新島広一郎『講談博物志』

平成4年1月15日。



 講談本の源流
 講談という言葉が使われ出したのは明治になってからで、江戸期には講釈、太平記読み、軍書の講談、軍談の講釈、舌講、辻講釈などと様々の呼称があって、これを演じた者は主として僧や神主又は浪人者が多かったようである。
 講釈の意味について、野村無明庵が『本朝話人伝』の中で「軍談や読物、記録の類を、講義読釈、分りいいやうにといて聞かせるといふ意味でございましょう。そもそもの始めは慶長の頃、赤松法印といふ人が、徳川家康公の御前で、源平盛衰記、太平記等の類を度々進講し、続いて諸侯にも召されて軍書を講じたのが濫觴であるとしてあります」と説明しているように、「読物、記録」を講釈の題材として、野天の大道や社寺の門前で聴衆を集め面白、おかしく演じた話芸なのである。
 扨、講談の題材が『太平記』を原典とすることに倦き始めた聴衆に応えるため、講釈師は西鶴や馬琴の勧善懲悪を骨子とする読本に注目したほか、中国小説の翻訳物、例えば漢楚軍談、三国志、西遊記、水滸伝などを日本的性格のものに造り上げた。更に仇討物の流行が講談の世界を拡大したのである。
 しかし、講釈や読本は初期においてはレベルが高く教養人向きであったので、庶民向きに小冊子の草草紙が大量に版本となって現われた。その中には大人向きのものや婦女子、子供向きの物など様々であった。
 江戸文化の思想的特徴は神・儒・仏の三大潮流が支配的で、どの家庭でも神棚もあれば仏壇も据えられ、寺子屋では儒教が盛んという状況で、出版文化にも当然その影響が色濃く浸み込んでいる。その上、幕府の武士道励行に伴って、講釈師や読本製作者の行った大衆への啓蒙活動も文化史的に無視し得ないものがあったと考えられる。
 幕末(ママ)の変り者で講釈師であった深井志道軒に関する逸話が多数の文献に載っている。最も有名なのは、平賀源内の『風流志道軒伝』である。平賀源内の奇行も遥かに及ばなかったという志道軒について、『賎のをだまき』に次のような記事が載っている。
 「志道軒とて辻講釈をして世を渡る坊主あり、古今の名人にて人物もはや老人にて惣て垢のぬけたるきれい者にて、人をへちまと思はず記録物を講釈するに、初め少しの内実の事を云てそれよりおどけ立とわる口をいひ様々に狂じて人を笑はすること希代の者なり、八、九寸の木にて男根を拵へ、それを手に持って拍子を取り(トントントンと叩く)面白きわる口、おどけをいふ、皆頤を解て聞居るなり……」
 深井志道軒(名は栄山、号は無一堂)は、僧上りで学問に造詣深く、世事、道理をやさしく警句や滑稽、戯言を交えて説得し、若し座に婦女子や僧侶が居ると罵詈雑言を浴せて追い出したという一世の奇人である。
 扨、本書は講談の歴史が目的ではないので詳説は他書(巻末に紹介)に譲るとして、元来伝統の話芸としては浪花節、落語などがあるが、講釈(講談)は「太平記よみ」と云われたように「読む」芸であり、浪花節は「語る」、落語は「話す」芸としてその性格から来る位置付けがなされている。
 現代では「浪花節語り」とは云わず「浪曲師」であり、「噺家」ではなく「落語家」が普通であるが、昭和初期の頃までは古い表現が残っていた。
 講談については「読む」という表現はあまりなく、明治中期以降、速記本として書かれたものが登場して来ると、「口演」「講演」「演述」という表現が演者の下に付記され、速記者の名前が併記されるようになった。
 本書の狙いはこの書かれた講談、即ち「講談本」の変遷を辿ることであり、明治中期以降各社が競って発刊した「講談小説」から主題は展開されるのであるが、その嚆矢である”桜表紙”と”ボール表紙”は看逃がせない。
(以下省略)

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp