|
書物の意義を平易に説き聴かせる行為を、講釈・講談という。「講釈」と「講談」の差異については、後年のことながら儒者の立場から、清田●叟(享保四−天明五)の『芸園譜』等に説かれている。一例として江村北海(正徳三−天明八)の『授業編』(天明三刊)を挙げれば、講釈を「講ズルトコロノ書ノ本文註解ヲ併セテ、其字義文義ヲ解釈シテ言聞スコト」、講談については「字義文義ヲクワシク和解シテ、俗耳ニ入リヤスカラシメ、今日ノ人情世態ニ親切ニ」すべきであると記しているが、「相混ジテ」いたのが実状であった。講釈・講談は各分野で行われたが、人気を博したのは軍書、就中『太平記』の講談であった。一方ハナシ・カタリと並んで、芸能と深い関わりを持つ国語表現に、朗誦を意味するヨミがある。 豊臣秀吉の御伽衆大村由己(天文五−文禄五)は自作の『天正記』等を読む、物読みでもあり、前田利家の御咄衆岡本三休も「物よみ三休」とよばれ(桑田忠親『大名とお伽衆』)、利休も物読みを抱えていた(『江岑夏書』)。ここに「太平記読み」なる語が出現するのである(『人倫訓蒙図彙』元禄三刊)。しかし『太平記』を読んで身過ぎの方便とすることは、すでに中世に行われていた。江見河原入道は文正元年(一四六六)閏二月『太平記』を読んでいるが(『蔭涼軒日録』)、眼を患っているので、諳んじての朗読と思われる。したがって、ヨムには書物なしのいわゆる無本の場合をも含むことが判明する。また、『後法興院記』文正元年五月二十六日の条にうかがえるごとく、談義僧が『太平記』を談義の場で読み、吉田神道においても同書の講釈を行っていた事実は、太平記読みの技巧のなかに説教や神道講釈のそれが摂取されていたことを推測させる(加美宏「中世における『太平記読み』について」『日本文学研究資料叢書 戦記文学』)。 江見河原入道は播磨赤松氏の一族という。ここで注目すべきは赤松を名のる講釈師の一群である。俗に、軍書講釈の始祖といわれるのが赤松法印で、元禄五年(一六九二)江戸に出府した赤松清左衛門は浅草見附の傍で講じ(『元享世説』)、さらに赤松青龍軒は同十三年(一七〇〇)以来江戸堺町で、聴衆の歓迎をうけていたという(『節信雑誌』)。赤松氏は知られるごとく波乱に富んだ家系で、ついに関ヶ原合戦で、本流は断絶した。たしかに先祖の勲功を後世に伝えるべく情熱を傾ける人々が輩出して当然の家系であったわけである。事実、前田家の御伽衆に支族の石野氏満がおり(のち赤松氏に復す)、赤松法印に擬されるその子氏置は、家康の御伽衆であり、また満祐の弟明秀は、軍談を得意とした浄土宗の傑出せる談義僧として著名である(関山和夫『説教と話芸』)。『諸芸目利咄』(元禄一〇、『花散る里』補筆)に、「浪花に梅龍江戸の青龍軒」とあり、近松門左衛門が『大経師昔暦』(正徳五上演)に赤松梅龍を登場させている点よりみて、東西ともに赤松を姓とする講釈師が覇を称えたことが想像される。カタリ・ハナシの管理者を語り部・咄の者とするのに倣って(大島建彦『咄の伝承』)、赤松氏のごときは読みの者と称うべきであろうか。 (以下省略) |