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舌耕芸と演劇の技法 はじめに 舌耕と演劇の関係は古くかつ新しい。しかし、これを中心課題とした研究は意外に少なかった。その理由の一つは、舌耕芸の実態―芸態―がつかみにくいことにあると思う。それゆえ、研究は主として舌耕と近世戯曲との素材上の関係に向けられて来た。中村幸彦氏の神道講釈と天神記ものの戯曲との関係に関する研究などは、この方面を代表する成果といえよう。また、祐天上人の念仏布教活動による累説話の成長が、累ものの戯曲を成立させた経緯も明らかになって来た。 しかし、本稿では素材上の影響関係とは別に、舌耕芸と、歌舞伎・浄瑠璃の趣向や演技との関連を、いくつかの点で検討しようと思う。ただし、演劇の側に摂取された舌耕芸には、明確にそれと指摘・摘出しがたい場合も少くないが、そのようなケースをも舌耕芸と演劇との接点と見なし、そこに仮説的な補助線を引いてみることによって、舌耕・演劇それぞれの芸態への理解を深めたいと考える。 談義・講釈と近世演劇 本稿では、仏教唱導の流れを汲む談義と古典・儒学・神道・軍書等の講釈とを一括して、軽口咄・落語の系列と別個に考えることにする。芸能として前者には本来見識を高く構えて聴衆を啓蒙する姿勢があり、後者には聴衆と同じ高さ、あるいはむしろそれより低い位置から話しかけ、いわば聴き手の御機嫌を取り結ぼうとする姿勢があった。そうした姿勢の差が建て前にすぎなくなった後も、芸態の基本にその差は伝統として残った。だから、談義・講釈ではまず権威ある本文(経典・古典等の一節)を掲げ、しかるのちこれを敷衍し、あるいは譬喩因縁を述べ、あるいは関連・類似する話柄を附説して「見て来たようなウソ」を展開するといった工合で、やはりおもただしい本文を講説するという姿勢があり、その本文を掲げることがなくなっても、講説の口吻は調子のよい和漢混淆文的「文体」として残ったようである。今、甚だしく戯作化してはいるが談義本「当世下手談義」(宝暦二年)によって、談義の口吻を窺ってみる。 それ釈尊金口の説法も。五時八教の別あり。たとへばそちたち兄弟八人は。たね腹かわらぬ一腹一生。皆此毘首羯磨が御作。そこなお婆ゝの胎内から出たれど。面々家職も住所も格別。宗旨迄がかわつて。八人八宗にわかれたり。総領の徳助は。わが志を継で。随分と吝げな。ヲゝでかしやる。(巻二「八王子の臍翁座敷談義の事」) これは八王子の臍翁なる親仁が、浄土宗牛秀上人の説法式要にのっとると自称しつつ、八人の息子たちに向って説く談義の冒頭である。荘重な文句から次第にくだけて行く口ぶりが察せられるであろう。同書巻四「鵜殿退卜徒然草談義の事」では、講師が「一調子張上」て徒然草の本文を読んだのち、その大意を述べ、おもむろに講師の見解を述べる段へと説き進める。 惣じて昔も今も。何者の。何の所得ありてか。そら言を造り出し。言触らす事か。扨々悪仕業かな。 臍翁も退卜も砕けた世話の口調で説いて行くが、要所々々では 是我才智をほこるからなり。世中の。人にはくずの松原と。いわるゝ身こそ心やすけれ。用らるゝが。禍の端。おそるべし慎むべし。(臍翁の談義) されば寛永十四五年のころかとよ。(退卜の談義) といった口調で引き締めて行くのである。 さて、よく引かれる例だが、浄瑠璃「壇浦兜軍記」(享保十七年 竹本座)二段目、京都東山の麓、菊水井のかたわらの辻講釈の場面を見ると、「講師関原甚内」は、 此時漢王自丞相府に至て迎給ふ大将軍を見れば韓信也。樊●色を失ふて御車の前に拝伏して申シけるは。 と「漢楚軍談」の一節を素読みしたのち、いわゆる「解」に及んで樊●の人物、その「分別」の深さをくだけた調子で説いている。この一連の語り口は「ヨミクセ」という文字譜によって想像することになるが、総じて今日の講談の口調に近いものと見て大過ないであろう。 もう一つ、これも周知の例ながら「御所桜堀川夜討」(元文二年 竹本座)二段目に登場する「軍書歌書の講訳師(講釈師)」は、自分がかつて五条橋で牛若丸に斬られた時のことを、 其頃は地主祭夜講訳(釈)して帰るさ。しかも春雨しきりに降つてきみわるく と語り出し、「おのが家業の仕形咄シ」で「今見る様にしやべ」る。これも劇中の講釈で、「壇浦兜軍記」より短いが、「まつしぐらに討てかゝる」「受けつひらいつ追つつまくつつ」「ざうりのはなをふみ切てこけつまろびつ」というように、身振りを派手に付けやすい文言が並ぶだけに、劇中芸能の仕方講釈として、視覚的にも舞台効果を上げたものと思われる。 これらは劇中に講釈師を登場させての劇中芸能であるが、それとは別に、太夫や役者が講釈調の芸を聞かせたと解すべき場面は非常に多い。 (以下省略) |