神田ろ山『清水次郎長』

(昭和37年3月30日)


内容は、神田ろ山の『清水次郎長』に一龍斎貞丈の『義士銘々伝』を付し、有竹修二の「講談のはなし(一)」「清水次郎長について」「義士伝について」を添えたもの。有竹の文章を以下に掲げる。


総説 講談のはなし (一)

講談の歴史

 講談というのは、近年の呼び方で、昔は講釈といった。それを演ずる人を講釈師と称し、客寄せをして講釈師が講釈を読む場所を講釈場と言い、略して釈場とも言った。講談と称し、講釈師と呼び、講談席と言い出したのは、明治末期か大正の初めごろだろう。
 ところで、この講釈の由来については、正確詳細に記した文献はない。ただ関根黙庵の「講談落語今昔譚」に一応の記述があるくらいだ。これとても、歴史的に精密な記述とは言いがたい。風流志道軒、赤松清左衛門あたりが始祖となっているが、講釈という話術の芸が体をなし、講釈場が、江戸、大阪その他の都市に数多く設けられ、客を呼ぶようになったのは徳川の末期以降のことで、幕末からむしろ明治に入って、釈場の繁昌を見たようである。事実、釈界は明治に入って二十年三十年ころに掛けて名人上手が輩出し、世人一般の回顧(ママ)趣味、江戸時代への郷愁も手伝い、かつ徳川時代には憚って言いにくかった徳川家や各大名に発生した事件を平気で語る自由を得たことが、講釈師の活躍を活発ならしめ、口演内容を豊富にせしめたことも考えられる。前後を通じて、明治初年から三十年時代が、講釈の最盛期だったのではなかろうか。
 劇壇に団菊左を中心として、名人上手が雲のごとく出たと同様に、講釈の世界も、この時代に名手が一時に現れた。田辺南竜、桃川如燕、邑井一、松林伯円、一立斎文車、桃川燕尾、一竜斎貞山(四代目)神田伯山(二代目)等々。これら名人上手の百花繚乱と咲いた花園に、錦城斎典山が遅れ咲きの一本として生き残ったので、近世の名人の称をほしいままにすることが出来たのだ。宝井馬琴(先代)宝井琴凌、秦々斎桃葉らは、なおこの道の古風を伝えるものとして、講釈通の愛好する芸の人であった。
 大正時代の代表者、六代目貞山、三代目伯山、先々代の小金井芦州らは、十代の幼少のころ、上記の名人上手の芸を見ているので、講釈の本道の上に持ち前の天才的な味を加えて、それぞれ一家の風をなした。
 ところが、これらの人々もつぎつぎと世を去り、彼等より又一段若い層である伯竜、伯治、ろ山、山陽、麟慶(後の芦州)燕旭(後の英昌)も相ついで鬼籍に入り、独自の境地をもっていた大島伯鶴、桃川若燕も物故し、新講談で売った大谷内越山もすでになく、政治講談で独歩の立場を占め、晩年は無類の巧味を見せていた伊藤痴遊もあの世へ行った。
シラバ(修羅場)

 講釈の読みものとしては、堅いものが本道である。琵琶を弾ずるものが「平家」を語ったように、講釈は軍談に始まった。太閤記、三河後風土記、川中島、難波戦記、漢楚軍談等々の合戦の模様を語る、軍勢の勢揃いする有様から、軍の駈引き、勇士と勇士の一騎討ちなどを、美文口調で語り、一、二、三序破急の調子で朗々と読む。これを「修羅場」(シラバ)ととなえて、講釈の芸の本道はこれにあるとまでいわれる。浅草見付の講釈場に「太平記場」と称するのがあったことは、いかに修羅場軍談が講釈の中心であったかを知るに足るものである。
 太閤記では『賤ヶ岳の七本槍』『本能寺』三河後風土記では『味方ケ原』川中島では『車がかり』などが、読み物として有名だ。近年では先代宝井馬琴が修羅場を得意とし、賤ヶ岳、難波戦記、川中島、漢楚軍談はもとより「朝鮮の役」なども読んだ。『碧蹄館の戦い』などを得意で読んだのを覚えている。ほんとうの講釈好きはみな修羅場を好んできいたものだ。五月ごろの陽気のとき、木枕でうつらうつらしながら、講釈師が修羅場を低い調子でシトシトと読むのをきくのは講釈場の醍醐味だった。修羅場のサムプルをあげてみよう。
「明智左馬之助その日のいでたち見てあれば、紫糸、銀小実の鎧、天下十九名兜の逸品、二ノ谷の兜をいただき、金銀三筋立の小手脛当て、白練絹へ墨の雲竜を描いたる陣羽織、そのころ名代の狩野永徳が筆なり。馬は和漢十三頭の一、太鹿毛となづけたる大馬に跨がり、六十四枚の采配は鎧の環におさめ、志津三郎兼氏のきたえたる世にも稀なる大太刀を振りあげ、寄り来る敵のまっただ中に乗込み、あたるを幸い斬りたて斬りたて斬りまくる……」
 これは『明智光秀湖水渡り』の一せつだが、ざっとこんな調子でやる。昔は講釈師を志し、どこかの先生のもとに入門すると、まず、この修羅場のけいこをやらされる。青年講釈師はこれで咽の調子を定める。講釈道には、前座の前に空板(からいた)と称するものがあり、席があくと、高座に出て、大きな声を出して、この修羅場を演る。お客が一人でも来て、木戸で、下足札を叩く音がきこえるとすぐ降りる。つまり、お客が一人もいないときに机の板を張扇で叩くので空板という。
 だから昔の講釈師はどんな世話物の大家でも修羅場がよめた。錦城斎典山は世話物が得意だったが、修羅場もやった。三河後風土記などを、よく後席にやったものだ。逆に修羅場専門で、三席とも修羅場を読む小金井芦州(先代馬琴の先輩格の人)などもいた。

きんぶすま(金襖)

 修羅場軍談ものについで堅いものとして「評定もの」と称するものがある。評定とは大名のお家騒動を裁判する行政裁判である。『伊達評定』『両越評定』などがそうである。これを金襖ものと称する。
 『加賀騒動』『黒田騒動』『仙石騒動』『鍋島騒動』等いろいろある。義士の本伝などもこの金襖の部類に入る。修羅場についでこの評定ものが読めなくては本ものの講釈師とはいわれない。
 この金襖についで、仇討ものがある。荒木又右衛門、宮本武蔵、梁川庄八といったもので、荒木は『伊賀の水月』という演題で、仇討もの中の大物である。この仇討ものが一通り読めるとこんどは侠客ものとか世話講談へはいる。
 もっとも、仇討乃至武家物語ものにも世話もの的な内容をもったものもある。典山の得意に読んだ『後藤半四郎』などはそうである。堅い金襖の要素があって、世話がかっているのもある。硬軟両様、世話と時代をこきまぜたところに味のある講釈は少くない。『柳沢昇進録』『加賀騒動』などに、世話がかった一節がある。


清水次郎長について

 「清水次郎長」というと、このごろでは多くの人が、浪曲の広沢虎蔵の「森の石松」を考えるであろうが、これは、講談で、三代目神田伯山の得意中の得意の読みものであった。伯山の次郎長か、次郎長の伯山か、伯山は、この読みものによって八丁荒らしの声名を獲ち得た。
 初代の伯山はいわゆる「天一坊で蔵を建て」といわれた人で、「天一坊」を得意とし、神田畑の代表的レパートリーとなった。二代目は、後に松鯉を名乗った練達の読み手で、「水滸伝」「黒田騒動」等を得意とした。三代目伯山はこの初代、二代、とは、まったく趣きを異にした、三尺ものを専門に読んだ。
 夕立勘五郎、祐天吉松、小猿七之助、野狐三次、等々、侠客物で売りこんだ。が、清水次郎長にいたって、他に追随を許さぬ世界を造りだした。次郎長は、彼の十八番であるが、同時に、この読みものは、彼の創作になるものといっていい。そもそも次郎長伝には、「東海遊侠伝」という稿本があり、これを土台として、松廼屋京伝という講釈師が、一通りの読みものをこしらえた。伯山はこの京伝の読みものを貰って読みはじめたが、才能のある彼は、この講談を補筆拡大して、大きな読みものに仕あげた。だから、今日の次郎長伝は、三代目伯山の作といっても過言でない。本篇には、割愛したが、大瀬半五郎、法師(ママ)大五郎、荒神山後日講談、等外伝的なものは、概ね伯山が案出したものである。荒神山登場人物に、江戸の鳶のものが一人いるが、これなどは、この荒神山という歴史的事件に、江戸ッ児が一人も参加しないのは残念だと、伯山好みの江戸ッ児を造り出して、一日の読みものにした。
 伯山が、この読みものを出すと、どこの席でも、たちまち満員続きになったが、特に、二十日すぎ、荒神山にかかると超満員となった。神田の小柳亭あたりだと、木戸に、「愈々明日より荒神山」という立看板が出たものである。
 伯山の風采は、このような侠客物を読むのに打ってつけのキリリとした江戸前の目鼻だちであった。その啖呵は実に胸がすくような痛快味があった。このような芸人は、もう二度と生れて来ないであろう。小金井芦州(先々代)一竜斎貞山(六代目)と伯山の三人を釈界三羽烏と称したのは故人の森暁紅であった。三人の芸が、揃って派手なもので、大正時代、講談界の人気を代表する観があった。三人のうち、芸のうまさからいうと、芦州が一番かも知れないが、大衆的人気は伯山が他を凌いだ。
 伯山の社中には、若手の巧者な人が多かった。伯治、伯竜、伯英(のちの山陽)ろ山の四人は、その代表的秀才であった。この四人のうち、伯山の口調をもっともよく写し取ったのは、ろ山であった。ろ山は、伯山ものは、たいてい読んだが、「信夫の常吉」「恋の白滝」といった、伯山があまり読まぬものをも手掛けた。しかし、伯山譲りの「次郎長」が、ろ山に取っても得意の読みものとなった。
 そのろ山から、現在のろ山が受けついだ。今のろ山は、三代目よりも、先代ろ山の口調をそのままに残している。
 本篇には生いたち、森の石松、荒神山を中心にまとめられている。ほかに、前述の大瀬半五郎が兄の又五郎のために苦労をする件、次郎長と竹居の吃安、黒駒の勝蔵との争闘、ほげたの久六、尾張の代官竹垣三郎兵衛殺し、荒神山の後日物語りとしての、半せい村庄太郎、安太郎が郷里へ帰ってからの事件に寺田の森太郎が絡む話など、興味のある読み場があるが、スペースの都合で残念ながら割愛されている。


「義士伝」について

(省略)


---------------

[ トップにもどる ] [ 講談メニューにもどる ] [ 講談資料メニューにもどる ] [ はじめにもどる ]
菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp