前をそねみて種々にそしりけるを山県きいてこれは家中みたれのもとひ也武勇はあれ共人をそねむは女にをとれるひけうものなりとて追出したり久助大にうらみて目安をかきて信玄公へそせうす山かたもこま/\と言上いたしけるに信玄公もさやうのひけうものならは武勇有てもものゝ用にたたす女にをとれりとてふちをはなさるそれにもこりすまた人の手からしたるをそしりてけんくはになりきりあひしかうちふりてにけ行けりあひ手のがすましとて追かけたりしにざいかうの麦からつみたるかけへにけこみうしろよりひたきりにきられてしにけり
五 長尾輝虎入道謙信あらぎの事
古士の物かたりにいはくゑちごの国長尾景虎入道して謙信公と名つけしまことに当時無双の名将なり父の」(七ウ)為景は武勇のほまれは有しか共半国をたにうちしたかふる事はなかりしに輝虎十八才よりこのかたにゑちこをうちなひけまうゐをふるひさかみの国小田原へをしよせける時もくはんとうかたの侍大将衆にすこしもきつかひなけに打みへて白き布にてかしらをつゝみ朱さいばうをうちふりぢん/\へ馬をのりいれ下知をなし諸軍勢をいきたる虫ほとにも思はさるていたらくを見てあはれよき大将かなと諸人感じけり其後輝虎公は上杉の官領職をうけとり都より近衛殿を申下して公方といたしあるときかまくらの鶴か岡の八幡宮に社参有しに大石小畠長尾白倉四人さふらひ大将をうしろに打つれその中に上野国たかの巣の城主小幡三河守に太刀をもたせそのゐせい東国にならぶかたなしその勢十万よきにをよふ今三年のうちには日本のぬしに成給ふへき事うたかひなしと諸人思ひける所にすてに下向道に忍の成田長安といふ者」(八オ)は五百騎の大将なるかかしこまりてゐけるに余の人よりも頭すこしたかしとて輝虎大にいかり持たるあふきをとりなをしなりだがかほを二つまてうち給ふ成田は宿へかへり我も五百騎の大将にて人も見しりたる所をてるとらかくせらるゝ事口おしとていとまもこはす忍の里へかへりぬ人々これを見ていや/\武勇ありとても心さし情なしいかてか此ありさまにて天下をはおさめ給はんしよせん大身のきりやうにあらす小人のふるまひなりとてみなぬけ/\に引はらひけれは十万よきいつちへか行ぬらん手せい一万七千騎もみたれけれは百姓とも一揆して小者中間おほく打取輝虎もはう/\上野の平井へ引こもりやう/\にゑちこへかへり給ひぬかゝるめい大将の武勇ならひなきもむふんへつたんきにして手あらきしをきに諸人うとむものおほかりし
六 馬場美濃守一期のうち手を負ざりし事
古士の物語にいはく馬場美濃守と申は信玄公の父信虎公の御時に十八才にして初陣いたし廿五さいより信玄公に召つかはれ四郎勝頼の御代にいたりて六十二才長篠かつせんにうち死すさしものつはものにて初陣より打死まて武田の家三代数度のいくさにつゐにうす手をもをはすまことにきとくの人也ある時小山田弥三郎といふ侍美濃守にとひけるは貴殿は若年よりこのかた武田の家三代につかへて数度のかせんに名をほとこし手柄をあらはし感状も廿あまりとり給ふよしまことに弓矢のみやうがにかなひ給へりことさらつゐにかすり手一つもをひ給はすこれたゝ事にあらすひとへに軍神广利支天の御加護なりと覚えたり何とそさやうのてたてはならひも有事ならはをしへ給ふといふみのゝかみ申さるゝは手をおはさるやうのはたらきとてならひの有事もなし千変万化臨機応変とていくさばにはかねてさためたる」(九ウ)法のちかふ事有ものなれは手はすのちかふ所をはちかふ所にまかせてよくはたらくをもつてかんようとすかならすさためたる所のちかへはそれに倒惑してうろたゆるによりて大なる負にもなりきたなき首尾にもなる也いくさをするにもこさかしくまなこをきゝたらばよかるへしよくいくさするものはたゝかはすよくたゝかふものは死せすとやらん申事ありをくひやうおこりてしりこみしまなこきかてうろたゆるゆへにあやまちはするとみへたりかやうに申せは何とやらんぶようの者も手をおふ事おほしそれかしいかてかその人にまさらんなれはかく申もをこかましく侍るたゝ運によると思ひ給へ小幡山城守の雑談にせりあひのときは敵よりもまつみかたをよく見合てそのうへに一命をすてゝかせくときは犬死もなし人にもさのみころされすして手からはあらはるゝと申されし事をそれかしよくきゝ覚えて得心いたし侍りいくさにいろといふ」(十オ)事有たとへはみかたより敵地へふかいりの時は手からをのそます敵をしりそくる心かけをもち陣を引とる時にしんがりをいたせはやかてそれか手からになるなりまた敵かたよりみかたの地へふかくをしいりたらば敵のかふとのふきかへしに目をつけまたは敵のさし物のゆるきやうをよく見たてゝ敵のいきほひさかんなるときはひかへいきほひをこたりてをとろへかたふく時にかゝるへしされ共これは一騎にてかせくときの事なり大軍をとりあつかふときのかくこはたゝかはすして敵にかつといふ事をよく/\くふう有へしと申されき
七 正木大膳か事付小幡山城守武篇の事
古士の物語にいはく鴻鵠の雛は凌空の心さし有虎豹の駒に食牛の気ありといふ事侍り鴻や鶴なとの卵を出しよりそのまゝこくうをかけんと思ふ気さし有豹や虎は生れて母の乳をのむよりしてもはや」(十ウ)
(絵)」(十一オ)
牛馬をくらはんとするいきほひあらはるゝとかや天下に名をあくへきものはいとけなきよりそのきさしは有となりとをくいにしへをたつぬるに及はす織田の信長は十三四才のとき寺にあかりてはおなしほとの子共をたてわけてぐんばいをとりてかちたる者には銭をあたへてたはふれとせしとなり徳川の家康は菖蒲きりを見物して勝負の色をかねての給ひけると也其外世に名ある人いとけなきときよりつねの小児にはおなしからすと見えたりかの安房の国さとみの義弘公に名をとりし正木大膳といふつはものは大剛無双のもの也十二三さいのときより馬をならひけるにかた手つなにてのる事をこのむ馬ををしゆる師匠いかりていふやうかた手つなと云は馬をよく/\のりおほえ功者に成ての後の事なりいまたたんれんもゆかぬにさやうにのりぬれはその身なりもわろく侍りまつもろたつなにてよくのり給へ」(十一ウ)
(絵)」(十二オ)
といふ大膳きゝて侍の大将ともならんもの馬よりをりて敵にむかひ鑓をあはする事はすくなかるへし馬上にて下知をなし勝負をせんとするにはかた手つなをよくたつしやに覚えてこそよからめとてつゐにきかさりきされはこそ軍陣のとき馬上にて度々の勝負をいたしぬかづさの国鵠の台にて里見義弘と北条うち康とかつせん有しに里見うちまけたるをくれくちに正木大膳よきさふらひを廿一人まて所々にかへしあはせ馬上にて切おとしまうゐをふるひてしつかに引たりとかや此両陣のあひたにてきみかたの侍大将に大膳と云もの三人まて有けるをそのころのうたに依田の大膳銭大せん矢田の大膳にけ大せん正木大膳鑓大せんとうたひけるとなり侍ならはぶへんをよくして名を後代にあくへきなり小幡山城守は信玄公のさふらひなりしかいくさに出ればまつさきかけていつも手からをいたしける」(十二ウ)にわれもか(ママ)ひ/\手をおふてたきのことく血なかれてのりける馬は鴾毛なりしか朱にそまりて見えけるを其比の哥にとても武篇を心にかけはつきげのこまのくりけになるほとおめさりやれとうたひけるとなり
八 大将軍は味方の軍勢をあはれむへき事
古士の物語にいはくあやうき難をは(ママ)てそのもろ/\をわするゝことなかれといへりをよそみかたのつはものあやうき難にあふときは大将軍たる人かならすあはれみすくふへし軍勢をすてゝわか身はかりのかれんとすへからすもし軍勢をわすれてあはれまされはつはものみなうらみいかりて大将の御大事にかはるへき心さしなきものなり情をふかく軍勢にかけぬれは兵思ひつきて野心なきもの也新田の義貞は東国の軍にまけてのほられしに天龍河をわたりけるにまつくんひやう共をさきへわたして我身は後にこえたまふ其後また」(十三オ)西国の軍に利なくして引かへされしにみかたの軍勢おちのひかたけれは義貞ふみとゝまり/\ふせかれしと也しかるゆへにや義貞うたれ給ひて後まても日比の情を思ひて義興義助につきて忠節いたしけると也もろこし呉の孫権と魏の曹操と国をあらそひかせんやむ時なし曹操か大将に長遼といふ武勇の者のこもりたる合肥といふ城を孫権大軍をもつて取まきせめけるに城中小勢なるゆへふせくへき力なく張遼わか軍兵を引つれ敵のまん中を打やふりておち行けるにわつかに卅よきなりあとにをくれし兵共こゑを上ていかに我等をは打すて出給ふかと申けれは張遼きいて取て引かへし残る者とも召つれ敵をきりはらひ曹操のおはします所におちきたれりかやうに情ふかく有けるゆへに軍兵思ひつきて一味同心に軍をいたしけるほとにたひ/\手からをあらはし武勇のほまれを天下にほとこしけるとかやあやうき難」(十三ウ)
(絵)」(十四オ)
にのそみても名大将は士卒をすてすあはれみをふかくするゆへに大将のあやうき時に士卒又身かはりに立その難をたすくる也大将に情ふかく軍に忠義の道あらははかりことをたくましうして敵をうつにうたさらめや
九 毛利元就幼少の時の事
古士の物語にいはく安芸毛利陸奥守大江朝臣元就はその先祖かまくらの三代将軍の執権因幡守広元のばつそんなり元就の兄をは興元と申せしか世をはやうせしかは弟の元就は多治比といふ所に三百貫の所領を取てわつかの体にて有しを兄の興元死して後によび出し家督をつかせて後は智謀無双にして世にかくれなき人なりそれよりさき六七才のときいつくしまの明神へ参られて下向のゝち供しけるとのはらにとひ給ふやう今日は明神へいかなる事を頼み奉りたると其時人々みなおさなき人の気にあはんとて奉公みやうかふくとく寿命なとゝとり/\にこ」(十四ウ)たへたり御めのと申やう我らは此殿に中国をみなもたせまいらせて給はれときせい申て有といふに元就きゝ給ひて中国をみなと申たるはわつかのきせいなり日本国をみなもたせて給はれと申へきものをといはれけれは人々申やう中国をみなとり給ひて後にこそといへは元就はらたちて日本をみなとらんと思はゝやう/\中国をとるへし中国をとらんと思はゝ何として中国をもとるへきとの給ふされはにやのちつゐに中国を手にいれて大身となり給ひけり宍戸安芸守隆家をむこにとり尼子右衛門尉晴久をたいぢし猛威をふるはれけり
巻四終
寛文庚戌歳玄月吉旦
通油町本問屋」(十五終オ)
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菊池真一
kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp