村上浪六「講談の歴史」

『浪六全集』第31巻。昭和6年。



「牛肉一斤」の一節「講談の歴史」
敵討は昔より講談界の専売物になツて居るから、亀山の仇討を出した関係上、ついでに講談の歴史ともいふべきものを掲げて置くべき必要はないにせよ、さのみ無用ではあるまいと考へる、実は無用どころでなく、今日の新聞といふ新聞を見るに、その大切な社会的の紙面を割いて、恐らく講談を掲載せざるものはない、あらゆる雑誌また講談を入れないものは殆ど稀で、最も新らしかるべき新聞雑誌が最も古く捨てらるべき講談を争うて出すから呵しい、
しかし近来の新聞雑誌が動もすれば営業本位ですら遣り切れず、その営業本位より興業本位となツて来た点を見ると、社会の木鐸たる新聞雑誌に俗悪な講談ものゝ満載されるのは敢て不思議でない、
のみならず元来この講談を文学的読物より卑俗として低級とするは全然その根底を異にした別論で、最も広く世の中に読まるゝといふ一事は争へない、加之も実際の範囲は低級の読者ばかりでなく、案外の高尚な学者階級その他の知識階級にも読まるゝ事実が多い、
つまり講談物の隆盛を極めて来たのは、読書力の余れる人には肩の凝らない軽便の娯楽として迎へられ、読書力の足らざる人には無上の面白い伴侶として迎へられ、いはゆる文学的作物の如く中間の或一部に限られてないからで、ます/\広く行はれて今や殆ど恐ろしい一種の勢力となツて居る、
この広く行はれて多く読まれる読書界の一勢力を、今後、いかに善導すべきや、将来、いかに改良すべきや、その議論と研究は他日に譲ツて、講談を愛読する人のため講談の今日に至ツた歴史を語ツて置かう、
そも/\講談といふ名称と共に講談の開祖となツたのは、鳥羽天皇の保安年間、洛陽の一条堀川に住んで居た吉岡鬼一法眼憲海といへるもので、この吉岡憲海は古今の博覧強記に天生の滔々たる雄弁を併せ得て、宇治左大臣頼長の推挙で法眼に任ぜられ、当時の堂上に召され月卿雲客の間に我国の治乱興亡を説いて居たが、その講談中、たま/\朝廷に触るゝ事あツて法眼の叙任を剥がれしのみか、家を追はれ財を失うた結果、市中繁華の巷に立ツて俗人に解し易く正史以外の興味を加へ、往来の歩を停めて幾何かの謝義を受けながら世を送ツたといふ、これが即ち軍書講談の始祖である、つまり講は正史に通ずるの意、談は其正史を平易に語るの意味で、結局は市井男女の卑猥沙汰でなく、人の師ともなるべき学識弁舌を備へて居たから、これを講談師と称した、
加之も強ち戦記や軍書に限らずして、中には専ら文学を講談したものもある、後醍醐天皇の時、玄恵法印の昌黎文集を世俗的に談義せいが如き、織田信長の時代に於ける翠竹陰道三の如き、その後に有名な一華堂宗務法橋の如き、或は五十川了庵の如き、いづれも皆その講談は戦記と文学と相半して、これを自家の門下生のみに止めず、いたるところ広く未知の人を集めて随意に聴聞せしめ、加之も俚耳に入り易く趣味を第一としたのは、いはゆる辻談義の起源で、その深意は寧ろ遠大であツたらしい、
慶長年間、後藤又兵衛基次は音に聞えた無双の大勇者であツたが、黒田家を退転した後、諸方に流浪して衣食に窮し、大阪の天満に落魄の当時、みづから血河屍山の戦場に用ひた甲冑刀槍を天神境内の松の小影に飾り、日々その前に立ちながら参詣の群集に向ひ、深い編笠の中から過ぎし我身の合戦を他事のやうに物語ツて僅の投げ銭に露命を繋いで居た、あはれ一代の豪傑も時いまだ至らずして秀頼の大阪城に招かれない前、かゝる浮世の悲惨に遭遇したが、同じ尾羽うち枯らしても路傍に坐して謡を唄ひながら一文二文を貰ツた痩浪人とは違ひ、やはり後藤には後藤らしいところがある、加之も此後藤又兵衛が長く後世の講釈師に唯一の飯食種とせられるのも面白い今昔の因縁で、張扇で叩き立てられる毎に、はゝア野郎、やツてると地下に苦笑してるだらう、
ところで辻談義の一変したのは、いはゆる太平記読で、この太平記読また始めは武家武門に招かれて相応の待遇を受けて居たが、次第に広く流行した結果、竟には往来の人を集めるやうになり、就中、名高いのは大阪の道久といへるもの、生玉神社の社頭へ葭簀張の小屋を懸けて聴衆の床几を並べ、自己は見台を扇子に叩きながら三寸不爛の舌端より千軍万馬の修羅場を演じ出した
江戸では名和清左衛門といへるもの、日々浅草御門の見附外に立ツて太平記を講じたが、この清左衛門は容貌優秀で弁舌流暢で、加之も太平記ばかりでなく、信長記、三河風土記、三方が原、関が原、遠きは源平の戦ひに至るまで、その他いづれの軍書戦記にも委しくて、これに一種独特の朗々たる美音と湧くが如き興味津々の快舌を揮ツたから、名声ます/\高くなツて世人その苗字を呼ばず、見附の清左衛門と江戸名物の一つに数へられ、聞くもの常に人浪を打ツて道を塞ぎ往来の妨となるので、時の町奉行たる能瀬出雲守これを呼び出したところが、その人物と其いふ事に寧ろ感じて許可を与へ、名君良将の事蹟を道路に説くは憚り多い、今後は日除け雨覆ひを設け且つ往来の妨げにならざるやう日々の人数を限るべしと、見附の内に小屋の拝借地を許し『太平記講談場』と称せしめた、以て当時に於ける清左衛門の盛んであツた事が知れる、
元来この清左衛門は京の生れで、南朝の忠臣名和長年の末裔と称し、実は江戸に願ひの筋あツて来たところ、三四年を過ぎても叶はないので再び故郷に帰るを恥ぢ、そのまゝ竟に大道の太平記読となツたもので、後には当時の幕府に最も睨まるゝ太閤記を殊更ら得意満面に演じ、また大阪落城の惨憺たるを講じ、家康を恨み、一日、これを狸阿爺と罵倒するや否、忽ち群集に紛れて其まゝ行方を晦ましたが、思ふに尋常一般の大道講談師でなく、無論たゞの鼠でなかツたらしい、
見附の清左衛門その姿を隠した後に名高い太平記読は、原昌元といへるもの赤松青龍軒と称して、堺町に軍書講談の聴衆を集め、また法華法印日勝といふ坊主も身に不似合なる合戦ものゝ講談を以て普く世に知られたが、こゝに一種の別方面から名を得たのは鯖江正休といへるもの、大名旗本の祖先伝記を自己の本領とし、諸家の系図系統に最も委しく、その出世物語を得意としたがため、名聞を専一とした当時の諸家より絶えず内々の音物を贈られて、いつの間にか大金持となツたといふ抜け目のない奴も居る、蓋し後世のお家騒動なるものゝ講談は、この鯖江正休の着眼した諸家銘々伝の功名手柄と正反対の方面に興味を持ツて出たらしい、
また享保年間には滋野瑞龍軒と深井志道軒と成田寿仙の三人が居る、
右の三人中で瑞龍軒は、いはゆる願ひの者(町奉行へ届け出でて公然の許可を受けしもの)で専ら三河風土記を講じ、人品また賤しからず歴々の諸家へも召されたが、志道軒は元来のおどけもので講談以外の戯れ多く、滑稽百出、また世を拗ね人を罵ることに妙を得て、ます/\世人の好奇心に投じ常に群集の山を築いて居たが、志道軒の住んでる浅草大長屋の店受人より町役人へ差出した文面に「志道軒と申候気狂ひ坊主」と書き上げたのはあまり酷い書きやうだが、当時の町人根性としては不羈飄逸にして傍若無人の彼がため万一いかなる咎めを受けるかと恐れたので、後日の用意に気狂ひ坊主と届けられた志道軒の為人を知る事が出来る、
成田寿仙は鯖江正休の系図伝記を骨子とし、始めて伊達黒田その他の所謂お家騒動なるものを演じ出したが、忽ち禁ぜられ、後には日蓮記の如き諸宗の高僧伝を以て世に聞えた、
山の手の成田寿仙と同時に馬場文耕なるもの、学識能弁の名を得て、采女が原に小屋掛を許されたが、その入口に「大日本治乱記」と大書せる看板を出したので、これを禁じられ、さらに「心学表裏咄」と改めて、そのころ流行した心学を表看板としながら、やはり実は依然として天下の治乱に関する講談中、をり/\辛辣に武門諸家の秘密を暴露したばかりか、大胆に幕府の政治を批判したがため、召捕られて死罪に行はれた、凡そ講談師として口舌の禍に打首となりしもの前後この馬場文耕たゞ一人あるのみだ、
文耕の門人に森川馬谷といへるは、当時に名高い町医者森川昂玄の二男で、古今の正史雑録に通じ、また世態人情にも通じ、寛政の初年、始めて一定の家屋を借受け、聴き料を二十四銅づゝに定め、講談する事を「読物」と称へ、その読物を「初中後」の三段に分け、初の一席を弟子に講じさせ、中段と後段の二席に自己が得意とする修羅場と世話場とを演じ、また「配りビラ」といふものを諸方に掲げて客を招いたのが、いはゆる寄席といふ講談の定席、その他の総ては皆この森川馬谷より始まツた、「講釈師見て来たやうな嘘を吐き」これまた馬谷の狂句で、我みづから我を嘲ツたところに頗る妙味がある、
森川馬谷と並びて名を得たのは、神田伯龍と笹川燕尉の二人で、さらに文政年間の名人といはれた伊東燕晋は、常に絶えず上野の宮家に召され、また将軍お鷹狩と称して隅田川の野外へ出られた時、洲崎村の弘福寺で川中島の合戦と三方が原の軍記を講じ、ます/\一代の誉高く、天保十年、八十歳の老齢を以て終ツたが、死せる前日まで湯島の自宅で昼夜二席づつの講談を続けたといふ、
つまり森川馬谷と伊東燕晋の二人は、いはゆる太平記読の辻談義より来れる講談界に稍具体的の一進歩を与へた中興の祖ともいふべきものである、
無論この前に八代将軍の吉宗いまだ紀州にありし時、生母たる阿由利の方の遠き縁者で巨勢六之丞といふもの、和漢の歴史に通じ古今の軍記を語るに妙を得て、常に吉宗の伽となツて居たが、将軍宣下の後、この六之丞は本所に広大なる屋敷を貰ひ絶えず城中に召されて吹上げ山里の亭に三国誌と三河風土記とを講じて居たが、六之丞の一子に六左衛門といふもの、酒色に耽ツて身持の悪いのみでなく、罪を犯して家禄を没収せられた苦し紛れ、父の講談に倣ひ市中の街上で諸軍記を講じ、巨勢翁山と称したが、あまり上手でなく第一その酒色が滅亡の基で、落魄のまゝ陋巷に窮死した、
蓋し正史の読書以外に於ける和漢軍書の講談は、最も古くから行はれて、太平記読なるものは、織田豊臣の時代より徳川の初期に隆盛を極めたが、いづれも市井無学の徒でなく、多くは時を得ず世に隠れた武士の業とせしがため、家姓本名を称へたものはなく、十中の八九、偽名を用ひたり雅号を用ひたりして自己の素性を秘した、幕府また其意を汲み与へて、これを「浪人職」と称したのは食禄に離れた浪々の身に分相応の軍書講談を以て世を渡るものとし、浪人の方でも祖先の名を恥しめ旧主の名を憚ツて、たま/\奉行所に呼び出す事があツても、罪を犯さざるかぎり本名を調べず其ままの雅号で許された、
明治維新の後、この講談師は教職の下に置かれて、大講義とか小講義とかいふ名を附せられたので、中には驚喜のあまり神官の服を纒うて高座へ上ツたものがある、明治五六年の頃、何物であツたか、有名な侠客新門辰五郎の子分となツて仮名を湖水渡と称した男が浅草の境内に小屋を構へ、往来の人に無料で、浦賀にペルリの来た事を基として勤皇佐幕の事蹟を講談にかけたが、聴くもの尠くて竟に小屋を閉ぢ、明智左馬助は琵琶の湖水を首尾よく渡ツても、この湖水渡は浮世を渡りかねたまゝ出奔して仕舞ツた、
明治八九年の頃、政海の奇才たりし馬場辰猪が始めて政談演説会を下谷の摩利支天の堂に開いた時、まづ聴衆を集める策に講談師の松林伯円を傭うて来て前座に据ゑたところ、聴衆は前座の伯円を聴き終るや否、後も振返らず、さツさと帰ツて仕舞ツたといふ滑稽がある、
また其当時にランプ亡国論で名高い佐田介石が茅場町の薬師の境内に演説会を開き、落語家の三遊亭円朝を前座の人寄せに使ツたところ、これも円朝を聴いた後に一人も残ツて居ないので、翌日は円朝を後席として自分が前座に出て見ると、やはり一人も来なくツて、円朝の出る時刻を考へ、ぞろ/\と這入ツて来たといふ面白い実話が残ツて居る、
当時いまだ政談の何物たるを解せずして、加之も講談師の伯円と落語家の円朝は既に名を得た両方の親玉だから、利用せんとしたものが却ツて反対に利用せられたといふ滑稽を生じたが、一時また盛に政談演説会の喜ばれた時、その松林伯円は逆に演説家の堀龍太を前座として、テーブルに椅子を用ひコツプの水を飲みながら西南戦争を講じた事があるわづかの間でも時勢の変遷と人心の推移を思へば、殆ど夢の如しである、
また講談に速記術を応用して、いはゆる講談速記の起ツたのは、明治十七年、伯円の「安政三組盃」と円朝の「塩原多助」を若林●蔵が速記したに始まツて、由来こゝに講談の速記ます/\盛になり、もはや今日は都鄙の新聞紙上に講談の載らないものはなく、そして一面に実際の講談師は段々に衰へて来た、
無論これは社会の複雑と共に人間が益々忙がしくなツて来て、のろ/\講釈なンか聴いてる暇のなくなツた故でもあるが、たしかに今の講談師は今の人を引付ける力のないのも、その衰微を来した大なる理由に相違ない、
ところで新聞雑誌に掲載せらるゝ講談また到底あのまゝで長き生命を保つ事は出来まい、これに対する進歩改良の余地は充分あツて、何とか今のうちに一転化を与へたら猶更面白い娯楽的の読物となツて多々ます/\歓迎されるに相違ないが、つまり在来の講談そのものゝ面白味を失はずして時代相応に向上せしむる工夫も方法も沢山あるが、それは別問題で、こゝには以上まづ講談に於ける筋道の大略に止めて置かう、

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp