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講談は徳川時代の中期から明治末へかけては非常にさかんだった。浪花節が明治末からさかんになって次第に聴衆をうしなうが、それまでは大衆的な娯楽の中心だった。 明治中期あたりを例にとると、東京には名の知られた講釈師だけでも100名以上いた。その弟子や、無名の旅まわりの講釈師、関西方面の講釈師をくわえると、そのころは、1000名以上の講釈師がいたらしい。それが、70年後の昭和44年ごろには、わずか20名ほどにへってしまった。なぜ、こう少なくなったのかというと、一言にしていえば、講談は時代おくれになったからである。 講談のどこが時代おくれなのか検討してみよう。 講談は徳川時代の初期に戦記、軍記等を読むところからはじまった。一番はじめは赤松法印という浪人が徳川家康に『源平盛衰記』や『太平記』の講釈をした。以後、各大名、旗本等が法印をまねいて『太平記』の講釈をきいた。それゆえ、はじめのころは講釈師といわず〈太平記読み〉とよばれていた。 『太平記』というのは南朝の忠臣とされている楠正成を中心とした軍記だが、中国の三国志にある諸葛孔明が指揮した戦争のようすから、おもしろおかしいところをぬいて、正成のやったことにしている部分があって、戦争に関する記述には嘘が多い。それを、戦争がなくなった徳川時代太平記読みは武士のなかの支配層の気に入るように読んだのである。講談は支配者のご機嫌をとるかたちで出発したといえよう。 赤松法印を祖とするなら、法印の時代から7,80年あとに、町で太平記を読んできかせる町講釈がはじまった。赤松青龍軒と名和清左衛門という浪人だった。町人相手だから英雄豪傑に関しては相当に誇張しておもしろく話したと推察される。 大岡越前守がいた享保のころになると、講釈を職業とする神田伯龍子とか、よしず張りの小屋で入場料をとって辻談義をきかせる霊全とか、のちには深井志道軒などの、より町人に近い講釈師が出現した。 そのうちに馬場文耕という武士のあり方を批判するような講釈師もあらわれた。文耕は宝暦八年(1758年)に、大名のお家騒動を話したり、それを本にして売ったので、武士に対する反逆者として処刑された。ここらから講談には、武士におもねる者と、武士に反逆する者の二つの流れが生まれた。 町人の力が強くなって、武士が大町人の金力の前に屈伏するようになった徳川時代中期以後は、講談は町人のための娯楽としてさかんになった。特に、天保年間以後、幕末へかけては講談の全盛時代だった。 世話物という市井のできごとを読む講談がさかんとなり、読みくちも、武士に向いた固くるしいものではなく、一般の町人にわかりやすい表現になった。たくさんの講釈師が庶民的な話を作るようになった。大塩平八郎の反乱が起こるとすぐにニュース性を加味した大塩事件が読まれた。これは塚田太琉という人が読んだが三日目に奉行所が禁止した。 強盗で賭場荒しの凶悪な博徒国定忠治が、農民の味方として読まれるようになったのは井伊大老の首が江戸桜田門外でとんだ万延のころからだが、当時の民衆は代官屋敷斬り込みなど大いによろこんだ。作者は宝井琴凌といって『天保水滸伝』も作っている。どちらも創作臭の強いもので作家としての才能も相当なものだった。 石川一夢という世話物読みは『佐倉義民伝』を得意の読み物にしていた。あるとき、佐倉宗吾処刑の場を読んで、見物が数万人も集まったとホラを吹いたところ、聴衆中に千葉の佐倉あたりりの農民四、五人がいて、一夢に、農民を救った恩人が殺されるのを見物にいくはずはないと抗議した。以後、一夢は農民のいった通りに宗吾処刑の場を改めた。大衆の要求をじかに反映して講談が作られたという一例である。石川一夢は安政元年(一四六〇)に没している。 講釈師はのちに型にはまった読物を流暢にしゃべることを主として、物語を作ることを従とするが、講談がさかんだった時期には作家としてすぐれた講釈師が輩出した。そのなかで特筆すべきは松林伯円である。 徳川時代末期の民衆のほとんどは、黒船渡来以後の物価騰貴や農村における飢饉凶作に悩まされていた。しかし、自分たちの力で世の中をどう打開したらいいのかわからない。幕政の上層部は腐敗して賄賂政治がおこなわれ、富の大半は大町人の手中にある。そういう世の中の打開を、博徒や盗賊の義侠心で打開することを夢見る者があって、国定忠治の物語や義賊ねずみ小僧が作られたのである。あるいは冷酷非情な四世鶴屋南北作の『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門のような悪人の反逆を、美男というかたちで美化した。『四谷怪談』は武士の道徳を批判したり、当時の世相をリアルに描写した大傑作でもある。それを指示した民衆は、悪人支持ということで既成の道徳に反逆したのである。 ねずみ小僧は人に物などめぐんでいないが、それを義賊に仕立てて人気者にしたのは先にあげた松林伯円である。伯円は泥棒美化の話をたくさん作ったから泥棒伯円と異名をとった。伯円の泥棒物、悪党物は歌舞伎世話狂言の原作としてたくさん使われている。河内山宗俊や直侍がでてくる『天保六花撰』も伯円の作である。また幕政の腐敗と、人間差別の非を物語る『安政三組盃』も伯円作だが、これなどは幕末における講談中の最高の作品だと評価することができる。 世話物講談がさかんな一方では、相変わらずの武士の忠勇美談を読む講談もさかんだった。このほうが伝統としては格が上で、金襖物といわれ、世話物等は端物といわれて、それを専門に読む講釈師は格が一段下だとされていた。 明治になると、新政府が演劇や講談が民衆教化―明治政府に従順な民衆を作ることに役立つと知って、講釈師のおもだった者を教導職に任じて、これからは、きみたちは民衆の道徳を教える教師のようなものだとおだてた。泥棒伯円は人気最高だったので、もっともおだてられて明治天皇の御前口演をしたことから、泥棒物や世話物から転じて、ニュース性のあるものや勤王美談などを読むようになった。 講釈師はこのときから、庶民大衆の立場をはなれて、藩閥政府、専制政府が説く道徳の代弁者になった。もちろん、全部がそうなったというのではないが、幕末までの世話物隆盛にくらべると、大勢として忠義を説き封建道徳を賛美するようになったのである。それはのちの講釈師にも受け継がれて太平洋戦争中にその度をくわえ、戦後になっても変わらない。 『義士伝』は次郎長の世話になっていた山本鉄眼(天田愚庵)が書いた『東海遊侠伝』を元にして松廼家太琉がはじめに読んだ。原作そのものが、そういう人の作だから次郎長美化にかたむいていた。それが講談になると、いっそうひどくなった。次郎長は普通の博徒で、幕末に東海道の要衝清水港にいたから徳川方とも薩長方とも交際があって、維新後、得をしたにすぎない。 その『次郎長』伝を講談中の人気読み物にしたのは三代目神田伯山である。明治末に、日露戦争を合理化して民衆に教えるというかたちで民衆教化に大いに役立っている。それは『次郎長伝』のほとんどが、土地のうばい合いと復讐の美化であって、中国東北部(満州)の権益は日本のものだ、うらみを晴らすためにロシヤを敵とした等の、日露戦争に関する政府の宣伝と符合して読まれている。 特に、講談の『次郎長伝』の中心である吉良の仁吉を統率者とする荒神山の縄張り争いでは、次郎長は子分たちに「おれはいかねえが、仁吉がいく。仁吉のいうことはおれのいうことと思え。仁吉のいいつけにそむく者は味方といえど、たたっ斬ってかまわねえ」という。上官の命令は天皇陛下の命令という日本陸軍の金科玉条とぴったりした台詞である。荒神山の死闘は、日露戦争中の激戦といわれた首山堡の戦いによく似ている。吉良の仁吉は首山堡で死んだ橘中佐のように壮烈な戦死をするのである。 軍国主義、封建道徳の美化は、民主的な考えより古くさいのは当然である。日本の社会主義運動の発生期に、民衆の立場をはなれて支配者の要求に迎合した講談は、そのときから古くさくなっていった。 以下省略 |