永井啓夫『日本芸能行方不明―近世芸能の落日―』

(昭和62年10月25日)


話芸「お富与三郎」


「お富与三郎」説話は、長唄の四代芳村伊三郎の事蹟を題材とし、天保・弘化・嘉永頃に講釈師・乾坤坊良斎によって創作された。以来、講釈・人情噺をはじめとして歌舞伎世話狂言の重要な演目として今日も一般的な人気を保っている。話芸としては、成立以来、口演者の芸風や創意によってさまざまな工夫が加えられ、明治年間に完成されたものだが、昭和四十七年、二代神田松鯉の死によって講談としても人情噺としても、この貴重な演題は断絶したものと考えられる。
 そこで、この説話に集積されていた問題点を指摘し、近世話芸の再評価と関連芸能との比較を試みることとした。しかし、近世語芸に関する研究資料はまことに乏しいので、便宜上、講談・人情噺に関する聞書や芸談を全編の構成に従って排列してみた。講談系と人情噺系の混合、口演者の時代別などを一切無視した点についてはあらかじめ諒承されたい。
 登場人物のモデルについてほ長谷川伸氏らによって大方明らかにされているので省略し、はじめに話芸としての伝承経過を簡単に述べてみよう。

 一 ―話芸としての伝承過程―

 この説話を創作した乾坤坊良斎(万延六年歿、九十二歳)は、はじめ、初代三笑亭可楽の門に入って落語家となり菅良助と称した。しかし生来の不弁で人気が得られず、一八四〇年頃、剃髪して乾坤坊良斎と改名し講釈師に転じた。実演よりも作話に秀でていたため「お富与三郎」をはじめ、「白子屋政談」「四谷怪談」などの続き物を構成し、題材の面で後世を益した。「お富与三郎」の原作者であることは確実だが、それを実際に高座で演じたか否かは明らかでない。少くとも良斎の口演によって「お富与三郎」が人気を博したという記録は伝えられていない。「お富与三郎」が評判になったのは次の世代を担当した初代古今亭志ん生と、初代一立斎文車の時代からであった。
 初代古今亭志ん生(安政三年歿、四十八歳)は初代三遊亭円生の門下だったが、同門の円蔵が二代円生を襲名したのに不満を抱いて出奔、放浪ののち江戸に帰って自立し志ん生を称した。円生に対して真生の意である。「お富与三郎」「小猿七之助」など続き物の人情噺を得意とし、その天才的な芸風は青年時代の三遊亭円朝などにも強い影響を与えている。「お富与三郎」の演出については後に述べるが、同じく志ん生の得意の演目だった落語「九州吹きもどし」について、円朝は「真似もできない」といって自分では演じたことがなく、門下にも口演することを許さなかったという。円朝が「お富与三郎」を演じなかったのも、おそらくは同じ理由によるものであろう。
 一立斎文車(生歿不明)は、嘉永から文久年間に世話物読みの名人として人気を博した。大阪生れで豆腐商を営んでいたが、独力で講釈を学び自立したため一立斎と称したといわれている。「八百蔵吉五郎」など巾着切り(すり)を主人公とした世話講釈を得意としたため、「巾着切り文車」の異名があった。三代中村仲蔵の『手前味噌』によれは、嘉永六年、「与話情浮名横櫛」初演のときに、脚色者の三代瀬川如皐が取材したのは文車所演の「お富与三郎」であったという。二代瀬川如皐の別号に文事の名があるから、如皐と講釈師文車とは何らかの関係があり、その縁によって文車の講釈を種本に用いたのであろうか。しかし、『手前味噌』によれば、与三郎に扮した八代団十郎をはじめ出演者一同が文車系のストーリーでは気に入らず、志ん生所演の演出に改訂したという。文車が「お富与三郎」を演じたという記録は他に伝えられていないので、その内容を推測することができない。おそらく、文車は悪の世界の描写にふさわしい暗い芸風であったため、その台本も若旦那上りの与三郎とお富の甘美な情話としてはふさわしくなかったのであろう。
 「巾着切り文車」と並んで「泥棒伯円」と称され、幕末期講釈界の人気を二分したのは二代松林伯円である。
 二代松林伯円(明治三十八年歿、七十四歳)はその生涯に七十余種の講釈を創作したといわれている。代表作には「天保六花撰」「安政三組盃」「鼠小僧」などがあり、また「小猿七之助」「国定忠次」「お富与三郎」などを完成させている。幕末期には泥棒物を多く演じたが明治維新後は翻訳物・現代物をテーブルを前にして口演し、人情噺の円朝と並んで明治期大衆演芸界の双璧と称された。「天保六花撰」など黙阿弥らによって劇化上演され、今日に伝えられている作品も少なくない。講釈としての「お富与三郎」は、この伯円によって発端と大詰が加えられ完成したといわれている。
 明治以後、「お富与三郎」を演じた人々のうち、注目すべきものは、人情噺の春錦亭柳桜(明治三十年歿、六十九歳)、三代三遊亭円馬(昭和二十年歿、六十五歳)、講談の三代小金井芦洲(大正十五年歿、五十三歳)、二代神田松鯉(昭和四十二年歿、八十一歳)であろう。その芸風・演出については後に触れるが、いづれも一定の台本を忠実に守り、先人の口吻を口うつしに模写するような伝承の方法をとっていない。そこには講談や人情噺の区別などもなく、各演者が自己を主張して、それぞれの「お富与三郎」の世界を自由に展開させているのである。

 二 ―発端―

 創作された当時の発端は、日本橋横山町のべっこう問屋伊豆屋の一人息子与三郎が、道楽の末、保養の名目で上総木更津の親類へあずけられる条りから始まったと思われる。神田伯龍名儀の速記本によると、一人息子できまじめな与三郎が、ある日、商売仲間の会合のあと吉原へ遊びに誘われる。はじめての遊興で初心ぶりを笑われた与三郎が、これから遊びの味を覚えて遊蕩三昧にふけることとなる。現行の落語「明烏」のように青年の羞恥や廓情緒を主題とした好短篇として演じられていたのであろう。
 現行の落語「明烏」ほど独立していないとしても、これが文車・志ん生時代のストーリーであったと思われる。別に与三郎が義母への義理から義弟に家督を継がせるためにわざと遊興にふけり勘当されるというストーリーもあるが、これは明らかに歌舞伎の脚色を逆輸入した改悪である。
 しかし、三代小金井芦洲よりの聞書(長谷川伸)や故神田松鯉の談によると、明治以降この説話に、二代松林伯円が新しく発端と大詰をつけ加え、『依田政談』として首尾一貫させたのだという。つまり伯円は発端と大詰に名奉行依田豊前守を登場させ、世話講談のジャンルである「政談物」としての形式を備えさせたのである。伯円の速記としては明治二十四年に雑誌「百花園」に連載した「お登美与三郎・依田の雁金」などがあるが、速記の不完全さから高座の芸を偲ぶことはむづかしい。伯円の口演を記憶していた門人悟道軒円玉(昭和十五年歿、七十二歳)の速記本によると、発端は次のようなものとなる。
 伊豆屋与三郎は友達の茂吉(与吉?)と大川へ船遊びに行く。茂吉と悪船頭仙太郎の争いになり川へ落ちて茂吉が死亡する。仙太郎はこの事件を口外しないよう与三郎に強要したうえ、後日になって与三郎を訪ねては金銭をゆする。困りはてた与三郎に代って町内の寺小屋の師匠関良助が仙太郎を殺害する。世間に遠慮した与三郎は、しばらく木更津の親類に身をかくすこととなる。
 同じく伯円の口演を記憶している神田松鯉によると、関良助は与三郎を子供のときから訓育していた寺小屋の師匠で、与三郎の難を知り、平素伊豆屋から受けていた恩義に報ずるため仙太郎を殺害して奉行所に自首する。北町奉行依田豊前守の裁きで船頭仙太郎の悪事が判明し、関良助にも与三郎にも答めはなく事件は落着する。しかし、世間に遠慮するため与三郎は、しばらく木更津の親類にあずけられることとなる。「依田政談」の発端としては、この方が自然であり正しい型なのであろう(浪人の手習師匠関良助の名は、原作者艮斎の初名菅良助からえらんだものか)。
 発端で見せた依田豊前守の名裁判は、大詰にもう一度見られるわけで、伯円は「お富与三郎」という趣向に「依田豊前守」という世界を重ね合わせ、新しく一つの「政談物」を構成したのであった。
 依田豊前守政次のち和泉守は旗本の家に生れ、八代将軍吉宗に認められて昇進し、宝暦・明和年間に北町奉行を勤めて市民の信望をあつめた。江戸の町奉行としては大岡越前守の名が高く、講釈でも早くから「大岡政談」が確立していた。そのため、幕末から明治にかけて作られた政談物には、大岡忠相に次ぐ人物として依田豊前守がよく登場し、例えば講談の放牛舎桃林、落語の三遊亭円朝の作中にも設定されている。
 伯円が「依田政談」という形式をとろうとしたのは、講談としてまだ不安定だった「お富与三郎」説話を、実在の名奉行の事蹟と混合させ、いかにも実話のような印象を聴客に抱かせるためだったのであろう。明治以後の講談は、ともすれば史実と比較されて「講談の歴史的誤り」「講釈師のうそ」が敵視された。講釈師側も最近では「事実とはちがいますが……」などと前置きをして、その主体性のない態度が聴客の興味をそぐことが多い。しかし、本来講談は虚構なのである。虚構を積み重ねて、その結果、真実を訴えるのが講談の「詰芸」なのである。―伯円が観客の関心をひくために、もっとも効果ある方法として選んだのが「政談物」形式であった。「政談物」には、名奉行の智徳によって民衆が善政を讃美するという、封建社会の体制維持に都合のよい佐絡もふくまれている。明治維新後、いち早く西欧文芸の翻案物を手がけ、テーブルを前に演説調の講談を演じた伯円が、「お富与三郎」の完成にあたって政談物という便宜的な形式をえらんだことは、一見矛盾するように思えるかも知れない。しかし、文明開化の新時代とはいえ、寄席の聴客の大部分を占めている大衆にとっては、社会の指導者が旧来の幕閣体制からそのまま明治政府に切り換えられているにすぎなかった。伯円はそぅいう大衆のよろこぶ芸能の方法を熟知していて作品を構成した。
 すでに内容が熟成していた「お富与三郎」に発端を付加した伯円の仕事は、それだけではさしたる意義があるとは思えない。しかし、強引に「依田政談」と結びつけ、江戸講釈の技法に馴れている民衆を巧妙に納得させようとした点に、伯円の最大の特徴といわれている「構成力」のあざやかさを察知できるのである。

 三 ―木更津―

 木更津転地のあと、与三郎は、土地の親分赤間源左衝門の女房お富と知り合い忍び合うようになる。歌舞伎の見初めの場面は中村仲蔵(三代)の進言によって市川団十郎(八代)が羽織落しの型を工夫し成功した見せ場である。江戸を遠くはなれた港町、若旦那と江戸育ちの美女が結ばれてゆく過程は、まことは官能的で小説的な場面といえよう。しかし、神田松鯉の談話によると「あの条りは芝居の方では有名かも知れませんが、講談の方では、ていねに演れば演るほどバレ話(猥談)になってしまうので、講談ではあまり演る人はありませんでした」という。つまり、この場面は講釈の題材として不向きな面もあり、同時にそういう場面を省略するのが講釈師の見識であったというのである。生来、男性的な芸質で、女性描写や愛欲描写が得意でなかった松鯉は、この条りを演ずるのに当って、与三郎よりもむしろ間男をされた赤間源左衛門の描写に中心を置いた。
 ―お富と与三郎の仲が評判となり、子分たちもこれを気にしている。赤間源左衛門が旅から帰ってくると、子分・海松倉の松五郎はすぐに近所の湯屋・柳湯へ連れてゆく。はじめ親分に気がねをしていた松五郎の口調が、次第に加虐的な熱を帯びて能弁となってゆく。背中を流してやりながら「ついでに親分の顔の泥も洗ってやりましょう」というセリフはまことに強烈な印象で、円玉の速記本にも述べられている。これに反して内攻してゆく源左衛門の心理もくっきりと描き出される。ガランとしたひと気のない昼湯を舞台に陰惨な仕返しの計画が練られてゆく。湯から帰った源左衛門は、また用事ができたといつわって家を出る。安心したお富はすぐに与三郎を呼びにやる。その夜、子分たちを連れてあらわれた源左衛門は雨戸を被って不義の二人を見つけ出す。なぶり斬りの血の色、簀巻きの恐怖、そぅした残酷シーンは、ひえ切った口調の単語の羅列だけで表現される。それがかえって聴客の血をゆさぶり二人の愛欲シーンを強く連想させるのである。神田松鯉の「男が飛び込んでも助からない木更津の海」という独特の口調がリフレーンの如く幾度もくりかえされる。単調なそれが、かえって木更津の暗い海を想像させて恐怖をよぶ。三十四か所の傷を受けた与三郎が簀巻きにされると、恐ろしさに堪え切れなくなったお富は無我夢中で庭先から逃れて、海に突き出した長い桟橋を、海に向って駈けてゆく。松五郎と子分が二人ばかり追ってゆくが間一髪のところでお富は海へ飛び込んでしまう。松五郎の手には、捕えようとしたお富の片柚がちぎれて残ったのみである。「しまった」と声をのんで海面を見込んでいた松五郎が、手に残った布片を顔へあてがって「畜生、ああいい匂いだなァ……」と舌打ちをする―。
 これが松鯉の、この場面の結びであった。勝負事の好きだった松鯉は、青年時代に各地の親分の家に寄宿し、博徒たちと起居をともにしていたことがあったという。こうした生活体験がおのずから赤間の子分たちの描写にあらわれたのであろう。女性描写には不向きな松鯉が、男性描写を通じてなまなましく「女」を表現してみせてくれた。これは一人高座の詰芸のみに許される独自の境地なのであろう。

 四 ―玄治店―

 血だらけで親類の家に送られてきた与三郎は身代金によって一命をとりとめ、江戸へかえされる。しかし、顔面の傷あとを恥じて一間に閉じこもり外へ出ようとしない。これを案じた両親は丁度旧暦の五月二十八日、両国の川開きの夜なので花火見物に行くようにすすめる。親のすすめでよんどころなく家を出た与三郎は、傷をかくすために手拭で頬かぶりをし、両国へ向う人の群れを避けるように大川端の暗闇をあてもなく歩いてゆく。他の速記によると花火ではなく、十一月八日の茅場町薬師の縁日となっているものもあるが、松鯉は明らかに花火の晩で演じていた。そのため、むし暑さの中の頻かぶりが効果的であり、花火の歓声を背に人気のない大川端を歩いてゆく与三郎のニヒルな表情がよく描けていた。―その与三郎が、前を歩いてゆく一人の女の後姿に気がつく。木更津の海で死んだはずのお富にあまりよく似ているので気の迷いかとうたがいながらついてゆくと、女は玄冶店の一軒の家へ入ってしまった。「もしや」と願いながら与三郎が腰高障子にへばりついて家の中をのぞき込んでいると、後から小さい声で呼んだのは、こうもり安と坊主富の二人であった。この夜、二人のならず者はお富の家へ小づかい銭をゆすりに来たのだが、頬かぶりの男がさっきから家の中をのぞき込んでいて離れないので邪魔になり、遂にがまんができなくなって後から声をかけたのである。頬かぶりの中の顔を見たこうもり安は、その傷あとのすさまじさに驚き、早速、その顔を材料に小づかい銭をゆすろうとして与三郎に仲間入りをすすめる。与三郎は家の中の女の顔を見たい一心から深い思慮もなく承諾する。
 このあたりの松鯉の簡潔な描写もまことにあざやかなものだった。歌舞伎では単なる扮装にすぎない与三郎の頬かぶりが、さまざまな象徴的な意味をもっていることを松鯉の講談は教えてくれた。顔の傷を恥じながらも女の顔を一目見たいとあせる与三郎、名だたる悪党のように見られながら、まるで若旦那そのままの言葉つき物腰。はじめ与三郎の傷に驚いて卑屈になりながら、素人と見て次第に言葉があらくなってゆくこうもり安と坊主富、しかも了見のせまい小悪党ぶり……。歌舞伎の「源氏店」では、与三郎とこうもり安がすでに提携していて連れ立って登場する。舞台といぅ制約上、避けられなかったのであろうが、講談の構成はまことに自然で巧妙なものであった。悩み抜き苦しみ抜いて虚脱状態だった与三郎の眼前に、突然、姿をあらわした「お富」。この「偶然」がふたたび与三郎を思いがけない運命にみちびいてゆく「構成」のおもしろさ。これこそ、世話講談が聴衆を魅了する最大のチャーム・ポイントなのである。
 有竹修二は、三代小金井芦洲の演じた玄冶店の、こうもり安と坊主富のゆすりの巧まさを「一人が声高くとんがらかると、一人がそれを制する。すると又その男がどなるとも一人がまあまあそんなにいっちゃ申訳がないと下手に出る。それを繰りかえしやる、その硬軟自在の快弁は全く堂に入ったもの」(講談研究第二〇二号)と述べている。
 ただし、松鯉はこのあと、こうもり安とお富のやりとりがすんで与三郎が格子をあけて家へ入ると、「しがねえ恋が情の仇、命の綱の……」以下、歌舞伎のセリフをそのまま述べ、「これから皆様おなじみの源氏店になりますが……とこの場を結んでしまった。歌舞伎などで著名となった演題や場面があると、功をゆずるのは明治以後の講釈師の常套手段である。こうした人気場面は、講談のいかなる演出・演技でも対抗できないためやむをえずとられた手段だが、本来、お富与三郎の再会には講釈本来の台本があったにちがいない。広く世間に知られた「しがねえ恋……」の名セリフですら、志ん生・文車の口演台本であったかも知れないと私は考えている。歌舞伎の人気場面に追随し、講談本来の台本が喪失されてゆくことは大変残念なことだが、これがつまり巷間芸能の宿命なのであろう。

 五 ―稲荷堀―

 お富との再会を機に家を出た与三郎は、転落の一途をたどることとなる。これを助けてゆすり、たかり、美人局などの悪事を教えるのがこうもり安と坊主富である。再会してから四月ほどたった九月の末、お富を玄冶店の家にかこっている田所町井筒屋番頭利兵衛の留守を見すませた与三郎は、いつものようにお富の許に入りびたっている。そこへ利兵衛が訪ねてくるので与三郎は押入れにかくれる。お富が買物に出たあと、入れちがいに訪ねて来たのは坊主富で、平素、父親が井筒屋の世話になっているせいもあって、利兵衛にお富と与三郎の仲を告げ口し、忠義づらをして小づかいをかせぐ。利兵衛と坊主富が帰ったあと、押入れから飛び出した与三郎は、おどろくお富をあとに残しすぐ坊主富を追ってゆき、小網町の堀端で殺害することとなる。これが有名な「稲荷堀」である。
 松鯉は演じなかったが、この場面を得意としたのは三遊亭円馬(三代、昭和二十年歿)である。大阪生れで上方落語から三遊派に転じ、東西の落語・人情噺を正確に演じ分けた。その芸風は故三遊亭金馬、故桂文楽によく伝えられている。円馬の「お富与三郎」は、柳派の大看板だった春錦亭柳桜が一時柳派と隔絶し、三遊派に加盟していたとき「ざんぎりお滝」などとともに教えられたのだといぅ。つまり、柳桜の型に円馬の芸が加えられた作品なのである。円馬の「稲荷堀」については正岡容の次のような聞き書きがあるので、全文を引用してみよう。
「玄冶店の再会はついに聴かなかった。
 稲荷堀の坊主富の殺し。佐渡の島破りから熊谷土手の瀬左衛門殺し。もう一つ何とか言う大家の御隠居を美人局をしておどすところ。この三席を聴いたのであった。しかし圧巻は、稲荷堀の坊主富の殺しであった。(略)
 先ず五月ころによくある土砂降りの晩の景色がマザマザと心憎いほど描き出され、そこを渋蛇の目さしたお富が湯がえりの艶かしさ。冒頭すでに水際立っている。つづいて坊主富の死骸の懐中には旦那から貰った三両があるはずだから、それを取って行こうじゃないかと言う与三郎へ、
 『与三さん、お前さん、役者が上ったねえ』
と仇な流し目をするときのお富には、姉が弟に対するやぅな、何とも言へない情愛があった。円馬は師匠分である浮世節の立花家橘之助のペットとしての噂が高かった。あの年上の女がするようなお富の眸の中に、円馬はありし日の橘之助の目を感じてはいなかったか。もちろん、与三郎のへマをしでかしてはオドオドする、ほんたうの悪党に成り切れない若旦那くずれの性格も、よく円馬は描いていた。さて、彼らはやがて坊主富の三両を奪って、篠つく雨の中を立ち去って行こうとする、そのときトマをした舟の中から、
 『オイその三両、俺に呉んねえ』
 ツ、ツ、ツ、ツ、ツと小走りに桟橋を駈出して来た男がある。まつ暗闇の中の男の姿をクッキリと措いて見せて呉れたあと、間髪を容れず、
 『誰だかあしたの晩やります』
 アッと言う間に円馬の姿はもう高座から消え去っていた。ジワジワジワジワと客席がどよめいた。それからやや暫くしてはじめて我に返ったようにあわててみんなが喝采した。ああ、あの切り場の小憎らしいほど巧かった呼吸―」(『寄席風俗』)
 この切れ場に登場する男がこうもり安で、以後三人はさらに悪事を重ねてゆくこととなるのである。
 悪事に経験の浅い与三郎は家を出てからも若旦那の性格が改まらなかった。つまり、その一途な無分別さが利害得失を考えるいとまもなく、ただひたすらに犯行を重ねることとなる。それを煽動している共犯者がお富なのである。幕末から明治にかけて時代的流行として多くの悪婆物・毒婦伝が作られた。しかし、改作物の「ざんぎりお富」を除いて、お富が毒婦として扱われた例が全く見られないのは注目すべき事であろう。お富は与三郎の実家伊豆屋へとり入ってその嫁になることも可能だし、与三郎をそそのかせて金品をひき出すことも可能であろう。しかし、そぅした大欲はまったくなく、ただ与三郎との愛欲生活にずるずるとのめり込んでゆく。善悪の判断もなく情痴に狂う女の哀しい性として描かれているために、類型的な「毒婦」の名が与えられなかったのであろう。毒婦物としてではなく、情話としてロ演されて来たことによって、この説話は新鮮な魅力を保ちつづけたのである。

 六 ―島抜け―

 重なる悪事が露見して召捕られた与三郎は、囚徒として佐渡へ送られ、お富は女牢に落とされる。佐渡島の与三郎は金山の水汲人足として苦役に従事するが、その激務にたえきれず仲間と島抜けを計画する。この条りは初代古今亭志ん生の得意の場面であったという。辛堂得知も「古今亭志ん生のはノレン師の源次と共謀して苦心の上、島役場を抜け二人で海上を泳ぐ所が最も得意だけに面白かった」(明治四十二年九月「歌舞伎」)と述べている。
 志ん生がこの島破りを演ずるときは、五・六日前からわざとひげを剃らずに伸しておき、高座の着物も薄ねずみ色のものを用いて受刑者の感じを出したり、深夜のことを話すときには左右の燭台のろうそくの芯を切らずに暗くして話し、いよいよ夜が明けるときにはじめて芯を切って明るくしたという。
 また志ん生の得意の落語に「九州吹きもどし」という話があった。はじめ鈴々舎馬風が演じていたのを、志ん生が金千匹の謝礼をはらってゆずり受け、わざわざ銚子に旅行して海上漂流の場面を工夫し完成させたものだと伝えられている。おそらく「島抜け」の場面もそうした海の描写の工夫が払われたのであろう。しかし、志ん生の「島抜け」の条りは、以後演ずるものがなく、台本も型も全く残されていない。こうした強烈な話材は演者の個性や創造力がなけれは伝承されないという一つの例であろう。
 講談の「島抜け」にはノレン師の涼次という人物は登場せず、長岡の権太郎、山形無宿の文吉と三人で島を逃れることになっている。神田松鯉は「島抜け」を演じたが、その芸風からも志ん生のような精密な写実芸ではなく、男佐的なあらあらしいタッチで終始していた。それがまたやくざの世界の男臭さを感じさせた。
 「ひょうたん攻め」という私刑の説明には、島の苦役の惨酷さがよく出ており、深夜、高い巌頭から海面へ飛び下りるくだりでは、聴客に飛び込んでから体が海面へとどくまでの長い距離感を如実に味あわせた。一見、平板な描写だが「島抜け」のような息の長い叙述を格諷をくずさず読み込んで行くところに、講釈師本来の技術・年功があらわれるのではあるまいか。伝説化している初代志ん生の描写法とともに、講談の「島抜け」の手法もあわせて記憶されるべきであろう。

 七 ―大宮縄手の仕返し―

 佐渡を逃れて越後にたどりついた与三郎は、仲間と別れ役人の目をのがれながら江戸へ向う。途中、武州大宮縄手のかまぼこ小屋で赤間源左衛門とその子分の海松食の松五郎に逢い二人を殺害する。正岡容が円馬の口演で聴いた「熊谷土手の源左衛門殺し」というのは、地名が変っているがこの条りである。演者によっては、お富の事件以後、木更津に居にくくなった赤間がこの地に移り、赤間の死後、海松食の松五郎が跡目を継いでいたので、松五郎一人を殺害するという筋立てもある。木更津の事件以来、運命の狂った与三郎はその怨みをはらしたわけだが、倫理的には事件の初因が自分にもあることを与三郎は考えようとしない。島抜け以来の長い放浪生活で若旦那時代の人柄はもうすっかり消え失せてしまったからなのであった。
 神田松鯉の所演は、それまでの情話としての甘美なムードが一掃され、まことにドライにこの殺人シーンを展開させていた。講談でも歌舞伎でも与三郎役は、「上品な若旦那の鷹揚さをどこかにとどめた風情」が見どころ聴きどころになっている。しかし、この仕返しから後の与三郎は、恋に狂った修羅のすさまじさが役の性根に代るのである。
 ひたすらにお富の肉体をもとめる与三郎は、源左衛門を殺害した上、源左衛門の脇差をたずさえてそのまま江戸へ向う。この刀は先年木更津で源左衛門のために三十四か所の傷を受けた刀である。いま源左衛門に報復した与三郎が、のちにふたたびこの刀で誅を受けることとなる。しかし、この講談では、刀をめぐる因果応報のロジックには少しも触れず、歌舞伎の作劇法にあるようなトリック構成も全く考えていない。淡々とした口吻の中に、与三郎の末路を冷たく凝視していた松鯉の、ひえびえとした視線を私は忘れることができない。

 八 ―横山町伊豆屋―

 夜陰、日本橋横山町の生家近くまで帰って来た与三郎は、父母の死を知り、ひそかに生家と別れを告げて立ち去ってゆく。
 初代古今亭志ん生の演出では、与三郎が在宅中かわいがっていた犬が与三郎をしたって別れを惜しむ場面があり、聴客の涙をしぼったといぅ。この場面をおぼえていた三遊亭円朝は、明治十一年に創作した「塩原多助一代記」の「あお(馬)の別れ」で動物と人間の別離の情を再現させたといわれている。志ん生所演の、この場のくわしいストーリーは明らかでないが、忠義の番頭(下男)が間に入り、親子の情と世間への義理の葛藤に苦しむ人情シーンであったことにほぼ疑いはない。のちには講談でも与三郎の妹を登場させるなど複雑なストーリーを持つようになるが、これは歌舞伎の初演の際、下男忠助に市川小団次(四代)が扮し熱演したため講談の方へ逆輸入されたのであろう。
 講談のこの場面は、夜、生家の様子をうかがっていた与三郎が、家から出て来た叔父(伊勢屋嘉兵衛)を追ってゆき、旅籠町の河岸で呼びとめて、今日が父の三周忌と教えられる。父母の死も知らず放埒の限りをつくしたことを後悔し、叔父も前非を悟って自首するようにすすめる条りである。志ん生の卓抜した演出に反して趣向に乏しく、演者にとっても至難の場面といえよう。
 のちに岡鬼太郎・小山内薫がこの説話を戯曲化した作品にも伊豆屋の場面は含まれているが、反対に講談や人情噺にはほとんど伝えられていない。話芸としてのこうした真剣な人情シーンの描写には、演者の強力な説得力(道徳観・教訓・自己体験)と洗練された演技力(感情移入・写実芸)を必要とするので、明治以後の芸人から敬遠されたのであろうか。江戸講釈の演出は、明治以後、次第に淡白化・情緒化したため、たとえば初代志ん生に見られるような重厚な熱演型を避けることとなる。これは、とりもなおさず今日の講談がバイタリティーを失い、無精化した遠因とも考えられるのである。

 九 ―観音久次(大詰)

 松鯉所演の「観音久次―大詰」は次のようなストーリーであった。
 お富を訪ね歩いた与三郎は、品川妙国寺前で町方の御用を勤めている親分観音久次の女房になっているお富と対面する。お富は女牢を放免されたのち久次に助けられてその女房となり、何の不自由もなく暮らしていた。久しぶりに与三郎に逢ったお富は、喜ぶよりも長い苦役と放浪に荒みきった与三郎の変貌に驚き、家に招き入れてその後のつもる話を交わす。そこへ帰宅した久次は、お富から昔の知人といって引き会わされた与三郎に挨拶をすると、すぐ泊りがけの用事があるからといって外出してしまう。与三郎に酒食をすすめたお富は、旅の疲れで寝こんでしまった与三郎の寝顔を見つめて深い溜息をつく。自分のために若旦那の境遇を捨てて苦労の末、島抜けの大罪人として追われている与三郎、それにひきかえていまの自分は何の苦労もなく観音久次の内儀として暮らしている。ここで与三郎に義理をたてて駈落ちをしたところで、所詮、与三郎は捕えられて処刑されるにちがいない。それを考えれば与三郎さえいなけれは……と覚悟をきめたお富は、与三郎が持っていた脇差―大宮縄手で赤間を殺害した刀で寝ている与三郎を刺殺する。その死体をつづらに入れ、子分に命じて古井戸に捨てさせるが、しばっておいた女帯からお富の罪が判明し、依田豊前守の裁きを受けることとなる。
 証拠の品をつきつけられても自白しないお富の態度に、豊前守は白洲に控えていた観音久次にお富の説得を命ずる。久次は、はじめて逢ったときから島抜けの与三郎がお富を訪ねて来たものと気付き、お富が自首をすすめるものと信じて、自分は何もいわず一夜お富と別れを惜しませるつもりで外出したのである。その好意もあだとなり、与三郎を殺害したお富の行為に対して久次は涙ながらにうらみをのべる。やっと迷いの雲が晴れたお富は与三郎殺しを白状し罪に服することとなる。
 これが長い「お富与三郎」説話の大詰である。前述の如く、この大詰の裁きの部分は伯円の追加といわれているが、歌舞伎の初演の際にも観音久次の役があり四代市川小団次が扮しているから、文車・志ん生の時代にもすでに観音久次は演じられていたのであろう。歌舞伎では観音久次の血によって与三郎の傷あとが癒えるという身代りの趣向を立てているのに対し、講談は推理小説風の構成でありながら人物の心理を自然にえがき、むしろ近代小説風の余韻を残している。ことに自己のささやかな幸福を守るため、二人の男の好意を裏切るお富の心情は、聴客にとって同情できる好場面だったにちがいない。
 神田松鯉は伯円系のこの場面を見事に好演し、その痛切な声調で女人曼陀羅ともいうべきこの大詰を美しくうたい上げていた。速記本によっては、与三郎を殺したのちお富が上総へ逃走を計るとか、観音久次の説得に対してお富が口ぎたなく反抗するような演出がとられるものもある。しかし、こうした蛇足をすべて排除した松鯉の洗練された演出は高く評価されるべきであろう。
 お富が与三郎を殺害したときの年齢は、伯円系の講釈によれば、ほとんど三十一歳となっている。そして与三郎の年齢は、だいたいお富より二〜三歳、又は三〜四歳齢下となっているが明確な設定はなく、同じ演者によっても多少の違いもある。つまり、講談の世界では、実際の年齢よりも年上の女、年下の男といぅ情感が聴客に伝えられれば年齢、歳月にこだわる必要はなかったのであろう。
 「情感」といえば、この講談ほど個々の単語が演者や聴客の想像力を生んだ作はあるまい。たとえば木更津の親分赤間源左衛門について、次のように説明している速記本がある。「顔が長くて馬のようだから赤間と呼ぶ人はない。みんな赤馬の親分と呼んでいる…」こういう一言の挿入によって強欲な源左衛門の容貌が端的に構想される。あるいは赤間源左衛門には特定のモデルがあったのかも知れない。しかし、虚実とりまぜて、その言葉が生む連想を、まことしやかにストーリーと結びつけてゆく作話のおもしろさはこんなところにもあらわれている。「こうもり安」「坊主富(または目玉の富)」「横櫛のお富」「観音久次」こうした人名の仇名についても演者と聴客が自由な連想を楽しんで、それが次第に蓄積されて大きな語を形成してゆく。「お富与三郎」は、小さい言葉の魅力、話材の興味が集積して作り上げられた長篇物語だったのである。
 永井荷風は話芸「お富与三郎」をフランスの小説『マノン・レスコー』(一七三一年、アペ・ペレヴォー作)と比較し、小説『来訪者』(一九四四年作)の中で登場人物に次のように語らせている。
 「女のマノンが悪くって男の方がかわいそうになるんでしょう」
 「浮気なマノンを思っている男は、わたし何となく切られ与三みたような気がしましたわ」
 「日本の小説であのくらい男の未練をかいたものは有りませんよ」
 荷風は、青年時代に寄席演芸に親しみ、人情噺を得意とする朝壕坊むらくに弟子入りしたことがある。この時代に見聞した人情噺の魅力が、後年の創作の源泉となっている。また荷風は、明治末年から大正初年にかけて講釈場通いに熱中した時期もある。講談の「お富与三郎」に『マノン・レスコー』と共通する感銘を受けたのは、当時「お富与三郎」を売り物にしていた三代小金井芦洲の高座に接したからなのであろう。
 荷風もいっているように「お富与三郎」は「男の未練」を描いてあます所がないが、同時にお富を通じて「女の本能」もまたよく描かれている。お富については前にも述べたが、毒婦として扱わず、あくまで女性―美しい空っぽとして描き抜いたところに、この情話の無限の魅力が秘められているのである。

 十 ―歌舞伎と話芸の「現状」―

 話芸としての「お富与三郎」は江戸講釈中の傑作だが、これを歌舞伎化した「与話情浮名横櫛」は決して原作の人間性・近代性を生かしているとは思われない。話芸のすみずみにまで行き届いた演出力、描写力にひきかえて、歌舞伎では美男美女の主人公を並べ、原作の梗概を上撫ぜしたのみで終っている。たとえば三十四か所の刀傷という与三郎にあたえられた呪詛でさえ、隈取りのように美化し単なるメークアップとして扱っているにすぎない。またお富に殺害されることによってはじめて成就する与三郎の恋―そうした重要な結末も歌舞伎の台本は見落しているのではあるまいか。原話の聴き所を中心に比較すれば「浮名横櫛」に対する不満は決して少なくないのである。
 もっとも「与話情浮名横櫛」は、当初から話芸「お富与三郎」のパロディとして構成されたに過ぎないのかも知れない。初演の当時、歌舞伎の観客の多くが志ん生・文車の「お富与三郎」の評判を知っていたとすれば、この芝居は「お富与三郎」説話の讃歌として楽しむことができたのであろぅ。さらに与三郎に扮した八代団十郎の若さと人気が、一層、この舞台の効果をあげることができたのである。この狂言の奇妙な人気は、明治以後、十五代市村羽左衛門の与三郎が当り役となったことによってさらに助長されることとなった。もうこの頃の観客は「お富与三郎」説話の裏付けは必要でなく、単なる人気俳優の与三郎ぶりを楽しむことだけに興味の対象が変化していたのであろうか。台本の鑑賞を無視して俳優だけが鑑賞の対象になり得るという、歌舞伎の不幸な運命を明らかに証明している一つの事例といえよう。
 昭和四十四年四月、国立劇場が上演した「与話情浮名横櫛」(通し狂言)という企画にも、こういう芸能史上の芸脈が考慮されず、部分的には補綴が加えられたとはいえ既にミイラ化している型を再現したにすぎなかった。原作の話芸「お富与三郎」が人気を博していた世相、そのパロディとしての洒落気など、時代環境の原型を計算しない「浮名横櫛」の復活が成立するとは考えられない。また「日本のマノンレスコー」として、この情話の文芸性を再現しようとするならば、新しい脚本・演出を用意すべきであった。近世話芸を知り尽している最適の演出者を得ながら「補綴」に止まったことは痛恨に堪えない。ドラマ不在の復活狂言、演技不在の歌舞伎標本、―国立劇場の公演計画は、「浮名横櫛」一作について考えてみても根本的に反省されるべきであろう。
 大正四年、永井荷風は歌舞伎と講談の関係について次のように述べている。
 「われ講釈場に通いそめてより漸く心付きしは講釈と芝居狂言との関係なり。狂言の筋立を講釈続話などより取来れるものは、両者を比較対象せん事、ただに作者が技両の如何を知らしむるのみに止まらず、引いて俳優の技芸を看るにも亦思いの外の心得となること多し」(築地草)
 大正年間には、まだ、歌舞伎と話芸の世界が並行し、刺激や交流をくりかえしつつ、それぞれの「芸」を主張していた。しかし、その後の日本芸能の伝承は、タテの関係とともにヨコにも断絶が進行した。すくなくとも話芸と歌舞伎のタテ・ヨコの分断ほど明確なものはあるまい。
 現代―、テレビジョンという場を得て表面、活況を呈している話芸の世界も、その内容のとぼしさには寒心にたえないものがある。録音や活字による伝承の補助手段が容易になりながら、「お富与三郎」という演題一つをとり上げても、今日、これを正しく継承し、自己の演目として消化している演者は、落語家にも講釈師にも一人もいないのが実状である。テレビジョンという虚像を通じて、笑いの「売り手」は盛況をきわめているが、笑いや咄の「創り手」は、果して何人いるのであろうか。話芸を通じてロマンを生み、次代の日本芸能のエネルギーとなる真の「芸人」の出現を期待してやまない。
 昭和期に入ってから話芸は、レコード・ラジオなどの普及によって表現の場をいちじるしく拡大した。ことに近年はテレビの出現によって、音声ばかりでなく、姿や動きまで映像として伝達できるようになった。しかしテレビを通じて語芸の質が向上したとか、効果をあげたという例は皆無である。むしろ、テレビの正確に記録し伝達する機能が、演者の不勉強や欠点を忠実に映し出した例の方が多い。テレビのメカニズム自体には〈芸〉を創造する要素はなかったのである。
 テレビの発達に逆行する話芸衰退の原因は、現代生活の日常会話―コトバの変貌にあるのではないか。魅力に満ちた江戸コトバは、近世話芸の生みの親、育ての親だったが、テレビ時代の現代語に押しまくられ、急激に衰退した。つい先年まで誰でも知っていた落語―たとえば「たらちね」や「火焔太鼓」でも、現代人にとっては、題名もオチも意味のわからない難解な古語になっている。実はコトバばかりでなく、コトバにともなう生活や風俗、シャレ・イキなどの美意識もすべて通用しなくなっている。以前は一番わかりやすいものだった落語の笑いが、現代ではわからないから笑えない≠烽フになってしまったのである。
 今後、近世話芸が生き続けてゆくためには、純粋に文化財・江戸を固守し、そのサンプルを演じ続けるか―、あるいは伝承を自ら破壊し拡散して現代生活の中に再生するか―、おそらくこの二つの方法しかあるまい。(当分は二派が平行し、やがてその一つが没落することになるのであろう)「お富与三郎」というモチーフも、二つの行き方に分断され、利用され、磨滅してゆくことだろう。近世話芸が造型した他のモデルもまた同様の運命をたどるにちがいない。コトバを材料に打ち立てられた近世話芸という金字塔が、コトバの喪失とともにくずれてゆく悲哀を、当分の間、私たちは見守らなくてはならないのである。


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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp