徳川夢声『話術』

昭和24年初版。平成8年新装改版。



「演壇話」の章から
   講談
 慶長年間、ざっと今から三百五十年ほど前のこと、黒田の浪士、後藤又兵衛基次が、大阪天満天神の境内において、自分が戦場に用いた甲冑兵器を飾り、千軍万馬往来の体験を語り、聴客から若干の鳥目を得た、という伝説があるが、このあたりが講談の、始まりでありましょう。同じく慶長のころ「赤松法師と云えるもの東照宮(家康)の御前に於て、源平盛衰記、太平記の講釈を度々言上せり、続いて諸侯へも召されて軍書を講じたれば、世人太平記読と云へり」と続々武家閑談に記してある。これがいわゆる「太平記読」の起りで、また「講釈師」という名称も、この辺から出ているのでありましょう。
 これを職業とするものが出たのは、おそらく元禄時代で「江戸にて見附の清左衛門というもの始めなり、年来浅草御門傍に出て、太平記を講ず、この者は理尽抄という太平記の評判の書を以て講釈せり」と近代世事談に見えている。ところが、それに集まる聴衆がだんだん殖えて、交通の妨害ともなり、かつ大道の野天で「治国平天下」を講ずるは穏やかに非ず、と町奉行能勢出雲守から命ぜられて、浅草門内の火除広場に小屋を設けて「太平記講釈場」と名づけた。これが、江戸における寄席の始まりだということです。
 関西においては、同じ元禄年間、赤松青竜軒なる男が、堺町に葭簀張りを構え、原昌元と名乗つて軍談を講じ、後世、江戸の名和清左衛門と並び称されています。
 前者は名和長年の末裔と称し、後者は赤松円心の子孫であると称した。果して本当かどうかわかりませんが、名古屋の熊沢天皇よりも確かでありましょうかな。
 宝暦七年、今から約二百年前に、江戸釆女カ原で「大日本治乱記」なる看板を掲げて、当時の官憲から叱られた馬場文耕は、後に講釈場の看板に行燈を使用することを始めた。私ども明治生れの人間に、いとも懐かしき行燈看板は、この馬場先生が始めたのであります。彼は自ら演舌者と称し、非常の人気者となったが、後に舌禍と筆禍をこお(ママ)むり、死罪となりました。そのときの名書を見ると、「右の者儀兼て古戦場講談致し渡世送候処」とある。講談という名は、このときすでに用いられていたのであります。
 この馬場文耕の著述「近世江都著聞集」「当世武野俗談」や、松崎尭臣著「窓のすさみ」などが、後世講釈師の種本となり、それに勝手な材料や、空想憶説を加え、ただ面白ければ好いと、デツチ上げたのが、。
 −講釈師見て来たような嘘をつき
 と、川柳に冷かされる講談式実録と相成った次第であります。
 太平記や軍談の影は薄くなって、お家騒動、敵討、政談、武勇伝、侠客伝、世話物など七花八裂の盛況を呈するに至りました。その代り、嘘八百がたくさん盛りこまれて、仇討の六人斬りが大インフレの三十六人斬りとなり、下戸の赤垣源蔵が大した呑ン兵衛となり、美男で武蔵より年下の佐々木巌流が、髭ッ面の憎々しい年上の中年男となり、大岡裁きの中には他の名裁判が全部盛りこまれ、天下無敵の強い豪傑がやたらに現われ、五十年ぐらい時代を超越して相会し相斗い、ほとんど一生涯大旅行をしたことのない水戸黄門が諸国を漫遊し、この漫遊がまた大久保彦左衛門と全然同じようなことをやる、という次第であります。
 が、話術としては長足の進歩を遂げ、天明、寛政以後には、森川馬谷、赤松瑞竜、初代桃林亭東玉、初代錦城斎典山、田辺南鶴、伊東燕晉など大家名人が現われました。
 中でも、伊東燕晉はなかなかの人物で、文化三年一月五日、家齊将軍の御前で「川中島軍記」口演の名誉を有し、乞食頭山本仁太夫に訴えられて寺社奉行の法廷に争い、みごと勝訴となって、以来講釈の寄席は、乞食頭や非人頭の支配を受けなくなった。なお、この燕晉先生は「三河後風土記」を演ずるに当り、東照公天下泰平の基を開かせ給う物語を、大衆と同席で申上ぐるは恐れ多いから、一段と高い座を設けて演じたいと、奉行所に願い出で、首尾よく許可となって、それが今日の寄席の高座の始まりだということです。
 明治以前には、伊東燕凌、松林亭伯円、石川一夢の三巨人、さらに明治に入ってからは、一立斎文車、二代目貞山−今度の戦災で死んだ貞山は六代目でした−それから桃川如燕、伊東燕尾、田辺南竜、松林伯円、正流斎南窓、二代目伯山、放牛舎桃林、邑井貞吉、小金井蘆州、伊東花楽、柴田南玉、宝井琴凌、桃川燕林、旭堂南慶、邑井吉瓶など、実に百花繚乱の黄金時代を現出しました。
 中でも大物は伯円と如燕で、伯円は明治維新後間もなく、改良講談を提唱し明治五年ごろテーブルを用い、明治八年には当時の新大知識大雄弁家である馬場辰猪の政談演説会に前講し、明治十一年には政談演説家を前講にしてテーブル講談をやったそうです。明治十七年には自作自演「寛(ママ)政三組盃」を速記出版せしめて、講談本の元祖となっています。
 桃川如燕は明治大帝御前口演の、トップを切った名誉の保持者で、明治二十二年には新講談を演じています。
 講談の隆盛と雁行して、落語、女義太夫なども全盛時代を来し、こうした演芸を上げる寄席もまた全盛時代でありました。
 明治十二年二月付で発行された、「講談・浄瑠璃・落語定席一覧表」という番付をみると、麹町区七軒、神田区二十三軒、日本橋区十八軒、京橋区十六軒、芝区二十軒、麻布区三軒、赤坂区三十三軒、深川区九軒、荏原区三軒、北豊島郡五軒、実に合計百七十一軒に達する。これを昭和三十二年現在の大東京都内の寄席の数とくらべると、嘘のようであります。東宝小劇場まで寄席に数えて場末の貸席まがいの所まで入れて、おそらく百七十一席の一割十七軒とはないでありましょう。
 ただし、昔の寄席は、数は多かったが、客席は小じんまりしたもので、百人ぐらい入りがあれば満足していたのですから、もっとも広い所で定員二百を出なかったそうです。
 現に、私が少年のころ、芝の南佐久間町に住んでいて、近所に桃桜亭という釈場がありましたが、子供の目から見てもひどく狭いもので、横丁の目隠しの節穴から覗いて見ると、よく前座が空板の修羅場を叩いていましたっけ。
 この、客席の狭いということが、講談や、落語など、当時の説話芸術を、いろいろと条件づけたのであります。
 1 あまり大きな声の必要がない。馬鹿デカイ声は反って耳障りとなる。そこで、水調子、低い声でピタピタと語り進めるのが、味わいよしとされる。
 2 いかなる囁きも、隅々までとおるような有様だから、話術はいくらでも繊細に発達できる。
 3 客はすぐ目の前にいるから、表情や、眼の配りが、微妙になる。同時に、あまり大きな身振りは、ふさわしくない。
 4 客が鼻先に座っているから、自然、客席との交流が起り、直接話法的な、親しみのある話術を生ずる。
 そこで、講談は、野天や葭簀張りの時代は、相当に蛮声を張り上げたのでありましょうが、漸次、物静かな語りぶりとなり、それに連れて、読み物も武骨な軍談から、キメの細かい世話物にまで変化して行ったわけです。
 ところで、私は釈場というものに、ほとんど行ったことがないのであります。少年のころ、専ら通ったのは、牛込の若松亭という浪花節定席と、芝の恵智十とか玉の井という落語色物席の三軒だけで、その他、芝の琴平亭、同八方亭、牛込のわら亭、神田の市場亭などにも行ったことがありますが、言うに足りません。
 そこで私の講談に対する興味は、まず、速記本が始まりで、次には、色物席で聞いた講釈で養われたということになります。そんなものが講釈について講釈するのは、はなはだ気が引けるわけですが、まさか見て来たような嘘もつけませんから、白状しておきます。
 面白いことは、初めて聞いた講談が伊藤痴遊だったことです。たしか明治三十九年の秋か、四十年の春でした。場所は前述の番付にも出ている芝の恵智十で、そのときの真打は三遊亭円遊でした。軽妙な痴遊の話術には、子供ながらすっかり酔わされたものです。
 そのとき痴遊は、普通の高座に上らず、高座の前の畳に、一段高い壇を設けて、その上に椅子を置き、卓子に向って話しました。その後、牛込の若松亭で一心亭辰雄が出演したとき、痴遊は助演で出ていましたが、やっぱり高座の前の壇を造らせていました。
 何の必要があってそうするのか、そのときの私にはわからなかったが、後年、私自身が寄席へ出てみて、なるほどとうなづけたのであります。すなわち、寄席の高座は、座蒲団にかしこまって、丁度、客席との視線が、互いに都合よく交るように設計されています。だから、立ってはもちろん、椅子に腰をかけても、演者の顔が上にありすぎるわけです。
 そこで痴遊は、席亭の主人に命じて、自分一人のために、それだけの設備をさしたのであります。これだけのことでも、痴遊が並々の講釈師でないことがわかります。
 彼は元来、自由党の壮士だったのだそうで−それが明治二十年十二月の保安条令公布と共に、言論、集会などの取締りが厳しくなり、政論家は止むなく、講談の名を借りて、ときの政府を諷刺攻撃するため、続々と講釈師に一時的転向をした−、そのとき、まだ若かりし彼、伊藤仁太郎も釈界入りをしたのであります。そのうち、取締りが寛やかになるや、他の人々は政界に逆戻りをしたが、彼のみはそのまま残ってしまった。
 なぜ、残ったかというと、彼の話術が、あまりに進みすぎ、彼のファンがあまりにふえすぎたからであります。後に、政治の方も諦めきれず、浅草辺から打って出て、数回代議士にもなりましたが、結局、政治家としては大成しませんでした。もしも、彼が話術の天才でなかったら、とっくに大臣ぐらいになっていたかもしれません。
 が、私たちにとっては、彼が大臣になるよりも、大話術家となってくれた方が、有難かったわけです。お蔭様で私は、素晴しいお手本を聞くことができます。
 私は今日でも、話術といえば痴遊と、すぐ連想するくらいです。在来の講談調から、全然離れて、まったく新鮮なハナシ方を、彼は創造したのであります。しいて分析すれば、巧妙なる座談調に、音楽的な講談調を加え、それに演説の毅然たる趣きを香わせたもの、とでも申しましょう。
 彼は、維新当時の実録を専ら得意としていたが、いかなる英雄豪傑にも、けっして敬称を用いない。もっとも、ずっと昔の出来事なら、秀吉だろうと、時宗だろうと、呼び捨ては当り前だが、生きている元老や、大臣を呼び捨ては、なかなかできないものです。
 「桂という男は、困った人物で……」
と、時の総理大臣を寄席でやっつけるのであります。けっして、桂公ともいわなければ、桂首相ともいわない、カツラと呼びすてです。
 こういう話し方は、ただの芸人がやったのではイタにつきません。当人が、相当の識見を有し、社会的地位を有し、自信と度胸を有しているのでなければ、やってもおかしなもんです。もちろん、私などそのガラでありませんが、日本も民主主義時代、自由主義時代となった今日、しかるべき話術家が現われて、
「ここが東条という男の足りないところで、そのとき米内のドカ貧という言葉を、よく考えれば好かったのだが、何しろ取り巻きが低能ぞろいで、なかんづく佐藤愚了は……」
などと、やってみたらどうですか。
 痴遊についで、私が聞き馴染んだのが、一竜斎貞山と神田伯山との二人です。いつも、色物の番組に織り込まれた講談ですから、釈場で聞くように本格だったかどうかは疑問であります。二人とも、近代の名人ということになっていますが、その名人大看板が、専門の釈場を捨てて色物席へ出るという現実は、このときすでに講談が下火になっていた証拠かもしれません。
 二人とも好男子で、二人とも名調子で、二人とも張扇の使い方が巧みでした。今日では、この張扇なるものを、あまり活用しないようですが、一つには昔の人ほど、巧く叩けなくなったせいもありましょう。
 貞山なり、伯山なりが、おもむろに最初の張扇を、ピシリと入れるとき、聴衆は全部、快く鞭打たれたように、サッと緊張するのであります。この張扇こそ、マというものを具体的に示すもので、この入れ方がちょっと早くても、ちょっと遅くても、緊らないものです。
 合戦ものの修羅場は別として、これはあまり乱用すると五月蠅くなるばかりで、何の効果もなくなります。一席の間に、ほんの数ヶ所、急所に向ってポンと入れる。
 たとえば、物々しく事件を述べているうち、そろそろ客が、引き続いての神経の緊張に、疲れかけてきたな、と思われるところで、極く自然の段取りで、ヒキゴトに入る。ヒキゴトというのは、つまり漫談みたいなものですが、この色どりがあるので、前後が一層引き立つのであります。さて、客はそれですっかり楽な気分となり、快く笑わされたりしたところで、実にみごとなマをもって、ポンと叩く。実はピシリとポンとの合の子なんですが、便宜上ポンですませます。
 このたった一ツの音響で、聴衆はヒキゴトの現実界から、ロマンスの幻影界へ、再びポーンと送り込まれる。その呼吸たるや、二人は実に神品でありました。
 またたとえば、侠客もので弟分が兄貴分に何か無理に頼みこむという場合、
「なァ兄貴、後生一生のお願いだ、聞いてくれ。頼む。是非とも頼むよ。ねえ、兄貴、何んとか言ってくんねえな。よ、兄貴ったらァ、これほど俺が頭を下げて頼んでるんだぜ。頼む、どオオオオか頼むッ。」
と、頭を下げて少し間をおいて、
「これほど頼んでも、いけねえのか。」
と、落胆した小声で呟いて、その呟いてるうちに、切羽詰まった気もちをガラリと変って、さて、張扇がポーンと鳴って、
「頼まねえやいッ!」
と、俄然、荒々しく叫ぶ。このとき、客はドキッと脅えた気分になるのであります。この張扇の使い方一つで、弟分の心理転換が、実に鮮やかに表現されるのであります。
 このように張扇は、物語の場面転換にも、登場人物の心理描写にも、はなはだ便利なものでありますが、も一つ、楽屋噺を申しますと、滔々数千言、水の流るるが如く、修羅場など読んでいるとき、ふと絶句した場合、これをポン、ポンとやって胡麻化すという、虎の巻があるそうです。

「話道の泉」から
 座談でも、あんまり喋り過ぎた後は、憂鬱になることがある。言わでものことを言ったと思うときはなおさらそうだ。
 これが聴衆を前にして一席喋った後はまた一段と憂鬱の度が強い。講演でも、漫談でも(放送でも)あとで好い心もちだなんてことはめったにないものだ。
 喋ってる間に、自分の失敗に気がつく。その失敗を取り返しのつかぬまま、次の件りに移る。また失敗がある。そんなふうにして心の底にイヤな味がだんだん沈澱して重くなる。その重さが憂鬱の主たる原因だろう。
 だから、聴衆から喝采を浴びて引下って来た場合でも、内心欝々として楽しめないときが多い。
 これは私だけの神経衰弱的、被害妄想的なる傾向かしらと思っていたら、大多数の芸談家は皆そうであるらしい。自分のお喋りに、あとで満足しきってるんて人は、素人はいざ知らず、本職にはほとんどない。本職でそんなオメデタ人があるとすると、まず、その人の芸はなっていないと言ってもよろしい。
 近世、話術の名人といわれた、故伊藤痴遊氏なども、やはり憂鬱党であった。帰宅してからまで、その日の出来について、アレコレと思い悩んでいたそうだ。
 痴遊氏は、見るからに豪放な人物で、大臣だろうが、暴力団だろうが、鼻であしらうような印象を与えられるが、こと話術に関してははなはだ神経質であった。
 −どうも、あすこの言い廻しはまずかった。あすこの意気はマが外れていた。あの部分はもっと力強く言うべきだった。
というふうに、寝床についてからまで、工夫をこらしていたという。
 氏の如く、五十年も演壇や、舞台や、高座に立って、お喋りを業としていても、やはりそのような悩みがあったのである。つまり話術も一生の修業であるからだ。

 大谷内越山という人は、よほど話術を研究したものらしい。講釈を研究したというより、話術を研究したという感じに思われる。涙香もの鏡花ものなどを、寄席の高座で演じた人だ。
 あるとき彼は、正岡容君を相手に芸談をやったが、遊廓の夜更けと、暁近くの、上草履の音(花魁が廊下を歩くときの)の描写で、
「夜更の上草履は”バタリバタリ”で、暁方の上草履は”パタリパタリ”です。」
と説いた。正岡谷(ママ)君唸って感服したそうだが、なるほどその通りと私も膝を叩く。
 バタリバタリとパタリパタリ、別にどっちでもよさそうなもんだが、正にこの変化で、お女郎屋の夜更けと暁方の感じが、ハッキリと表現される。

 神田伯竜君が、売り出しの若いころ、はじめて怪談を手がけてみた。幽霊の出を、せいぜい物凄く聞かせて満場を震え上らせるつもりであった。
 さて、いよいよシトシトと読みこんで、客席もすっかり引きつけられている様子に、自信をもって幽霊を登場させ、怨みの言葉を述べたところ、なんたることだ客席に笑い声が起ってしまった。大失敗である。
 なぜ客が笑い出したのであろうか、伯竜は考えた。自分の芸が未熟であるから、そいつは言うまでもない。しかし、自分よりもっと未熟と思われる同業が、結構笑わせずに幽霊も出すではないか。一面、恐ろしければ恐ろしいほど、笑うという心理も確かに客にある。
 自分の場合、あの幽霊が出るまでは、大丈夫巧くいってると思う。するとつまり、幽霊の工夫が足りなかったのだ。いや、幽霊そのものも、幽霊としてのわが表情や、セリフ廻しに、これぞといって客を笑わせる隙はないつもりだ。ということになると、問題は幽霊が出るまでと幽霊が出てからその間、そこにまずいところがあった。隙があったのであろう。
 いろいろ考えた末に、次に演ずるときは、幽霊の言葉は、顔を少し下向きにして、上目使いに見上げながら言った。果然、客席はシーンとなって、もちろん、笑うどころではない。それからだんだん顔を上げて、長セリフを言うのであったが、もう客の方ではもっぱら凄がっていたそうだ。
 始めの失敗は、顔を上げたままで、イキナリ幽霊になったので、その突然の変化が可笑しかったのであろう。顔を少しく下に向ける、それだけの間に、客の方では幽霊の出る心構えをして待つ、それならおかしくなりっこない次第である。

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp