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講談とは何か。 講とは正史に通ずる意である。 談とは正史を平易に語るの謂である。 「講談の眞」とは、わが皇国の精神を正しく傳へることでなければならぬ。日本精神を宣布する藝術として「講談」なるものは生れたのである。だから講談は日本獨自のものである。節もなく振もなく伴奏も伴はない。このやうに單純な演藝形式で多くの聽衆を集め感動せしめ得るものは世界の何處にも求め得ないのである。それは日本精神の所産だからである。日本でなければ生れ得ない理由があつて生れたものだからである。 今日まで、講談は、太平記讀から出たものとされてゐる。しかり、近代藝術としての講談は、太平記讀から始つてゐる。 だが、太平記以前、既に講談はあつたのである。講談の起源を論ずるものは、古事記以前まで溯らなければならない。肇國の物語を、神國の精神を、言ひつぎ語りついだ、物語部の人々こそ講談のそも/\の始祖であつて、それ等の人々が、神前に多くの人々を集めて物語つたと同じ精神が、時代をへだてゝ講談となつて生れてきたもので、もしも、講談の遠祖をまつるとするならば稗田阿禮こそ、その遠祖としてまつらるべき人なのである。 太平記讀についても、多くの人々は、その眞實の姿に觸れてゐないやうに見える。彼等は、太平記讀を以て、殆んど物乞ひの演藝と同一視してゐるのは、そも/\最初に太平記を街に講じた人々の悲願に對して盲目であるからである。試みに燕石雑志の記す處をあげれば、 「太平記讀は近世より始れり、太平記を讀みての物貰ひ、あはれ昔は、たゝみの上にもくらしたればこそ、つゞりよみもすれ、なまなかかくてもあれよかし。祇園糺のもりの下などにては、むしろしきて座をしめ講釋めかしたるもおかし」 とあつて今なきものの一つとして舉げてゐるのである。又、曲亭馬琴の太平記讀抑兵衛の中には次の如く記されてゐる。 「さてまた之を讀む者に、上手あり下手多し、敵と味方の語韻をわかち、合戰には語勢を疾してよつ引兵を射て發つ。矢つぎ息つぎ肝要なり。この餘の讀則夥しけれども、文義に疎く句讀を亂し、息のつき目を失ふ時は舌戻らずして語呂をあやまち可惜文句を讀殺するをゑへ/\よみとて笑ふなり」 更に元禄曾我物語赤堀水右衛門の絛には、 「やつす模様の旅姿、まづ大津屋弥六は太平記讀になりて」とある。 かうした太平記讀を以て低い演藝人として見た資料のみ殘されてゐるのだから、人は、太平記讀をば、雑技、物乞ひの徒として考へてしまふのは無理もないことではあるけれども、そもそも太平記とは如何なる書であるか、何が故に特に太平記が讀まれたかに思ひをこらせば、そこに又別の見解が自ら成り立つのだ。 太平記が正確なる史書でなく文學の書であるが故に、その價値がより高く評價されると云つた説は別として、その書かれた精神と、その國民の道義心に與へた大いなる影響を思ふ時、これを最初に取り上げて街に講じた人の姿は、物乞ひとは全く別のものとして浮んで來なければならぬ筈である。後法院記によれば、京洛の地に太平記讀が現れたのは室町の時代とある。それは吉野朝ゆかりの人であつたかも知れぬ。或は、ゆかりがないにしても、足利の世を憤り、大義の失はれる世を慨して、將軍あるを知つて天朝の尊さを忘れんとする衆庶の胸に、烈々たる勤皇の思想をかき立て燃え上らせようとした志士であつたかも知れない。 何れにせよ、公然と大義を説く自由を持たぬ勤皇の志士が、幕府の眼をくらまし、白晝堂々と太平記を讀むことに託して衆庶に呼びかけた。それが太平記讀の最初の人であり、太平記讀の眞の姿でなければならないのだ。人がその眼で見なかつたらから、さうした資料が殘らなかつたゞけのことである。 太平記の文章が誦し易いといつた單純な理由からではなかつたのだ。讀む志が他になければ、讀むべき本はいくらでもあつたのだ。平家を讀まず源平盛衰記を讀まず太平記を選んだところに彼等の志を見るのである。悲願を直に胸に感ずるのである。 多くの史料は太平記讀の志には觸れてゐない。又、世人は、さうした志士の亞流が、衣食の爲に太平記讀にならつた、さうした姿のみを多く見て、すべて太平記讀とは大道藝人のそれであるときめてしまつたのだ。しかもさうした大道藝人が無意識に讀んだとしても聞く人の胸には「神のみすゑであらせられる萬世一系の皇室は天竺震旦には類例なし、わが國は神國であり皇室は神の御末である故に國民にして皇命を奉じないものは存命し得ない筈である。朝敵となつて叡慮を惱まし奉り、仁義を亂るものは、身を刑戮の下に苦しめ、屍を獄門の前にさらさずといふこと無し」 と云ふ太平記の中心思想が潮の如く流れ込み、吹き込まれたに相違ないのだ。 さういふ見解の下にはじめて、講談は太平記讀から出たといふ説に同意するのでなければならない。 講談といふものは、單に衣食の資を得ることを目的とした演藝ではないのである。その故にこそ日本獨自の藝術として發展し、完成することが出來たのである。 尚、講談の起源については、 鳥羽天皇の御宇京都一絛に於て辻講釋をした吉岡鬼一法眼憲海を以て始祖となすの説もある。憲海は伊豫吉岡の人、阿倍泰長の門に學んで博學宏辭る左大臣頼長の推舉によつて法眼に任じ、宮廷に史書を講じたが、故あつて放逐され、食に窮して堀川の邊に辻講釋をやつたといふ人物である。これは、明治十五年、警視廳に講談業者から提出した講談由來書に記する所であるが根據のある説ではない。伊東燕尾が、ともかくも、さうしたことにしようといふ程度の考へで急ぎ執筆したものと聞いてゐる。 彼ほどの講釋師が、史實を講じ國民精神を語りつたへるといふ講談の使命を解せず、その始祖を鬼一法眼に求めたのは、恐らく軍書講談の最初の人として思ひつくまゝに誌したものであらう。更に講談の源流を學者の講筵に求めるの説もないではない。吉野朝の玄惠法師、織田時代の翠竹院道三、或は五十川了庵といつた人々が衆庶に講演したことを舉げるのだが、その流れも講談といふものの中に入つて來たことは敢て否定する必要はあるまい。しかしながら、講談が太平記讀から出たとする程の據りどころを求めることは出來ないことは云ふ迄もないのである。 太平記を最初に巷で講じた人々の志とは別に、太平記讀が稼業になることを知つた當時の庶民の中から、職業的に之に従事する輩が生じたことは見易い道理である。それ等の輩は、それを大道藝に最もふさはしいやうに智慧をしぼり、そこに演藝人としての太平記讀が生れ、それが戰國時代から徳川の初期に迄つゞいたのである。 それとは別に戰國浪人の徒によつて軍書講釋がはじめられた。後には太平記讀と軍書講釋の區別はなく一つのものに合してしまつたけれども、軍書講釋は太平記讀とは別に生れたものである。戰國の世に主人を失ひ扶持に離れた浪人が、諸國を遊歴して國主大名を訪ねて己が戰歴を物語り、軍書を説いて戰場の得失を論じ、仕官の途を求めた。己が才能を買はれぬまでも彼等は若干の謝禮を得て生活の資としたのである。その中のある者は志を得ずして遂には街に立つて衆庶の前に軍談を講じ謝儀を求めて糊口をしのぐに到つた。これが所謂辻軍談師のはじまりであつて、彼等も時に太平記を講じ源平盛衰記を談じたであらう。そして、太平記讀も後に至つては太平記だけではなく諸種の軍記をも併せ讀むに至つたから、こゝに發生の動機を異にした二つのものが一つになつて、軍記講釋の徒も等しく太平記讀の名を以て呼ばれることになつたのである。 續々武家閑談の誌すところを見ると「赤松法印といへる者慶長の頃、家康の前に出て度々太平記・源平盛衰記等を進講す、世人之を呼んで太平記讀と謂へり」之を講釋の濫觴とすといふ風に出てゐる。その頃には太平記讀といふものを世人は、そのやうに見てゐたのであらう。それ以前の記録としては、今川義元が熱海に湯治中、小倉三河守の軍談を聽いたといつたこともある。又、後藤又兵衛が、浪人中、大阪の生魂神社の境内で、自分の經驗した戰場の物語をして行人の合力を求めたことを誌したものもある。鎧兜に身をかため大なる鐵扇を手にして講釋を演じたといふのだから、多分の興行的な意識をも以て行つたものと思はれるから、浪人の辻講釋とは云ひ絛、面白おかしく講じたであらうし、辻講釋辻軍談が、太平記讀同様、演藝的傾向を強め、講談に近づいてきたことを推されるのである。 又、二代將軍秀忠が幸若心齋を召して、つれ/\を慰める爲に軍談を講じされた話もあるが、つれ/\を慰めるといふのは、軍談が娯楽的になつてゐたことを證するものであらう。 しかも軍書講釋と云ひ辻軍談といふものが、常に武士道的立場にあつて講述されたことを忘れてはならない、演藝的傾向はそれとしても彼等は、いつでも衆庶の上に立つて物を教へるといふ立場を取つてゐたのである。 大義の祖述を悲願として生れた太平記讀と武士道的指導精神を身につけて發生した軍談講釋が合體し、それを母胎として講談といふ藝術に發展して行つた。講談は必ずしも、正史を傳へることを目的とはしないけれども、わが國の傳統的なもの、神國の魂と云はうか國民精神と云はうか、それを語り傳へるものとして考へる時、はじめて講談の眞を捉へ得るのである。 江戸に公許の講釋場が出來たのは元禄十三年のことである。それまでの間は太平記讀は、諸家に出入りして軍書記録の類を講ずるか辻に立つて太平記を讀むか、或は時としては劇場等で講釋したと思はれる記録がないでもないが、一定の場所をきめた定置の講釋場はなかつた。又、それ迄にどんな人達が現れたかといふことも明らかにされてゐないが、貞享四年に出版された「野良立役舞臺大鏡」によれば、浄瑠璃作者の近松門左衛門が、當時高名なる講釋師栄宅と堺の劇場のあつた夷子島で、徒然草の通俗講義をしたことが記されてゐるのだから、京阪地方に於ても講釋は相當行はれてゐたことが分る。尤も近松が講釋したのは、彼が若くして未だ作者として名を成さない前の話だが、同じ院本作者の竹田出雲も岡丹波と稱して講釋師になつてゐたといふ話と共に興味ある事實である。志を得ない浪人や學識あつて用ゐられない人々が所謂浪人職として、講釋場の出來る以前から講釋を行つてゐたことの證明でもあり得る譯だ。 江戸の講釋場は、名和清左衛門によつて開かれた。浅草見付の「太平記講釋場」がそれであつて、實にこれが江戸に於ける講釋場の濫觴で又、寄席の起源をなすものであつた。講談はこれを境に新しい發足へと向つた。寄席藝術としての講釋はこの太平記講釋場から生れたと云つてもいゝのである。さればこそ現今でも講談師が斯道の祖として名和清左衛門を祀つてゐるのである。 清左衛門は太平記讀の最後の人で、講談師の最初の人であつた。彼の素性は頗る曖昧模糊としてゐて殆んどつかみどころがないのだが、近代世事談その他に記されたところを綜合すると、京都の人で何か訴訟の件で江戸へ出て來た、ところがそれが却々決着せず三四年も滞留してゐるうちに費用に困つて辻講釋を思ひ立ち、浅草見付御門脇の小高い處を選んで、そこで太平記理盡抄を講じたところが非常に歡ばれ、聽く者常に道を塞ぎ往來が出來ぬ有様だつた。人呼んで見付の清左衛門と稱し江戸名物ともなつたから、時の江戸奉行能勢出雲守が之を呼び出して調べてみると、人品卑しからず博學多識、忠臣名和長年の後裔といふ申立ても、さこそと思はれる程の人物だから、講釋することは差支へなけれど往來の妨げにならぬやう、且つは名君良將の事蹟をば路上に説くは憚り多しとて、見付内に土地を與へ、日除け雨覆ひを設けた小屋がけの興行を許した。それで出來たのが「太平記講釋場」であつた。當時江戸には、この他にも、神田筋違橋・浅草仁王門などにも講釋場に類するものはあつたが公許のものではなかつた。 ところが彼と時を同じくして赤松青龍軒といふ者がある。清左衛門が名和長年の後といふのに對して赤松圓心の末流と稱し、又は原昌元とも名乗つて堺町に葭簀張りの講席を設け、これ又太平記を講じたのであるが、この人物は或は名和清左衛門と兄弟であると云ひ或は清左衛門その人の變名であるとも云ふ。清左衛門も亦赤松を名乗つてもゐたのである。 そして青龍軒は播州三木の郷士赤松祐輔といふのが本名だとの説もあるが、さすれば京都の人名和清左衛門と兄弟、又は同一といつた説が何處から生れてきたか。 更に奇怪なのは青龍軒の最期も不明なれば、清左衛門についてもその最後が頗る曖昧で、享保二年八月に沒したといふ説と、晩年、講演中徳川氏を罵倒しそのまゝ姿をくらまし、杳として消息を絶つたとの説が行はれてゐることである。太閤記を好んで讀み、大阪攻めにからんで家康の心事を憎み徳川家の批政を罵倒し、「狸ぢゞい」と叫んで講席から姿をくらましてしまつたといふ。 かうした事實と、最初の太平記讀の悲願とを結びつけて考へると、おぼろげながらある一つの結論に到達するのだ。則ち清左衛門は大義明分(ママ)を解する士であつたといふことである。忠臣名和氏を稱したのは、太平記を講ずる上の宣傳効果を狙つたものではあるまい。彼が眞の忠臣を敬慕するの餘りのことであつて、徳川幕府が政権を私してゐることの大義にもとる所以を明らかにせんとする意圖を以て、太平記その他の軍書を講じたであらうといふことである。徳川幕府に對しては反逆の心を抱いてゐたればこそ彼はその素性を曖昧にした。又、それ故にこそ、當時の人々が東照神君とまであがめ稱してゐる家康を、大義にもとるが故に自己の危險を恐れずに公衆の前で狸ぢぢいと罵倒した。 さう解しても差支へないのである。太平記讀の心は時代をへだてゝ蘇る。太平記を熟讀講釋するものが、その中心思想に觸れ、それを感得するのに何の不思議があらう。たとひ、清左衛門が、最初から大義の士ではなかつたにもせよ、そこ迄彼の志は高められたのだ。 現に、「南部藩勤王思想史」には、明和の頃、江戸から盛岡にやつてきた江戸講談師隨秀軒や、天明の頃からやつてきた仙臺の柏應、江戸の燕三志、深井志道軒、成田如川といつた太平記讀、軍談師が 勤皇思想を鼓吹するに大いにつとめた事實を舉げてゐるのである。高山彦九郎や蒲生君平は何の書よりも太平記によつて大義につくす志をかき立てられたと云つた例を、殊更こゝに持ち出す必要はあるまいと思ふ。 講談が名和清左衛門の太平記講釋場を母胎として發展して行つたのは偶然ではないのである。名和清左衛門とはさういふ人であつた。講談に携る者は、いつでもその事を考へなければならぬ。太平記讀の心、清左衛門の講釋場の精神を失つた時には、講談が如何に藝の極致を極めても浮草の仇花の華麗さに過ぎないのだ。やがては衰滅の一路をたどるのは皇國文化のすべてのものの定められたる運命でなければならない。 太平記講釋場を基として、江戸には多くの講席が出來て行つた。辻講釋から町講釋となり、その據り所を得て講談は次第に栄えて行つた。そして江戸末期には、寄席藝として巧緻の極に達し數多くの名人上手を出すに至るのだが、あらゆる藝術はその時代文化の所産である、講談といへどもその埒外に出ることは出來ない。道を説かんとする講釋場の固くるしさは時代と共に失はれて、講釋場は純然たる娯楽場と變り、講釋師は唯藝にのみ専念する、そして純然たる藝人になるのだが、しかも講談の持つ固有の精神は藝となりきつたその中にも失はれることなく保持され繼承されて、明治の聖代に至つて、さん然たる光輝を放ち、明治文化に大なる寄與をなす事の出來たのは、講談といふものの起源がさうした所にあつたからに他ならない。 「太平記講釋場」によつて町講釋の下地が拵へられ、寶暦の馬場文耕その弟子の森川馬谷、この二人によつて講釋場は漸く議席らしい雰囲気と形式を具へることになるのだが、その中間の人々として舉げなければならぬのは、京都の原永●、大阪の赤松梅龍は別として、享保の神田白龍子がある。 (以下、省略) |