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「明治の思出噺」の章から 寄席の円朝が、いろもので二銭八厘でした。並木亭の定連が、月二十五銭投り込んで置くと、お茶たばこぼん、座布団つき、いつでも木戸御免。大きな顔をして、この寄席は己が建ってやったというような面が出来たものです。当時大阪下りの綱太夫が大したものでした。義太夫はこの人から盛んになったようなものです。木戸が三銭五厘とりました。この人は代地に住んでた左官の倅で、背中に刺青があったくらい、モトは新内畑の身を、浪花へ下って、ミッシリ太棹を習って来た。本格に修業して来たから、大評判大入。ソレが柳橋の新柳亭で、とう/\二日目に桟敷が落ちて怪我人を出してしまった。寄席で桟敷が墜るという、凄らしい大人気、明治二十年と覚えています。同人の宅は両国の元柳町へ曲るところにあった。水を吟味したものです。高座のお湯も、弟子が宅から沸して持って来るというくらい、咽を大事にして、嫉まれて水銀でも入れられない用心をしていました。よく美声を奪うため、水銀を呑したという事実があるんです。その頃円朝が真で、中入前が馬楽、小円太、セイ/\五人ぐらいの出ですから、話に実があって、油が乗って、しんみりして面白かった。柳橋のお岩さまなんか、聴いていて凄味を覚えましたよ。ゾット水をあびせられたような気がする。演る方も、一生懸命で、お岩さまが乗移ったというお話があります。講釈師の大竜が、お岩さまの割下水殺し場を弁じて、自分がフラフラとなって、客席をソーッと通って、木戸から行衛不明になったという騒ぎ。人を八方へ奔らすと、芝口で天ぷらを喰っているのを見懸けたという人があって、ソッチへ手を廻すと、全く気が変になって、芝大門から浅草聖天横丁へ舞戻り、聖天山へあがろうとしたところを捕えたといいますが『四谷怪談』には、エテこうした変なことがあったものです。 円朝より燕枝の方が、話は上手で、売出していましたが、眼がヤブで、高座へあがると、愛嬌に乏しい。お客を睨めつけるようだと言われ、人気がオヤかりませんでした。しかし腕の喜三郎や島千鳥なんかやらしたら、旨いものでした。九代目と兄弟分になったほど、書も書けば上手だった。その頃の名人はノン/\南竜、桂文治は落語家でと唄われた文治、名人貞吉、ノベツ席をヌクので、人気がないかというに、三日つづけて出ると、客脚メッキリ殖えたというくらいでした。 講釈場の減ってしまったのが、グット眼につきます。浅草で矢大門のソバの東門△奥山の金車△神田の小柳△中橋の松川△八丁堀の馬場△今川小路の染川△上野広小路の本牧(昼夜一杯でした)(本牧の倅が今の鈴本です)△江戸橋のどてぐら(川岸についた所にあった席亭)△神田の白梅(京町の小格子の主人が建ったもので、昼講釈、夜はいろ物)△日本橋の木原店△人形町の伊勢本でした、上野の本牧というのは、今の博品館のとこにあって昼の講釈には、根津の牛太郎連が一杯につめかけていましたっけ。 「寄席と講談師劇」の章から 麻布福槌亭の寄席ビラについて、伯知翁はこれを説明してくれた。 明治二十年と覚えています、『円太郎』は最初の円太郎で、ラッパの円太郎です。人気のあったもので、ガタ馬車が新橋から浅草へ通っていた時代、ソノ喇叭を吹く真似をして、高座で喇叭を吹いて、人気を博したものです。今に市の自動車に、その名を伝えているくらいですから、恐ろしい人気のあったものです。実に受けたものでした。『子遊』となるのは、花柳吉蔵の子供の時分でしたろうと思います、『歌女吉』は年増の女で、都々一を唄ったもので、『宝遊』とあるは、道具屋の道楽息子で、素人と思います。あんまり旨くはありませんでした。『美蝶』はお馴染のしんこ細工、あめ細工が上手で、客前でこしらえて御覧に入れたものですが、大酒呑でして、手に負えず、お座敷も多かって、一蝶斎と同じくとりまえも多かったのが、どうかしてしまいました。酒の上で……、『りん蝶』は普通の芸人、可もなく不可もなく、『花遊』というのは『びっこの花遊』といって、面白い男でした。本郷座で伯円が、八重垣姫をいたし、伯知が濡衣を買って出ました時に、花遊が小文治を演るといいますから、「びっこの小文治は見たことがない」といったら「ナニ繃帯をして、手負の小文治をやる」と言張って聞かないでやらしたなんかという、気象の面白い男でした。後に仙台の遊廓の幇間となったそうですが、至って色っぽい人でした。『おもちゃ太夫』はチョット綺麗な子で、売れたものです。『土橋亭りう馬』は五代目ですが、色の黒い、丈の高い人物でした。人情噺は旨いものでした。 これで木戸は五銭でしょう、五厘引の七三分かと思われます。円朝で明治二十三年頃二十銭と存じます。伯知が前をば、下ゲビラでやったら、仲間からみんな、「なぜ助けとして貰わねェ」といわれたもので、顔触が円太郎、橘之助、円朝は十銭引でした。ソノ頃の橘之助は爺父が附添いで出ていましたが、全く寄席芸人として、唯一の女です。この爺さんが大変もので、大きな布団を高座へ出して敷かせたり、割のことでは一歩も譲らない恐ろしい権識でした。 伯知と円太郎の外二、三で、暮の二十九、三十、三十一日大晦日を、今でいう『五人会』といったもの、小川町の若竹でやった、「やッたってしようがない」といわれたものが、二十九日は五人鼻を揃え、三十日、三十一日は円太郎と二人限り、ところが二百人から入りました。けれども書生さんばかりで、どこへも行くところがないから、集って来た人々でした。翌年これに味を占めて、また演りますと、今度はカラ入りがなかったものです。ハズミというものは妙なものでした。 二十年から三十年は、娘義太夫の全盛期で、綾之助の人気は、今の映画女優以上でした。越子の人気も大したもので、三福、素行、小土佐、昇菊昇之助、新内の宮子宮浜なんか、どこの寄席も割れ返るような大入、どう摺連の横行、これらの娘義太夫の出る寄席を追懸て歩く、という景気でした。ソレから源氏節の勝次、名古屋から来た女で、これがまた大した人気を取りました。ひとり東京のみでなく、地方巡業にしても、東京芸人でソレ/\我々芸人は人気を博したもので、円遊、橘之助、林中、むらくが、北陸金沢高岡富山越前福井と廻って、大入を占めました。昔は寄席で鮨を木箱へ容れて五銭で売って相応に売れていました。本所辺の寄席は、菓子がよく売れ、五十人の客で、三十人は買ったといっていました。今でも鮨の売れるのは、浅草の金車亭だそうです。ソノ頃御承知の五厘というのが、旨い汁を吮っていました。三遊亭の五厘(周旋人)が円之助。柳派が大由で、初めは円朝には円朝の五厘があったものです。この五厘には弊害があって、袖の下をつかわないと、寄席を多くしてくれない。娘義太夫全盛期の五厘山田の如き、飛ぶ鳥を堕す勢いで、我儘を極めていたくらいのものでした。今の言葉でいう横暴を極めたものでした。 伯知の収入の多かったのは、月参百円、昔の参百円ですから、駈持がまず四軒ぐらい、お座敷が五円十円で、なか/\ありました。けれども交際が冠婚葬礼百円は飛んでしまい、芝居の総見が好きですから、これまた尠くない出費で、名前替えの贈物、飲食費、人力車が三十円五十円、勘定すると出銭が飛ぶ如く、幾らあっても足りませんでした。二十七、八年から三十四、五年、日清戦争の際、四、五銭の木戸が、三十七年には十銭と倍になりました。円遊が月収千円から千五百円あった。ステテコ全盛の高座、天下泰平に踊っていました。変梃な手つきで、足の指尖の踊、今でいうトウダンスみたいな尖端を行く奴でありましょう。 本郷座で『講談師芝居』を演ったお話で、局を結びましょう。忘れられません。明治二十五年八月十四日、芸題は、末広鉄腸氏の『雪中梅』野中基(伯鶴)武田武(私)円玉の召捕役人、前申した花遊のびっこが囚人、女形が松村燕月女という、後に耶蘇教に入ったという変り女が呼物でした。松林伯鯉の裁判官に、スッカリ喰われてしまった。金貸の役をもやって、ソレも旨い、手に入ったものだと皆な呆れたら、モト役者上りの講釈師であったので、どうも舞台度胸がいいと思ったと、楽屋で感心したような次第。サテ中幕が、これも呼物の『鈴ケ森』幡随院長兵衛が、英人ブラックだから、これが大呼物、権八がかく申す伯知で、白く塗立ったもので、モットも若くもありました。飛脚が伯鶴、今の伯鶴の阿父さんで今の伯鶴は小伯鶴といって、花円遊と共に雲助に廻され、役不足でしたのみか権八の伯知に斬られるので、「詰らねェ」といいますから、「詰らなかよしねェ」といっても、根が好きなんですから、ヤメられず斬られていましたのが、可笑しくって耐りませんでした。二番目が『御殿』で、勝頼は若円、八重垣姫か師匠の伯円です。濡衣が伯知で、綾瀬太夫出語りという贅沢、狐を二十匹から使った。この八重垣姫と来たら、ビクとも動かない。動けないンだそうです。鬘が重く衣裳が重く、動かない八重垣姫が出来上ってしまった。伯知は一生懸命やりましたが、金のかかったことも夥しく、音羽屋からよきこときくの、縮緬の楽屋着なんか贈られ、有頂天になっていたら、二百円からケシ飛んでしまい。おまけに三日目の『雪中梅』武田武が井生村楼から出て、廻舞台になって、美倉橋へ替る時、廻舞台と廻らない舞台の、双方へ脚を載せていたから堪りません。仰向さまに転倒かえってしまって、セリフも何も出ません。中には幕が閉っても、眼をむいて大見得をしている役者があって、全く眼が眩んでしまって、見物なんか見えない人もあったりなんかして、本統にあんな滑稽なことはありませんでした。一度で懲々してしまいました。 「松林伯円の一生」の章から 伯円さんの一生は浮沈が多うござんした。自分張の人ですから、自分一人は威くなりました。本人は学問があるというよりは機転が利く、頓才があると申しましょうか、活きた才の人でした。才を活用したところは、一生を通じて、名人の名を残した訳です。モト下館の士分の家に生れ、父が浪人してから、伯円さんは縁あって、井伊掃部頭の御家来の家に貰われていったものです。ところが何しろ遊んだ人ですから武家は勤りっこない。その頃若林駒次郎と申したそうですが、駒次郎などと柔しい名で、武家には向かない。色男役の名で、もっとも朝顔日記では立派な武士であるが……武家といっても、足軽か何かでしたろう。その内どうした拍子か、小間物屋の娘の許へ入聟となってしまいました。若夫婦は渡世に励むかと思うてイと、伯円さんは例ののらくらで、講釈が好きで、講釈ばかり聴いていて、講釈師になろうと言い出した。とう/\宝井琴調(馬琴の父)の門に入り込み、調林と名乗って、高座へあらわれた。中橋の松林亭というのが、伯円さんの弟でしたから、ソンな縁故もあったでしょう。この頃の講談というものが、昔の型が崩れて、しだいに世話に流れて行く、水の流れの上が澄んでいても、下が濁るといった風でした。 この世話物の名人が『大流』という講釈師で、後に大阪へ下って『東玉』と名乗った人でした。講談も面白く、女は女の仮色をつかって、大岡政談なんか、面白く聞かし、これが客受よく、漸次にこの風を真似出して来た。初代伯円というのは、名代の弁家で、一流亭文車と相拮抗したものです。トコロが初代伯円が小梅の宅で打倒れて、中気伯円になった。調林では引立たない、ソコは才物の駒次郎、中気の伯円の世話してやると約束して、旨くこの大物の名目を受け継いでしまった。この時です文車が怒ったの憤らないのでない。とう/\下駄で二代目伯円を擲りつけたという活劇がありました。伯竜が仲裁に入って調停しまして、ヤットまず伯円に成済したが、元来才子でのらくらですから酒は呑む、賭博は打つ、懐中は無一物、小間物屋の舅と折合のつく道理もないが、ソコにまた名人肌の潜んでいるところは、養家に見抜かれなかった。つまり名人を見損なったんだが、コレは普通一般見損う方が本統でしょう。一方道楽は道楽で、当時の名人小団次や仮名垣魯文などと知己になり、山城河岸の津藤さんにも出入して、御引立を蒙り、智恵を買ってもいたものと見えます。 安政五年の頃おい、女房を連れて養家を出た。出るは出たが、打つ呑むじゃア、内幕がソレは/\火の車でひどかった証拠は、大の男が小供の弁慶縞の衣物を着ている始末、贔負に買被っていた染川亭も愛想をつかし、木場に住んで臍繰を狙われた阿袋もコソをつかし、貢ぐどころか相手にしない。セッパ詰って永代橋へ差かかった時には、いっそ一ト思いに、ザンブとばかり身を投込んで、死んでしまおうとさえ思い詰めた。スルト足の尖に障ったものがある。拾ってみると一朱であった。商売ものの講談みたいだが、この時「天未だ我を棄てず」と、三拝九拝、まずソノ一朱の中で、茶飯を鱈腹詰込んで、腹ごしらえが出来ると、死神が離れたものか、ヤット人心がついて、我に還った。堀の船宿に三五郎というのがあって、予ての知合い、その家を叩き起し「実はこれ/\かく/\」と話したら、「ソンな馬鹿な了簡を出すもんじゃァない、人間死んで花が咲くものか、生きていればこそ埋れ木も世に出るのだ」と親味の意見を貰い、その晩は泊めてくれた上、衣裳を替えて貰い、小団次の宅へ参りました。ちょうど徳川十三代様(家定)が御薨去で、御弔事でした。百日間ですから、猿若町は火が消えたも同然、役者連は退屈でしようのないところへ、船宿で貰った衣裳が、芝居の幕布でこしらえた奴を着込み「今日は」と出懸けて「実はこれ/\かく/\」と、ソコはお手の物の弁巧で、一伍一什を面目な気に話しますと、小団次はおおまかで「マア宅に居るがよい」といってくれた。 腮にありついた上に、絹裏の糸織の衣物を与れました。お下りとはいえ、役者好みの衣物ですから弁慶の子供のちゃん/\、引幕仕立の衣裳と違って、広袖の糸織、すばらしく気持がよかった上に今度という今度、死生の間に浮沈みの昨日今日を考えますと、遉がの伯円さんもグッと骨身にこたえた辛抱気。根が馬鹿じゃアない、機転といい頓才といい、名人になるくらいの人ですから、同家でスッカリ人間を洗い張りしてしまった。この小団次の宅にいる間、毎夜講談を聞かしながら、その内で「コレは面白い」と小団次の気に入ったものが『小猿七之助』などで、好い劇が出来上ったものです。ソコで小団次のお声がかりで、聖天町の席へ出ました。明治まであって亡びましたが、義太夫席でした。御弔事明を待って初めたが、吉原が火事で、聖天町辺が、仮宅となったから、寄席どころでないと断わられて、しまったと思った。スルト小団次が江戸ッ子気象を出し「よし、ソレじゃァおいらの家の長屋でやれ」と、馬道の五軒長屋を打抜いて、寄席にしてくれた。うなぎの寝床見たいな寄席が出来た。開業には訥升、家橘(五代目菊五郎)が木戸番と来たからたまりません。千客万来、たちまち二十五両から儲かった。儲かったはよいが、田之助が発起で、「ソレッ景気をつけろ」で、下地は好きなり、御意はよし、眼と鼻の聖天町吉原仮宅へ繰出すと、二十五両は桜炭のジョウみたいに消えてしまった。けれども伯円の名声は俄かに弘まった。後楯がよいだけに、第一人気役者だから伯円はえらいもんだで世間に知られました。もとより名人の伯円さんですから、聴者も伯円はうまいと評判し初めた。ここが伯円さんの活才とでも申すところでしょう。 染川亭も当人を見直して、自分の席へ迎える。ここで昼席を三年つづけました。この三年間にうんと講談を鍛錬しました。自作物もイタにつけた「鼠小僧五人白波」「鬼人のお松」コケ脅しに脅したものには「緑林五漢録」天狗小僧霧太郎△業平金五郎△のぶすまの幸次△獄門初之助△鼠小僧次郎吉の列伝でした、「雲霧仁左衛門」「おとみ与三郎」なんかがなか/\旨かった、「佐倉宗五郎」や「加賀騒動」の大物も相当の出来栄で、文車を向うに廻して、張合ったものの、この仁は世話物と巾着切ものだけで、大物が悲しいかな出来ませんでした。「切られおとみ」なんか伯円三の方がグット旨かった。「小猿七之助」の講談も、舌耕斎といった乾坤坊良斎の原作があったのを、伯円さんが旨く作って、小団次の耳に味われて、河竹黙阿弥の筆に仕組れ『網模様燈籠菊桐』七幕五場の長丁場となって上演されましたのが、安政四年七月の市村座の舞台でした。 伯円さんの家庭の方を覗きますと、かの永代橋の時、女房は舅に連戻され、覆水ふたたび盆にかえらず、明治の初年には、鼈甲屋の娘さんで、踊の師匠をしていた菊川錦蝶と、夫婦になっていました。下谷の練塀小路に住んでいたもんですから『河内山宗俊』をでっちあげてああした名狂言ともなりました。かの『天保六花撰』は名作です、『雁金五人男』という本から編み出したものです。多少の事実はあったもので、石町辺の呉服屋の悴が、頗る美男で、学問も剣道も出来たところから出羽様へお小姓にあがった。スルト御奥のお小姓と不義をしたので、御家御はっとうとて、成敗されることとなった。かくと聞いて呉服屋では、金にあかして命乞を願ったが、お許しがない。一家悲嘆にくれたところへ、浅草の僧侶が尋ね来て「百両出せば、キット助けてやろう」といったが主人はかたりと疑い、信じなかったが、家内が臍繰八十両を把出して、ひたすら頼み「コレが自分の腹を痛めた子なら、我慢もしますが、なさぬ仲とて、出来るだけの手を尽さなければなりません。どうぞ吉左右をお聞かせ下さい」と掌を合して頼み「よしッ、御安心なせい、引受けました」と八十両を懐中に捻じ込み帰っていった。主人は騙術にかかったとばっかり思っていたら、翌日悴が帰って来た。と同じように、女の小姓も浅草の易者の娘で、つてを求め出羽様へ御奉公中の出来事、ソレが助ってこれも帰宅。この助けた僧侶が、実は僧侶でなく、雷庄五郎という寺男で、極の字のつく悪漢でした。この事実から趣向をかため、換骨奪胎して『河内山宗俊』がでっちあがった。天保と申しても、事実は文政五年に刑に処せられた宗俊です。ソコは「講釈師見て来たような嘘をつき」というところでしょう。「三千歳」は吉原の松葉屋にそうした名前があったからで、「直侍」は直三郎という悪御家人があって、御刑罰になっている。ソレを使ったものです。「金子市之丞」は全くこしらえもので、こうした作意は、芝居方面に交際が広く、舞台の役者のつかい道も呑込んでいたから、でっちあげるのが旨い。芝居気のたっぷりあった人で、『安政三組盃』なども自作中の白眉で、評判を博したものでした。 明治初年に及んで、伯円の名声は、ます/\名人の域に進み、「白浪伯円」とまで諢名を呼ばれ、白浪物ばかり演ずるように思われたので、ソコは機転が利いて頓才が働くから『近世史略』と看板を掲げ、御維新の活歴史を読み始めました。田辺太一△榎本武揚△江川太郎左衛門などのお話を集めて弁じ、今日で申す幕末秘録を読んだものです。最初は聴衆が喰べつけないから当らない。その跡で『河内山』をやると大受なんです。性来はどっちかといえば臆病の人ですが、高座度胸のあったこと驚くばかり、とう/\福沢諭吉先生の演説振を拝見してから、早速従来の高座から、講釈師の叩台をとっ払って、テーブルを前に立読みを初め、聴衆を驚かしました。洋服を着たのもこの人で、明治六年に洋服の講談師でした。同七年に江藤新平の佐賀の乱が起りますと、直ちにソレを仕組み、『佐賀伝法録』何となくもの/\しい標題で弁じた。コレが当ったは夥しく、京橋の銀座亭で、三百人からの下足がついた。ソレから味を占めて、明治八年両国の広小路福本で、『清国戦話』を読んで当りつづけ、文明開化をもしきりに高唱したもんですが、講釈師の向上を計る、今の言葉で申すとソレで、「天下の講釈師は己一人」と天狗になったが、天狗になられても仕方がありませんでした。明治九年には世話物へ取つてかかり、新聞の雑報をすぐ講釈に作りあげた。『横浜小僧殺し』横浜の米屋が銀行の小僧を殺して、米櫃へ容れて隠していた事件を、スグ講釈に読んだから大入でした。明治十年には西郷西南の戦争で『西南戦争』を読みましたから、これは横浜の若竹亭で、正月に一夜壱千五百人という寄席開闢以来の大入でありました。同十二年には藤田伝三郎贋札事件、山城屋和助事件などが、三十日間大入つづけ、この時は京都までも乗出して、御陵亭というので大入を占め、講談熱を煽り立った。こんな風に出世して名人伯円となったから、弟子だけでも二十人からあって、団菊との交際も同等で鍋島直大侯の御贔負厚く、御前講演の光栄を戴きました。団菊は井上馨侯の御贔負で、井上邸で御前講演の光栄を担った。今に演芸史の記録に留っています。講釈師では桃川如燕も鍋島侯の御引立にて御前講演をしました。この両講釈師だけです。 伯円さんの日常生活を述べますと、朝は至極早起の人で、夜いくら遅くっても早起をしました。自作をするくらいの仁ですから、始終いろ/\考えていました。字は名筆の方で、歌俳諧はあんまりやりません。少しはやった。本を読んでいました。無学ではありませんでした。講釈師で学者は、何といっても松流斎柴田南玉後の馨でした。漢文の白点をスラ/\と読み、安井息軒の門に遊んだともいいました。雄弁家であったことは、釈界の一つ話です。伯円さんの喰物は、洋服を着るくらいですから、洋食が好きなんです。今でいうハイカラ風で、酒も英国製のストックのビールというのですから、ハイカラです。うなぎも好きで、ソノ頃駒形にあった中村屋から取寄て喰べていました。旅行も大好で、山県侯に随い沖縄まで行きました。 家庭はどっちかといえば、不仕合の方で、錦蝶さんとも馬が合わず、別居で暮す始末。ソレというのが錦蝶さんという女性が、踊の師匠で、男みたいな、女らしい柔和が欠けている。おまけに醜婦なんです。御城の御奥へ御稽古にあがるという女性ですから、一旦縁あって夫婦の契りを結んだものの、夫婦とは名のみで、浅草の住居には、舞台まで作ってあっても、錦蝶さんはやはり自分の浜町で踊の師匠を演っていました。で伯円さんの世話は、今の円玉の姉さんが取仕切っていた。味噌屋樽屋久七の娘さんで美人でした。円玉老は伯義といって同門でしたですから、姉さんの関係で、伯円さんの宅へ入っていて、すっかり名人伯円の衣鉢を受入れてしまったものです。 晩年はさしもの名人も振いませんで、鶴見総持寺の片傍に隠宅を作り、静かに余生を送ったと申したいが、手なぐさみが好きで、浅草の家を売払った七百円の金を、一夜でせしめられてしまったなどの不幸がありました。亡くなったのは明治三十八年で、享年七十五歳でした。講釈師を廃めてから二年目にこの世を去りました。右円という仁が三代目を続ぎ、僅か八年ほどで死し、八丁堀の住吉亭が伯円の名義を預っています。葬儀は私と伯鶴とが引受けて、浅草安部川町の菩提寺へ埋葬しました。伯円の名義ではいろ/\紛擾があって、円玉さんが私に担込んでも来ましたが、平にお断りしました。また擲られちゃ大変ですから……。 一代を通じると、名人というべきですが、浮沈波瀾に富んだ人で、貧乏のどん底へ墜込んだかと思うと、名人畑の絶頂を踏張って、天下の講釈師は己一人と叫んだが、ソロバンは持たないから、老境に入って蹉跌てしまった。 高座度胸のいいことを申しましたが、こういう事がありました。報知新聞社長の小西義敬さんが、江戸ッ気の派手好きな方でしたから、何でも天長節に、同邸で演芸会の催があって、素人芝居の一幕に、『鞘当』が演じられた。その時名古屋山三が桂文治で、不破伴左衛門が三遊亭円朝であって、伯円さんが花魁になった。弟子の伯体が鴇母に扮してソレは大喝采でしたが伯円さんの花魁はソノ艶姿で新宿の阿母に見せるといって、阿母の許まで歩いていったといいますが、この度胸が伯円さんの身上でした。 「上野公園梅川亭の一夜」の章から 明治の気分に漬るある会で、まず松林伯知が明治初年の伯円物−新聞のタネをすぐ講釈に演じた、『三千両小僧の米櫃』が一席演じられる。「照屋忠右衛門が、小僧の浅吉を絞殺して、三千両の金を、死体とともに、米櫃へ隠しまして……裏隣りの通事の家へ預けました。スルト同家のブルドッグが匂いを嗅いで、クン/\鼻を鳴らし、米櫃を嗅ぎ廻るところから、不審が起り、橋本巡査部長が立会い事露見に及ぶ」顛末を弁じると、巡査の薩摩言葉が話題になって、田中智学翁「伯円は苦しくなると巡査を出すと、よく言ったものであるが、巡査が出ると、巡査が出たといって、聴客は喜んだものだ」とあって、更に伯円の新聞即席講談から、「大阪で伯円を聘んだことがある。大阪知事が貴内という仁で、御前講談をそのままするというので、知事がまず座布団から辷ったから、並居る人々もこれに習うと、伯円非常に喜んで、こんな気持のよい講談をしたことがないといったが、その時出した名刺が松林正信と印刷してあった。ソシテ隅の方に、小さく伯円とあったよ。」 これから伯知翁の話の内に「若尾幾造邸出入の鳶がチョン髷をなか/\切らない。ソレを若尾さんが百円で買ってやろうといっても、忌だといって切らない。その癖旦那どうか二十円御貸しなすって下さいましと哀願するから、チョン髷を切ったら貸そう、ソレなら借りませんといって帰った。この話を女房に聞かした。スルト女房は百円になる髷ならと、夜中ソット鋏でチョン髷を切ってしまって、若尾家へ持参し、旦那様良人はチョン髷を切りました、といってありがたく百円の紙幣を戴き、大喜びで帰って来たのを、ソレトも知らず、翌日若尾家へ来た鳶の者、己のチョン髷に全く似たものがあると気がついて、自分の頭へ手をやりワーッと愕き泣出した」という話から、田中翁「子供の時つけていたが、なか/\よいものであった、今の人達も結ったらどんなものだろう」石渡敏一翁も「僕も子供の時結っていたが、髪結という奴が忌な奴で髪を結う間は、頭顱は髪結のものだといって、手筋で動くと叩く、ソノ痛いこと、悔しいから、あとではよく石をぶつけてやったものだ。」 ソコへ梅川の女将が、挨拶にあらわれる。 田中翁「女将は昔話がサゾあろう」といえば女将「ソレはございますとも、早いお話が、水月のお梅さん、花井お梅ですね。何でもお芝居や講釈ですと、大変毒婦のような、大胆なような趣向になっていますが、実際はあなた、ホンのハズミで、峯吉が馬鹿々々しく殺されてしまったことですよ。あの晩、わたしも浜町の常盤で、殺しのある前、一所だったンです。一体お梅さんは変な質で、例えば一座をしていても、その頃では一時間は、お客様の前を、お離れすることが出来なかったもンでございます。ソレをお梅さんは、いつか居なくなってしまい、池上の曙楼に居るなんて風なんです。またある晩は、お客様のところへ、小間物屋の小僧に、小間物を背負わせて来て、お客様を始め芸妓衆へ、お前さんはこれを、旦那にはこれがようござんすと、高価の紙入をあげたり、配ったり吃驚させられるンです。発作なんとかやらで、嚇ト逆上せる質なんでした。その癖顔立ちといったら、綺麗でいて、こうした女にはエテ険のあるものですが、柔かみのある、スッキリと襟から胸元へかけてなだらかで、よい姿の女でした。けれどもソノカットするのが疵でした。コレにはチャンと原因があったんです。あの晩だって、峯吉に浜町河岸で、ピタと出逢い、峯吉が「マア姉さん、どうしたというンです、お父さんは河村さんに合わす顔がないといって、坊主になると、詫びていらっしゃいましたよ。恩を忘れちゃアいけませんぜ」(河村銀行の頭取が旦那でした)「なんだとエ、余計なことをお言いでない、恩だとエ、恩を忘れるとは、お前のことだ。ナマをお言いでない、生意気をお言いだと殺してしもうよ」「殺す、姉さんに殺されりゃア本望だ」といったから、「何をいいやがる」と、例のカットなって、帯際に挟んでいた出刃で、横ッ腹をグサと刺してしまった「やッ刺ったな」といって峯吉は逃げ出し、阿波様のワキの車宿へ転げこむ。こっちはお梅さん、一つ刺して置いて、これも我家へ転げ込んで、腰が抜けてしまったものです。 お梅さんの容子が変ですから、水月のお父さんが吃驚して、事情を聞きただすと、これ/\だと話しましたから、「ソレは大変だ、こうしちゃアいられない、一刻も早く、恐れながらと訴え出ないといけない」とあって、腰の抜けたお梅さんを背負って、久松署へと駆込みお訴え、自首をさせたものです。一方車宿へ転げ込んだ、被害者の峯吉は、大層もなく後悔して「アア私が悪かった、姉さんの日頃の気象を知抜いていながら、あんな事をいったのが、私のあやまりでした」といったそうです。カット来るのを知らない峯吉じゃアなかったのでしょう。医師が手当もその効なく、とう/\助かりませんでした。ソレからお梅さんの方は、大岡育造さんなどの弁護を願ったものの、とう/\マアあんなことになって、浮名を世間に唄われ、芝居で演ると、豪勢粋なお話で、伊達な殺し場にされていますが実際のところ、ころもも醤油気もヌキにしますと、こんな風なお話なんでございます。」 一座はなるほどとうなずかれたが、梅川の女将は語を尾ぎ「ソレにはまだ一つお話があるんでござります。お梅さんのカットなる持って産れた訳があるンでございます。」 「水月へある晩のことです、泊ったことがあるンです。柳橋の小兼さん、御承知でしょう(と伯知翁へ顔を向ける)あの妓が田舎から来るお客があって、水月へ泊るについて、跋の悪いことがあるンで、私に一所に泊ってくれっていうんでしょう。器量のよい話じゃアないンですがソコが義理合いで、小兼さんと一所に床を並べて寝たものと思召せ。一つは藻抜けの空で、お客の方へいってるンですが、フト夜半に眼を醒した私が、尾籠なお話で相済みませんが、御不浄場へ参りますと、有明の灯がペタリン/\と消えかけていました。気味が悪いなと思いながら、用を便じて出て、廊下へ差しかかると、驚くじゃアありませんか。向うから骸骨が両手を振ってるこっちへ向って来るじゃアありませんか。ソレが段々私の方へ歩いて来るじゃアありませんか。私は気も魂も身に添わず、といった場合ですが持前の強気も手伝って、珊瑚の釵を逆手に持ち、身構えても見たンですが、ドン/\向って来たからただ夢中になって、お手も洗わず、洗っているどころじゃアありません。御帳場へ駈込んで打伏しますと主人が「どうしたんです、血相変えて」「どうもこうもありません、旦那、骸骨が」といいかけると「見ましたか、ソレは心配しないで下さい、家内です。お梅のお袋です」と涙をホロ/\流しての話に「三年気が違って、一ト間へ押込めてあるンですが、お幸(附添)が寝そびれて、病人の出たのを知らないんでしょう。お客のある晩は、殊更注意させるンですが、勘忍して下さい。内所にして下さい」という始末、何しろ気違いで、骨と皮ばかりの女が、素ッ裸のまま御ゆもじもなしで、両手を振って来たんですから、何たって愕かずにはいられません。」 「こうした人のお腹から出たお梅さんですもの、カット逆上るのは無理はありゃアしません。峯吉の前には源之助と関係していて、ある晩呼んだら、紅葉館へ呼ばれて往かれませんとの返事に、カットして紅葉館へ暴れ込み、源の字は便所へ逃げ込み、女中に汲取口から逃がして貰ったといった話さえあるンで、カットなったら、人の見境、場所も外聞も何もないンですからたまりません。」 智学翁「出刃庖丁を用意していたのが、謀殺に問われたンだろうな」女将「ソレがまた不思議なことなんです。ソノ日に限ってうぶけ屋で、いろんなものを買込んだものです。鋏、カミソリ、といったものを買った時、番頭がお誂いでこしらえた出刃が、タッタ一挺あぶれているンですが、水月で御使料にいかがですといって、小形の出刃を出したもンですから、ソレも貰って置こうよといって、手拭にクル/\ッとくるんで帯の間へ挟んでいたンです。ソレがお役に立つなんて、飛んだものが、カットなった拍子にお役に立ってしまったンですよ。何でもうぶけ屋の出刃は、森文部大臣を刺した西野文太郎も買ったンだそうでございます。」 智学翁「ソレじゃアうぶけ屋の出刃に因縁がありそうじゃ、出刃の祟りか、村正出刃か」一座笑いに崩れた。 「芝居寄席の改良」の章から ソレから寄席の改良の声も高く、日本演芸協会などというのが設立され、大改良を加えるといっていました。日本橋蠣殻町に『友楽館』という西洋風の立派な小屋が出来ました。神田の『錦輝館』とコノ『友楽館』とで、演芸改良が多少行なわれると希望され、かつ唱導されても、実際は興行主の利益主義ですから、観客が来なくっては、ソロバンが取れない。随って入場料が割高で、肝腎の改良の実は挙らなかったものです。友楽館で土曜日曜に『東京改良演芸会』というのが行われたので、ワザ/\行ってみましたが、出演者は『技芸委員』といういかめしい役名で講談、落語、音曲、手品、別段寄席と変ったとこがなかった。ただ木戸銭が高いにとどまったから、長続きがしなかったもので、改良の実績は挙らずじまいに終ってしまったのですが、話は寄席とちがって、ミッチリ聴かれて、出演者即ち技芸委員の顔触れも、当時(明治二十五年)の一流どこを網羅していたものでした。 三遊亭円遊△柳家つばめ△松林伯知△桃川如燕△竹本綾之助鶴沢かつ△三遊亭円朝△春風亭柳一(手品) 友楽館の向うを張ったものに、神田の錦輝館がありまして、同館では『演芸奨励会』が催されていました。越路などのかかった館でしたが、日曜日にこうした奨励会があるので、コレも出懸けますと、義太夫が住之助小住の花街達引△綾瀬大夫に荘治郎の判官切腹△円花△伯遊の落語△橘之助のうかれぶし(今のラジオへ出る古い人です)△新しがりの伯知が紅葉山人の此ぬし△円遊の地獄めぐり△播磨太夫紋左衛門の金王桜伏見の里△円朝の鏡ケ池操松影△ジャクラ憲一の手品といった盛方でコレは改良でないから、懸命にタップリ御機嫌をうかがい、面白く笑わしたものです。とう/\寄席の改良も出来ず、今日に至って寄席も廃れ、芝居も飽きられ、改良改善の声が叫ばれるのも、不思議なものです。どうしても名人とか、人気の強い芸人があらわれないとダメなものでしょう。詰らん話ですが、昔の改良時代を、チョット思いついたままに……友楽館で大阪仁○賀を観ましたが、今の喜劇の前の喜劇で、役者地震が義太夫を唄い、くすぐったい笑いをさせて演っていた。あんまり感心しなかったから流行らなかった。その癖一流の『鶴屋団十郎一座』でしたよ。 「統監官邸と魚源」の章から 時は明治二十五年頃ですな。お役所(統監邸をこういっている)では、殿様がお退庁になると、裏座敷の方で、マア上下を脱いで、お寛ぎになる。碁の始まる時もあれば、詩の会の時もある。殿様の親御さまがお出になることもある。料理店から御膳籠が入るのかと思っていると今度は猫が入って来る。お役所は表の方で、裏は官邸でお住居で、猫が入っても差支えないようなものですが、公然ッて訳のものじゃアないンで、魚屋に猫は禁物ですが、ソコは綺麗な猫で、林屋春本から通って来るのですがコレは出の衣裳なんかつけていないンで、チョックラ着で、泊込みなんですが、よく講釈で聞いた、松浦の隠居とやらが、ソノ雪の日に、碁を打つていて、「オオ寒い」といってあたるのが、女の肌の火鉢、「コレ/\襟巻を」というと、女が首ッ玉へかじりつくといって笑わしゃァがったが、チョット似た話で、殿様のお休みになる、お床を暖める役だッてんだが、嘘のような本統の話なんです。 「煉瓦通り時代の銀座」の章から ソレから細川風谷が面白い人物でした。硯友社でも名代の人物、紅葉山人にも可愛がられたことは私の持っている紅葉の手紙に、こんなのがあるのでも分ります。眉山人へ宛てたものです。 昨今細川着京いたし是非顔を合せて一盃やりたいとて突然に小波来庵を催して拙宅におしよせ貴兄にも御来車懇望との事につき行先は未定なれどともかくも御出下され度候 草々 徳 寛さま こうした仲の風谷が、私と福良竹亭とは大の仲好しになって、いろ/\逸話もありますが、銀座に関しては、まず彼に因って、義昌堂の支那弁当を喰べ習い、初めは脂肪こくて閉口したのが段々旨くなって来ました。支那料理ではまず亀島町の偕楽園と共に、義昌堂は元祖でしょう。ソレから銀座の函館屋です。まず外国の小説にある、酒場ソノままの店で、腰掛や卓があって、外国の酒類は、数段の棚にギッチリ穿込んでありました。酒場といっても女給のいる奴でない。主人のビール樽のように肥ったのが、まるで西洋人みたいに、髪の毛を長く垂れた、一種異様(ソノ頃では)の親父がノソリ/\と店内を歩き、客あしらいをして、洋酒の壜を、注文によって、スポン/\と抜いていました。コノ函館屋ほ連れて行かれたのが、前にも申した松居松葉、岡鬼太郎、山口才一郎、または福良虎雄の連中でソコでジンジャーを抜いて飲ませられたが、初めではあるし、ショウガだから、鼻へ抜けて、ペッペッと吐き出したりしました。玉ラムネ、ビール、ビールなんかも飲めなかったものです。外国のビールは強いといいましょうか。日本のと違っていて、閉口でした。もっとも酒は嫌いな私でしたから。 細川風谷君は米国にいた関係から、米国噺の面白いことといったら、聞きむさぼらしたものです。今三井同族にいる久世久君が、米国留学の時なんぞは、予備知識のため、新橋の今の『浜作』のあたりにあった『金六亭』というのへ、毎晩寄ってたかって、風谷の長講一席を聴問し、悦に入ったものでした。エログロを脱越した話振りだ、欧米行脚に至るまで、アノくらい詳しい人はなかった。後年日本郵船会社の欧州航路の事務長となって、『講談事務長』の好評を博し、会社を廃めてから、専らお座敷講談師となって、諸方面に聘せられ、昔の放牛舎桃林といった株で、桃林の講談を愛し、百花園などは随分金をかけて集めていました。風谷と牛肉を喰べに行くと、彼はアブラミばかり注文するといった喰い方で、豚の如く肥り返っていた。なか/\の友人思いで、友人間を泳ぎ廻って、その消息を伝え、私の親友であった。 「憲法発布式日の暗殺」の章から 学生の旗行列が大変でした。本郷の方は学生町だけあって、学生の祝福行列で続いていました。この日に、本郷の盲長屋のところにあった講釈場『岩本』でちょうど藤村菓子店のワキで、俗に『日蔭町』といって、陽のあたらないとこにあった席ですが、松林伯知がその翌晩から『森有礼伝』を読んだのは機敏でした。伊藤燕尾と村井一の後座で、長講毎夜の続き物は、大評判でしたが、別段差止めもなく、大入満員でした。伯知翁の話に、「大久保利通卿の時は、麹町で演ってたちまち警察署へ引張られましたが、森有礼さんの時は、何の御沙汰もありませんでした。森有礼さんはハイカラもハイカラ、ダンスの元祖で、鹿鳴館もこの人の献策であったが、明治九年に耶蘇教式の結婚を、静岡県生れの広瀬つね子と行ったという、文明開化の尖端を切った仁ですから、面白い材料も多く、そのつね子は後ち、眼色のちがった子を生んで、離縁となったというほど、ダンスを西洋人と踊った、マア踊らしたという、日本紳士で西洋魂を鵜呑みにしていた。外国から帰って来たハイカラなんで、ああした嫌疑を受けたのも是非がないといった講釈でした、暗殺当時の夫人は鹿児島県人でした」云々、この頃の伯知はハシリを読む人でした。 |