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「昔の寄席」の章から (第三節) 小生は、十三四の時分かと思ふが、岩本へも行つた覺えがある。一人で行つたのだから、大抵は晝席であつたと思ふのだが、聞いた話のなかでは、澁川伴五郎が霧島山で土蜘蛛を退治する話と、妲妃のお百とが記憶に残つて居るのみである。講釋師の名などは覺えて居ない。 講釋専門の寄席は本郷近くでは、上野の廣小路に本牧亭といふのがあつた。これは今の鈴本の筋向うあたりであつたから、今何んとかいふ蕎麥屋兼料理屋になつて居るあたりにあつたのではなからうかと思ふ。 神田の白梅はその當時は位置が好かつたので、眼に立つ講釋席であつた。小柳のある町はその時分は横町であつたので、講釋好きの人が知つて居るだけであつたらうと思ふ。 白梅は今はもう講釋席ではない。此の頃は、多町あたりでも、白梅(はくばい)へ行くとは云はずにしらんめへ行くと云ふのださうだ。時世の變化がこんなところにも窺はれて、微笑を禁じ得ない。 (第六節) 明治二十年頃であつたと思ふのだが、圓朝を唯つた一遍若竹で聞いたことがある。如何にも落着いた正々堂々たる話し方であつたが、餘りに平凡な教訓的な言葉が混つたので、客が冷かしだして、話が面白く聞けなかつた。圓朝は可なり體の大きい男であつたやうに覺えて居る。 伯圓も一遍若竹で聞いたことがある。話のなかで鶴の講釋が始まつて、伯圓が頭の赤いのを丹頂といふのだと云ふと、客が頭の光るのは何んだと云つた。伯圓はそれに構はずに話を續けようとすると、客は尚頭の光るのは何んだと云つた。伯圓は怒つて、そこ/\に話を終つてしまつた。何んな話であつたのか、何んな話し方であつたのか、少しも覺えて居ない。唯伯圓が脊の高い、頭の禿げた男であつたことが記憶に残つて居るのみである。 (第七節) 手づま師では、柳川一蝶齋も見たことがあるが、歸天齋正一が西洋流の手づまでは大家であつた。正一はまづいながら講釋もやつた。托塔天王晁蓋が何うとかしたといふ水滸傳の講釋を一遍聞いた覺えがある。正一は手づまの外に幻燈をやつた。今の活動寫眞から見ると、隔世の感が深い。 「講釋」の章から 一 講釋といふものは、事件の荒筋だけを話すだけのものになりつゝあるやうだ。 一席講談とか、速記などが、流行りだしたが爲めに、所謂無駄な所を抜くといふ傾向が益々甚くなつて、實は、講釋の生命である分まで、抜いて了ふやうになりつつあるやうだ。 講釋を本當に面白く聽かせようとするのには、徳川時代の風俗、習慣等をば可なり詳しく、話の筋の間へ織り込んで行かなければならぬのだ。さうでなくば、唯だ昔あつたと傳へられて居る事件の目録を讀んで聞かされるやうなもので、趣味あり知識ある聽者に取つては、面白くも何んともないものになつて了ふのだ。 古い事は、幾ら事實を調べようとしたところで、本當の事實に到達することの能きるものではないのだから、講釋などは、こしらへ事を面白く話した方が宜いのだ。が、面白く聞かせようといふのには、今のやうに、話の骨組だけ話すだけのやり方ではいかぬのだ。事件には、色を附け、肉を附けていかなければ駄目だ。 引き事も必要であらうし、説明も必要であるのだ。封建時代の家屋、武器、服装などといふもので、吾々には、滅多に見かけられないやうになつたものが、隨分多い。今三十位な人々に至つては、封建時代の物に對する知識は、吾々よりも尚一層貧弱である。 講釋が、今後幾分かでも生き残らうとするには、さういふ若い人々に訴へていかなければならぬ。で、さういふ人々のうちの、趣味の発達した人々をも、お客にして行く心算ならば、一見しては、話の筋には直接關係のないやうな事でも、その話の説明に必要だとか、その話の色どりになるとかいふ事は、面白く話の間へ織り込んでいかなければいけない。 例せば、チヨボ一の博奕とは何ういふものか、博奕打同士の外交的作法とは何ういふものか、大名屋敷とは何ういふものか、江戸城の間取りは何うであつたか、髪結床は何ういふ風、湯屋は何ういふ風、といふやうに、さま/\な事に就て描寫的説明をして行くのが必要であるのだ。 六十以上の人は、市井の風俗などは、目撃したのであらうから、さういふ人々には、説明なしでも、宜かつたらうが、今の人々の多數に對しては、事件の背景を組みあげながら、事件を話さなければ、本當に分りもしなければ面白くもないのだ。 さういふ謂はば無駄をば面白がらずに、話の荒筋の運びばかりを急き立てるやうな沒趣味な客ばかりを本位にして、やつて行くやうであつたら、講釋は次第に浪花節同様の馬鹿々々しいものになつて、直きに滅びて了ふに違ひない。同じいかさまの話を荒筋だけを話すのであつたら、三味線が入つたり、歌が入つたりする浪花節の方が、講釋よりも、ずつと多く、客を呼び得るに違ひないのだ。 要するに、講釋は能きるだけ、緻密にやるやうにならなければならぬ。 所で、さういふ無駄を巧く話すことは、前代の講釋師の方はやつて居たやうに思はれる。で、さういふ事は、今の年老つた講釋師には、或程度までは能きることでありさうだ。 が、若い連中にそれが能きようか、それは餘程覺束ない。何故だと云ふと、彼等のなかから、何かよい物を掴み出すまでの識見があれば宜いのだが、今時、そんな事の能きる者が、講釋師になつて居る氣遣は先づ大抵ないものと、云はなければなるまい。 が、骨を折つてやつて見る氣のある者があつたら、全然行かぬといふ譯ではあるまい。 二 何れにしても、講釋にも種そのものの選擇が必要だ。話す方でも聽く方でも、餘り特別の知識を持つて居なければ分らないといふやうな話は、癈めて了つた方が宜からう。 一例を云ふと、三十三間堂の通し矢の話などは、本當に話すには通し矢のことを調べた上でなければいけないのだ。けれども、それを調べるには、餘程手間がかゝる。何うも、古書を讀んだだけでは、駄目だらうと思ふ。その上に、その調べが附いたとしても、弓の事を知らない聽き手には、それ程面白いか、何うだか、分らない。そして、今の人で、弓の事を知つて居る人は少ないのだ。 通し矢は、武士の華と云はれた程のものなので、通し矢そのものの光景を巧く話して行けば、それだけで、非常に面白い話になるのだが、今云ふ通り、その面白さは、弓の事を知らぬ人には、貫徹しないものであらうと思ふ。 今の講釋師で、星野及び和佐の通し矢の話を爲るのは、通し矢とは何ういふものなのか、大抵は、全然知らずにやつて居るやうに思はれるのだ。 或雑誌で、桃川如燕といふ講釋師の『三十三間堂譽の通し矢』といふ講釋の速記を讀んだが、これが、事實を大分間違へて居る。 『この星野が、貞享二年四月十五日朝卯の上刻(今の午前六時)より三十三間堂に於て通し矢を致した、夕の六時までに矢數が八千八百八十八矢……所が、和佐園右衛門は、七千本の通し矢を致しました時に、日本一と云ふ額を上げた、今度の星野は、八千八百八十八矢であるから……』 と云つてあるのだが、通し矢といふものは射る矢が皆通る譯ではないのだから、唯だ通り矢の數だけ云つたのでは、正確ではない、本當は總矢數を舉げて置くべきである。『玉露叢』(三十六)には、次の如く書いてある。 寛文八年五月三日 一、徹矢七千七十七 天下一 葛西園右衛門 總數 九千 同九年五月二日 一、同 八千 天下一 星野勘左衛門 總數 一萬五百四十二 それから、この講釋では、朝卯の上刻から始めて、夕六時までに、八千八百筋とかを通したといふのだが、これは、嘘らしい。通し矢(大矢數)の時間は、前日の暮から、翌日の暮まで、一晝一夜である。『武用辨略』の四、射事の部、矢數といふ所に、 『……凡矢數を射る様子は、今日の暮より射初めて、明日の暮に終也、夜中矢先に篝を燒、扨總矢數何程の内、通矢幾何筋と定也、是を大矢數と云、日の内計射るを小矢數と呼也……』 常識で考へて見ても、十二時間位で一萬射ることは殆ど不可能であらう。五千位の所が道理に合つて居ようと思ふ。 和佐大八郎の所になると、講釋には、 『大八郎は弓籠手を附け、八分の強弓を把つて廣場へ出ると、矢は山の如く積重ねてある……』 堂弓は何分とは云はぬと思ふのだが、それは餘り専門的なことだから、勘辨するとして、馬鹿々々しいのは、この講釋師は、通し矢といふものは、廣場でするものと思つて居ることである。通し矢は、堂の縁へあがつて、射るものなのだ。即ち、堂の縁の小口より小口までの距離六十四間一尺八寸六分(玉露叢)の間を矢を通すのだ。矢が高く上れば、庇裏で遮られて了ふし、横へ外れゝば、縁の外へ出て了ふか堂のハメへ當つて了ふかなので、是非とも低く、狭い間を矢を通らせるやうに射なければならない。で、堂射は難かしいのだ。さればこそ、堂矢(ママ)、堂矢といふものには、特別の製作が必要になる譯であるのだ。何を箆棒な、野天で六十六間矢を通らせるだけならば、僕にでも譯なく能きることなのだ。見て來たやうな嘘も、これでは餘り猛烈だ。ヨタも斯うなれば世話はない。 三 この講釋師などは、通し矢は、立つて居て射るものだと思つて居るのだらう。それから、奥山の大弓場か何んぞのやうに、筒にでも矢をさして傍に置いてあつて、それを一本々々取つて射るものだと思つて居るのだらう。 通し矢は、立つて居て射るのではない。尻へ小さい臺をかつて胡坐を組むのだ。そして、右の膝へ、矢を、羽のある方を上にして置くのだ。射放すと直ぐ次の矢を膝から掬ふやうにして取り上げるのだ。この矢は、矢を當がふ役の者があつて、それが、射手の膝へ一本々々置いてやるのだ。その矢を置く役が大切な役なので、これは、射手の師匠なり、先輩なりが、勤めるのだ。輕い、苦もなく通る矢ばかり當てがふと射手が餘り勢附き過ぎて、直きに力を消耗して了ふので、さういふ時には、重い矢を當がつて、通らない矢が出來るやうにさせて、射手をして、落著かせ、射前を引締めさせるのだ。矢當がひの役は、射手の調節掛りなのだ。後見なのだ。 それから、的前−普通の射場の時−では、片肌を脱ぐきりなのだが、堂の時には、兩肌を脱ぐのだ。腹へは白木綿を卷くやうに聞いて居る。髻は始から斷つて了ふか、何うだか、知らぬが、大童で射て居る畫を何處かで見たやうな氣がする。 僕も、此位なことなら知つて居るが、餘り詳しい事は知らない。尤も、書物から引き出すだけなら、未だ材料は盡きはしない。 で、通し矢の始め、沿革、天下一の姓名、弓矢、その他の道具の説明などは、措くことにして、星野勘左衛門及び和佐大八郎の事蹟に關する舊記を左に抄出する。 (以下、省略) |