小川菊松『出版興亡五十年』

(昭和28年8月5日)


二八 赤本出版の老舗大川屋


 私が親しく思い出すのは、浅草蔵前にある大川屋書店大川錠吉氏のことである。明治時代古くからの純然たる赤本屋で、「岩見重太郎」、「幡随院長兵衛」などの講談本や、黒岩涙香の「玉手箱」などを何百種も発行していた。私か大洋堂に丁稚奉公に入つた二、三日目から、この大川屋に毎日箱車を挽いて、この講談本を仕入に行かせられたものであるから、私にとつては一層感慨が深い。この大川屋は全国の貸本屋や絵草子屋等が華客で、地方からの注文も、一冊々々の書名を注文するのでなく、仇討物何種何冊とか、侠客もの何種何冊とかいう注文が多かったから、取揃えて刷つておくにも楽だつたそうである。
……
 さて、その当時の赤本即ち講談本等は、いくら位であつたかというと、菊判三色刷表紙三百頁近くのもので、一冊の卸値は僅に六、七銭であつた。これでは三銭の電車も何十冊分かの利益に当るわけだから、大川老人のテク主義も無理はないと思つたが、こんな零細な商いでも、全国を相手にこなすカズが大きかつたから、大川屋はウンと産を作つた。その頃の赤本屋仲間で聞えたのは春江屋、山口屋、日吉堂、今古堂、淡海堂、綱島等で、山口屋は「花井お梅」などの新講談に手を染め、今古堂は田山花袋の自然派小説「縁」などを発行したが、この面では成功しなかつた。
……
 赤本屋の大華客たる貸本屋も、明治時代には沢山あつて、横丁の奥にまで散在し、全国の都市でも、これを専業として成り立つていた。小説、講談、落語類が主で、新しい所では「不如帰」や浪六もの等の、紙表紙ものが多く、評判の高い小説は、布綴ものでも扱うようになつた。華客は近処の隠居、おかみ、理髪床、髪結さん、待合、芸者達、遊廓の花魁等で、いわば町の簡易図書館であつた。
 この貸本屋で一番大きくて名高かつたのは、神田駿河台下にあつた「いろは屋」で、ここには相当高級のものまで仕入れてあつたし、古い時代ものも沢山あつたから、小説作家はここへ材料探しに来たともいわれていた。

---------------

[ トップにもどる ] [ 講談メニューにもどる ] [ 講談資料メニューにもどる ] [ はじめにもどる ]
菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp