関根黙庵『講談落語考』

昭和42年9月25日。『講談落語今昔譚』の改題本。



 講談とは近世の稱へ方で、本來は講釋である。軍談や物語、記録の類を講義讀釋するの謂で、その始めは慶長の頃、赤松法印と云へるものがあつて、徳川家康公の御前で、源平盛衰記、太平記等を度々進講し、續いて諸侯にも召されて軍書を講じたのがその/\の濫觴であると云ふ。されば世人これを呼ぶに太平記讀を以てし、これに倣ふ亞流をも生じた。講談師は實にその源をこれ等太平記讀に發したのである。
 元禄十五年の刊行に係る、元禄曾我物語卷の三、赤堀水右衛門の絛に『やつす模様の旅姿、まづ大津屋弥六は太平記讀になりて、鹽谷判官龍馬進奏の卷を懷中すれば』、云々とあり、又、譜録集には『むかしあつて今無きもの、すた/\坊主に太平記讀』云々とある。
 面白いのはかの竹田出雲が其前身に於て講釋師であつたと云ふ。出雲は人も知る優れたる院本作者で、假名手本忠臣藏や、菅原傳授手習鑑など、今も尚持囃さるゝ名作を多く出した人であるが、初めは今岡丹波と稱し、講釋師であつたと其蜩の翁草に書いてある。其眞僞は判然せぬが、兎も角一説として掲げて置く。
 明治十五年の八月に、警視廳から講談の営業者へ、軍書講談の起原を記して差出すよう達したところ『人皇七十四代鳥羽天皇の御宇、保安年中、洛陽一絛堀河の邊りに立て天下の治亂世の中の浮沈を説き云々』と書出し『往来に立て講じ人々これを聽かんとして人の山をなし』などと記して提出したさうだが、固より當ずつぽうの假説に過ぎまい。
 前の赤松法印に續いて、元禄十三年に赤松青龍軒と云ふもの、堺町に葭簀張りを構え、原昌元と名乗つて軍談を講じ大に行はれた。青龍軒は播州三木の郷士で赤松祐輔と云ふ者で、赤松圓心の末裔であるとか。同時代に京都にも原永●と云ふものが矢張り記録を讀んで世に聞えた。又青龍軒と並んで名和清左衛門と云ふ者、自ら南朝の忠臣名和伯耆守長年の末裔と稱したが、京都の産で、出願の筋あり江戸へ出府し、滞留中費用に差支へた儘、浅草見附御門脇の小高き所で、人を集めて太平記の理盡抄を講じ、後にかの願ひの筋が叶はなかつた爲、歸京を恥ぢ其儘江戸に止り、日々軍書を舌耕して大に繁昌した。これが町講釋の初まりである。
(小文字部分省略)
 その後又享保の頃に至り、神田伯龍子といふ者専ら大名旗本の家へ招かれ、軍書講談を讀んで大に行はれたが、この伯龍子は見識のある人で、町家へは招かれても赴かなかつたと云ふ。
(小文字部分省略)
 伯龍子と同じ頃、浅草寺境内に、靈全と云ふ者が辻談義に人を集めた。彼は奥山の銀杏の大樹の下に、葭簀張りの小屋を設け、一人前十六銅宛の座料を取つたが、能辯にてよく人を笑はせ、日々三百人餘も聽衆つめよせ、頗る繁昌したと云ふ。靈全は常にこの銀杏の大樹の下に出て居たので、人呼んで銀杏和尚と云ひ、風來山人−平賀源内−の如き其戯著に『よごれ銀杏が辯舌には、蘇秦張儀も閉口すべし』と記し、如何なる人も彼の辯を聞いて頤を解かぬはなかつたが、而もいふ處皆佛道の本旨に適ひ、不知不識の内に人を教ふる所があつた。後の深井志道軒は、全く彼を學んだのであるといふ。
 これより少し後になるが、滋野瑞龍軒、成田壽仙、村上魚淵なども、此時代に於て逸する事の出來ぬ人々である。
(小文字部分省略)
 さて、深井志道軒の事に就ては、世人もよく知れる處であるが、彼の傳記も亦頗る多く諸書に記され、如何に一代の變り者として、世間の視聽を集めて居たかが窺はれる。
(以下省略)

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp