二代目旭堂南陵聞き書

 

    二代目旭堂南陵

 

 当代旭堂南陵は先代の長男で三代目である。先代は本名浅井鶴造、明治十年生まれの丑歳で、昭和四十年十一月、数えの八十九歳で物故された。死の前日まで高座を勤め、リンリンたる高い調子の口跡は衰えていなかったという稀なお人であった。

 私―米朝もよく可愛がってもらい、いろいろ古いことを教わったが、こんな記憶の良い人も少ない。数十年前のことも、この間の出来事のように話された。講釈師見てきたような嘘を言い……では、決してなかった。

 上方落語ノート……という表題からは少し逸れるかも知れないが、南陵師聞きがきのノー卜が少しある。おそらく知る人の少ない内容であるし、大変おもしろい話だからここに紹介することにする。

 実は、このほど、上尾市の吉沢英明という方から『講談関係文献目録、明治・大正編』という本を送られたのである。見ると、明治大正期の新聞や雑誌にのった講談の記録、速記本、いわゆる講談本から立川文庫式のものにまで及んだ、実に尨大なる目録である。

 古い講釈師に関した聞きがき等もあり、貴重な良いお仕事だ。売っているものではないようだし、実費で入手可能なのか、その辺のことはわからない。

 これを見ている内に、南陵師の聞き書を活字にしたいと思ったわけである。

 はじめの神田伯龍という名前についてのはなしは、昭和二十年代に聞いたもので、文中に「この間……」とか「先年……」とかいった言葉が出てくるので、註を入れながら記してゆくことにする。

 

    神田伯龍について

 

 元来、講釈の世界では神田伯龍と言えば第一等の看板名で、ポスターバリュウ(註、こんな言葉も使われた)というやつでも、他の追随を許さない名前である。

 これが大阪、名古屋、東京と三力所にあった。

 まず何と言っても東京が元祖であるには違いがなく、これがなぜ大阪にできたかと言うと、明治十四、五年頃に東京神田派の講釈師の神田伯清という人が大阪へやってきた。

 東京で食いつめたのか不義理でもできたのか、とにかく大した看板もなくてやって来たのに、土地の水に適ったというか、大阪でえらい人気が出て大看板になってしまった。

 大体、昔から東京の芸人が大阪へくると、一枚上ぐらいの扱いはしたもので、逆に大阪から東京へ行くと、引き立ててくれる人があれば別だが、一枚下ぐらいに扱われたものであった。しかしこの神田伯清はよく受けてお客を呼び、大した評判である。が、名前が小さい。上方の講釈師の大きな名をもらってもしょうがない。自分は神田派の出身故、神田系統の大きい良い名前を名のりたいと考えた。

 もともと、この伯清という人は非常に山気のあった男で、ちょっと高座へ出ても何か客を驚かすことばかり考えてる。

 懐中時計がまだ珍しく、高価なものであった時代です。時計を二つ持って高座へ出る。まず、懐中から右手で時計を一つ取り出し、ちょっと龍頭を捲いたりして釈台の右に置き、つぎに左の方からも取り出してちょっと時間を見て左手へ置く。わざわざ左右から二つも出してみせる。お客がびっくりして、あの伯清は時計を二つも持っている……。まあ、お客も幼稚なもんやった。

 こんな男だからやることに抜け目がない。久々に上京すると、当時の神田伯龍がひどい放蕩家で、年じゅう借金に苦しんでいる。これに目をつけた。

 そこで伯龍に会って、「先生、どうかその伯龍の名前を私に譲って下さい。お金でできることなら何とでもしますから……」「よろしい、ではこの名前を売ってやろう」「有難いことで、では如何ほどで売って下さいますか」「百円なら売ろう」……当時の百円はすごい大金だが、「よろしゅうございます」と即金で渡した。大した男です。今の相場なら弐拾万円ぐらいか。

  (註、昭和五十一年の今日から言えば、その価値は二百万を下るまい。)

 では、この名前を上方へ持ってゆくが、今後、伯龍名は大阪が本家としてよろしいか、無論それは承知である、という訳で、話がついて伯龍という名前が大阪へ来ることになった。

 この名前を売った伯龍は二代目の神田伯龍だと思う。そこで伯龍は俺は今後、伯龍は名乗らず、カシワヤナギと書いて神田柏柳と変えることにする、というので伯清はそのまま帰阪をした。

 そこで伯清改め神田伯龍となったんですが、この人の弟子に貞三という男がいた。これはもと東京で一龍斎貞山の弟子だ。この貞山は三代目で、典山になった貞山の前の貞山である。阪地へ来て伯龍の一門に加わって売り出した。

 その内にこの伯龍が老衰してくる。芸人の晩年にありがちの淋しい境遇になった時、この貞三が実の親に対するように仕えて世話をしたので、伯龍も喜んでこの伯龍名に買収一件の由来をつけて譲ったんです。

 講談本、速記本をうんと出している伯龍がこの大阪での二代目伯龍である。

 非常に大まかな面白い講談で、本当に楽しめた。この人も晩年に声が出なくなって高座を引いてしまった時、私(二代目南陵師)が主唱者となって、この人のために大演芸会を催して相当な金を見舞いに贈った。(当時の金で二百円余りであったと思う。)

 で、それを徳としたのか、南陵に対して自分はもう喋れぬからと、伯龍名の権限一切を譲って没した。

 この人の弟子に小伯龍という人がある。当然、この人が伯龍をつぐべき人であるのに、どうしたわけか、浪花節の仲間入りをしてしまって、浪曲の間にはいって講談をやっていた。ところがこの人、浪曲界にはいってやっている内に、勝手に伯龍を名乗ってしまった。私(南陵師)もいずれつぐのならこの男……と思っていたので、別に咎めずに放って置いたのだが、従って伯龍名に関する因縁、由来の方は知らぬままであった。

 この浪界伯龍の講釈は派手で達者でおもしろいが、甚だ考証がゆき届かず、時代も何もめちゃくちゃで、ヨタではひけを取らぬはずの当時の浪花節の連中がおどろくほど、ヨタな講釈やった。

 ところがここにもう一人、故人の弟子で伯鱗という人が大津に居住していて、ここで神田伯龍を勝手に名乗ったので、関西に二人も伯龍ができたわけです。仲間内では、大阪伯龍、大津伯龍と呼ぷ。

 と、この浪界入りの大阪伯龍が、大津伯龍の奴が阪地へ出てきたら承知せぬと意気込んでいるので、大阪へは出てこなかったが、滋賀県方面では学校廻り専門に随分売れていた。晩年、若原(大阪伯龍の姓)といつまでも喧嘩をしているのも嫌だと、伯龍名を廃して藤尾春湖と改めた。この大津伯龍の本姓は田中と言う。

  (註、この学校廻り専門……というのは、主として大正から昭和の初期へかけて、関西一円の府県では、教育の一助として講談を採用して各学校を廻らせたのである。面白くてためになるはなし、郷土の歴史も教えよう。常識として伝承された物語の知識もつけよう……というもので先代南陵師は近畿一円―主として大阪府奈良県であったかと思うが―をずいぶん廻られたそうである。この辺のことは「上方芸能」連載の当代南陵氏の「明治の講談師」に詳しい。)

 ここで、襲名にちなんだ話を次ぎに挿入することにする。

 

    七代目桂文治

 

(本文省略)

 

また、聞き書に戻る。

 

    東京では

 

 さて、一方東京では、のちに松鯉となった神田伯山の弟子の伯治―この人は先年(昭和二十年代である)物故した小金井蘆州の父(本名松村伝吉)―この人が、委細かまわず伯龍をついでしまった。この名前が大阪へ行ったいきさつを承知の上で伯龍になってしまったのである。

 却って三代目大阪伯龍の方はこの事情を知らんのや。この伯治改め伯龍が東京をしくじったことがあって、大阪へ一年半ほど来たことがあったが、因縁を承知している故、大阪では遠慮して水雲斎龍玉と名のった。

 この龍玉というのは大きな名前で、初代の龍玉は名人龍玉と言われて巧い良い講釈師であった。この人がかの清水次郎長の家に大分世話になっていた時に、次郎長の妾とできてしまった。乾分連中が腹を立てて次郎長に知らせるようにするし、正面から訴える男もいたが、次郎長はとり上げず、てんで相手にしない。そのために事件にならずじまい。その内に妾が死んでしまう。龍玉は相変らず次郎長の家で権八(居候のこと)になっていたが、とうとう病いを得て次郎長の許で死んだ。その時、次郎長が乾分に向って「講釈師の先生が死んだから〇〇(妾の名、失念)の墓のある寺に一緒にまつってやれ」と言ったという。これは美談として有名なはなしです。

  (註、やはり次郎長家に居候していて、次郎長伝を作ったと言われる講釈師、松廼家太琉とはこれは別の存在であろう。)

 

 この水雲斎龍玉の名を一時使用して関西で働いていたが、東京へ帰り伯龍として死んだのである。

 次の伯龍は蓁々斎桃葉の弟子で葉生という男、この葉生は大変な放蕩者で、道楽の結果、しばらく東京を離れていたが、戻ってきた時、どこで修行したのか驚くほど巧くなっている。殊に世話物は絶妙です。早くもこれに目をつけた伯山―これは次郎長伝の伯山―が、弟分にしてやると、旅帰りのままの姿から充分に世話をして松鯉の弟子にして、伯鯉を名乗らせ、この名前でぐんと売り出した。そこでこれを伯龍にしようと決めたが、松鯉も伯山も大阪へ名前を売った一件は知らない。

 ところが当時、釈界に紛攘ができて講釈師が二派に分かれた。この伯龍(本名秋元角次郎)は、この分裂に際して松鯉伯山を捨てて反対派へ走った。反対派の首領は当時の宝井馬琴である。

 松鯉が怒って破門して伯龍名をとり上げたところ、馬琴の内論となって西尾麟慶を名乗り、麟慶で堂々と伯山の向うを張った。

 

 その内に初代芦州が没したので麟慶改め蘆州となった。先年(昭和二十年代のこと)物故した蘆州の前の蘆州で、川中島の車がかりで有名だった人だ。

 ところが、龍玉伯龍の伜が伯龍をとり上げられた麟慶のもとへ弟子入りして麟生となっていたが、麟慶改め蘆州となった時、麟生は麟慶をついだ。

 この蘆州は講談は名人だが大酒飲みで、身持ちが良くなく不節制のために五十そこそこの短命で終った。そこで鱗(ママ)慶が蘆州となった。これが先年(昭和二十年代なり)没した蘆州です。つまり龍玉伯龍の伜ということである。

 

 つぎの神田伯龍が君も知っている、あの戦後なくなった伯龍で、伯山の弟子で、はじめ伯梅と言った。

 これが伯龍をついで大阪へ来るたびに、浪曲連にまじって堂々と神田伯龍の看板が上がっているのを気にして、たびたび私のところへあれを何とかしてくれと言ってきたが、「君、あれはこちらにも理屈があるのだから、荒だてると、君が名前を変えねばならなくなるかも知れんぜ」と言ってやると、「そ、そんなバカな」と、ふくれてたねえ。

 おかしなもんで、伯龍が法善寺の花月へ出ると、ちょうど向いの愛進館の浪花節の中にこっちの伯龍が、奇妙に看板を出している。向い合って二人の神田伯龍が並んでいたのは全く珍風景やった。

 この浪界伯龍は昭和十七、八年頃に死んだと思う。そこで関西にはこの系統は全く絶えてしまった。

 今の小伯山の弟子で、この間大阪へ来ていた神田好山は、この大阪伯龍の孫であって、大阪伯龍の血統はこの人に残っているわけ。

  (註、この小伯山は現在の神田山陽師であり、この間―というのは昭和二十三年頃のこと。この神田好山君は私も当時、一緒に仕事をしたものであったが、今はどうしているのか、消息を知らない。)

 龍玉伯龍の作が、なぜ神田派へゆかずに反対派へとぴこんだかと言うと、当時の神田派は腕のある若手が揃っていて、のちの伯龍、ろ山、山陽等、真に多士済々であったからと思われる。

 他に名古屋にも名古屋伯龍という人がいたが、この人は神田は名乗らず、高田伯龍といっていた。東海方面では第一の看板で、まず押さえていたが、芸の系統その他、何の筋も関係もない人で、勝手に名乗っていたのであった。

……先代南陵先生の座談は実におもしろくて、はなしに枝葉が広がってゆき、まさに時間のの経つのを忘れる楽しさであった。

 ちょっとまとまった筋のある話になると、私なんかを相手の座談であるのに、何となく講釈口調になってゆく。「……である」となったり文語調になったり。「……です」とお客に対するような敬語調になるかと思うと、一ぺんに大阪弁に砕けたり……。すぐおいとまするつもりが、ついつい長居してしまうのも毎度のことであった。

 ずい分いろんな話を聞かせてもらっているのだが、さし当り、同じノートに記しつけてあるものだけ御紹介する。

 

    西尾魯山

 

 この人は名古屋の人で、はじめ初代南陵の弟子で左南陵と言った。上京して馬琴の弟子となり、琴―何とかいう名前を貰い、それから琴梅となって、のちに西尾麟慶の弟子となって西尾魯山をついだ。

 初代の西尾魯山は大阪にいたので、なくなる際に私(南陵)に名前を預けたので、私が麟慶から話があったので魯山を与えたわけである。

  (註、この西尾魯山は戦時中に東京の講釈場で、私もよく聞いた。檜山騒動や伊達評定、佐倉義民伝など、手固い講釈でやや陰気ではあったが、安心して聞けた人……変な言い方だが、これは芸人として大事なことなのである。また、先代南陵師はよく先輩から死ぬ前に名前の権利を預けられているが、これは、大正末期ごろになると関西の講釈師がどんどん減って、若手で将来を託せられるような人は他に居なくなったためであろう。)

 

    蓁々斎桃葉、楊名舎桃玉

 

 共に初代放牛舎桃林の弟子で大看板となった人だ。この桃林は本名を島左右介という。伜が二代目をついだがこれは本名、光沢次郎と言った。どうして苗字が違うのかは知らない。

 この初代桃林、島左右介のしつけと言えば実に厳格を極め、そのきびしさは圧制と言えるくらいやった。弟子連中も腹が立つものだから何かというと、講釈の中に島左右介という名前を登場させて、どなりつけたりなぐったり、散々な目に合わせる。

 ある日も、左右介をこっぴどくやっつけて良い気持ちで下りてきたところ、たまたま師匠が楽屋へ来て聞いていたからたまらぬ。

「この馬鹿野郎、やい、左右介ッとは何事だッ」とどなりつけた。驚いた弟子、大あわてでどもりながら、「いや、師、師匠、呼び捨てにはしません。サ、サンをつけましたよ。サ、サンを……」と言いながら指を三本つき出したのは大笑いで、当時、楽屋の一つ話であった。

  (註、この放牛舎桃林という名は、なかなかひねった名で、出典は書経の「帰馬于華山之陽、放牛于桃林之野」という語からとっている。……牛を桃林の野に放つ……という語句は私も中学時代から知ってはいたが、一体何で覚えたのかは憶い出せない。蓁々斎桃葉の方は、詩経の「桃之夭夭、其葉蓁蓁」からとったもの、桃の夭夭たる、その葉蓁蓁たり……。「大学」にもこの語をふまえた語句があり、寺子屋で教えたせいか、江戸時代のやわらかい書物にも、これによった洒落がよく見られる。

 昭和四年に大阪で発行された『落語系図』の序文にも、「……爺は山へ草刈に婆は川へ洗濯に、陰と陽のなりはひをおこたらぬよふしめすになん、桃の夭々たる目出たき月は花嫁のきさら木月と昔より、股の中から出生の初の男子は股太郎……云々」などとある。

 神田松鯉は神田まつりの洒落であるし、とんぼ切り平八という名前は、本多平八郎が持っていた名槍の名前を、とんぼ切りと言ったところから作ったもの。講釈師の名前についても調べたら面白いと思う。)

 

    開きの講釈場

 

 明治の中頃まで開き打ちの小屋というのがあった。ここは下駄をはいたまま、ドロドロと客を入れる。下足番というものがついていない。一席よみ終ると銭を集める。気に入らぬ客は出て行く。又、切り場でポーンと切って銭を集める。続きが聞きたければ銭を出さねばならない。一回に支払う金高は僅かなものだが、何度でも銭を集めに廻る。

 だから皆、切り場ではすごく山をかける。従って、講釈の品は落ちるので、本席の講釈師はこれを軽蔑していやがった。

 私のやる「天保水滸伝」はこの開き打ちのネタであるから、他の人のとちょっと内容も違う。余分なものがたくさん付いているが、おもしろいことは随分おもしろい。一席一時間づつで三十席ある。

 私はこれを開きの真打ちで正流斎玉窓という人に教わった。この人ももとは本席の講釈師であったが、開きの釈場へ落ちて真打ちとなった。この人がすすめて自分の師匠の三代目正流斎南窓を開きの真打ちに落とした。

 格は下がってもうんと金がもうかるんです。南窓の方が講釈は無論、うまいのだが、うんと山場を作ってポーンと切る。その気を持たせてあとへつなぐ呼吸は弟子の玉窓の方がうまかった。ここらの要領は又別のものがあって、やはり馴れである。

 この三代目南窓の作の四代目南窓が、東京での私の手ほどきの師匠であった。下品な講釈だが面白かった。

 とんぼ切り平八という、やはり開きの小屋の格真打が佐竹ッ原に小屋を一つ持っていた。その子の小とんぼというのがやはり親の跡をついで、この小屋の主であったが、五世南窓をつぐことになり、その時にこの開きの小屋を包み釈場に昇格させて(註、下足番付きの本席にすること、本席は入口で一定の入場料をとるが、途中で銭を集めたりはしない。普通の講釈場のことである)、そこで五代目南窓襲名、真打ち披露をした。

 でっぶり肥えた下品な男で、ヅケヅケ言う口に甚だ毒があり、それを愛嬌として喜ぶ客もあったが、嫌う人には非常に嫌われた。

 後に下足番が木戸のあがりを盗もうとしたのを見つけて、大力であったし体も大きい男なので、取って押さえて折檻しかかると、持っていた出刃で腹を突かれて、遂にこの下足に殺されたのである。

 それ以来、この南窓という良い名もつぎ手がなく今日に至っている。

 

  (註、この開きの小屋……つまりオープン劇場は、江戸時代には屋根もなくて雨天の時は営業できない。落語でも同じ型式が明治の初期まで残っていた。それが包みの小屋に昇格する。開いていたのを包み込む……つまり屋根をつけて、木戸番をつける。従って木戸銭……入場料をとることになる。芝居でも何でも古くからある芸はこの順序を経てきたのである。南陵師の憶い出ばなしの開きの小屋は、屋根のある屋内であって、入場料をとらずに切り場、切り場で銭を集めるという、過渡期の型であって興味が深い。故文團治師が地方廻りをしていた頃、落語だけではなかなか受けないので、変ったことをやってやろうと思って曲芸を一つ稽古した。綱の両端に石をしばりつけて、ダルグル回転させ、一本の棒のようにしてしまう芸……、先代、当代の吉慶堂李彩のやる芸である。この稽古をしていると、一座の先輩から、それは開きの芸であるから筋の通った寄席芸人のやるものではない。やめておけと言われたという話を聞いた記憶がある。

 色物の分野でも、開きの芸は一段下のものとして軽く見られたものらしい。

 戦後になって純粋に寄席で育ったのでない曲芸師が、トンボを切ってドスンドスンと音を立てるのを、古い先輩連中が顔をしかめて「むかしの寄席の曲芸師はトンボを切っても軽くトンと立って音をさせなんだもんや。近頃の若い奴は……」と言っていた。

 事実、寄席では目と鼻のところにお客が居るのである。ドスンドスンとほこりっぽくやられてはたまったものではない。今は関西の演芸場は劇場の大きさだから、遠慮なくドタバタがやれるわけである。)

 

 ……南陵師から聞いた話はいくらでも憶い出してくるが、若い頃、三代目笑福亭松鶴、のちに講釈師に転向して竹山人となった人、この人と長期間、一座して打って廻った話は雑誌「上方ばなし」に詳しく書いて居られるので略すが、先代南陵師と故桂小文治師から「佐々木裁き」というネタはこの三代目松鶴の創作であると聞いたことは、ちょっと記しておきたい。

 

    佐々木裁きについて

 

 この竹山人は落語家の時から「大塩平八郎」と「一休禅師」は十八番であった。

 明治時代は、はなし家が講釈がかったネタをやるのは別に珍しいことではなかったのである。東京のはなし家が人情ばなしをやる。これは講釈師の方がとり入れて、圓朝作や柳枝作のものを世話講談としてやっている。

 また、落語家が義士伝を喋ったりしても、それが面白ければお客は別に何とも思わないので、「はなし家」というのだから、おはなしをする人というわけで、今よりもっと融通のあるものであった。

 三代目松鶴から竹山人となり、はなしの寄席へ出ずに講釈場へ出るようになってからも、一番しまいには落語を一席添えていて、これがまた評判であったという。

 それはさておき、この三代目松鶴が、一休とんちばなしからのヒントで「佐々木裁き」または「佐々木政談」と呼ばれるこの落語を作ったのである。

 妙にこましゃくれた子供が主人公なので、やり方では随分いやな話になってしまいかねない落語であるが、役人のワイロに対する調刺は今でも通用する。いつの時代でも上役人と汚職とは縁の切れないものらしい。

 この落語の露骨な皮肉に、今でも拍手のくることがしばしばある。

 これが東京へ移されたために、お奉行が大岡越前守になってしまった。東京へ移しても大岡様にしても別に支障はないのだが、元来のサゲがいかにも悪い。そこで「この子供が、のちに出世を致しまして、名与力池田大助となります……」なんて切り場を作ってしまった。

 この子供は桶屋の出身であるなんて、変なことになってしまい、そんな小説が書かれたり、映画やテレビにまで作られて、どうやら池田大助桶屋伜説は定着しかけた感じである。

 この子を桶屋の作にしたのは三代目松鶴であるが、別に桶屋である必然性はない。親父の職業をたまたま桶屋に選んだのであろうが、変なことになればなるものである。

 

 しかし、佐々木信濃守の方はレッキとした実在のお奉行様である。

 江戸は南町奉行、北町奉行と南北だが、大阪は東西にわかれる。

 幕末頃のお奉行の名前を記してみる。

 西町奉行は、

  弘化元年 永井能登守

  嘉永二年 中野石見守

  嘉永三年 本多加賀守

       石谷因幡守

       川村対馬守

  安政二年 久須美佐渡守

  文久元年 鳥井越前守

一方、東町奉行は、

  天保十三年 水野若狭守

  弘化四年 柴田日向守

  嘉永   川路左衛門尉

       佐々木信濃守

       戸田伊豆守

  安政五年 一色山城守

  文久元年 川村壱岐守

 

 ついでながら「天野屋利兵衛」の講談でおなじみの松野河内守は、たしかに元禄十五年に西町奉行を勤めている。

 さて、ごらんの通り、佐々木信濃守は東の町奉行である。しかるに落語の「佐々木裁き」では西の町奉行となっているのがどうも不可解である。

 嘉永年間といえば、明治三十年から逆算しても四十五年ぐらい前のことになる。現に、二代目三木助口演の速記によれば、「佐々木さんというのは、小柄で赫ら顔のお方やったそうで……」なんという言葉まで伝えられているのである。

 大阪落語には、土地柄のせいか、大名や武士の登場するはなしは少ない。殊に大名は、江戸の落語だと、「目黒のさんま」「将棋の殿様」「三味線栗毛」「めか馬」「柳の馬場」「盃の殿様」等、思いつくままに記してもこれぐらい出てくる。上方では「大名将棋」ぐらいか。その代りというか、お奉行様の出てくる落語はかなりある。

 「佐々木裁き」「五人裁き」「次の御用日」「帯久」「一厘くずし」「天狗裁き」「後家殺し」……、「鹿政談」や「テレスコ」は大阪が舞台ではないから省くとして、これらの落語がことごとく西の御番所―西町奉行所が舞台である。

 東の御番所は大阪城の近所であり、西の御番所は船場、本町橋の東詰を北へはいったところ、今の国際ホテルのあるあたりである。場所が市民になじみの深いところであったせいなのだろうか。

 「大塩平八郎」が十八番であった三代目松鶴―竹山人は、奉行所や裁きの内容に実に詳しかったそうだから、この人の演じる「佐々木裁き」は内容は他愛のないとんち問答であっても、幅と奥行きのある高座であったに違いあるまい。

 浪曲にまで移された「佐々木政談」、この作者のことを明らかにしておきたかった。

 もう一つ、これも先代南陵師から聞いた話だが、大阪の落語には秋のネタが少ないというので、竹山人が「松茸がり」という落語を作った。武士の妻の姦通をあつかった講釈種だが、内容なりサゲなりがいささかポルノ的であるため、だんだんうるさくなってきた明治末期以降の寄席ではやりにくく、伝える者もなくなったという。

 ポルノと言っても今日では別にどうということはない程度のものである。

 あらましの筋はうかがってあるので、一度やってみようかなどとも思っている。

 

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp