尾崎秀樹『大衆芸能の神々』

(昭和53年9月30日)


 明治二十年代、三十年代の隆盛は、江戸期いらいの大衆話芸の成果のうえにきずかれたものだ。有竹修二はその繁栄を、「名人上手が輩出し、世人一般の回顧(ママ)趣味、江戸時代への郷愁も手伝い、かつ徳川時代には憚って云いにくかった徳川家や各大名に発生した事件を平気で語る自由を得たこと」に原因をもとめていた。阿部主計もその現象にふれて「多年蓄積され完成された技術と、その内容への懐古趣味とが、まだ映画のような新時代の庶民演芸が現れない前の時代の断層に当って、人口の増大という現象の上に活かされ、利用されたに過ぎなかった」と書いていた。
 実際に浪花節(浪曲)や、活動写真(映画)が、人気を集めるようになると、講談は急速にすたれはじめる。講談師で明治天皇の御前講談をやったのは、泥棒伯円と、百猫伝の如燕だ。いずれも明治二十年前後のことだが、寄席の大衆芸能家が、御前講談を行なうということのなかに、そのプラスとマイナスが読みとれる。プラス面は、大衆芸能として一段ひくくみられていた講談が、御記録読み本来の精神にのっとり、御前講談の大役をはたしたことによるステータスなものの確保であり、マイナス面は、そのようなことに象徴される明治教学思想との癒着現象である。これは円朝の場合にもいわれたことだが、講談はつねに寄席芸としての本領へ立ち戻る必要があった。なまじ教学的なものにつきすぎると、大衆芸能としての本分からとおざかることになる。伯円が世話講談に独特の境地をひらきながら、さらに明治の社会的諸事件に着目し、民権講談の先駆者としての功績をのこしていることを考えると、彼がはたした近世から近代への架橋の役割が、円朝と比較してけっしてひけをとらないものであることがわかる。
 この伯円の積極的な姿勢は、その後かえって政治講談のなかにひきつがれ、馬鹿林鈍翁、初代伊藤痴遊、あるいは新講談の大谷内越山から、細川風谷をへて、現在の邑井操、二代目痴遊、大谷竹山あたりに伝承されるといってよかろう。
 政治講談は政治小説の話芸版として理解することができる。つまり政府による言論弾圧が強化されたため、小説というメディアを借りて政治小説が誕生したように、政治講談も政談演説が弾圧されたための、やむを得ない便法だった。明治十四年の暮に政談演説を禁止された坂崎斌はさっそく遊芸人の鑑札をうけ、高知市の広栄座という芝居小屋で「東洋一派民権講釈一座」の旗揚げをした。馬鹿林鈍翁の芸名は松林伯円にもとづくといわれる。坂崎につづいて奇妙法王(岡野知荘)、先憂亭後楽(竜野周一郎)、虚無庵天福(渡辺作成)、先醒堂覚明(奥宮健之)などが輩出した。あまり政治講談が盛んになったために、明治政府は一時は本気になって講談条例の布告を考えたほどだ。
 この政治講談は自由党が解散する明治十七年秋頃を境にしてしだいと衰微し、初代伊藤痴遊の出現によってふたたび隆盛となる。彼は慶応三年二月に横浜に生まれ、小学校を卒えただけで満十五歳の折りに自由党に加入して以来、言論取締りのために何度か拘禁され、禁錮刑をうけ、衆議院議員に二度当選、五度東京市会議員をつとめるなど、直接政治の分野で活躍しただけでなく、伊藤博文、井上馨などを友人呼ばわりして快弁をふるい、昭和八年以後は話術研究会をおこして多くの後輩を育てた。後に二代目を継いだ田辺南遊も、邑井操も、小伯山から二代目山陽を継いだ浜井弘なども、話術研究会の出身だ。
 野村無名庵は「まったく先生のは、話術くさからぬ最上の話術だった。抑揚があるではなく、誇張が伴うでもなく、形式張らず、勿体ぶらず、癖もなければ、節もなく、平々、淡々、急がず、迫らず、悠々、諄々として、説き去り説き来るところ、座談の調子と、何等の変るところもない。而して通俗平明によくわからせて、而も滋味興趣津々として尽きないから、聴衆はその巧妙さと内容の豊富さに陶酔し、何時間かかっても今はじまったような思いをし、息もつかずに聞き惚れざるを得ない事になり、深甚なる印象と感銘を与えられるのである」と書いたものだ。
 現実政治への関心と、話芸をとおしての啓蒙と批判、これはその後平民講談、社会講談の書き手たちがはたそうとしてはたしえなかった課題でもある。私は講談が「もう一つの修羅」を生きる怒りの芸術だと書いた。馬鹿林鈍翁や初代の痴遊にはその「もう一つの修羅」を生きる抵抗感がうずいていた。この意識を喪失したところに、講談衰退の第三の理由があるのではないだろうか。

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp