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「松林伯円」という名前は、私たちの脳裏に強く残っている。どろぼう伯円≠ニいう異名もある。しかし、なぜ彼の名が残ったのであろう。いいかえれば、どのような講談によって世人に影響を与えたのであろう。この辺の事情については、どの資料によっても十分な解答が得られないのである。 伯円が没した翌日、『東京朝日新聞』は次のような書き出しで、その死を悼んだ。 明治講談界の泰斗として芸壇に推重せられ、落語家の円朝、俳優の団十郎と共に、三幅対と数へられた。(一九〇五年二月九日) また七回忌に相当する一九一一(明治四四)年、森暁紅も同じような主旨を『文芸倶楽部』に寄せている。明治日本人は、三遊亭円朝や市川団十郎(九代目)と同じように、伯円を遇したと解されよう。だが、円朝や団十郎の伝記は整備され、その業績が賞揚されているにもかかわらず、伯円にはなにひとつ残らなかった。明治以降の日本人にとって、彼の存在は荷やっかいであったのか。 伯円の速記本『佃の白波』によると、彼が口演した作品は、生涯に一二〇を越えたという。そのうち、この『佃の白波』をはじめ、『鼠小僧』『天保六花撰』『』小猿七之助 『安政三組盃』などは、歌舞伎に劇化された。ことに『安政三組盃』は、森鴎外をして『鈴木藤吉郎』を執筆させる動機になったし、『雲霧』ははるか後年にテレビ化され、連続ドラマにもなった。にもかかわらず、肝心の伯円は報われなかったのである。 一九〇一(明治三四)年、伯円は舞台で卒倒した。老い先の短いことを知ったためか、門弟の右円に伯円の名跡を譲り、みずからは松林東玉と改名して、横浜・鶴見の総持寺のほとりに隠退した。それからわずか二年のち、新伯円は講談組合から除名される。そのため、数多くの門弟も四散した。こうした事情も、伯円を分かりにくくさせる一要因となったにちがいない。 もっとも還暦後の伯円には、自己の体験や芸歴を語る機会は幾度もあったが、脂の乗った四〇―五〇代、つまり明治初期の状況については、口を閉して語らなかった。生涯の花ともいうべきこの時期について、なぜ彼は触れなかったのだろう。 |