野村無名庵『本朝話人伝』

昭和19年4月20日



 卷頭に一言
 江戸が東京となつて更に大東京に擴がり、東京都と發展して、大東亞、否八紘一宇の中心地にならうといふ時の勢ひ、これに伴つて何事にも浮沈消長は免れがたく新聞雑誌或は單行本の速記物やラジオの放送によつて、讀むだけの講談聞くだけの講談は、大に普及發達いたしましたが、反對にその本元たる、演者を見たり聞いたりして味ふ定席の講談は却つて振はず、講談の席即ち講釋場は都内に唯の二三軒といふ、空前のさびれ方を示すに至りましたこと、営業者の遺憾も嘸かしと同情されます。もつとも數の少なくなつたのは、講釋場ばかりでなく、色物はじめ其他の寄席といふ寄席が、その盛なりし昔から思ふと嘘のやうに少なくなつて居りますのは、これに代るべき大衆の娯楽場、とりわけて映畫館が、非常な勢ひで増加して來た影響を、先づその原因の第一に數へねばなりますまい。ところが昨今決戰態勢重大時局の關係から、映畫の方にも統制が行はれる一方、内容的にも轉換があり、それ等が動機で實演ものへ、一般の興味がふりむけられた結果、講談落語色物等寄席の演題も、再び時流に迎へられて興隆の兆を示して來たとのこと、これは我等同好物にとりまことに喜ばしい現象でありますが、何にせよその以前は、神田の須田町を中心に、小柳、白梅、立花の三席が、目と鼻の近い所へ鼎立し、三軒ともそれ/\繁昌をして土地の名物にもなつてゐた。それが白梅先づ失くなり小柳姿を消し、更に殘つた立花も、數遍の代替り、三軒も一ツ所に榮えてゐたのが一軒になり、つまり神田の一局部だけでもこれだけ變化があつたといふ事になりますが、今申した三軒の中、小柳だけは講談席、而も由緒の頗る古い家で、表看板へ大々的に「正徳四年創業」と書き出し、これを何よりの自慢にしてゐました。勿論經営者は何代も變りましたらうがこの看板が眞實とすると、正徳から現代まで二百何十年、おまけや掛値があつて話半分として見ても百何十年といふ事になります。ずい分古い家柄だと思ひますが、この小柳に、その創業の始めから、ずつと傳はつたといふ釋臺がありました。釋臺とは高座で演者が前に控へる机で、講談師が張扇や拍子木で叩き立て叩き立て、調子をとりながら辯舌を揮ふには、最も肝要な道具であります。これをそも/\の創業から使つたとすると、古來數百數十人の大家小家、名人不名人、長老末輩、有名無名の講釋師たちが、この釋臺を前にして毎日毎夜辯じ立てたことを考へると、恐ろしい位の感じもしましたが、ひどいもので釋臺もかうなると不思議な功能を現はしたといひます。何しろ何遍か削り直して、可なり薄くもなつてゐましたがそれでも机の表面に、ピシリ/\と張扇の當るところは、誰が叩くにしても大てい場所がきまつてゐますから、そこだけが深く凹んで溝になつてゐました。そして天氣の悪くなるときは自然天然とこの釋臺に湿りが來まして、まるで汗をかいたやうになる。いくら拭いても又ジツトリとして來たさうで、その反對にこれが乾いて來ると、降り續いた雨もきつと止んで、カラリとした快晴になるそれはモウ判で捺したやうだつたと席主がいつてゐました。つまりこの釋臺によつて氣象が豫測出來たわけで、斯うなると無心の机も何だか性ある化け物のやうにも思はれます。若しもこの釋臺が今まで傳はつて居りましたら、寫眞にも撮れませうが、惜しいかな。大正十二年關東大震災の時に、神田區は一番最初に火の手に見舞はれ、小柳も勿論類燒、名物珍物の由緒古きこの釋臺も、灰になりましたのは返す/\も惜しい事でありました。否、机ばかりではありません。この震災によつて、講談や落語に關する参考書畫や物品も、烏有に歸したものが少なからず、さらぬだに文献や記録に乏しき斯道の考證には、一層大きな障碍となりましたが、幸にもこの震火災の少し前から、關根黙庵先生の苦心してお蒐めになつた材料及び、それによつて編纂せられた「講談落語今昔譚」と申す書物が辛うじて祝融の厄を免れましたこと、まだしもの仕合せと申すべく、然しこれが原因で先生は病を得て間もなく永眠せられましたのは、全く斯道の事を記録する爲めに殉ぜられたとも云へるのであります。爾来いさゝかこの御遺志をつぎ心がけて集めました材料や、見聞の筆記により、兎に角この名人誌がまとまつた次第、努めて年代順に述べるつもりではありますが、讀物としての興味も考へねばなりませんから、記事の配置に陰陽の色どりをも配慮いたしましたので、順序の前後や脈絡の飛び/\になりましたところもありませう。そこは及ぶ限り年代的の書添をしてあります故、御熱心の研究家が、これによつて更に整理して下されば、講談落語年表といつたやうなものも自然に出來やうと存じます。そして小うるさくいろ/\と、参考になりさうな事を書き入れましたのも、全く後世への記録資料を、提供したい微衷であります故、お目ざわりの點は、豫め御寛容を願ひまして、然らばこれより、そろ/\本文へ入る事といたします
(以下省略)

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp