忘れられた怒りの芸術―講談
尾崎秀樹
もう一つの修羅を生きるもの
講釈師みてきたようなうそをつき
という有名なザレ句がある。この作者は一説では森川馬谷(二代目)の弟子で本名吉田常吉といった東流斎馬琴(弘化のころの人)だといい、また舌禍にあって処刑された馬場文耕だともいわれる。
その真偽はともかく、この句ほど講談の性格をそのものズバリでしめすものはない。「みてきたようなうそ」とは、講談が太平記読みの講述から質をあらため、庶民のなかに根をおろし、庶民の夢を代弁して、虚構による創造を意識的に前面におしだした時代の、やや自嘲的ともみえるキャッチフレーズでもあるからだ。大衆は「うそ」を好まない。事実のうらにひそむ真実をもとめ、そこに夢をえがき「みてきたようなうそ」をさぐろうとするものだ。「うそ」と「みてきたようなうそ」とのあいだには、質的な距離があるとみなさなくてはならない。この句を講釈師非難ととるほどナンセンスな話はないわけで、私はむしろ講談の真髄を云いあてたものだととりたいくらいである。
これだけでは誤解をまねくかもしれないので、別のところでふれたことだが、もう一度述べてみたい。
花田清輝に「もう一つの修羅」という評論がある。これは一種の大衆芸能論で、話芸成立の基本的なテーゼとして読むことができる。花田は「修羅という言葉から、さっそく、いくさを連想し、鉦・太鼓・法螺貝・鬨の声・馬蹄のひびき、鉄砲の音などを、そら耳にきき、槍、なぎなた、刀のひらめきなどをまぼろしにみるのは、生涯の大半を戦場ですごした戦国武士にとってはきわめて自然であろうが―しかし、この世の中には武士ばかりがいたわけではなく、かえって、ほんとうの修羅は―いや、ほんとうというのがいいすぎなら、もう一つの修羅といいなおしてもいいが―案外、舌さき三寸で生きていた口舌の徒のあいだにみいだされる。こちらもまた、鉦、太鼓、笛、三味線にはやされて、なにやら賑やかで騒々しいところは、いくさに似ていたが―いや、似ていたどころか、それもまた、れっきとしたいくさにちがいなかったが、燈火のかがやきわたるところ、着かざった女たちにとりまかれ、脂粉の香のただよい、さかずきの飛びかうなかで、パッパッパッと、機智にとんだ、とっさの応酬を試みるのが、つまるところ、もう一つの修羅の在りかただったのである」と述べている。
サムライや軍人には武器がある。しかし民衆には武器がない。堀田善衛の説にしたがえば、太閤の刀狩り以来、抵抗の直接的な武器を奪われているわけである。話芸は、煮つめていえば、その一つの武器であって、もう一つの修羅を生きる舌先三寸というものがあり得たことになる。お伽衆などからはじまった民衆芸術の伝統には、この「もう一つの修羅」を生きる非暴力の伝統が流れている。その先祖のなかには、みずから剣をすて、口舌の徒となった勇敢な戦士たちもいた。民衆は剣のかわりにこの舌刀を手に入れ、それを発展させて芸にまでたかめた。講談の開祖といわれる赤松法印や、落語の祖安楽庵策伝は、この「もう一つの修羅」をはげしく生き、怒りを秘めた相剋図を、舌先三寸に展開した人たちだったとみるべきだろう。
講談には大別して〈軍談〉〈記録もの〉〈世話もの〉〈新作もの〉の四つの種類がある。この区分けはそのまま講談の変遷を語ることにもなっていて、軍談読みは軍書講談、記録ものはある部分が拡大されて各家の記録よみとなり、それが波瀾をもとめて〈お家騒動もの〉、〈評定もの〉と発展、つづいて〈仇討ちもの〉へ手をひろげ、〈侠客もの〉、〈五人もの〉となり、〈世話もの〉をあつかい、現在の新作へおちつくわけで、その各発展段階の読みものを、それぞれに今日まで持続していることになる。
動乱の時代には太平記読みの辻講釈が一種のコミュニケーションとして重宝がられたし、後藤又兵衛などは、就職運動のために各地を遍歴し、自分の体験をおりこんだ戦記をふれて歩いた。徳川の天下になると、失業浪人たちが自己宣伝をかねて、英雄譚をデッチあげ、それで再就職のいとぐちをつけようとはかったものらしい。しかし実際には徳川幕藩制がかたまるにつれて、その体制のなかにもぐりこむことは容易ではなくなり、アブレた連中が戦雲の夢を、太平記読みや軍談に託す方向に進むようになった。
彼らはパンのために徳川諸侯、各家の年代記を読み、諸国を流浪して講釈した。なかには一宿一飯の糧を求めて、その各家の先祖の戦功、武勲をたたえ、おもしろおかしく講述するものもいたにちがいない。そしてながい流浪の過程で、はじめにもっていたするどい舌鋒が、しだいと骨ぬきにされ、おかしさの面だけが強調されることもあったろう。そしてときたま東照神君の活躍話をもち出したりして、「おそれおおくも東照大権現さまの活歴場面を講述するのであるから、礼服をあらためつつしんで聞くように」と、たかみから見下す調子で、わずかにウサをはらすというのがせいいっぱいのあらがいとなった。
この衰退をすくったのは、むしろ大衆のなかに根を下した講談の系譜である。徳川末期江戸文化が爛熟するにつれ世話ものの全盛期に入る。伊東派・松林派・貞山派・南派・宝井派・神田派・田辺派など、いずれも寛政から化政期へかけて輩出し、とくいの主題と読み口で、江戸庶民のうっくつした感情に窓をひらいた。
馬場文耕をはじめとする講釈師の舌禍事件は、その抵抗のあらわれであろう。
釈場の定着と世話ものの隆盛
中国では講釈のたぐいを説書、あるいは快板児という。日本で太平記読み、はり扇というのと同じニュアンスだ。講談は扇子一本にはり扇、ほかに拍子木という三寸ながさのものを使うだけで、読んでゆく。落語ははなし、浪曲は語り、講談は読みと、それぞれ大衆芸能のなかでも表現法はことなる。はり局は「講釈師 扇でウソをたたき出し」「講釈師 つかえた時に三つうつ」と、あまりカンバシくない印象をあたえているようだが、中国で竹片をならしたり、板を打ったりしながら調子をとって釈くのと同じであろう。長さ一尺、なかに古扇の骨をつかい、それに酉(ママ)の内という和紙を何枚か重ねてのりばりしたものである。高座にあがって釈台の前にすわると、右手にもったはり扇で一つピシャリと叩く。「エエ、お早ばやとおつめかけでありがたく御礼申しあげます。さて、毎度おふるめかしいお話で……」とはじまるわけだ。
このはり扇の叩き加減で、はなしのはこびにきまりをつけ、場面の転換をはかり、修羅場にかかるとこのはり扇が強調のアクセントをそえる。よくいうように軍談ものの調子には、序・破・急の三つの呼吸があり、ひく息、はく息の調子に、はり扇のひびきが加わり、全体の盛りあがりが生まれるのだ。
この時、左馬之介のいでたちはとみてあれば、もえぎおどしの大鎧、白のねりぎぬに狩野永徳が丹精をこらせし墨絵の雷竜をえがきたる陣羽織を一着なし、がぶとはその頃きこえたる天下十九はねの名かぶとの内、二の谷と名づけたる五枚シコロのかぷとをいただき、はるか坂本の城をさして水玉けあげてのりいだしたり……
これは五代目南竜の明智左馬之介の「湖水乗切り」からの抜粋だが、先を聞くまでもなく、近江八景を読みこんだ名調子がホウフツとしてくる。
外国人にいわせると、日本語のしゃべり方は「自動車のエンジンのようだ」というらしいが、短い音が、間断なくタッ、タッ、タッと連続する特色は、講談の修羅場読みに典型的にしめされる。これほど日本語のリズム感をみごとにあらわしたものはないであろう。はり扇はこの日本語のもっている特色を、効果的にひきたてる役割をになっているわけだ。
このはり扇がいつごろ登場したか、まだ定説はない。浅草寺境内で辻講釈をこころみた風流志道軒は手に男根をかたどったマツタケ状のものをもち、これを動かしながら時代を諷刺したという。二本の扇をあやつった最初は、軍談よみの大家といわれた滋野瑞竜軒、ただし彼はほとんどお座敷専門だったようだ。講談を民衆のなかに持ちこんだのは、やはり馬場文耕あたりからだろう。さらにそのあとをついだ森川馬谷によって、今日の釈場の形式がととのえられた摸様である。それまでの釈場は、寺子屋や水茶屋の一部屋を開放し、そこを借りて公演するにすぎなかった。いわゆる興行形態は、釈場が定着し、常打ちとなることによってはじめて根を下ろす。釈場に行燈看板を用いたのは文耕、広告のちらしは馬谷が行なっている。このころになると軍談ものとはことなった江戸庶民の日常生活に取材した世話ものがふえるのは当然のなりゆきであろう。寛政期に釈場が定着し、文化文政から天保期へがけて世話もの全盛となる。その先鞭をつけたのは、この馬谷だった。彼は右手にもった扇子で拍子をとって読んだというが、はり扇の創始者とみなされるのも、そのためである。
反骨の伝統
宝暦のむかし馬場文耕は、時代の悪気流にさからい、幕府の失政を諷し、とくに金森騒動に際しては、政府のこそくな策を批判して逮捕され、獄門にさらされた。金森騒動とは、北濃郡上八幡の城主金森式部少輔の悪政に怒った領民が、江戸屋敷へ強訴したのを、時の老中本多伯耆守たち四名の収調べ担当官に手をまわし、もみけそうとしたのが発覚し、金森家は改易、藩主は身柄をあずけられ、収賄した連中は御役御免となった農民一揆にまつわる事件だ。文耕はその事件がまだ係争中に、「珍説森の雫」と題して日本橋くれまさ町の小間物屋文蔵宅で講舌した。逮捕にあらわれた同心を待たせておいて悠々と食事をすませ、「乱心者め」とののしる役人にむかって「お前たちこそ正気の沙汰とは思えない」と嘲笑したといわれている。
この文耕の舌禍事件に関しては何度か書いたので、ここには別のケースについて述べよう。
『兎園小説』を読んでいたら、その第十二集に「瑞竜が女児」と題して、赤松瑞竜(二代目)の舌禍事件にふれた箇所を発見した。参考までに引用してみたい。
寛政・文化の間、軍書を講談して、生活したる瑞竜軒は、前の瑞竜が子にて馬谷、百●等が姪なり。当時中山物語という俗書の世に行わるることありけり。こは京師の人の手に成りたるにや。あらぬ事をのみ書きつめて禁忌に触るることのさわなるを、奇を好むもの虚実をも得考えぬ、俗客の玩ぷこと少からず。ここをもて、貸本屋などという者は、二本も三木も写し取りて、ここかしこへ貸したりければ、おおやけにも聞こし召されて、厳禁を加えられ、写しとりたる本屋どもは、おん科をこうむりて、写本はすべて焼き捨てられ、それをとり扱いたるもの共には、おのもおのも過料をたてまつらしめ給えり。こは享和中のことにぞ有りける。かくて文化中に至りて、件の瑞竜軒、難波町わたりなる居宅にて、かの中山物語を講談してけり。その君はさきに禁断せられて、見まほしくおもう者も多かりけるにや、夜ごとに人のつどい来て、聴くものおびただしかりけるを、市のかみより隠密に人をつかわして、聴衆にうちまじらしつつ、夜ごと聞かしめられしを、知るもの断えてなかりしとぞ。かくてはやその講談も、この席を限りにて、講じおわると聞こえし宵のほど、瑞竜はその席にて忽ちにからめとらわれて、やがて獄舎につながれけり。
文化十三年九月のことである。二代目瑞竜はおもに諸侯のもとへ出入し講筵をつとめていたが、たまたま九月一日から高砂町の寿亭に「義士伝」をかけ、これが人気を呼んだことに気を許したのか、九月十八日の下席から、そのおなじ寿亭に「中山瑞夢伝」をかけた。これがまた好評で大入満員の盛況だったという。瑞竜が点とり本につかった材料「中山物語」は、享和年間に絶版になった書物で、中山愛親尊号事件をあつかった作品だ。
宮武外骨は書いている。
『兎園小説』の記事に「あらぬ事をのみ書きつめて禁忌にふるる事」といえるのは、幕府方の口供に過ぎず、もとより真偽相半の俗書には相違なきも、当時帝室を蔑如せし幕府の専横を憤れる者はもちろん、老中松平定信の施政に不平を抱懐せる者どもは中山愛親の言動を激賞してやまず、京大坂の市民はいうまでもなく、江戸においてもまた、大和錦の京みやげとして喧伝されたる際のことなれば、『中山問答』あるいは、『中山殿中物語』として写本が行なわれたること非常なりしなり、それが禁忌にふるるとは、幕府の専横を意味するものと見るべし(筆禍史)。
事のついでに尊号事件についても少し説明しておくと、光格天皇が父典仁親王を太上天皇にしたいと願い、寛政元年に勅使を派して幕府にはかったところ、幕府側はこの願いをとりあわず、御領を千石増進するという沙汰だけで捨て置いた。しかし四年後に幕府が朝廷に武運長久の御詠をたのみ、それを朝廷側が渋ったことから問題が再燃し、五項目にわたる難問を朝廷へつきつけることになる。そのおり勅使として江戸へ下ったのが中山愛親だ。
迂余曲折をへて最後には徳川方の黒星におわるが、関西人はこの尊号事件を語りつたえ、ききつたえ、やがてその中心人物中山愛親の株は、一気に上昇、やがて京坂の巷の人気者になる。
逮捕された瑞竜は、訊問に答えて、「実はあの種本は先ごろ反古のなかから発見したもので、一つこれで当ててやろうと思ったまでのこと。絶対に他意はございません」と陳述した。瑞竜は『中山物語』が発禁本だとは「かけても知らず候ひき」と答えたことになっているが、これは法廷での方便であろう。取調官もこの陳述をうけいれず「なにを申す。数十年まえならいざしらず、享保中の禁令を知らぬというのは通らぬ、それを知りつつレパートリーに加えたとは不埒千万」ということで処断してしまう。
『兎園小説』の作者琴嶺は、さらに瑞竜の娘おたきの減刑嘆願の後日譚にふれ、「こはまたまたむすめの孝行ゆえなりとて、親もよろこび人も嘆賞するほどに、くだんのむすめは、ある豪家の子の婦に懇求せられて、ゆくりなくよすがいで来しかば、瑞竜もその家より扶助せられて、おんかまいの場所ならぬ近郷に、半生を送ることを得たりとそ聞こえし。それ孝は百行の本なり」と結んでいた。
長々と瑞竜事件について書いたが、私がいいたいのは、講釈家たちの反骨についてだ。講釈師の舌禍には、馬場文耕や赤松瑞竜のほかに、たとえば桃林亭東玉や松本竜谷のケースがある。
桃林亭東玉こと塚田太琉は、通称阿部桃次郎、若いころ禅門に学び、一時聖堂学問所の小使をしていたこともあるという。話術に秀で、女子どもまで魅了する口演ぶりで、現代風に云えば俗うけ≠オたとでもいうのだろうか。天保の一揆が江戸・大坂でおこった年の秋、名古屋で独演会をやったところ大入満員、会場を急遽変更して寺の本堂を借りたくらいだ。この噂をつたえ聞いた大坂の興行師が、手金三十両で彼と契約し、大塩平八郎の乱のあった天保八年春、大坂で公演することになった。天保山の構築にひっかけて、「富士つくば、おいて見に来よ天保山」などと大坂人の人気にあてこんだ刷りものを配り、あるいはその句を染め抜いたノレンを大坂の理髪店(髪結い床)へ送りつけたりして、もっぱらPRにつとめた。そこへ大塩の乱が突発する。
大坂の町々は一時この事件でもち切り、一時は講釈どころではなくなるが、騒動がおさまると泉州堺へ難をさけていた太琉はふたたび大坂へもどり、早速大塩事件を読みものにして「慶安太平後日の講釈」と題して公演した。由比正雪の慶安太平記に大塩事件をアレンジしたものだろう。しかし大塩事件でふるえあがっていた取締り当局は、彼の人気が、庶民の問に別の連鎖反応をひきおこすことをおそれ、三日目に中止命令を出した。こういった例はいくつかある。
塚田太琉が初代の桃林亭東玉を名乗ったのは、この舌禍事件のあとだが、彼はある時、門人のひとりにむかって、「同業者のなかには講釈師は芸人ではなく天下の御記録読み≠セと、身分も一格ちがうようにうぬぼれているものがいるが、心得ちがいもはなはだしい。講釈は芸の一つなのだから、まずおもしろさが第一だ。お客から名人だ、上手だとほめられると、何となく別格のようにうぬぼれて、大衆から遊離し、客足もおのずと減るものと思わなくてはならない。おもしろいとお客から云われることがなにより心すべきことだ」と語ったという。
講釈はもとの釈≠ゥら講≠ヨ、さらに演≠ヨと変貌してゆく。それにともなって名君武将の英雄譚が市井の侠客や白浪ものなど、いわゆる世話ものに席をゆずり、軍記読みが前座芸に追いやられてしまうことについては前にふれた。
ここで肝要なのは、講談が天下の御記録読み∞太平記読み≠ニして出発し、一面では体制の要求と密接しながら、もう一つの修羅≠生きることを祈願した話芸であったことだ。この性格を抜きにしては、大衆芸能のなかでの講談の位置づけは不可能だ。つまり怒りの芸術だったことの基本的性格である。
では怒りの芸術としての講談は、明治・大正・昭和の三代をとおして、どのように変貌してきたか。いやその基本型ははたして、今日の講談に継承されているか―の問題にふれる必要があるようだ。
明治期に入って講談は、このもう一つの修羅≠生きる悲願を喪失し、ひたすら大衆芸として俗に徹することに終始したと私は思っている。こういった表現は誤解をまねきやすい。むしろ創生期のェネルギーを芸の練磨のうちに陥没させたといったほうがいいかもしれない。そして怒りの芸術としての講談は、政治講談、民権講談などの演≠フ系譜にうけつがれて行ったのではないか。
哀退の二要因
一竜斎貞鳳が「講談師ただいま24人」をまとめたのは、昭和四十三年七月のことだった。
彼がその本をまとめた当時講談師として登録されていた人数は、大阪の旭堂南陵を加えて二十四名。「一億の中のたった二十四人」といったのもムリはあるまい。それが一年たたぬうちに、もう二人欠けている。講談組合の相談役だった田辺南鶴が、六月二十三日に胃ガンで没し、七月二十七日には、組合頭取をつとめた一竜斎貞丈が脳出血で不帰の客となった。南鶴が七十二歳、貞丈六十一歳。ともに、衰退した今日の講談界にとっては貴重な存在だった。南鶴は昭和二十八年春いらい「講談研究」というパンフレットを発行し、寄席文化研究に貢献した。その「講談研究」に南鶴みずから筆をとって次のように書いたことがある。
一、古典はそのまま、深くさぐり、勝手な理窟はつけぬこと。
二、芸人は評論家になってはいけぬ。枕と引例は学とその人の個性をよく露出するもの故よく勉強して、己を磨くこと。
三、講談師は歴史家や考証家でないから、衒学者にならぬこと。
四、宮本武蔵は、宮本らしく、次郎長は次郎長らしく、理窟なしに、三代目伯山の次郎長伝のごとく、面白く聴いてもらえるように勉強すること。
五、新作物はよくよく勉強して、おっつけしごとはしないこと。至誠と熱があればきっと聴いてもらえること。
六、高座百ぺんの鉄則を励行すること。
七、お金を出して聴きにくるお客さまを忘れぬこと。
八、常に背水の陣をしくこと。
九、健康を守ること。
以上だが、これは南鶴が自戒の言葉としたものであろう。しかし南鶴の自戒にとどまらず、ひろく芸界みずからのいましめとすべきだ。とくに古典性の保持、表現のリアリズム、大衆性などについての言葉は、大衆芸能全般にあてはめることのできる表現であろう。
南鶴は先々代金馬のもとで金平と名乗っていたこともあり、先代小円朝のところで一朝と称していたこともある。落語から講談へうつったのは二十三歳のときだ。それだけに音曲にもくわしく、踊りもおどれた。タンテイものや伝道講談などに特色を発揮したのも、その芸域のひろさのあらわれか。貞丈も早稲田実業に在学中、雄弁大会でやった講談が人気を博し、それがもとで講談界へ飛びこんだ人だけに、ひろく書物を読み、故実の研究をおこたらず、社会人としてのはばもある人だった。このふたゥが相次いで没したことは、講談界にとっては大きな痛手である。
敗戦の年に六代目の貞山がなくなり、つづいて南玉、燕楽、伯鶴、先代山陽、先代ろ山が去ったと思うと、昭和二十四年には四代目の芦洲、伯竜、二十九年には南竜と大ものが没し、さらに三十三半には若燕、三十六年には五代目芦洲、三十九年には燕雄、四十年には貞吉、伯鱗、先代南陵、四十一年には七代目貞山、四十二年には、松鯉が逝った。そして四十三年の南鶴と貞丈である。貞鳳の本は、今や「講談師ただいま22人」と改めなくてはならなくなったわけだ。あとにはすでに九十歳にちかい服部伸(一心亭辰雄時代をふくめて、彼は人間国宝に指定されるべき存在だ)、七十代の如燕あらため五代目伯山、琴窓、光陽、あるいは六十代の馬琴となって、あとはいずれも五十代以下となる。
幕末から明治の二十年代、三十年代へかけて、巾着切り文車とか泥棒伯円、それに百猫伝の如燕、義士伝を得意とした三代目の貞山、ノンノンの南竜など、江戸期の味をタップリとしみこませる名人上手が輩出した最盛期の活況にくらぶべくもない。二代目の伯山、桃林、のちに一となった邑井貞吉、馨の南玉などを経て、大正期の八丁荒しと異名とった三代目伯山、軍談読みの三代目馬琴、硬軟両様のはばひろい芸域をもった典山などの時代と比較してもこの衰退はおおいようがない。
なぜ講談がこれほど衰退したのか、これにはいくつかの理由が考えられる。
一つは大衆をひきつけるだけの名人上手がとぼしくなったこと。したがって、その芸にひかれて、講談の世界にとびこんでくる後継者があらわれず、わずかに現状を維持するのにせい一ぱいなこと。
二つには講談の定席が限られ、仕事の場をほかのジャンルなり媒体なりに求めないわけにゆかず、勢い寄席芸としての大衆的な練磨の機会にめぐまれず、芸の修練が不十分であること。このことは一の問題とも関連するわけだが、それというのも、講談という古い皮ごろもに、新しい酒を盛りこめなかった結果ではないか。
政治への批判と抵抗
明治二十年代、三十年代の隆盛は、江戸期いらいの大衆話芸の成果の上にきずかれたものだ。有竹修二はその繁栄を、「名人上手が輩出し、世人一般の回顧趣味、江戸時代への郷愁も手伝い、かつ徳川時代には憚って云いにくかった徳川家や各大名に発生した事件を平気で語る自由を得たこと」に原因をもとめていた。阿部主計もその現象にふれて、「多年蓄積され完成された技術と、その内容への懐古趣味とが、まだ映画のような新時代の庶民演芸が現れない前の時代の断層に当って、人口の増大という現象の上に活かされ、利用されたに過ぎなかった」と書いていた。
実際に浪花節(浪曲)や、活動写真(映画)が、人気をあつめるようになると、講談は急速にすたれはじめる。講談師で明治天皇の御前講談をやったのは、泥棒伯円と、百猫伝の如燕だ。いずれも明治二十年前後のことだが、寄席の大衆芸能家が、御前講談を行なうということのなかに、そのプラスとマイナスが読みとれる。プス面は、大衆芸能として一段ひくくみられていた講談が、御記録読み本来の精神にのっとり、御前講談の大役をはたしたことによるステータスなものの確保であり、マイナス面は、そのようなことに象徴される明治教学思想との融着現象である。これは円朝の場合にもいわれたことだが、講談はつねに寄席芸としての本領へ立ち戻る必要があった。なまじ教学的なものにつきすぎると、大衆芸能としての本分からとおざかることになる。伯円が世話講談に独得の境地をひらきながら、さらに明治の社会的諸事件に着目し、民権講談の先駆者としての功績をのこしていることを考えると、彼がはたした近世から近代への架橋の役割が、円朝と比較してけっしてひけをとらないものであることがわかる。
この伯円の積極的な姿勢は、その後かえって政治講談のなかにひきつがれ、馬鹿林鈍翁、初代伊藤痴遊、あるいは新講談の大谷内越山から、細川風谷をへて、現在の邑井操、二代目痴遊、大谷竹山あたりに伝承されるといってよかろう。
政治講談は政治小説の話芸版として理解することができる。つまり政府による言論弾圧が強化されたため、小説というメディアを借りて政治小説が誕生したように、政治講談も政談演説が弾圧されたための、やむを得ない便法だった。明治十四年の暮に政談演説を禁止された坂崎斌はさっそく遊芸人の鑑札をうけ、高知市の広栄座という芝居小屋で「東洋一派民権講釈一座」の旗上げをした。馬鹿林鈍翁の芸名は松林伯円にもとづくといわれる。坂崎につづいて奇妙法王(岡野知荘)、先憂亭後楽(竜野周一郎)、虚無庵天福(渡辺作成)、先醒堂覚明(奥宮健之)などが輩出した。あまり政治講談が盛んになったために、明治政府は一時は木気になって講談条例の布告を考えたほどだ。
この政治講談は自由党が解散する明治十七年秋頃を境にして次第と衰微し、初代伊藤痴遊の出現によってふたたび隆盛となる。彼は度応三年二月に横浜に生まれ、小学校を卒えただけで満十五歳の折に自由党に加入して以来、言論取締りのために何度か拘禁され、禁錮刑をうけ、衆議院議員に二度当選、五度東京市会議員をつとめるなど、直接政治の分野で活躍しただけでなく、伊藤博文、井上馨などを友人呼ばわりして快弁をふるい、昭和八年以後は話術研究会をおこして多くの後輩を育てた。後に二代目を継いだ田辺南遊も、邑井操も、小伯山から二代目山陽を継いだ浜井弘なども、話術研究会の出身だ。野村無名庵は「まったく先生のは、話術くさからぬ最上の話術だった。抑揚があるではなく、誇張が伴ふでもよく、形式張らず、勿体ぶらず、癖もなければ、節もなく、平々、淡々、急がず、迫らず、悠々、循々として、説き去り説き来るところ、座談の調子と、何等の変るところもない。而して何時間口演しようと、最初から終まで、一貫して狂いを見せす、如何に複雑した難解の事件も、通俗平明によくわからせて、而も滋味興趣津々として尽きないから、聴衆はその巧妙さと内容の豊富さに陶酔し、何時間かかっても今はじまったような思いをし、息もつかずに聞き惚れざるを得ない事になり、甚深なる印象と感銘を与えられるのである」と書いたものだ。
現実政治への関心と、話芸をとおしての啓蒙と批判、これはその後平民溝淡、社会講談の書き手たちがはたそうとしてはたし得ながった課題でもある。私は講談が「もう一つの修羅」を生きる怒りの芸術だと書いた。馬鹿林鈍翁や初代の痴遊にはその「もう一つの修羅」を生きる抵抗惑がうずいていた。この意識を喪失したところに、講談衰退の第三の理由があるのではないだろうか。
古い皮ごろもに新しい酒を盛ることは容易ではない。形式をそのままにしておいて内容ばかり趣向をこらしても、頭でっかちなものになって大衆を魅了するところまではゆかない。新しい酒には新しい皮ごろもが必要なのだが、無暗やたらと伝統的な話芸のフォルムを崩したのでは、講談そのものの存立する余地がなくなってしまう。大衆芸能の発展の難しさは、こういったことにもとづくが、浪花節がステージ浪曲となり、やがて歌謡化して浪曲本来の語りを忘れてしまったように、単なる話芸に分解されてしまったのでは発展のメドがたたない。
服部伸は一心亭辰雄時代にバイオリンを伴奏に使ったが、講談にも鳴りもの入り講談が行なわれたこともある。しかし講談の魅力はあくまでも素ばなしの味わいにあるのだ。小島政二郎は講談の実体にふれて「わたしは飽くまで説話芸術だと思う。高座に現われて一席よむ、その人のよみ口に終始する芸術だと思う。そういう意味で、講釈と講釈師との関係は、楽譜と音楽家との関係に似ていると思う。だから、講釈は活字で読むものではなくて、聞くものである。聞いて初めて『芸術』としての講釈に触れ得るわけだ」と述べていたが、講釈の席が本牧亭一軒という状態ではどうしようもない。講談に較べて落語は、今日のテレビ状況に巧みにのって隆盛をほこっている。しかしこれは何も色物めいた余興番組によるはなし家のタレント化の結果ではなく、むしろそういった状況をふまえて、より深く、またより高く観客をひきずりこんでいった芸の味わいによるものであろう。古典落語の味わいは、人情の機微をとらえて人間的な厚味を添える話芸だ。それに反して講談は怒りを軸とした歴史読みにポイントを置く話芸である。封建的なモラルを受けつぐだけの義理人情礼賛では、到底今日の大衆をつかむことはできない。そのためには大衆の怒りとは何であるかを講談の本源的な存立へたちかえってたしかめる必要がある。私は講談を日本語の精髄をいかした独特な話芸だと思っているが、その醍醐味を伝えることができない講談師では、今後の発展は望み得ない。
衰退をやぶる可能性をどこに求めるか
講談の衰退がいわれたのは、何も現在が最初ではない。既に関根黙庵の時代からいわれてきたことだ。にもかかわらず、芸界の先達たちが名人かたぎにこりかたまって、新人の育成に力を貸さず、芸界内部の抗争に無駄なエネルギーを費し、ブームが去った時には閑古鳥が鳴く状況を、かえって衰退を、その中での悲壮美として味わうだけであったために、貞鳳のいう「講談師ただいま24人」の窮状ともなったわけだ。
ではどうすればこの状況を切りぬけることができるのだろうか。一人の清張が登場することでミステリーブームが生まれたように、不世出の名人が講談界に誕生することが何よりだが、そんなことは奇蹟にすぎない。むしろじっくりと腰をかためて、二十二人の講談師たちが、日木の誇るべき話芸伝統をいかに保存するかを真剣に考えるべきであろう。南鶴のいった「古典はそのまま、深くさぐり、勝手な理窟はつけぬ」という言葉は、単に骨董的見地からの温存を意味するものではなく、むしろ積極杓に古典の批判的摂取を経て、本源的な話芸伝統を今日に根づかせることだと解したい。この基礎を見失ったのでは、何をどう新しがったところではじまるものではない。怒りの芸術としての話芸伝統を「もう一つの修羅」で今日に生かすこと、これが講談をよみがえらせる基本的な方向なのだ。大衆性を無視した大衆芸能は、床の間の飾り以外ではない。大衆のもつ可能性にふれあうことによって、はじめて講談も今日に生きることができる。素ばなしの伝統を踏まえた話芸が伝承されるか否かは、このことに関連する以外にはない。貞花や貞鳳らの若い世代がこれからの講談を発展させてゆく道は決して平坦なものではないだろうが、彼らがその使命感を知っていることから考えても、まだまだ多くの可能性を感じるのだ。貞鳳は「講談師ただいま24人」のあとがきで、芸は完全に近いが客の方が来ない。客は来たが芸はダメ、のどちらでも困るので、その二つをまぜて一つの商品をつくり上げるのが私たちのつとめだと書いていた。たしかに講談を享受する形態にも問題がある。昼席が二カ月で夜講が一カ月などといわれた時代に較べると、講談そのものも読切り形式が多くなり、長講一番、じっくりとかかってロマン的な世界をよむ機会は乏しくなった。ましてや昼席へでかけるなどの客は、かえって稀有な存在であろう。講談を受け手のお茶の間へ送りとどけるためにはマス・メディァへ即応することも考えなければならないが、逆にマス化・マスコミ化によってスポイルされることも覚悟しなければならない。私はむしろコンセル・ヴァトワールのシステムではないが、日本語の基本にもとづく講談の修得を、小中学校の生徒に必修課目として学ばせるくらいの決断をもちたいと思っている。