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講談とは何ぞや。そこからはじめましょう。日本の伝統的話芸の一つですが、古くはこの言葉に宗教的意味がこめられているように思われます。「講」は講義することであり、仏典の講読や説法を中心とする仏事、中世以後は仏事を行うために民衆が集団になってまとまって行う旅行会や貯蓄のための講中の略称になりました。「談」は話すこと。二つの文字をあわせると、講義をおしゃべりする意味になります。 江戸時代には講釈といいました。書物や文章の意味を説き明かすことに由来していました。書物や文章の意味と書きましたが、その基になっている書籍は、写本か活字本で流布していくわけですが、写本は限られており、活字本の場合でも清水執行作『祇園物語』に「京やゐなかの人々に二三千とおりも売れ申せし也」と書かれていて、これがベストセラーとされているのですから、今日の部数とははるかな隔たりがあるのです。 人間にとっては「学問」と「情報」は生きていくうえに不可欠な要素で、これは現代でも、遠い昔でも変わりのない条件です。 「学問」は武家では幕府や藩による学校があり、一般庶民のあいだでは寺子屋が開かれて、読み書きを教えました。。 「情報」は、鈴木棠三著『江戸巷談・藤岡屋ばなし』の一節、「変り者で、いっこくな老爺が、御成道の路上に筵を敷いて古本を売りながら、素麺箱を机に何かしきりに書いていて、連日倦むところがなかった。何を書いているのかは記してないが、人はお記録本屋と呼んだと、本の内容を暗示している。それが藤岡屋日記だったのである」という部分を引用しておきます。その日記は、他人の話や世の中の噂を始終追っているのです。 噂話は、上は将軍さまから下は長屋の八つぁん、熊さんまで広い範囲におよびます。そういう情報をいかに早く仕入れて伝えるかが、巷談のおもしろいところなのです。 講談と書かずに、巷談の文字を使いました。もちろんこれは風説・俗説を指しているのですが、なぜか古くから噂話は風の如く伝わっていく性質をもっていました。 本来、学問・情報は書籍による伝播が中心です(今日では活字媒体ばかりでなく、ラジオ・テレビなど放送媒体もふくまれます)。しかし、当時は書物の値段は一般の相場に比して高かったと思われます。 「寛政三年当時、小判(金)一両(銀四分=一六朱)は銀五五〜五九匁、銅銭一貫文(一〇〇〇匁)であり、米一石が銀四七匁〜八一・七匁となっている。江戸時代は大ざっぱに米一石一両といわれているから、一両はいまの四、五万円に当るか」(鈴木敏夫著『江戸の本屋』下)と書かれていて、洒落本の全本一冊が銀一匁五分、中本形で二匁から二匁五分、貸本では一巻の見料二四文というところから計算すると、約二五〇〇円位でしょうか。あるいはその倍以上と考えられます。そこで都会では貸本屋が得意回りをして、見料をとって商売にするようになりました。 しかし、書物は江戸後期に全国二五五校あった藩校の教育に用いられ、同時に上流町人たちにも拡大していったのですが、一般大衆は向学の意志は持っていてもこうした勉強の場は得られず、心の糧を求めるために身近なところを見回して手がかりを探してみたに違いありません。 彼らは、読書によって知識を得る道を断念したかわりに、芝居や浄瑠璃によって自分たちの知らなかった新しいものを得ることができたのです。 芝居・浄瑠璃は娯楽であると同時に人間社会のもろもろのことを教えてくれました。今日でも浄瑠璃の詞章を読むとかなり難解な言葉が使われ、中国の故事もさかんに取り入れられています。義理・人情の道もわきまえて人倫のあるべき姿を伝えています。つまりは人間教育の場としての効用がいっぽうにははっきりと明示されていたのです。 こうした「演劇」の効能を、どのへんまで溯って考えたらよいのでしょうか。 浄瑠璃という名称は「十二段草子」の主人公の浄瑠璃姫に由来しています。三河国矢作地方に伝わる峰の薬師の霊験物語に牛若丸(源義経の幼名)を結びつけたラブ・ロマンスが、人気を得て、語り物の代名詞になったのです。つまり、耳学問のルーツを辿っていくと、語り物に到達し、いかに音楽が民衆と密着してきたかをあらかじめ知っておく必要が生じます。 古代大和朝廷では、旧辞・伝説などを伝誦する役人が、語り部としていて、この伝誦が基になって『古事記』『日本書紀』が編まれたと考えられています。しかし今日では、古い形としては中世の『平家物語』を語り歩いた琵琶法師たちが初期の語り手といえます。略して「平家」とか「平語」、一般には「平曲」と呼ばれているものです。琵琶をかかえて没落していく平家の有様を諸人に伝えていきました。 源平の合戦の末に平家が滅び、源氏が頭領となった革命は、日本全体を揺がすような大事件だったのです。貴族政治から武家政治に変革したと歴史は教えますが、大衆意識のなかでは、関東の野人が平家の栄華を押し倒した、それは『平家物語』でいう「盛者必衰の理りを現わす」という仏教の無常観でなければ推し量れぬような悲劇だったのです。 盲僧たちは、琵琶をかかえて全国を行脚しながら、「平家」を語ることによって人間のむなしさや宿業を教え広めていったのでした。 その延長線上に、盲目の女性による瞽女歌があり、物語僧による説教があり、ここから釈文・説教・祭文といった芸能化への道をたどっていくことになるわけです。 中国から沖縄を経由した蛇皮線(胴に蛇の皮をはった三絃楽器)が日本に渡来したのは一四〇〇年頃と推定されていますが、本土には大きな蛇がいないために楽器が改良・工夫されて、蛇皮線を訛った「しゃひせん」から「三味線」と呼ばれるようになり、語り物の伴奏音楽となったのです。「十二段草子」が人気を高めて、主人公の名が浄瑠璃の代名詞になったことはすでに書いたとおりですが、ふつう浄瑠璃という場合、語り物を指しております。元禄期以前のものを古浄瑠璃、元禄期以降の竹本義太夫の義太夫節などが上方浄瑠璃、江戸に出て流行した豊後節系統の常磐津節・富本節・清元節・宮薗節・新内節があり、ほかに半太夫節・河東節・一中節なども語り物(叙事)として、長唄をはじめとする唄物(叙景)と区別しているのです。 今日の浪曲(浪花節)も、説教節やデロレン祭文(デロレンの擬音をもつ錫杖の合の手にあわせた祭文)、阿呆陀羅経(チョボクレ)などの流れをくんでいます。浄瑠璃よりもさらに大衆に密着していました。 「説教は語り(描写)、祭文は読み(報道)、この祭文の読み口の早間になって行ったのがチョボクレ(阿呆陀羅経)である」(正岡容著『日本浪曲史』)とあります。 さて、これらが講談とどう結びついていくのでしょうか。 関東節の開祖といわれる浪花亭駒吉という浪曲師は旭堂南慶という講釈師から講談の演目を学んで「曾我物語」「仙石騒動」「大塩平八郎」などを演じたといいます。講談が下火になり、浪花節人気が上昇していった明治一〇年代に、講談のネタがずいぶんと浪曲に流れていったことになります。 一つの物語(ネタ)が、ほかのジャンルに移って、また新しい作品がつくられるというケースは、ごく当り前のことでした。そのまま移すこともあり、すっかり書き改めて別の作品に仕立てかえることもあります。 歌舞伎のほうで世界と呼んでいるのは、物語を系統別に分類したものなのですが、その世界という言葉こそ使いませんが、語り物は作品がふえれば系統別に分けられます。 佐野孝著『講談五百年』によると、「鳥羽天皇の御宇京都一条に於て辻講釈をした吉岡鬼一法眼憲海を以て始祖となすの説もある」とあります。これは明治一五年講談業者が警視庁に提出した由来書にあるもので、根拠のある説ではないとしています。吉岡鬼一は、京都一条堀川に住んでいた陰陽師で兵方書の六韜三略を所持していて、牛若丸に伝授した伝説の人物です。ついでながらこの兵法書を虎の巻と呼び、今日では安直に利用できるアンチョコの意味に使われているのです。 鳥羽天皇の御宇、すなわち嘉承二年(一一〇七)より保安四年(一一二三)まで在位されていました。眉唾なのは当然です。が、今日の浄瑠璃・落語・講談といった物語を話し、語る芸能のルーツに仏教の講があるとすれば、相当古い時代に遡ることができます。説教研究の第一人者関山和夫氏は、「文献にあらわれる日本の説教の最初のものは、推古天皇六年(五九八)ごろにおける厩戸皇子(聖徳太子)の勝鬘経講である(法王帝説)。説教はる奈良・平安のころに大いに発展し、幾多の名人が続出した」と書いています。 つまり吉岡鬼一法眼は眉唾でも、説教をルーツとする話芸が布教の手段として古くから伝わってきたことはまぎれもない事実なのです。さて、その話芸が芸能化していく過程でどの時点で講談に形を整えたかが問題となります。 関根黙庵著『講談落語考』には、「その始めは慶長(一六〇〇年)の頃、赤松法印と云へるものがあって、徳川家康公の御前で、源平盛衰記、太平記等を度々進講し、続いて諸侯にも召されて軍書を講じたのがそもそもの濫觴であると云ふ」と述べてあり、法印とは僧侶に準じる者たちや山伏・祈祷師たちがそう名乗っていました。その後に、元禄一三年(慶長より約一〇〇年のち)に赤松青龍軒が江戸・堺町に講釈場を構え原昌元と名乗って軍談を講じ、京都では原永●が講釈を行っていたとか、青龍軒と並んで名和長年の末裔の名和清左衛門が京都より江戸に出て軍書を読んで繁昌しました。 ここでわかることは、赤松姓あるいは名和姓という武家出身とおぼしき人たちが軍書を講じていたこと。もう一つは京都と江戸が結びついていることでしょう。 近松門左衛門が正徳五年(一七一五)に書いた人形浄瑠璃「大経師昔暦」に、大経師以春に奉公する玉の伯父赤松梅龍が登場していて、浄瑠璃にはこう描写してあります。「岡崎村に分限者(金持ち)の下屋敷をば両隣、中に挟まるしょげ鳥の浪人の巣のとり葺屋根、見る影細き釣行灯、太平記講釈、赤松梅龍と記せしは、玉がためには伯父ながら奉公の請(保証人)に立ち、他人向にて暮しけり。講釈果つれば聞手の老若、出家まじりに立帰る。なんと聞事な、講釈五銭づつには安いもの、あの梅龍ももう七十でもあろうが、一理屈ある顔付、アアよい弁舌、楠湊川合戦、面白い胴中(まっ最中)、仕方で講釈やられたところ、本の和田の新発意(和田賢秀は剃髪して新発意と称して合戦で戦死したところから、新参の僧を新発意と呼んでいる)を見るような、いかい兵でござつたの、いづれも明晩明晩と、散り散りにこそ別れけれ」。少し長い引用ですが、梅龍をとおして当時の風俗がわかります。岡崎のこぢんまりした家で、武士のなれの果ての老人が、毎晩近所の老若男女や出家を集めて『太平記』をおもしろく読んで聞かせ、それを商売にしていたのです。はじめの頃は自宅で細々と客を集めていた講釈も「祇園の涼、糺の森の下などにては、むしろしきて座をしめ、講尺こそおこりならぬ。それを又こくびたかふけて聞きゐる者もあり」(『人倫訓蒙図彙』)という風景も見られるようになりました。 世の中平和になって、昔の武士も何か生活の道を考えなければならなくなっていたのです。「大経師昔暦」にはさらに「暮六つ(六時)から四つ時分(一〇時頃)まで口をたたいて、一人に五銭づつ、十人で五十銭の席料をもつて露命を繋ぐ」暮らしぶりが描かれています。 やがて講釈を生業とする浪人たち、発展著しい新興都市の江戸に集まるようになり、追い追い浅草などで辻講釈をはじめるようになります。享保の神田伯龍子、霊全、滋野瑞龍軒、成田寿仙、村上魚淵、さらに深井志道軒などが現われて、聴衆の人気を集めるようになったのです。 義太夫に近松半二らの合作「太平記忠臣講釈」(明和三年=一七六六大坂竹本座)があります。いわゆる赤穂浪士の仇討ちを『太平記』の世界に仮託した作品です。先行作の「仮名手本忠臣蔵」もやはり元禄の事件ではなく『太平記』の時代の物語に設定しています。この頃になると、『太平記』と「講釈」が一つの熟語になるくらい各地で人気を得ていたことがわかります。 『太平記』は、後醍醐天皇の即位から後村上天皇の時代まで五〇年の南北朝の動乱を描いた軍記物語。同じ戦争の物語でも『平家物語』は仏教思想を反映させたロマンがありますが、『太平記』のほうは現実に立って政権の争奪に明け暮れする政治に、民衆が巻きこまれる悲劇を描きあげた四〇巻におよぶ大長篇です。 南北朝の抗争は、京都の持明院統(後深草天皇から後小松天皇に至る皇統)と吉野の大覚寺統(亀山天皇にはじまる皇統、後醍醐天皇が建武中興ののち吉野に南朝を立てるものち北朝と合体)の二つの朝廷が対立した動乱を、主に南朝の立場から描いた文学です。 後醍醐天皇の北条高時の倒幕計画、正中・元弘の乱、護良親王・新田義貞・楠木正成、それに足利尊氏の参加で北条幕府は九代で倒れます。その後の尊氏・義貞の確執、正成兄弟や名和長年、それに義貞、北畠顕家らの戦死のなか、後醍醐天皇の崩御。さらに足利幕府の勢力が強まると共に、公家方と武家方との和睦離反が繰り返されるのです。 半世紀の入り乱れての物語は、軍記物語としては波乱にみちて大衆に喜ばれるスリル、サスペンスがあります。しかし、一方ではその離合集散の過程が難解をきわめる点がなきにしも非ずなのです。難しい話をわかりやすく絵解きするのが講釈の役割とすれば、そこにどのような話術が用いられたか、ビデオもカセットもない時代ではっきりしませんが、関山和夫氏は説教の話芸について「はじめシンミリ、なかオカシク、おわりトウトク」「一声、二節、三男」などという伝承のあったことを記していますから、『太平記』といえども、原文をそのまま朗誦しながらもさまざまの技法を工夫しておもしろく聞かせたのではないでしょうか。おもしろくなければ、安い席料であっても客は集まらなかったでしょう。大衆を感銘させ、呼び捨てる何かがあって、しだいに芸能として人気を高めていったのだと考えます。 『太平記』は流麗な和漢混交文で書かれ、中国の呉越の戦い、伍子胥をはじめとする戦時の故事も引用してあります。漢文や中国の古い話は、当時としてもやさしく翻訳して聞かせなければ、大衆は理解できません。 いってみれば、『太平記』をテキストにした耳学問の効用があったのです。 (以下省略) |