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志道軒の狂講 時代はややさかのぼるが、享保初年のことである。江戸浅草寺の境内を、四十がらみの丸坊主の男がひょろけながら歩いていた。のたれ死に寸前の男の耳に、そのときうつろに聞えてきたのは、談義僧霊全の笑談義であった。霊全は奥山の大銀杏の下に、葭簣張りの小屋を設け、笑わせながら仏法を説いていた僧で、銀杏和尚ともよばれていた。そのとき、この男の頭にひらめいたのは「我カ舌猶存ス」(『志道軒伝』)ということばであった。 こうして生まれたのが、二世市川団十郎とならぶ大江戸の名物男、深井志道軒である。彼深井新蔵は十二歳で僧籍に入り、五代将軍綱吉に「生類憐れみの令」を出させた隆光のもとで、栄山と号して仏道修行に励んでいた。ところが三十歳のとき、師隆光が大和(奈良県)超昇寺に左遷されてから人生の歯車が狂い出した。「大快活ノ人トナラン」と、還俗して仏像・経巻を売り食いし、酒色に浸った結果が、この空腹を招いたのである。 一枚の舌に生涯をかけることを決意した志道軒は、観音堂横の三社権現前に葭簣張りの小屋を造り、机を前に講釈を始めた。軍書講釈をたてまえとし、『源平盛衰記』『太平記』『曾我物語』や『三河後風土記』『難波戦記』などを読み、さらに古典講釈としては『日本書紀』『源氏物語』『徒然草』などをも講じた。 志道軒が名物男になったのは、長さ八、九寸の陰茎形の棒をつねに手にして、興に入るに従いトトントントンと机をたたいて講釈し、聴衆のなかに僧と女人を見ると、これを痛罵してやまず、ときに痛烈な時事風刺をまじえたからである。その講釈は、声色まで使い分けた写実的な仕方講釈であった。彼はまた、講釈のかたわら自作の『元無草』(延享五年刊)や自分の肖像の刷り物に、詩句を自署したものをくじ引きにしたり、淋病の薬などを商ったりもしている。 しかし志道軒は単なる魔羅僧ではなかった。相当の学識をもち、高家に出入りし、新しい法令の出るたびに痛烈な論評を加える社会評論家でもあった。平賀源内もこの志道軒に共感をよせ、志道軒門人悟道軒と称して、『風流志道軒伝』(宝暦十三年)を著わしている。 増穂残口・霊全、そして志道軒のように、おかしみたっぷりのくだけた口調で、時世を風刺する講釈を、まじめな実講に対して狂講という。このころ実講のほうの講釈師には大名・旗本に出入りして『雑話筆記』(享保十五年序)など四十部近い著書をのこした神田白竜子、寛延元年(一七四八)『なぐさみ草』を版行した滋野瑞竜軒、「太閤記」の成田寿仙、「伊達大評定」の村上魚淵らがいた。 (中略) 舌に生き下に死す かの志道軒を「キヤツハ捕ヘラレ磔獄門ニ上ラルベキ者」(『近世江戸著聞集』宝暦七年)と毒づいて、皮肉にも自分が獄門に処せられたのが、やはり僧侶出身の馬場文耕である。 伊予(愛媛県)の浪人中井文右衛門は馬場文耕と名のって彗星のごとくあらわれ、たちまちその光を失った。 宝暦四、五年(一七五四〜五五)のころから、軍書批判講と称して高家に出入りしていたが、宝暦七年(一七五七)の春、采女ケ原(銀座東)に葭簣張りの小屋を設けて軍談を始めた。入口に「大日本治乱記」と看板をあげたところ、その筋から注意されたので「心学表裏咄」と訂正、当時流行の心学を軍談の間に痛罵した。それまでに二十部に余る書を著わし、その講釈も聴衆の歓迎をうけ、浪人から僧侶、講釈師と転じて、ようやく生活の安定を見いだしたかに思われた宝暦八年(一七五八)九月十六日、日本橋榑正町文長宅で夜講中、逮捕されてしまった。そのころ噂の高かった金森騒動を、『珍説森の雫』と題して講じた上に、パンフレットにしてくじ引きにしたり、三百文で売ったというのが、その罪状であった。 金森騒動とは、幕府で審議中の美濃(岐阜県)郡上八幡三万八千八百石金森家のお家騒動である。この事件は九月二十六日に落着し、金森家は改易、当主式部少輔は南部家に預けられて終わったが、文耕は同年十二月二十九日、浅草刑場の露と消えた。ときに四十一歳であった。本来は遠島のはずであったが、吟味中悪政ぶりをののしり、そのため獄門に処せられたという。 文耕の講談史上にのこる業績は、従来の軍談のほかに当時の世相を取り上げた世話物・侠客物を講談のレパートリーに加えたことである。ことにお家騒動のごときを、従来の記録から講談に仕上げるにも、彼の努力が大きかった。世話物は、のちに娯楽としての講談の主流になる。 (以下省略) |