|
本書は、本来ならば「神田伯龍・河竹登志夫・関山和夫 編」とすべきであるが、それでは見出しとして長いので、関山氏を代表として掲げた。これも通例に従えば「神田伯龍等」とすべきであるが、これは襲名される芸名であるし、関山氏が「あとがき」を書いているし、本書中の、関山氏の「講談の歴史」という概説が素晴らしいものであるので、関山氏の名を出した。以下は関山氏の文章の抜き書きである。 僧と講釈師について述べたので、時代が前後するが、赤松法印以後の近世の講釈は軍書講談が力を持ち、次第に芸態を整えて市井街頭へ進出する。その経緯については、すでに関根黙庵『講談落語今昔譚』、佐野孝『講談五百年』、野村無名庵『本朝話人伝』、中村幸彦「伸び行く舌耕文芸」(『日本文学の歴史』七)、延広真治「話芸と寄席の隆盛」(『日本文学の歴史』八)、延広真治「江戸の寄席」(『日本の古典芸能』第九巻「寄席」)、有竹修二『講談・伝統の話芸』などに縷々述べられていて多言を要しないが、本稿の性格上、講談の歴史を一応概観しておかねばならない。 近世の講釈は、座敷講釈・町講釈・辻講釈・野天講釈・夜講釈など様々な名称による分類ができるが、高家へ招かれて古典や軍記物を講釈する、一般の人々に教育的な意味をもって典籍を講ずるという学者の旧型から脱して、広く一般大衆を相手にして、しかも金をとって話す職業講釈師は、元禄年間に至って忽然とあらわれるのではなく、徐々に生じてきたものと思われる。ただ、文献の上では元禄十一年(一六九七)刊行の『諸芸目利咄』に、有名な軍書講釈師として浪花の赤松梅龍、江戸の赤松青龍軒が登場する。すでに『人倫訓蒙図彙』には”太平記読み”の絵まで載っているし、大阪(大坂)・天満、道頓堀には甫水、道久などという辻講釈師があったという。京都にも原栄宅、岡本文助・沢村綾助などの名が残り、今岡丹波・勅使河原源内らの名も伝えられている。江戸の武藤源兵衛や田丸佐右衛門なども講談の歴史に顔を出す人物である。(中村幸彦「伸びゆく舌耕文芸」〈『日本文学の歴史』七〉)元禄の赤松青龍軒、名和青左衛門、享保の神田白龍子、霊全から滋野龍瑞軒、成田寿仙、村上魚淵を経て近世講談史は深井志道軒、馬場文耕などの著名な講釈師を迎えることになった。かつて経典講釈や『源氏物語』『徒然草』『三国志』『漢楚軍談』『甲陽軍鑑』『三河後風土記』などを実講として読んできた講釈も、江戸に志道軒・文耕、上方に吉田一保らが出現して仇討ちやお家騒動ものなど新しい道が開拓されていった。「太閤記」や「伊達評定」も盛んに読まれるようになった。享保年間に石田梅岩が京都で心学講釈をしたことも講談の歴史を考える場合、重要である。文政年間に講釈師から心学者に転向した柴田鳩翁の『鳩翁道話』なども留意すべきであろう。辻説教の霊全や志道軒の狂講、馬場文耕の金森騒動読みは講談史上に名高い。特に馬場文耕が宝暦八年(一七五八)十二月に処刑された事件は著名だが、彼が軍談のほかに世話講釈を創造した努力は大いに評価されねばならない。 増穂残口が神主儒仏従の三教一致思想を説いたことはすでに述べたが、残口の神道講釈には吉田神道の立場があったという。吉田一保や天山の講釈はその系統のものといわれている。(中村幸彦「神道系講談」〈文学・一九七〇・一〇〉)吉田一保は、安永から天明にかけて活躍し、その軍書講釈は古今無双の名人だったと伝えられる。(『浪花見聞雑語』)一保の次にあらわれた天山も名手であった。(『皇都午睡』)吉田神道の系統は、講談の歴史の上ではきわめて重要な存在で、化政期には玉田永教が重鎮であった。玉田派ともいうべきこの流れから、明治時代に玉田玉枝斎・玉秀斎・玉芳斎があらわれ、さらに二世玉秀斎と「立川文庫」の誕生に至る歴史的展開はすこぶる興味深い。 吉田一保は、世に大阪講談中興の祖といわれるが、江戸の森川馬谷も令名が高い。馬場文耕門下の逸材として馬谷は活躍し、特に『大岡仁政録』は有名である。生硬な感じの中間芸能的な旧講釈が、講釈場(釈場)の常設とともにレパートリーを拡大し、宝暦期の馬場文耕や森川馬谷らの出現によって題材が広く市民生活に及んで、巷談が盛んに上演されるようになった。世話講釈の誕生であり、講釈は話芸として目ざましい進展をとげることになった。 (中略) …昭和に入っても隆盛をきわめ、ラジオにも人気番組として登場した講談が、太平洋戦争後、急激に衰退の一途をたどった原因は一体どこにあるのであろうか。 永井啓夫氏は「世話講釈」(国文学〈昭和48・三月臨時増刊号・落語の周辺〉)の一文の中で「江戸系の世話講釈を身につけた演者も、今日では一、二を数えるにすぎない。洗練の極ともいうべき江戸前講釈の技芸は、現代環境に保護保存の方法もなく、いたずらに滅亡の日を待っているのがいつわりのない現状である」と記し、講談は「現代芸能の座から事実上落伍することとなった」と述べる。まことに悲しむべきことだが、事実、今のままでは”講談”の名は残っても芸態は著しく変貌せざるを得ないであろう。現に講釈そのものの技術において話芸としての本来の特色を失っている。小沢昭一氏はレコード『節談説教』(ビクター)の解説書の中で「(前略)私が説教に最も魅かれた部分はやはりフシでありました。節談説教を芸能的視野で見る場合、衰退しつつある浪花節や講談よりも、私には遥かに新鮮な魅力があったのですが、その魅力は(中略)説教が今日の話芸の源流であるがゆえに、原点のもつ素朴な力を保持しているからでありましょう。いまや浪花節が、フシとタンカ(会話)に表現の型式を分けすぎてしまい、また講談が、わずかに修羅場読みの部分だけに抑揚を残して、あとことごとく散文的、写実的表現になってしまった時、節談説教の、うたうが如くはなすが如く、ハナシがフシになりフシがいつのまにかハナシに戻るという妙味は、まさしく舌耕芸ならではのおもしろさ、と目を見はらせます」と述べて、日本の話芸の特色を的確に指摘する。殊に「講談が、わずかに修羅場読みの部分だけに抑揚を残して、あとはことごとく散文的、写実的表現になってしまった」という現代講談の技術に対する批評は傾聴しなければならない。 もともと経典・史書を講じて教育的、指導的役割を果たしてきた講釈が、江戸時代に次第に本質を見失い、江戸末期に至って世話物の風俗描写などに意を注ぎすぎ、近代に入って寄席芸人に徹しすぎ、本来異質の話芸である落語に対して妙な対抗意識をもって不必要なクスグリまで無理に入れ、落語界にまで口を出し、いよいよ講釈本来の姿と自覚を見失ってしまった結果が、ついに今日の危機を招いたといわざるを得ない。しかし、真の伝統とは、それぞれの時代の危機意識を根本とした、そこからの再発見であり、発見のないところに伝統はない。現代の講談は、そもそもの講釈成立期の状態から今日に至った歴史精神への正確な研究と、現代的精神による精密な継承の姿勢をまず備え、その上で新時代に即応した鋭敏な感覚による未来への発展を考えるべきで、無知蒙昧な詭弁や飛躍論はつつしまねばなるまい。現代講談の前途はあまりにも険しく、きびしいが、貴重なこの話芸の本質を、あらゆる角度から日本文化史の中に見きわめて、未来に発展させたいものである。 |