金子桂三写真『昭和 高座の名人たち』

(平成9年1月31日)


落語、色物・万才・下座、講談、寄席の41人(組・席)の写真集。
講談師は、桃川燕雄・一龍斎貞山・一龍斎貞丈・服部伸・宝井馬琴の5人。
それぞれに芝清之の文章が添えられている。

桃川燕雄
愛すべき講談界の奇人(芝清之)
 桃川燕雄の本名は河久保金太郎。明治二十一年十二月二十一日、東京四谷で父親の営む石屋の倅として生まれている。父に連れられて釈場通いをする内に金太郎少年は講談が好きになり、明治三十六年二月に当時五本の指に数えられていた桃川実の門下になり燕雄≠フ名をもらった。
 ところが入門して二年目の同三十八年に師匠実が亡くなったので、その後桃川如燕の門に移っている。同四十二年から二年程兵隊に行き、除隊してからも如燕の許で修業していたが、昭和五年九月に六十四歳で如燕も亡くなったので、三度師を求めて桃川若燕の門下となった。が、芸名はあくまで燕雄≠ナ通した。
 私は燕雄の講談は本牧亭で、『寛政力士伝』『毛谷村六助』『両越評定』『太閤記』などを聞いているが、正直言って燕雄の講談を図抜けて巧いとも思わなかったし、決して下手ではないのだが、巧い!≠ニ、心から手を叩ける芸だったとは言えなかった。
 芸歴は古い人だが、大看板と言える芸人ではなかった。講談ファン以外の、一般の人までもが桃川燕雄に注目しだしたのは、昭和三十八年に発行された安藤鶴夫氏の『巷談本牧亭』以来の事ではなかろうか。まず……講談界の奇人、変人の部類に入る一人に燕雄がいたのだ。
 その実態が活字から演劇化され、前進座によって同三十八年十二月に新橋演舞場で上演(脚色津上忠・演出高瀬精一郎)された。
 名優中村翫右衛門の扮した燕雄の、その演技の素晴らしさ、本牧亭のお内儀役の河原崎しづ江、安藤先生をモデルにした近亀先生役の河原崎長十郎、俥引き川崎福松の瀬川菊之丞、それらの名演によって『巷談本牧亭』は新聞にも大きく報道され、新派の舞台でも再演された。その時も燕雄役は翫右衛門のゲスト出演であった。扮装といい、体つきといい、口調までが燕雄そのものの名演技だった。
 たしかTVでも上映され、その時の燕雄役は加東大介だったと思う。
 谷中初音町にあった燕雄の住いは、およそ人が住むには程遠い形体をしていた。引戸を開けて入ると六畳位いの土間があって、その片隅に二畳程の板の間があった。その上に茣蓙らしき物が敷いてあり、火鉢らしきものが一つ、たらいの様なものが一つ、蜜柑箱の中に何やら入っていて布が掛けてある。隣り合わせにもう一軒あったのかとも見えるが、誰も住んでおらず薄い板で仕切られていた。そして屋根が半分程なく、従って天井はなく、そのなくなった屋根にトタン板が二枚程のせてあった。板の間の片隅に蒲団ともつかず、毛布とも見られる……寝具らしきものが置いてあった。この家は……もし雨が降り、雪が降った時はどうしているのだろうか……と、案じられた。
 聞く所によると借家らしく、幾らかの家賃も納めているのだろうし、天井の梁からブラ下っている裸電球のある所を見ると、電気代も払っているのだろう。
 この家から燕雄は、歩いて職場の上野本牧亭に、一ヶ月の内十日間は通っていたのである。演舞場で、『巷談本牧亭』が上演されて大評判をとった後に、前進座の人達によって燕雄の家は……人の住める形に修復されて、これがまた美談としてニュースで伝えられた。
 燕雄は勿論一人者。たった一人の身で戦争前は十年近く三河島に住んでいたのだが、そこを戦災で焼け出されてからは、近くの小学校に避難していた。その時に同じように避難していた川崎福松(役名)……燕雄は知らない人なのだが、昔は俥引きで、次郎長で売った三代目伯山のお抱え車夫をしていたとか、有名な相撲取りに可愛がられていたとか……を自慢にしていた男と会い、その男の世話で初音町に借りた彼の家? に居候させてもらっていたのである。
 関東大震災にも焼け残った一角にあった。しばらくの間はその男が稼いで、仕事のない燕雄を養っていたのだという。
 昭和二十四年に上野本牧亭が講談定席として開かれるようになった。燕雄さんにも頭取の邑井貞吉から出演の声が掛かった。とてもまともなものではないが、高座着だけは大切に持っていた。同二十九年には三越名人会≠ノまで出演するようになった。
 燕雄が福松の家に入って十三年目には突然のように福松は死んで、燕雄は全くの一人身になったが、近所の親切な人達によって支えられていた。誰と向いあっても正座を崩さず、実に丁寧な口調で話し、そのしゃべり方はまるで講談のようでもあった。
 「時は寛政四年の春、晴天十日の大相撲は初日からしてギッシリ満員の客を迎えて六日目。あと四、五枚で打出そうという時にチョーン、チョーンとあたりに響く柝の音は、さながら江戸八百八町にも聞こえ渡ろうという、まことにさわやかなもので御座います……」
 燕雄に扮した翫右衛門が、その十八番『寛政力士伝』を劇中で読んだとき、こりゃあ……燕雄より巧い!≠ニ、私は思った。昭和三十九年四月二日没。享年七十六歳。


七代目 一龍斎貞山

釈界随一の美男(芝清之)
 七代目一龍斎貞山の本名は佐藤貞之助。明治四十年六月二日、東京深川の森下町に生まれた。
 深川猿江小学校在学中から講談の好きな父に連れられて定席の永江亭に通っていた。そこで聴いた桃川若燕の『乃木将軍』に感激。
 初めの内はそれ程好きでもなかった講談が、聞き込む内にその話術に魅せられ、若燕の堂々たる風格、六代名貞山の『義士伝』の勇ましさに感じ入ってしまったという。
 貞之助は、講釈師になろうとは思ってもいなかった。むしろ将来は役者になりたいと願っていたので父にその旨を話し、父は知り合いの紹介で十五世市村羽左衛門に倅の弟子入りを頼んだところ、歌舞伎は家柄が第一、外からいきなり入って来ても出世はむずかしい≠ニ断られてしまった。役者になれなくとも、どうしても芸で身を立てたいと思い、過ぐる日に聞いた貞山の名調子と、あの立派な風格にひかれて父に相談した。自分の事は自分で決めろ、もし断られても何回も頼め≠ニ言いふくめられ、大正十一年三月一日、十五歳の時に神田の定席「小柳亭」で貞山の家を教わり、どうしても入門させてほしいと頼み込んだ。
 芸名は本名そのままに一龍斎貞之助≠ニ名乗り、二十四歳の三月に貞鏡≠ニ改名して真打に昇進したのである。
 貞山畑では亭号はみな異なっており貞水は真龍斎=A貞丈は昇龍斎=A典山は錦城斎≠ニ称し、貞鏡は双龍斎≠ニ言うのだが、龍が二つ並んでは、いずれかが倒れる恐れがあろうと、師匠と相談して一龍斎貞鏡≠名乗ったのである。
 六代目貞山は昭和二十年の大空襲で亡くなったが、講談組合の頭取と共に、落語協会の会長も兼ねる程、人物の大きな人であった。
 十八番は『義士伝』で、その語り口の鮮やかさはいまだに私の脳裡に焼きついている。
 「さてもその夜は極月十四日、夜討の勝負はかねての計略、打立つ時刻丑満の、棟木の上にふり積る、雪の明りが味方の松明、鎖帷子に身を固め、籠手脛当はおぼえの手の内、錣頭巾を頭に頂き、みな一様のいでたちにて、地黒の半纏だんだら筋、白き木綿の袖じるし……」
 これは『忠臣二度目の清書』という……例の寺坂吉右衛門が、但馬の豊岡、大石の妻子の許へ、討入りの報告におもむくくだりの場面である。立板に水というか、時によってプッツリものをかみちぎったような快弁であった。師の貞山没後、昭和二十二年に貞鏡は七代目貞山≠襲名した。
 貞鏡時代には、どう頑張っても、あの師匠の名調子にはかなわず、『義士伝』『伊賀の水月』『大島屋騒動』など、一龍斎の御家芸は無論読んでいたが、貞鏡独自の読物の開拓に励み、怪談のジャンルに挑戦。『四谷怪談』『江島屋』『牡丹燈籠』『真景累ケ淵』などを……我がものにしていった。特に後になっては只単に語るだけでなく、林屋正蔵の「道具噺」の如く、道具仕掛けの怪談を思い立ち、自らお岩のカツラ、面をかむり、場内を暗くしてローソク立て、鳴物に助けてもらって雰囲気を出し、時によっては客席に弟子達に扮させた幽太を出したりして、観客のド肝を抜かせる演出も試みた。あれは講談として邪道だ。貞山ともあろうものが……≠ネどと陰口をきく者もいたが、そんなことにはお構いなく、夏季がくれば貞山のお化け≠ヘ四方から声が掛かっていた。何年頃だったか……暑い或る夜、川崎演芸場という寄席があった頃、浪花節の春日清鶴、百面相の波多野栄一らと交って貞山が出ていた事があった。清鶴が終わって栄一の百面相がモタレになって、トリは貞山でその日の出しものは『四谷怪談』だったが、ラストシーンになって、「さて、怖ろしき執念じゃなあ……」と言ったと思ったら、釈台の上から舞台の下に転がり落ちて、高座をメチャメチャにした事があった。後年栄一にその事を聞いたら、その日貞山は素話しでやるつもりでいたところ、栄一の道具を見てカツラと面を借りて演ったらしいのだが、貞山の自製の面は目が見えるようになっていたのに、栄一の面は潰された片目が全く見えない様になっていたのに気付かず、伸び上がったトタンに調子が狂って客席に落ちたのだという。幸い怪我がなかったそうだが……。
 怪談は別として、一龍斎畑の十八番もの『義士伝』は勿論、『大岡政談』『柳田の堪忍袋』『山内一豊』『肉付の面』『大塩政談』など、多くのネタを、貞鏡時代から聞いてきたが、その口調は師の貞山と、伯龍をないまぜにしたような芸風であった。貞鏡時代にはいささか色気に乏しさが身に残っていたが、貞山になってから、特に晩年の頃はその話芸に艶が出てきて円熟の境地に達していたと思う。役者になろうとと思ったというだけあって、その美男ぶりは釈界随一であった。
 釈台に向って「ええーっ……」という出だしの息の長さは、七代貞山の特徴でもあった。
 五十九歳という若さで、惜しくも昭和四十一年十二月七日に没した。現八代目貞山は実子。


一龍斎貞丈

新しい現代を追及(芝清之)
 一龍斎貞丈の本名は柳下政雄。明治三十九年八月十三日三重県で生まれ、その後、神奈川県の旧東海道に面した宮前町で肉店を営む吉太郎の息子として育った。
 大正三年に土地の青木小学校に入学同八年に本町尋常高等小学校に上った。その頃から学科の中でも綴り方が上手だったという。いや文章だけでなく文字も巧く、絵を描かせても上手で、美人画や挿絵で有名な志村立美画伯は彼の同級生で、「私の画より巧かった」と言わしめた程だった。同十年に早稲田実業に進学。この在学中に、関東中学雄弁大会≠ノ出場して『伊達政宗と雲居禅師』の講談をやってのけ、他の学生達の演説を一蹴して聴衆の喝采を受けたのが、彼をしてよし、徒らに卓を叩き口角泡を飛ばす弁論よりも、興味深く平易の中に聴く者の心を動かす講談の話術をもって将来の道を築こう≠ニ、この道に入る決心をさせたのだという。
 講談そのものは、それ迄に余り耳にしていなかった彼だったが、聴けば聴く程魅せられ、何としても釈界に入ろうと父親に相談したところ、真っ向から反対され、
 「とんでもない、芸人になるぺく育てた覚えはない。第一お前の様に無口な男が……」
 政雄の雄弁大会での成果を知らなかった父の怒るのも無理はなかった。
 「いえネ、これがお笑いなんですが、倅の基一だけは大学にやろうと思いましてネ、法政大学の商科を卒業させたんですが、私は何処かの商社に入れてサラリーマンにでもと思ったんですがなかなか良い就職口がなくて、それで……あれは終戦後二〜三年経った頃でしたか、私が『講談名人会』という雑誌を出すことになりましてネ、その原稿の整理を手伝わせていたんですが、その中に『瓢箪屋政談』という大塩平八郎が大阪で与力をしていた頃の面白い話があるんですが、それを倅の奴がすっかり覚えちまって、それで突然、お父さん、僕は講談をやりたい≠チて言われましてネ、とんでもない、お前の様な無口な奴が≠チて、叱った事があったんですが、昔、私が父親に言われた事と同じ台詞で(笑)、とうとうこの道に入って……貞花でやってますがね」
 本牧亭の楽屋へ貞丈師を訪ねて芸談を聞いた時に、現在の六代目貞丈師の入門の頃の話をしてくれた事がある。
 「蛙の子は蛙ですな。浪花節にもあるでしょ。阿部川町(初代木村重松)の倅が二代目の重松さんですものな(笑)」
 そう言って袴のすそを払って高座に上っていった。
 彼が釈界に入った頃は、綺羅星の如く名人上手がいた。錦城斎典山、大島伯鶴、昇龍斎貞丈、小金井芦州、神田伯山、同ろ山、同山陽、同伯龍、同松鯉、邑井貞吉、田辺南鶴、真龍斎貞水……などなど明治期に隆盛を誇っていた講談は、その中期頃迄は定席としても六十軒、色物兼用の席や辻講釈まで入れると百軒以上もあり、講釈師の数も二百数十名はいたのだが、落語や、浪花節に押されて一時の様な勢いはなくなっていたが、それでもまだまだ大看板、中堅を含めて相当の演者がいた。彼はその中の昇龍斎貞丈の話が好きで、十九歳でその門下に入り貞一≠ニ名乗った。その翌年に結婚し、旧姓の小島から養子となって柳下姓に変ったのである。
 真打披露は昭和六年、八丁堀の開楽亭で行い、演題は『朝顔日記』であった。ところがこの年の暮れ近くに師匠の貞丈が亡くなった。
 そこで翌七年三月三十一日、五代目貞丈を襲名して典山の門に入ったが、その典山も同十年に没したのでその後は六代目貞山の預り弟子となった。終戦の頃だったろうか……錦城斎典山の名跡襲名を……という話もあったが、彼はあくまで一龍斎貞丈で通すと言って断っている。同四十年四月には講談界の最高峰である組合の頭取となった。読書家であり、人一倍の勉強に励み、その語り口は何ともいえぬ優しさに満ちそれでいて歯切れのいい口調で、高座は勿論、普段の生活に於いても、貞丈ほど芸人気質に富んだ人も珍しい。そして実に社交的な人で、政界、財界、文士、その他大会社の社長級にも多勢のひいきを持ち、相当な収入もあったはずだが、祝儀、不祝儀には人の倍の金を包み酒を好み、高座が終われば若手を引連れて二次会、三次会にまで馳走したという。子孫の為には美田を残さぬ主義であったのだろうか。
 現在の六代目貞丈もそうだが、五代目貞丈も、袖から高座へ上る時にはかならず眼鏡をかけて出る。釈台をポーンと叩いておもむろに眼鏡を外す。調子が出てくると、扇子を閉じたり、開いたり話の一くぎりごとに首を左右に傾けるのがくせであった。
 『赤穂義士銘々伝』『朝顔日記』のようなものから『新金色夜叉』『巌窟王』『後藤心平』『嘆きのテレーズ』など、新旧ともに、常に新しい現代を求めて挑戦していた。私にとっても忘れられない講釈師の一人だ。昭和四十三年七月二十七日没。享年六十一歳。……若すぎた。


服部伸

無類の啖呵(芝清之)
 服部伸の本名は服部辰次郎。明治十三年六月に浅草の今戸で生れた。
 俥屋稼業をしていた父に連れられて七、八ツの頃から浅草北新町にあった長玉亭≠ニいう寄席に浪花節を聴きに行ったという。
 度重なる寄席通いに、いつの間にか彼は浪花節に魅せられ、その内に一人で節真似などを口ずさみ、将来は浪花節語りになろうと決心。その頃、関東節の開祖とも言うべき浪花亭駒吉の芸に惚れ込み、父を口説き、長玉亭のお内儀の口ききで、明治二十五年十二歳の年に駒吉の門下となって修業に打ち込んだ。
 初めの名が小吉≠ナ、初高座は翌年。場所はお馴染みの長玉亭。演題は『膳所騒動』であった。十八歳で下谷二長町の小松亭に於いて看板披露(落語、講談でいう真打)をして、駒子≠ニ改名した。明治三十六年五月に、或る事情があって浪花亭駒子≠フ名を師匠に返上して一心亭辰雄≠ニなった。
 師の駒吉は門下に十数名の名人上手を育てたが、中でも辰雄は駒子時代からすでに、師を凌駕する技倆をもっていると評判をとった程で、特に節調∴ネ上に啖呵=i会話)では図抜けた腕を発揮し、明治四十年に桃中軒雲右衛門が本郷座に上って浪花節に革命を起し、続いて関西から吉田奈良丸が美麗な節調で新富座に出演した頃……「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声の良いのが雲右衛門」と浪花節ファンのザレ唄に乗った程で、私が昭和四十年に青山会館で、一心亭辰雄最後の舞台を聴いた時も、節の善し悪しは判らなかったが『は組小町』の会話の見事さに少年ながら身を乗り出した覚えがある。
 話術の名人として世に知られた異才宮崎滔天がその著書『三十三年の夢』の中で、一心亭辰雄の芸を我が師以上だと賞賛し、特に人間的に優れており、礼儀正しく、品格あり、芸熱心で、しかも読物に関しても雲は『義士伝』のみだが、辰雄は『義士伝』は勿論、世話、任侠、武家ものと、何でも来いの多芸な人で、とても雲とならぶべくもない……と記している。大正期に入ってからの辰雄は、講談の伊藤痴遊の知己を得て二人会を組織し(時には春日亭清吉、浪花亭峰吉なども共演)、日本全国を巡演、朝鮮、満州にまで足を伸ばした。辰雄のラジオ放送の最後は、昭和十年一月の『桂川力蔵の仇討ち』で、実演の舞台は前にも記した同年六月の青山会館であった。
 その頃、長年の間息の合っていた合三味線を亡くし、また節調が思うように廻らなくなって来たのを機に、彼は浪花節に見切りをつけ、かねてより親交のあった講釈師田辺南龍師(南龍の父が駒子の看板披露をした小松亭を経営していた)のすすめもあって、啖呵だけで勝負の出来る講談の世界に転向する決心をしたのである。辰雄時代から尊敬し、ひいきにもなっていた小説家長谷川伸にも相談、氏もこれに同意して伸≠フ一字を与え、本姓を亭号にして、四十三年苦労を重ねた浪花節語り=一心亭辰雄と決別し、ここに講釈師服部伸≠ェ誕生したのである。
 初高座は深川高橋にあった永花亭で演題は『寛永三馬術』。節こそないものの、似て非なる講談の語り口を、伸は連日練習に励んだ。ともすると調子に乗って節が出かかるのを押さえて調子を整えた。節でこそ大看板だったが、釈界では前座同様の身である。恐る恐る楽屋へ入って入った伸に、田辺南龍は「服部さん、あんた今夜はトリ(最終の責任者)をおとんなさい」と、意外なことを告げた。
 「と、とんでもない、まだ新米の私ごときが……」
 再三辞退したが、南龍は自分が責任を持つから大丈夫、ぜひトリを……、南龍の強いすすめに伸は気を取直してトリを決心した。南龍の友情の有難さに伸は心で泣いたという。初高座から真打≠ニして認められて自信を得た彼の、その日の口演の素晴らしかったことを、私は先輩から聴いた事がある。昭和十二年から始まった日支事変、十六年からの太平洋戦争……と、日増しに時代は戦時色が濃くなり、あらゆる演芸が戦争協力を強いられていった。やがて同二十年八月に終戦となり、平和が戻って来たが、小柳∞永花亭≠ニたった二軒残っていた釈場も戦争で焼失して語る定席がなかった。
 やがて上野に昭和二十四年四月「本牧亭」が新設された。二十二畳の客席に釈場が設けられ、各講釈師は競って出演したのである。
 服部伸は昭和三十六年度の文化庁芸術祭に参加し、「大石東下り」で芸術祭奨励賞を受け、同四十一年勲五等双光旭章を与えられた。得意な読物は『は組小町』『一本刀土俵入』『心中火取虫』『忠治の娘』『百太郎騒ぎ』『鬼若三次』『木曾時雨』『義士伝』など、昭和四十九年十二月十四日没。享年九十四歳。くしくも命日が討入の日であったのも因縁か。


宝井馬琴

国家を案じ参院選に(芝清之)
 五代目宝井馬琴の本名は大岩喜三郎。明治三十六年一月九日愛知県知多郡内海町で生まれた。
 父親は日露戦争で戦死を遂げたので喜三郎は二歳から母親一人に育てられ小学校、高等小学校と内海町で卒業した。在学中に受持ちの先生が、授業中に『忠僕直助』の講談を一度演ってくれたことが、喜三郎少年の胸を打ち、その時から講談に対して興味を覚え出したという。それから当時あった立川文庫を読みあさり、ますます講談に魅せられていった。小学校を卒業する頃に彼は、事情があって母親と暮せなくなり、父は兄弟三人いて、父の兄に当る伯父の所に引き取られて行った。
 高等小学校を終わってから、今度は父の弟に当る叔父が横浜にいて、そこに世話になる事になった。その家は大岩という有名な肉店を経営していた。縁は異なもの……で、その大岩肉店の倅が、後に馬琴と覇を競う講釈師となった五代目一龍斎貞丈≠ネのである。
 喜三郎が、本物の講談を聴いたのは、横浜にあった伊勢崎町の若松亭での神田伯山であったという。それ以来講談は勿論、浪花節、義太夫、落語と何でも聴きに行ったが、やはり一番心を引かれたのは講談であった。少年の頃読んだ立川文庫が忘れられなかったのか、ようし、俺も一つ講釈師になってやろう≠ニ決心。すでに従兄弟の貞丈は一足先に四代目貞丈の門下となって修業していたので、それに負けまいという気持ちもあったのだろう。
 それから一年間一生懸命に働いて、金を貯めて、それを懐に東京に出た。そして東京の釈場……神田の小柳亭、浅草の金車亭、深川の永花亭、八丁堀の開楽亭と、片っ端から通い詰めた。神田伯山、宝井馬琴、一龍斎貞山、大島伯鶴、神田伯龍、同伯治、桃川如燕、同若燕、猫遊軒伯知……などを聴きまくり、その中で彼は門弟になろうと決心したのは宝井馬琴であった。
 小石川林町に在った馬琴宅を訪れて是非弟子にしてほしいと頼みこんだ。馬琴は何年も弟子をとっていなかったが、幸い許されて、大正十四年、数え年二十三歳の時に正式に入門を許されて芸名を琴桜≠ニ付けられた。この時師匠は七十二歳であった。入門してからは師匠が手をとって教えられる訳ではなく、『三方ケ原三十六段』を写しとる事から始まった。
 一年後の昭和元年十二月に初高座を小柳亭に上げさせてもらった。昼席に出てもらった五十銭の給金の有難さは晩年までも忘れなかったという(市電が七銭、トンカツライスが十二銭、職人の手間が一日九十銭)。
 三年後に琴鶴≠ニ改名して、同五年八月に神田小柳亭で真打となった。
 暑い、もっとも客の来ない時に行なわれ、貞山、貞丈、桃川東燕、宝井琴松、神田伯星ら五人と共に出演。その中で最も良い成績をとった者が真打に推薦されるという事て互いに競い合って見事に琴鶴が推されて真打となったのである。
 すでに恩師馬琴は、彼が琴鶴時代の昭和三年に七十五歳で没していた。師の馬琴十八番のネタ『難波戦記』『真田三代記』『伊達評定』『馬方忠治』『大前田英五郎』『天保水滸伝』など数々を彼は耳にして勉強して来たが、修羅場を読ませたら、先ず師馬琴が最高だと信じていた。然し数あるネタの中で、彼が師匠から直接伝授されたネタは、関ヶ原の余聞『浮田秀家・八丈島物語』だけだったという。あとは盗め=c…これが師の金言であった。
 「常に殿様の了見でいろよ。必ず下郎にはなるなよ」
 師は琴鶴に事ある如く言いきかせた。
 人の馳走になってニヤニヤしているような了見は下郎である。殿様というものは腹がへっていてもへらんような顔をして、泰然としているものだ……そう教え込まれていたとか。
 そして昭和八年に五代目馬琴≠継承する話が講談組合やら席亭の間ですすめられ、翌九年一月正式に五代目宝井馬琴≠襲名した。
 披露は神田の小柳亭で、その頃市内に四軒あった講談定席の内、浅草の金車亭とこの小柳亭が最も大きく、四百人はゆうに入る小屋だった。一龍斎貞山と、大島伯鶴が口上に並び、馬琴は二席を読んだが、モタレには伯鶴が上り、客席を満足させた後に上って口演をしたが、客がボツボツと立って帰る姿をみて、とても落着いて演っていられなかったという。
 これに発奮したそれからの馬琴は、大きな看板に恥じぬ様にと、がむしゃらに勉強を重ね、馬の出てくる話をする時は馬についての動きを研究。武士同士の試合の時、やくざ者の喧嘩の時はと、それぞれ専門家に教えを願ってネタに取り入れていった。
 武家もの、世話もの、任侠もの……等何でもこなし、趣味としても写真や旅行は勿論、パチンコ、麻雀、それと特に国家を案じ、政治に対して人一倍の関心をもっていた。
 遂に参議院全国区の議員になるべく三回挑戦したが惜しくも落選した。私の聴いた中では『寛永三馬術』『名刀捨丸』『円山応挙』『浮田秀家』『柳田堪忍袋』『曾我紋づくし』『荻生徂徠』が印象に残る。昭和六十年十月二十六日没・享年八十二歳。


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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp