関山和夫『庶民文化と仏教』

(昭和63年8月10日)


第五章 仏教と話芸

1講談と仏教
 そもそも「講釈」とか「講談」とかいう名称は、日本の仏教界では中世のころから「説教(唱導)」の異称として盛んに用いられていたものである。
 講釈・講談とは、本来、経典・史書・軍書などを講義・解釈・説明・敷衍することであり、仏教・儒教・神道の世界で多用されたが、特に仏教の説教において盛行した。
 経典講釈というものは、法門講談として仏教界では重要なものであった。「講釈」「講談」の用語は、中世の仏教関係の文献に頻出する。『花園院天皇宸記』元亨二年(一三二二)十月十日の条に、「問答之次第。衆僧着座の後一僧善導の観経釈を談じ、之を講釈す」とあり、仁空実導著『西山上人縁起』(一三八六刊)には「おほよそ黒谷の門弟其数多しといへども、本疏の講釈に至りては聞者はなはだすくなし」「中陰五旬の間日々の法前の講釈七七の諸尊の讃歎」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』には「アルヒは講談又ハ仏法の讃歎」などとある。ここにいう「講釈」や「講談」は、経典・経釈書の真意を詳しく解釈して講義することをいうのである。かつて浄土真宗―真宗各派では「説教」と「講釈」が区別して行われたものである。これは説教に二系列があることを意味している。一つは、純粋の経典講釈(法語の講釈も含む)であり、今一つは演説(口演)を中心にした説教(唱導)の系列である。話芸としての講談の源流は、主として第一系列の経典講釈の方に求められねばならない。
 『伊呂波字類抄』に「講説・説教・談義」とあるが、ここにいう「講説」は、純粋の経典講釈をさしている。『中右記』には、ほとんど全巻にわたって講師の講釈の記事が見える。わが国上代の仏教界を支配した顕密講釈をもって布教の手段としたので、仏教における講釈の盛行は、中古以前にまでさかのぼって考えねばならない。聖徳太子の講経をはじめ、『法華経』などの講釈が盛んに行われた平安時代の日本の文化の中に、純粋な経典講釈の系列の発展を考えたい。
 経典講釈の方法による説教教化は、平安時代から鎌倉時代にかけて興隆したが、鎌倉仏教が起こり、法然・親鸞の浄土教が登場すると、安居院流・三井寺派の節談説教式の芸風通俗説教の系統のものが盛んになり、旧来の経典講釈系の説経(この場合は「説教」よりも「説経」と書く方がふさわしい)と節談説教(この場合は「説教」の方が似つかわしい)系のものとが並行して進展することになった。前者の系列が講談という話芸の成立に影響し、後者の系列が平曲・説経浄瑠璃・落語・浪花節のような「語る芸」「話す芸」の成立に強い影響を与えたことを追究することは、仏教芸能を研究する上では重要なことだ。
 通俗的な立場に流れる節談説教(節付説教)に較べて経典講釈の方は堅実であり、難解であり、思索的な方向をたどった一面がある。法然・親鸞・日蓮・道元・栄西・一遍らの中世仏教の祖師たちは、一方において通俗説教発展の基盤を作るとともに、一方において「法語」という経典講釈の系列の唱導体を残している。厳しい宗教体験に裏うちされた「法語」は、深い真理を示す高度な説教の役割を果たした。「法語」が成立してのちは、日本仏教各宗において、その克明な講釈が説教の重要な一分野として宗学(各宗派の宗祖や流祖の教えを研究する学問)とともに研究されることになった。したがって話芸としての講釈の源流にも、経典講釈を継承した筋が一本通っていることを認識しなければならない。

太平記読み
 仏教の講釈の型が確立して歴史的展開をとげていく中世に、軍記物語(戦記物語・軍談)があらわれたことは、講釈の歴史にエポックが画されたといえる。経典講釈の読み口は、説教独特の型をつくって継承されたものと思われるが、そこへ軍記物語が加わり、読み物としての工夫が一段と加えられた。『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などは、いずれも黙読ではなく、声をあげて読んで聴かせることによって一層の効果を発揮するものであり、殊に『平家物語』や『源平盛衰記』は、諸行無常と浄土教信仰を説く末法思想下の説教にはふさわしいものであった。『平家物語』は「平曲」(平家琵琶)という音楽説教ともいうべき語り物≠ニなり、『太平記』は講釈という話芸となって、『太平記読み』は近世の芸能に大きな影響を与えた。
 『平家物語』『源平盛衰記』や『太平記』が琵琶法師や物語僧によって中世のころに、すでに講演(口演)されたことが察知される。説教と軍記物語との深い関係は、安居院の唱導と『平家物語』の密接なかかわりをみても容易に考えることができる。近世講談の源として軍談読み≠ェ登場したのは、けっして忽然として新しいこころみとして生まれたものではなく、旧来の説教(講釈)が次第に変形したものと見るべきであろう。
 説教の世界で伝承されてきた講釈の方法が変形していく例は、戦国時代の御伽衆や御咄の衆の中にも見える。「同朋」とか「物読み」とか呼ばれた人たちの中には僧形のものが多かった。宗教家ではないのに僧形の人が多かったのは、話し上手の姿として僧形がふさわしかったのであろう。話し上手のモデルは説教師だったからである。太田牛一著『大かうさまくんきのうち』(『太閤様軍記のうち』)に見える「十二番御はなししゆ」の中にあらわれる由己法眼は、八百人にものぼった豊臣秀吉の御伽衆の中でも特にすぐれた学僧であったが、講釈を通じて実社会を啓蒙する生き方をした。
 話芸としての講談が、赤松法印という僧から始まったとする説は、講談の世界では常識のように伝承された。『続々武家閑談』に「赤松法印といへる者、慶長の頃家康の前に出て度度太平記、源平盛衰記等を進講す、世人之を呼んで太平記読みと謂へり」とあることなどから、関根黙庵著『講談落語今昔譚』以下近代の諸書は、赤松法印を講談(講釈)の祖とする。
 赤松法印という僧が講談(講釈)の元祖というような形であらわれるのは、経典講釈・法門講談から話芸としての講談へ、説教から話芸へという系譜を考える場合には重要なことである。ただし赤松法印という人物の実像を文献的に証明することは至難である。赤松家系図の一つである『寛政系譜』に「則村―範資―光範―満弘―教弘―元久―政資―義充―義氏―氏貞(石野を称す)―氏満(前田家御伽衆)―氏置(家康御伽衆二千百五十石)―氏照―氏任―範恭(赤松に復す、三千十石)―範主―恭富―範善―範亀」とある中の石野氏置が、徳川家康の御伽衆をつとめて軍談を講じ、『太平記』を読み、僧形となって赤松法印と称したのではないかと私は考えているが、これは単なる憶測にすぎない。この石野氏置は「赤松」を名のる資格は確かにもっていたはずである。
以下省略


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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp