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第二部 少年時代 映画初見参の事 映画を―その頃は勿論「映画」ではない、「活動大写真」であつた―生れて初めて見たのは十歳ぐらゐの時だつた。 十歳といへば、丁度明治卅六年だが、偶然その年の文芸倶楽部が、今手許にあるから、これを一寸拡げて見る。と、演芸欄の「義太夫と寄席」といふ一文に、左の文句がある。 =寄席は平民的に最も恰好な娯楽場で、これに出勤する芸人は、男女の義太夫、講談、落語を初め、或は浪花節、源氏節の手踊り、少し毛色が変つて活動写真、うつし絵の類など(云々) うつし絵は別として、これら演芸の盛衰が、現今では全然アベコベになつてる所は面白い。源氏節は風紀を乱す(女の児の太股などを見せるから)てえ訳で当局から禁止されたが、これが洋式に変つてレヴユーとなつたと観れば、1936年においては、映画、レヴユー、浪花節、落語、講談、義太夫の順となつて、なんと完全にギヤクである。それはとにかく、私がはじめて映画に見参したのが、前記一文の如く「平民的娯楽場」であるところの寄席であつた。 (中略) 御入来なる勉強の事 …… 尋常四年の時―だつたと思ふが、私の家は赤坂表町から、同じ区の榎坂町に移転した、家賃五円五十銭から十六円に出世したのである。十六円で階下八畳、六畳、四畳半、二畳、階上八畳、三畳で都合六間もあり庭も相当だつた。この榎坂町時代に、私は浪花節といふものゝ味を知つた。 私に水兵服を着せて、女郎買に連れてつた、洋服屋の叔父が、牛込神楽坂の若松亭―今はもうなくなつてゐるが、坂の中途の田原屋の横丁あたりを入つた所にあつた、恐ろしく汚ない、鼻のつかへさうな浪花節定席―のいはゆる御定連であつた関係で、私は毎土曜のやうにわざ/\飯田町の叔父の家へ泊りに行つてこの寄席に行くのを楽しみにした。 「桃中軒雲右衛門」は未だ繁吉といつて、九州くんだりをマゴ/\してる頃だ。 去年引退したとかいふ話の一心亭辰雄が辻ビラにも場内の看板にも「駒子改メ」と書き添へてあつた頃だ。辰雄の真打席といふと、伊藤痴遊がスケに出演したものであつた。 私はこの辰雄に一時無茶苦茶に心酔した。簾が揚がつて静かに御辞儀してるかれの姿を見ると全身ゾーとなるほどうれしかつたものである。 =たつた川わたりや紅葉の葉がちるし渡らにアきかれぬ鹿の声= なぞといふ唄ひ出しの節を、電車の中でも、学校の往き来にも、感激しては真似てゐた。 |