徳川夢声『問答有用』

平成6年『徳川夢声の世界T』より



久保田万太郎(昭和26年9月5日対談)

夢声
寄席はどこへ行かれましたか。
万太郎
あたしはうちが浅草でしょう。並木通りの大金亭と並木亭という二軒へいきました。新えびす亭というのがあったが、浪花節専門だから、これはいかない。浪花節は宿命的にきらいだ。
夢声
講釈の金車亭がありましたね。
万太郎
ぼくは落語は実によく聞いたが、講釈ってものはあんまり聞かなかった。小島政二郎とはそこが違うんだ。昔の寄席ってのは、路地の奥にあったね。
夢声
夜になると、ボーッとあかりがついて、白粉つけた娘さんが木戸に坐ってね、よかったな。
万太郎
片っぽうの路地の奥には並木亭があり、片っぽうの奥には大金亭がある。並木亭へいくとしますね。あんまり面白くないところにもってきて、片っぽうの手品のハヤシでも聞えると、「惜しいことしたな、大金へいきゃよかった」と思う。(笑)大金へいくと、並木のほうがまた面白そうだ。(笑)あなたは小学校の休み時間に落語をやったっていうんだが、あたしの教室にもいましたよ、大金亭と並木亭の間の大きなカツブシ屋の息子でフクチャンという選手が。休み時間になるとフクチャン出て来て、一席やるんだ、「天災」なんてのを。
夢声
「天災」はぼくもやったですよ。
万太郎
あなたは、寄席はどこへ……?
夢声
おもに芝の恵智十でしたが、はじめは、変則でね、独学です。寄席の独学てえのはヘンですがね。子供の時分に裏だなにおりましてね、いつもくるアメ屋が芸人で、声色やったり落語をやったりする。いまの紙芝居みたいなもんです。これが馬鹿息子の話なぞする。小さい時分に頭に入った落語の話術ってものは、いつの間にかしみ込むんですね。のちには速記本を読むと落語がやれるようになったんです。
万太郎
そりゃやっぱり、特別の才能があったんだ。
夢声
雨が降ると、体操の時間に落語やらなきゃならない。とても寄席へいく木戸銭が続きませんからね、速記本を利用する。円遊の「地獄めぐり」なんかもやったもんです。「大王(大黄)の黒焼きだ?道理で地獄(至極)効きがよかった」なんて、つまらない落ちだ。(笑)五目講談なんてえものを暗記しましたね。「桓武天皇九代の後胤平の将門が三男に、さる人ありと呼ばれたる新中納言平の知盛、恨み重なる民谷伊右衛門、ともに奈落に連れゆかんと、小幡小平次の亡霊が現れ出でたり、待ちもうけたる源三位頼政、二つ玉の強ぐすり、切って放てば誤たず、継信殿の胸板へグッと当ってまっさかさま、落ちゆく先は九州相良、裏のこなたは金沖村よ、ここに主水という侍は、女房持ちにて子供が二人、姉が宮城野、妹が信夫、かたき工藤左衛門祐経を討たんとて、富士の狩屋へ忍び込む、されば建久元年五月、雪はまんじ巴と降りしきるが中に、御難儀あそばす最明寺入道時頼、山本勘助を供に連れ……」(と、立て板に水の名調子ひとくさり)(笑)

野村胡堂(昭和27年8月25日対談)

夢声
江戸時代ものを書くようになられたのは、どういうわけだったんですか。
胡堂
若い時から江戸のものをさかんに読みましたし、斎藤緑雨、岡鬼太郎なんてものが好きだった。それから、落語なんかもよく聞いたですね。野村は寄席ばかりいってるということがうわさになって、迷惑したことがありますがね。まあそんなことが、江戸時代のものに食いつくようになった動機です。
夢声
「銭形平次」のガラッ八なんてのは、寄席が役に立ってますね。
胡堂
そうなんです。もうひとつは、なにから勉強すればよいかというようなことを、若い作家がよくいいますが、わたしァ「柳樽」を研究しろっていうんです。
夢声
あたしどもの年配でも、「柳樽」をあけてみて、ほとんど一句もわからないページがありますな。
胡堂
ありますね。近ごろじゃ「末摘花」の研究まで出てるんですから、「柳樽」もいまのうちに完全な注釈本をつくるべきですよ。そうしないと、だんだんわからなくなるな。「柳樽」に出てくる句で「徒然草」に関するものだけでも、何千あるかわからない。それから、当時のニュースがよまれてるんです。たとえば、天明三年に浅間山が噴火したんですが、「年寄りが寄ると話に灰がふり」という句がある。だんだん古老がいなくなって、そういうニュースがわからなくなりますからね。
夢声
浅間といえば、軽井沢の飯盛り(宿場女郎)をよんだ句も「柳樽」にたくさん出ていますな。
胡堂
軽井沢のは、最下等の飯盛りだったんですね。軽井沢が「柳樽」なんかで有名だってことは、いまの人はあまり知らない。非常に神聖なる軽井沢になっちゃって……(笑)われわれ若い時分には、軽井沢っていうと飯盛りの名所だと思ったもんですけどね。
夢声
だから、あすこへ別荘をお建てになったんじゃないかな。(笑)……寄席は若竹なんかへいかれたんすか。
胡堂
若竹とか立花、白梅あたりへよく通いましたね。
夢声
あたしも寄席学校出身ですよ。(笑)
胡堂
永井荷風さんがやっぱりそうなんですね。はなし家になろうと思ったことがあるらしい。とにかく、寄席学ってのは大したものだったですよ。それからね。おもしろいと思うのは、アメリカあたりの通俗文学なんかに、偶然日本の話術の省略法が入ってるように思うんです。わけても日本の講釈なんぞにおける省略法は、実にすぐれたもんでしてね、スラリと刀を抜いたと思ったら、つぎの瞬間には相手がバタリと倒れる。……。吉川英治の作品の味、人に訴えるあの印象的な強さ、ありゃやっぱり、そういう日本独特の話術ですね。張り扇でもって三百年間たたきあげた話術ってものは、偉いもんですよ。なんでもベタベタ書くことが、一時ははやったが、あの歯切れのいい省略法を心得てなきゃ、大衆小説は書けませんね。
夢声
張り扇一本を、非常にうまく使いますね。パンと打つと、ずっと年代が飛んでもかまわない。場面がかわってもいい。人間の心理までかえることができるんですからね。
胡堂
ひとつたたくと、五十三次スッと通っちゃう。(笑)いまの講釈はラジオで聞くだけだが、わたしどもの若い時にゃ、いい人がいましたよ。伯山とか、鱗慶、典山ね。伯山なんかの話ぶりに、寒けをもよおしながら聞いたもんです。なんともいえない、一種の緊張を感じましてね。
夢声
このごろは、ああいう名人はひとりもいないといっても、過言じゃないでしょうな。クライスラーなんていう、音楽の名人、それがステージへ出て演奏を始める時のゾッとする感じ、尊厳な有難味というような感じ、それに似たものがありましたからね、むかしの寄席には。
胡堂
いまの人は、腕で聞かせようっていう気もちだけれども、むかしの人は、腕のもうひとつさきのもので聞かせるという気魄があった。九代目団十郎が「清正誠忠録」で、涙を流しながらやったという話がありますね。団十郎の芸は、そううまいとは思わないが、そういう真剣さで見物人の心をつかんでしまったんですね。

吉川英治(昭和28年4月30日対談)

夢声
…(笑)おじきをして、ふたことみこといううちに、客の雰囲気がスーッとこっちに統一される。みんな聞きだしたナと思うと、それからさきはらくなんだ。
吉川
ぼくもね、五、六分間やってるうちにゃあ、そのいやな気もちがわかんなくなってくる。やっと、そこいらにいるひとの顔が見えてきてね、胸なんかにあることが多少いえだしてくるんです。
夢声
こっちは職業的な経験と修練を積んでるから、比較的はやくその境地へはいれるというだけのこったね。
吉川
きみは、余裕綽々と料理して出す。こっちは夢中で、なんでも浮かんだまま出しちゃうんだから、おれのほうが正直なことをいってるわけだね。(笑)
夢声
伊藤痴遊(政治講談家)なんてのは、むかしの自由党の壮士をしてて、血の雨をふらすような場所へも出はいりしていた男だし、外見も豪胆不敵のようだけれども、いざ舞台へ出る前は、やっぱりいけなかったな。
吉川
いや、痴遊で思いだしたがね、ぼくの少年時分、うちの筋むかいに、瀟洒な見越しの松的な家があった。ある朝、そこからドテラみたいなものを着たおじさんがはだしで逃げだして、近所のカゴ虎という車宿の若い衆が騒いだことがあるんだ。それが痴遊で、その家は痴遊の妾宅だったんだよ。なんで逃げだしたのか知らないけれども、あのときの印象じゃあ、あんまり胆がすわってるとも思えないな。
夢声
妾宅なんてえものは、胆が相当すわってないと、持てないからね。(笑)しかも、その妾宅からはだしで逃げだすなんていうみっともないことは、気の小さい男にゃできないよ。(笑)
吉川
痴遊はその時分、横浜の雲井座という芝居小屋の座主をしてたらしいがね。そんな事件で痴遊という名前がぼくの頭へはいって、晩年もあのひとの話を聞いたもんです。
夢声
永井柳太郎氏に朝日講堂で会ったとき、あのひともやっぱり、出る前にどきどきするっていってたな。
吉川
ああ、あの名人がねえ。

川口松太郎(昭和28年5月16日対談)


川口
…あんた、うちへ帰るとどうだい。
夢声
変らないね。
川口
ぼくも変らないんだ。久米正雄さんもたいへんなおつとめ屋さんだったが、うちへ帰ると自己嫌悪を感じるのかな、急にむずかしくなっちゃうんだ。
夢声
その型、はなし家にはよくあるがね。
川口
もっとも、はなし家が自分んちで高座のまんまだったら、正気じゃない。(笑)
夢声
高座っていえば、若い時分、浪上義三郎(悟道軒円玉と号した講釈師)弟子入りしたことがあるんだね。
川口
いや、弟子入りでもなんでもないんだ。円玉はね、白浪ものの名人で、「どろぼう伯円」といわれた松林伯円の弟子だったんだが、声が出なくなってから、講談の速記をはじめたんだね。たとえば猫遊軒伯知とか、桃川如燕とか小金井芦洲とか、そういう連中を呼んで速記して、ちゃんと翻訳した原稿を雑誌社へ売ってたわけだ。
ところが、てめえも講釈師だから、速記をとりながら「なんてまずいんだ」って思うんだね。だから、原稿書くときに、いいようになおしちゃって、しゃべったとおりにゃ書かねえんだ。そのうちに、講釈師のほうも「なにも出かけてかなくってもいいじゃあねえか。そっちで勝手に書いてくよ」ってえことになっちゃった。
その時分は、講談の速記がはやったからね。新聞の連載はたいていこれだった。新聞社のほうじゃ、伯知であろうと、円玉であろうと、なんだっていいんだよ。ひとの名前借りれば、いくらかピンをはねられちゃう。だから、速記よしちまって、悟道軒円玉一本になって、自分でもって講談の原稿を書きはじめたもんなんだよ。
その当時、「売ろう会」という会があって、久保田万太郎じじいだの、岡鬼太郎、石井研太、それに典山とか伯知とかいう芸人たちが円玉のうちへ集まって、持ちよりの品物の売りたてをやってた。その「売ろう会」の事務をとってたのが、いちばん年下のぼくなんだ。そこで円玉とも知りあったわけだよ。そのうちに、円玉が病気で寝ちゃった。原稿の締切りが近づいても、どうにもしょうがねえんだ。
「おじさん、寝ててしゃべんなよ。おれが書くから」というんで、ぼくは速記はできないけども、独特の書き方で筆記したんだ。これが全然役に立っちゃったんだよ。じじいはよろこぶし、やってるうちに、こっちも書くのがたのしみになってきた。一年ほどやったあと、円玉どっと寝こんで入院てえことになったが、講談の粉本をすこしなおしちゃあ、おれが全部書きだよ。そんなわけで、円玉にとっては、おれはたいへんな忠僕だった。
夢声
忠僕松太郎。(笑)
川口
そのかわり、ずいぶん悪いこともしたがね。(笑)「金をこれだけくんなきゃあ、いやだよ」っていって、居直ってみたり……。(笑)
夢声
おやおや、悪漢松太郎だ。(笑)



伊藤整(昭和29年7月3日対談)

夢声
その作家をよく知ってるということが、私小説を鑑賞するための基盤になるといわれてますがね、かならずしもそうじゃないんで、私小説というものは、日本人の心の琴線にふれるような表現方法をとってるから、日本人ならば、私小説に感動するんじゃあないですかな。
伊藤
ええ、そうなんです。そういうところからいくと、一種の隠遁文学ですね。水爆をどうしようなんてこと書いたら、私小説がこわれちゃうし、吉田首相はわるいやつだなんて書いてもいけない。
夢声
直接、吉田さんの自動車にでも、衝突したひとならいいが。
伊藤
落語と似てると思いますよ。落語では、クマサンやハッツァンがささやかな長屋でくらしていて、大家さんに追い出されもせず、どうにかやってる。いろんな事件が起きるけども、奉行や幕府の批評などはしません。
夢声
極悪非道な人間が出てこない。どろぼうだろうと、強盗だろうと、みんな善人です。
伊藤
私小説も、ほんとうの悪人が出てきたら、こまりますね。私小説がひとに与える効果はなにかってことをいつも考えるんですが、効果という面からいっても、落語や講談とたいへん似たところがあります。最近、ぼくは「曲垣平九郎」という講談を読みました。全体からいうと、まるきり近代の芸術とは縁の遠いものなんですけども、馬が坂をのぼるという表現のなかに、どうすればひとを笑わすことができるか、どうすれば乗り手と馬の気もちがあらわされるか、そういうくふうがじつによくこらされてるんですね。「だんな、そんなことをいったって、無理ですよ。ここから上は、とても上がれません」と馬にいわせたりする。内部独白という新式のやりかたです。ものはガタガタだけども、そのなかで、師匠から弟子へうけついできてる、あの語りかたのくふうは、たいへんなもんだと思うんです。
夢声
その点じゃあ、講談はたいしたもんですね。


正宗白鳥(昭和29年9月24日対談)

夢声
むかしァ釈場というものがありまして、町内の御隠居さんなんぞが、ひるま聞きにいって、よく寝てたもんです。その時分のひとが、このごろの講釈席へきて、「眠りながら聞いてられるような講釈が、すくなくなりましたね」っていってる。半醒半眠で、耳からはいるともなしに聞いてるの、いい気もちですからな。
白鳥
そうですよ。学生時分、講釈などもよく聞きにいったが、まくら貸してくれてね。(笑)

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