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邑井貞吉 初高座が日清戦争の頃と言いますから、ずいぶん古い話ですよね。先生が明治物をやると本当に明治という時代がまぶたに浮かんでくるようでした。風采からして明治という感じなんです。でも年寄りの声ではなかった。若々しいというか、かん高い声で昔ながらの朗々とうたいあげる講談でしたね。講談は読む≠ニいうように、昔は釈台に本を置いて読んだものですが、先生はまさにそれでね。読んでいるときに客席と離れないというか、語りかけがありましてね、いい雰囲気でしたよ。「はらはらと落つる涙」というのが口癖で、おかしかった。 田辺南龍 昭和二十八年に講談界が初めて芸術祭に参加したとき、芸術祭賞をお取りになったのが先生でした。演目は「名月若松城」で、父なんかうまいなと感心していましたが、私にはわかりませんでした。上手なのかもしれないが、面白いという芸ではなかったですね。芸人さんには珍しく、と言っちゃ他の芸人さんに叱られますが、浮いた話が全くなく、本当に真面目で地味で、牧師にでもなったら所を得たと噂されたような方でした。弟子の南鶴さんはもちろん、大勢の方が人格者として尊敬していました。 神田伯山 伯山さんは趣味がはっきりしてましてね。食べ物でもうるさいんです。たとえば、せんべいがまずいといって、山形から米を取り寄せて、家の隣が米屋さんでしたからそこで精米してもらう。それを生地にして、醤油も特級を買ってきて、自分で炭火で焼くんです。その手焼きせんべいをよく貰いましたが、確かにおいしいんです。干物なんかも丸赤という店のものでなくちゃ気に入らない。ここのは高いんですよ、私なんか手が出ないくらいに。伯山さんはぜいたくはできなくても、自分のできる範囲で好みを通す方なんです。たった一人のお子さんを戦争で亡くし、奥さんと二人でしたから「死後に美田を残す必要がないんだ」とよくおっしゃっていましたね。 神田松鯉 とにかく飄々した態度や言葉が東京の下町の人の間で受けました。若い人にもファンがいたんですよ。当時としては珍しいタイプの講談師でしたね。馬琴(先代)さんがたいへん高価な時計を見せて「これはコレコレの値段だ」と自慢すると、「でも時間は変わらないんでしょ」とまぜっかえすんです。時計といえば、松鯉さんが服部(和光)で時計を買ったが動かない。で、こわれてると文句を言いに行ったんですって。なんのことはない、ネジを巻いてなかったんです。晩年は、あっちが悪い、こっちが悪い、ってこぼしながら、周りの人から慰められるのを楽しみにしていた節がありましたね。若い頃にどんなにもてたんだろうと思わせるほど、きれいなおじさんでした。 宝井馬琴(先代) うまかったですね。引っ張られるような芸でしたね。芸では一番でした。ところが参議院選挙に二度出て二度とも落ちた。芸はうまかったが、仲間内で人気がなかったから落ちたんです。片方よければどっか欠ける。誰だってそうですよね。ケチで有名でしたが、これはちょっと違うと私は思っています。馬琴さんに借金したことがあるんです。煙草の仕入れをするのに売上げを全部銀行に預けていたんです。その通帳を親戚の者に渡して一切任せていたんですよ。それを全部使い込まれちゃって。わりに額が大きいんです。父に話すと怒られるから、ガックリしてた。そのとき馬琴さんが「おかみさん、どうしたい」って言うから訳を話したら、ポンと貸してくれましてね。あのときは本当に嬉しかったですよ。立派な家に住んで、それも自分一代で築いたもの。それだけにふだん無駄なお金は使わなかったんですね。考えてみると、講談協会の会長になって、よく講談界をまとめていらした。やはり偉かったと思います。 服部伸 「大石東下り」とか「は組小町」はよかったですね。とくに「は組小町」は何度聴いてもホロッとさせられました。熱演ぶりに涙が出ちゃうんです。明治から大正にかけて、「節は奈良丸、タンカの辰雄、声のいいのが雲右衛門」ともてはやされた人気浪曲師・一心亭辰雄から講談師に転向、服部伸になってからも多くのファンがいました。本牧亭の高座には九十二歳のときまで上がられましたね。その枯れ切った味は類のないものでした。 桃川若燕 とにかくオーバーなんです。拍子木を打ったりして。で、最初は紙芝居みたいで、なんてくさい芸なんだろうと思ったんですが、よく聴いていると非常に面白いんですよ。若燕さんも講談一筋の方で、お客様が入っていようがいまいが張り切ってやる。オーバーだなと思っていてもその熱演ぶりに引きずり込まれてしまうんです。釈台はお客様との境目にあるからいけないと言って、はずしてやったり。「三国志」なんて面白かったですよ。私も好きでしたが清水もファンでしたね。ところが五十代半ばで突然亡くなられた。芸の上で完成され、これからというときだっただけに、多くの人がその死を惜しみました。 神田ろ山 松本清張の小説を講談向きに脚色して高座にかけ、一時はろ山の清張講談≠ニして話題を呼びましたが、私は買えなかった。意欲はたいへんけっこうだし、新しいファンを開拓した功績は認めないわけにはいきませんが、ろ山さんには向いていなかったと私は今でも思っています。やはり国定忠治などの三尺物(侠客物)をおやりになったほうがよかったのではないかという疑念を持っています。ちなみに講談には、軍記物、評定物、武家物、侠客物、生世話物、新作物がありますが、自分に合ったジャンルを見つけないと努力が無駄になる。ろ山さんを見ていてそう思います。 伊藤痴遊 ニュース講談、政治講談で邑井操(廃業)さんと人気を二分した人でした。「吹原産業事件」を取り上げたことで評判になり、閑古鳥の啼いていた本牧亭が痴遊さんのおかげでひとしきり賑わったものです。同業の講談師の中には「週刊誌のネタをまとめてやってるだけじゃないか」と言う人もいましたが、でも上手にまとめて演じていた。嘘でもまことしやかに語って迫力がありましたね。今から思うと貴重な講談師でした。昔、五代目左楽さんが千葉で起きた鬼熊事件≠ニいう殺人事件を高座にかけてたいへんな話題になったことがあります。人気を呼んだのは、毎日、朝早く東京を出て千葉で鬼熊(殺人犯)に関する情報を仕入れ、夕方戻ってきてその日取材した分を高座にかけたからです。ああいうことをやる講談師がまた出てくると面白いんですけどね。しっかりした古典読みもいる。時事問題を取り上げる人もいる。高座にバラエティが出てきていいですね。 一龍斎貞丈(先代) 一夜漬けで新作をやる。「夕べ読んできたから、なんとかなるだろう」と言って高座に上がるんですが、けっこういいんです。ほんとに器用な人でしたね。だからこそ、あれだけ幅広い交際をしながら、毎月本牧亭で新作を発表するなんて芸当ができたんです。とにかく忙しい人で、鈴本で一席やって、駆け出してきて、本牧亭に楽屋入りする。おかしいんですよ。紋付き袴で、足元を見ると革靴なんですから。事務所に見えて、人がいないと「ちょっと五分ばかり眠るから」と言って、ソファーでいびきをかくなんてことがしばしばでした。芸風は繊細華麗で、「義士伝」のような武張った物もいいし、「髪結い新三」のようないなせな物もよかった。私が好きだった演目は「二度目の清書き」。滔々としして口調がきれいで。未だに耳についていますね。 貞丈さんと馬琴さんは従兄弟同士でありながら仲が悪かった。昔、馬琴さんは貞丈さんのお父さんのところにいたことがあるんですが、そのとき貞丈さんと比べて扱いに差別があったために、二人の仲がしっくりいかなくなったというんです。でも、貞丈さんが亡くなったとき、馬琴さんが「競争相手がいなくなって寂しい」ともらされたのを覚えています。 田辺南鶴 人によっては、変にくだけて、変に茶化す講談だから嫌だという向きもありましたが、探偵物などはよかったと思います。南鶴さんも三味線は弾ける、踊りは踊れる、筆は立つ、器用な人でした。講談を復興させたいという気持ちが強く、独力で「講談研究」という機関誌を発行したり、講談学校や寄席大学をつくるなどずいぶん力を尽くされましたね。私が「先生、こういうことをやってみたらどうでしょう」と言うと「それはいい、やりましょう」と言って、親身に相談に乗っていただいたものです。危篤だというので自宅に伺ったら、「私も最後だから」と覚悟されて、駆けつけて来た人に「口に水をつけてください」とおっしゃっていたのが印象に残っていますね。 一龍斎貞山(先代) 「四谷怪談」や「牡丹燈籠」が得意だったので、おばけの貞山≠ニ呼ばれましたが、「義士伝」とか「荒木又右衛門」といった一龍斎畑のお家芸も読んでいました。貞丈さんと違ってたいへん不器用な方で、放送に出るときは必ず本牧亭でみっちり稽古してから出るというふうでしたね。あれだけになるには相当な努力をされたんだと思います。「義士伝」なんか形もいいし堂々とした高座つきで、五十代で亡くなったのは本当に惜しいですよね。 |