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放送部長の手帳から 伊藤痴遊氏と梨庵博士 その谷本博士が一夕偶然放送局で伊藤痴遊氏と同日に放送のプログラムに入り、局内で鉢合せられた事があつたが、痴遊氏は講談師として東京から可なり高い報酬で来阪されてゐることとて、学者として谷本氏の講演とは局の方では全く取扱ひが違ふ訳で、従つてその報酬については一方は独特の人気を呼んでゐる新講談師の事とて段違ひであるのも亦止むを得なかつて(ママ)たのである。谷本博士は当夜の事が大分気になつたと見え、数日後私に又手紙を寄せられ「……小生多年窃かに計画するところ有之、敢て伊藤痴遊師の向ふを張るといふ訳には無之候へ共、更に一層斬新にして而かも規模宏大なる世界的新講談を肇め度存候が如何思召され候哉……」と申越されたが、私はこの博弁宏辞なる老大家をしてその計画を実行せしむるの機なかつた事を今でも遺憾に存じてゐる。 伯鶴、貞山、典山、南陵 士、農、工、商に因んで講談の夕を催す事となり東京から斯界の大島伯鶴、一龍斎貞山、青山典山の三巨頭を同時に迎へたのは昭和二年十月十四日であつた。大阪現存の唯一人の講談師と云ふべき旭堂南陵君も当夜この東京からの珍客と共に放送された。私のこの手帳にめい/\の筆蹟がズラリと並んで残されてゐるのは何よりの記念だ。南陵君は爾来断えずBKのために尽されてゐる。 |