伊藤痴遊『それからそれ』

大正14年初版。今は『日本の芸談』第8巻「寄席芸」(昭和54年3月21日)による。


講談と落語

日本話術の誇り
 もしわが国に、話術というものがあるとすれば、講談と落語は、話術の粋なるものであろう。歴史を基礎とし、人物の性格を、髣髴せしむる点において、講談にまさるものはない。人情の微をうがち、世俗の裏を語る点において、落語と情話におよぶものはない。この二つは、たしかにわが国の話術として、推賞するにたる。
 ことに講談が、軍物語や御家騒動、さては侠客の達引について、よくわが国民性の一端を、明確に説き去り、これによって文字なき人を教導し、意地と我慢を処世の要訣として、特種の国家観念を養いきたった一事は、社会的教育の上乗なるものとして、深くその功績を認むべきである。落語は、これに反して、まったく滑稽洒脱を主とし、その語るところに、得もいわれぬ人間学の妙諦を暗示し、魂の宿替えを努める、男女老幼を通じて、世態を知り、情理を解すべく、一種の哲学的世相批判ともいうべきものである。
 落語のうちから、べつに人情噺なるものが生まれて、新たに境地を拓き、講談を離れて、話術の深奥を語る、これもまた捨て難きものの一つである。
 江戸時代から興って、江戸趣味を発揮する芸術としては、そのほかに、芝居もあれば浄瑠璃もあるが、話すものとしての芸術は、講談と落語のほかにはない。
 いやしくも芸術として、世の推賞を受けるほどのもので、むずかしくないものはなかろうが、ことに扇一本のほか、なんの背景も装飾もなく、ただ舌の動きひとつで、すべての世態人情を、いい現わすのであるから、そのむずかしいことは、いまさらいうまでもなかろう。
 ただし、昨今のように、演芸者の気風が頽廃して、すこしの芸術味もなく、ただ豆蔵のように、べらべらやってのけるだけのものでは、芸術としての権威もなければ、なんの推賞すべきねうちもない。そんなものを講談とか落語とかいうて、紹介するのもばからしいようではあるが、いかに落ちぶれても、武士は武士、話術の一つとして、残っているかぎり、一とおりはいうてみたい気もする。
 いまの演芸者は、芸術の真味を解するものなく、その日その日のパン代かせぎに没頭して、さらに研究するとかいうこともなく、もっぱら大向う受けの汚い話に、憂身をやつしている。そんな連中に、なにをいうても甲斐はあるまいが、それでも人間の形をしている以上、いうだけのことはいうてみて、万一にもいくぶんの反省をしてくれるようなことがあったら、また斯道のためにもなるであろう、と思って、これからひと奮発して、おおいに書いてみよう。
 それから聞く人たちのためにも、いくぶんか参考になるようなことをいうてみたい。演芸者の堕落しているのはもちろんであるが、聞く人の頭もすさんでいるから、これもついでに、一本御見舞申す必要がある。
軍談から人情話へ
 講談の元祖は、どういうひとである、というようなことは、あえて詮索の必要はない。したがって歴史的にその沿革をいうにもおよぶまい、と思うが、講談とはどんなものか、ということは、研究的にいうてみる必要はあろう。
 講談の種類 それをどういうふうに区別するか。これは研究上、もっともたいせつなことであるから、詳しくいうてみたい。
 その種類を概括して、大きく区別をすると、軍談をまず認めなければならぬ。その次には講談という順になる。
 まず軍談が生まれて、それから講談に変わってきた。講談に変わっても、軍談はまだ残っていた。初めは軍談を主として、元亀天正の戦い、強い人の闘い振りや、軍師が策戦の妙を伝え、『太平記』や『源平盛衰記』または『平家物語』なぞを、もっぱら演じているうちに、諸家の騒動へ立ち入るようになり、したがって、御家騒動につきものの女、それにからんでゆく男との情話を、演ずる頃から、軍談ばかりではきく人が承知しなくなって、ここに講談なるものが、さかんになってきた。
 けれども、元来が、武士の内職として、多少は文字のあるうえに、器用な質の人が、軍物語を主としてはじめたものであるから、諸家の記録を読むようになっても、やはり一席は、軍談をやらぬ、と、聞く人が治まらぬから、かならず修羅場の一席は加えたものだ。
 しかしながら、軍談を主とするものと、講談を主とするものとあって、それぞれの得意に、力の入れようは違っても、軍談は、みなやったもので、これがやれなければ、講談師たるの資格はなかった。それであるから修行の初めは、まず軍談から、ということになっていた。
 講談をするには、第一に音声を整える必要がある。その音声を整える上において、軍談を学ぶことになるのは、修業の順序として、実はやむをえぬことであった。
 諸家の騒動から、裁判物がはやりだしてきて、それがさらに進んで、人情を主とするものが、行なわれてきた。
 その頃から、講談は、まったく芸術化してきた。聞く人も、ただすらすらと読みたてるのでは満足をしなくなって、話し振りの技巧を愛するようになって、演ずる方でも、ようやく力をその点に注ぐようになった。軍談のおいおいに衰えてきたのは、それのうまい人がなくなったばかりでなく、聞く人の嗜好が、単調の軍談を喜ばなくなったことも、その原因とみるべきである。
 けれども、軍談は、上手の人にやられると、また講談のおよばぬ点があって、まことによいものではあるが、時世の変転は、いつかこれを退けてしまって、いまではいかに、うまい人がでてきても、それを聞いてやる余裕すら、聞く人にないのである。
 その証拠には、今の講談は、浪花節にさえ圧倒されて、気息は絶えなんとしているではないか。
贅六弁では切れぬ啖呵
 現今の講談師としては、錦城斎典山がある。そのほかに神田伯山と一龍斎貞山もあるが、典山にくらべると、ずっと劣っている。小金井芦洲はいたが、右の三人に対照して、すこぶるまずい。それからさらに下って、坂本富岳があり、神田伯竜があり、また大島伯鶴と桃川如燕がおる。この他の輩は数うるに足らぬ。
 大阪には、旭堂南陵が、一人ふみとどまって、その頽勢を引き戻そうとしているが、一人ではどうにもなるまい。東京は、滅亡に一歩ずつふみ込んでゆき、大阪は、すでに滅亡したものと見て差支えあるまい。
 講談は、どうしても東京に限る。その口調が、東京弁でないと、講談らしく聞えぬ。ことに、講談の生命とするタンカの切れが、東京弁でないといかん。そこで、講談の修業は、東京に限られてあった。
 いまの南陵が、大阪生まれの人に不似合いな、講談調を使うのは、長く東京へでて、修業した結果である。それでももって生まれた大阪訛が、時にでてくることがあって、たいせつなタンカのこわされることがある。
 それを矯め直すには、修羅場すなわち軍談をやるに限る。
「やあやあ、遠からんものは音にも聞け、近くばよって眼にもみよ、われこそは遠江国引佐郡井伊谷の住人……」と、いった調子で、文章をそのままに、張扇をたたきながら、まくしたてるのだ。これを三、四年も繰り返し繰り返しやっているうちに、少しずつ口調が改まってゆく。
 たいがいなところで、お家騒動かなにか演り出すと、やはり国の訛が出て来るから、つとめて修羅場の口調でやっているうちに、まったく改まって、東京弁に馴れて、一とおりはやれるようにはなるが、生世話物になると、どうしてもむずかしい。
 そのほかに、仇討物と武勇伝がある。これは生世話物と違って、なにしろ勇ましい物語、武術に強い人や、力のあるものが出て、荒れ回すのであるから、聞いていて、なんとなく溜飲が下がる。
 武勇と仇討と一つになれば、さらに聞いていて、興趣が湧く。少しぐらいの国訛は、聞き逃がしてくれるから、ほかの講談よりも、ずっと楽にやれる。
 仇討物のうちでも、赤穂の『義士伝』や『曽我物語』は、ふつうの修業ではやれぬ。もっともむずかしいものとして、扱われていた。
 それがおいおい崩れてきて、昨今では、前座が平気でやるようになった。『義士伝』にくらべると、『曽我物語』は一段とむずかしい。その口調が、すべて文章をなしていて、しんみり聞かせるものとしてあった。
 『義士伝』は、他の仇討と異なり、五十名近い浪人が、高家の吉良邸へ討ち入り、しかもその行装からいえば、小さい戦さともみるべきものであったから、大切に取り扱われたのは、当然である。
義士が偽士になる
(省略) 
品格、音声、態度の三要素
(前略)
 私の知るところでは、故人になった南玉の『曽我物語』、それ以上のものは聞かぬ。南玉は幕末の名医、伊藤玄朴のひいきをうけて、朝夕出入りしていた関係から、多少の読書力もあり、漢詩なぞはうまいものであった。ことに、その五言詩は、堂に入ったもので、詩人の片端へ出るくらいの力があった。
 音声は朗々として、体格のよい、どことなく大家のふうがあり、そのもっとも得意としたものは、『曽我物語』と『日蓮記』であった。
 文字のあるところから、創作の力にも富んでいて、梁川庄八と相馬大作は、実にこの人の力で、講談物となったのである。
 明治十七、八年の頃、南玉は、大阪へ乗り込んで、各席に出演したが、品格のある、読口の堅い芸風が、大阪人にいれられずして、興行はまったく失敗に終わったが、その代わりに、たいした獲物を持って、東京へ帰って来た。
 久し振りで帰った南玉は、上野広小路の本牧亭へ、看板を上げた。大阪土産として高座にかけたのが、『檜山事件』であった。
 南部藩の相馬大作が、隣藩の津軽侯へ、仇をするという筋で、これが非常な人気になって、三か月の夜講は、大入りつわつづけた。
 南部藩の領地に、大きい檜山があった。時に幕府から、なんかの大普請について、その檜を差し出せとの命が下った。藩の家老に人がなかったものか、領内には檜山なしとの答申をした。
 それにつけこんで、津軽藩は、その檜山を自分の領地へくり込んで、棒杭をうってしまった。南部藩から、その不当を論じて、国境の再調査を申し込むと、津軽藩では、南部藩が幕府へ答申したところの、檜山なしの一事を捉えて逆ねじを食わせた。
 ここにおいて、南部藩はいかんともすることができない。しいて争えば、幕府へ対する虚偽の答申で厳重な処分をうけねばならぬ。それにつけ込んで、津軽藩は、檜山を横領した。南部藩は、ついに泣き寝入りのほかなかった。
 それに憤慨して、相馬大作が、津軽藩へ仇をする、という筋を、巧みに脚色して、大作の義烈と武勇を、遺憾なく発揚したもので、これが講釈好きの江戸人気に投じ、すばらしい大入りをつづけた。
 それがもとになって、筆達者な著作家が、史伝風の小説として出版した。それがために、津軽藩の旧臣が騒ぎ出し、問題は面倒になってきた。
南玉の非凡な口舌
 講談として、伝えられた事実からすると、津軽藩のやり口はよろしくない。他藩の弱点につけ入って、その領分たる、檜山を横奪したのであるから、もとより不正不義のそしりを免れぬ。したがって、相馬大作の活躍は、すこぶる人の同情を引き、忠義の烈士として、谷中の天王寺境内にある、同人の碑に、香華を手向ける、未知の参詣人が、いちじるしくふえてきた。
 津軽家においては、この伝説をもって、まったく虚偽の事なりとして、講談や小説の取締りを、警視庁へ申し入れた。
その結果、日本橋区の法木書店から売り出された『檜山事件』なる書物は、発売頒布を禁止された。それを基礎として、脚色された芝居も、同時に差し止められた。
 この一事から、柴田南玉の名は、ようやく高くなって、いたるところ、大入りを取った。ただし『檜山事件』は、表看板だけ撤回して、高座の上では、あいかわらず大作の忠烈を賞揚して、いままでのとおりやっていたのだからすこぶるおもしろい。
 その後、この事件の真相は、それぞれ調査するものもあって、今では伝説の誤れることが、だいぶわかってきた。けれども、大作の忠烈のみは今に伝えられて、どうしても打ち消すことができない。
 『檜山事件』で、大当てに当てた南玉は、その次に、『梁川庄八』を演り出した。それがまたただならぬ、人気を博して、いっそうに講釈好きの江戸っ子を、熱狂せしめた。
 仙台の伊達家の臣、梁川庄八という、すてきに強い人が諸国を遍歴して、強きをくじき弱きをたすけ、いたるところの曲がった政治を、叩き直して歩くという、胸のすくほど痛快な、豪傑物語であるが、それからそれへと、枝葉を生えて、いつまでもつづけることのできる、徳用な読物であった。
 南玉は、前にもいうとおり、この仲間の人としては、不相応に文字もあり、見聞もなかなか広かったから、こういう読物を引き延ばさせたら、非凡の力をもっていた。
 近年になって、講釈師や浪花節語りが、『梁川庄八』をさかんにやり出して、活動写真にまで上るようになった。新聞の続き物としても、人気のある方であるが、それは南玉の努力になったものであることを、知るものはおそらくあるまい、と思う。
 『檜山事件』にしても、同じことで、南玉の読物になってから、社会の問題となり、いまでも相当に有力な人までが相馬大作の研究をはじめ出した。
 昔の講釈師には、このくらいの実力をもっているものがすくなからずあった。
 それで聞く人も、先生とあがめて、他の芸人とは、同一に扱わなかった。
 この二つの材料は南玉が、大阪帰りの土産であったのだから、その出所は、やはり大阪の同業者からであったに違いない。それにしても、南玉の実力は偉いものであった。
細川風谷の読物
 講談師にせよ、また落語家にせよ、昔の芸人には、みな創作の力があった。師弟相伝の材料をそのままに受けつぐだけのことでは、芸人としての真価はない。
 いまの芸人の多くは、剽窃を創作のごとくよそおって、すましている。なおはなはだしきにいたっては、それを被うがために、話中の人名や地名を、ことさらに変えて、演っているものもある。
 こういうことは、不道徳の所為である、ということさえ、気づかずにおる奴もある。多少の文字ある芸人にも、この種の破廉恥漢がある。深くみずから省みて、はやく改めるがよい。
 他人の創作をやる時は、まずその人の承知を求むるのが人間の作法であり、かつ礼儀である。多少の改竄を加うる時、なおさらそうすべきである。
 いまは故人になったから、あまりいいたくないが、細川風谷という人が、その演ずる多くの材料は、昔の大家、伊藤燕尾の読物であった。百花園と称する講談雑誌にのせたものや、講釈場へ行って聞いたのを、そのままに自分のものとしたのである。
 大河内越山や、小金井芦洲は、どうかすると、私の読物を無断で、やっておる。私は、それを拒むものではないが、私に承諾を求めずに、やるのは不徳義である。
 単に高座にかけるばかりでなく、新聞や雑誌の上に、それをのせて、料金を取っておるのだから、乱暴千万である。
 人はパンを得んがために働くものではあるが、その働きは公明なるを要す。その間に、すこしでも不純のことがあっては、それから得たパンは、汚れたるパンであって、それによって生きている人は、汚れたる生活をしている、ということになる。
 彼らは、高座で生意気なことをいう。黙ってこっそりやるのなら、見逃しもしようが、人並のことをぬかすと、一本まいりたくなるのだ。
 浪花節語りの礼儀を知らざるは、いまさらいうまでもないが、さかんに私のものを、知らん顔してやっている。
 ただ彼らのうちで、よく礼儀を守って、私に承諾を求めたのは、大家としては若丸一人である。楽燕は、まだなんともいってこないが、それとなく高座で、私に敬意を払ってから読みかける、というから、それはかわいいところがある。
 それから、こういうひどい奴がある。地方へ行くと、伊藤小痴遊というのがあって、さかんに私のものをやってあるく。
 小痴遊はおかしい、痴遊といわずして、小の字を入れたところが、なんともいえぬおかし味を加えている。しかしどんな男か、私とはまったく無関係である。
 先年、秋田の新聞に「伊藤痴遊改め何某」という広告が出ていた。痴遊改めは、ずいぶん振るっている。それは土地に私を知る人があって、ひどく談判されて、ついに夜逃げをした、ということである。
 そのほかにも、松浦冠山とか、河本光月とか、いろいろの奴はあるが、すべて私にはなんの関係なく、まだしらずのものばかりである。
筆の講談が流行りだした
 創作の力はあっても、講談のまずい人があり、講談はうまくても、創作の力に、乏しい人がある。
 しかし、創作の力をもつくらいの人は、聞くに堪えぬほどのまずいものではない。どこかにまねることのできぬ、良いところはある。
 概していうと、創作の力ある講談師や落語家は、まずうまいという程度には達している。上手か名人か、その分界はあろうが、下手なりとしてけなすほどのものはない。
 近ごろになって、口の講談でなく、筆の講談というのがだいぶはやり出してきた。古い講談を聞いて、新らしい頭でこなして、それを筆にいわせるのであるが、読むものとしてはよいが、語るものとしては感心できない。
 鋳掛松のことを叙し、その心を解剖して、社会主義の講釈を加えるのは、読むものとしては、たしかにおもしろい。けれども聞くものとして語らせたら、はたしてどうであろうか。
 鼠小僧の大名荒しを、そのままに共産主義を説く。新工夫といえばいえるが、講談の価値としては、疑いがある。
 まず一時の流行として、長いうちには廃るものと思う。
 それよりは、いっそ新らしい材料で、新らしいものをつくったらどうだろうか。堂々たる文士ともあろうものが、講釈師の材料を失敬して、それを原稿料に代えていたのでは、文士の面目にも関するだろう。
 講談というものは、時代を背景とする。それが講談の真価であって、その味わいも、またそこにある。
 天保年間の出来事に、いまの新理想なぞを、結び付けたって、おもしろくもなんともない。単に諷刺的のものとして取り扱うにしても、あまり感心はできない。かえって議論ばかりを聞いた方が、人の感じは鋭かろう。
 事柄と時代と人と、その釣合いがあって、はじめて語るものにも興が生じ、聞くものにも味わいがおこる。
 私も、いままでに、いろいろ工夫もすれば、苦心もしてみたが、どうもうまくゆかぬので、まだ自分ながら満足ができず、ごく新らしいものには、手をつけずにいる。
 それは別として、古い人が苦心の末に、一家をなしたことなぞ、いろいろ参考になるべき物語は多くある。
 高座の上の修練と、創作の上の苦心と、それが一つになって、ここにはじめて、名人が現われてくるのだ。
 昨今のように、名人が多くなっては、どれがほんとうの名人か、少しもわからないが、真の名人は、そんなにたくさんあるものではない。
 よし、名人とまではゆかずとも、相当のところまでゆく人があれば、まず結構とすべきである。それさえ、いまはないようになった。
 そうなると、みな名人として取り扱い、せめては数の上で、満足するのもよかろう、かと思うが、なにしろ心細いことだ。
生涯をただの泥棒
 松林伯円は、一名を泥棒伯円といわれた。多く泥棒の講談をやったので、このあだ名をつけられた。
 昔の人のよくいう義賊、泥棒に義賊の名をつけるのも、ちと変だが、大名や富豪に忍び込んで、その稼いだもののうちから、貧乏人へ恵んだ、というので、これを義賊と称し、その生涯をおもしろく、話して聞かせる。話しようによっては、聞いていて、なかなか痛快なものだ。
 それに誘われて、心の至らぬものが、いつか泥棒になるが、話しで聞いたのとは違って、思ったようにはゆかず、盗んだものを貧民へ恵むほどには、えらい稼ぎもできぬ。そのうちに捕まって入牢。それがもとになって、泥棒をするだけは本物でも、人に分ける方は、いっこうに進まない。義賊の真似も容易なものでない、と気のついた時は、もうあと戻りのできぬほど、深入りをしていて、とうとう生涯を、ただの泥棒で送ってしまう。
 伯円の講談を聞いて、そんなふうになってものが、ひじょうに多かったので、いつか泥棒伯円の名が高くなった。
 そのもっとも得意にしたのが、鼠小僧の話であった。蜆売を助けるところなぞは、人の袂を濡らさせたものだ。
 大名屋敷に、忍び込んで、うまく仕事をする調子は、まるでそのさまが現われてくる。泥棒心のないものでも、あんな具合にやれたら、おもしろかろうと思うくらいであった。
 明治になってからのことで、警視庁へ、大きい泥棒があげられた。だんだん取調べが進んで、その盗心を起こした、動機を尋ねられた時、伯円の講談を聞いて、その気になった、と答えたのでる取締り上うち捨てがたきこととして、すぐに伯円を召喚した。
 その頃の警視庁は、いまだ昔のふうがあって、人民に対する取扱いなぞも、きわめて圧制であった。ことに、こういうことを取り締まるのは、第二局の役目になっていた。これはいまの保安課のことである。
「その方は、松林伯円と申すか」
「へい」
「その方のことを、泥棒伯円と申すそうじゃが、それはどういうわけか」
「どういうわけか存じませぬが、人さまはそうおっしゃるそうです」
「自分のことが解らぬか」
「私は、泥棒などいたしたことはございませぬが、人さまはそうおっしゃるのですから、私も不思議で、そのわけは解りませぬ」
「解らぬわけはあるまい、心になにか思い当たることがあろう」
「へい」
「へいではない、どうじゃ」
 なんだかわからないが、むやみに叱りつけるので、伯円もぶるぶるふるえ出して、かかりの警部の顔ばかり見ている。
伯円の創作の力
「その方は、義賊伝とかいうて、泥棒のことばかり講釈している、というではないか」
「べつに、泥棒のことばかりやっておりませぬ、『赤穂義士伝』や『曽我物語』もやっております」
「泥棒の話はどうじゃ」
「へい、すこしばかりやります」
「泥棒のしかたを教える、というではないか」
「と、と、とんでもないことで、そんなはずはございませぬ」
「しかし、その方の講釈を聞いてから、泥棒を始めた、というものがある、それでも、そのほうはそういうことはない、と申すか」
「へい、なんとおっしゃっても、そういう覚えはございませぬが、その泥棒は、なんと申しておりますか」
「その方の講釈を聞いたら、いかにも泥棒のおもしろいことを感じて、ついにはじめたと申しておるが、どうじゃ」
「それはたいへんな心得違いで、私の講釈の最後まで聞かないから、そういう間違ったことをするようになるのでござります。悪いことをしたものは、つまりこういうことになる、というところを聞けば、なるほど悪いことはするものでない、という考えになるのであります」
 これから伯円は、講談の組立てから、その呼吸を説明した。
 泥棒するところを聞いていると、いかにもそれが善いことのように思われるが、最後の処刑の一段になると、そこに伯円は、一流の解釈を加えて、悪いことはけっしてするものでない、ということを、巧みに語る。たとえば善い目的のための手段としても、そういうことをしてはならぬ、と述べて、講談の結びはつけてある。
 高座で語るとおりの、口調をもって、すっかり説明したから、警部も感心して聞いていた。
「なるほど、その方の申すところを聞けば、泥棒をすすめているとは思えぬが、しかし、その方らの講談を、始めから終りまで、聞かなければならぬという規則もないのであるから、たとえ一日聞いても、そのうちに勧善懲悪の趣旨が、現われておらねば、やはり心の至らぬものは、間違った考えを、抱くことになるから、今後はおおいに注意しなければいかん、よいか、解ったか」
「よく相い解りました」
「今日は、これで帰ってよろしい」
「へい」
 伯円は、ほうほうの体で帰って来た。翌日は、おも立ちたる講談師を呼んで、同様の注意を与えた。
 この事があってから、伯円の評判は、なかなかに高くなって、その人気は湧くがごとく、いやしくも伯円の出演する寄席は、どこでも大入りの札を掲げるようになり、泥棒伯円の名は、ますます高くなるばかりであった。
 この伯円には創作の力があって、それはほとんど天才ともいうべきものであった。
新聞講談に着目す
 伯円はつくづく考えて
「たとえ自分が、どれほど名人であっても、泥棒伯円なぞといわれるのは、人間としての恥辱である。これはひと奮発して、なんとか転換の道を考えなければならぬ、それに新らしいものに手をつけて、読み口も変えなければ、この汚名をそそぐことはできぬ」と決心した。
 これから努力して、新たに開拓したのが、新聞講談なるものであった。
 まず、高座に机を控えて、張扇でばたばた叩くことをやめ、テーブルの前に袴をつけて、立ち読みをはじめた。
 その口調のごときも、いままで使っていた「ええお客様……」と、いったようなことはいわず「さて諸君……」とやらかしたので、江戸時代から引きつづいての定連、すなわち講釈通をもって誇る人たちが、眼を丸くして驚いた。
 いまの報知新聞は、昔は郵便報知新聞と称して、文芸上の記事が、一番に多く掲載された。
 講談のたねになるような、歴史の裏面を書いたり、偉い人物の逸話なぞを、付録にして出したこともある。
 矢野文雄の『経国美談』や、藤田茂吉の『文明東漸史』は、単行本として出版されたのであるが、こういったものを著す人が、主幹や編集長をしているから、その頃の新聞としては、もっとも文藻に富んだ、記事が多くでる新聞であった。
 伯円は、これに眼をつけて、まずその記事のうちから、講談になりそうなものを取って、試みに演ってみたら、それが大当りで、すこぶる喝采を博した。
 古い講談に、ようやく厭いてきたものと、新らしい嗜好から、斬新な講談を聞きたい、と思っていたものが、伯円の大胆な試みに共鳴して、おおいに歓迎したので、伯円もすこぶる乗気になった。
 報知社の人々は、ことにこれを奨励して、ほとんど伯円の後援者となり、材料の供給から用語の訂正まで立ち入って、その世話をするようになったので、紳士や学者の間に伯円のひいきが、だんだん多くなってきた。
 ぜんたい、講談なるものを愛好する人は、職人肌の江戸っ子に多く、やや上等の分に、商家の隠居があり、紳士や学者には、あまり尊重されていなかった。
 それであるから、講釈場の客席は、雑然としてなんの区別もなく、まったくの平民的で、その取扱いに、上下の階級をおかず、いっさい平等であった。それがまた講釈場の生命であり、真の価値でもあった。
 わずかに区別のあったのは、定連場なるものばかりで、これは年が年中、講釈場で暮らしている人のために設けられたもので、客席の一隅に、帳場格子のようなものを置いて、ふつうの客との区画とし、座布団から茶道具まで、特別にしてある。この仲間には、相当に通うてからでなければ、入ることはできなかった。
伯円木枕連を退治す
 定連は、月になにほどかのかけ銭をして、回り持ちの世話役か、またはそのうちでの勢力家が、預かっておく。
夜講は、一か月ごとに、出演者の顔が変わり、昼席は、三か月ごとに一変する、旧幕時代は、昼席が半年変りであった、という。その替り目に、仲番の男や女へ付け届けをしたり、席主へ祝儀を出す。真打の先生を、付近の料理店へ呼んで、御馳走をする、これだけのことは、定連のなすべきことのようになっていた。
 定連が普通の客よりは、特別に扱われた報いが、これとみればよい。その上に、見逃すことのできぬのは、この定連の間に、講演振りに対する、批評のあることだ。
 長い間、定連場に頑張っていて、あらゆる講談を聞き、どんな前座の語りぶりでも、知っているのだから、講談の筋についての批評もすれば、講談の呼吸も、よく心得ている。定連の見込んだ前座は、かならず大成するにきまっていた。堂々たる真打でも、定連ににらまれたらだめになる。なにしろ定連の勢力は、たいそうなものであった。
 相撲の見巧者と一対で、定連は講釈場の権威であった。その代わり下手な真打や、気の小さい前座には、蛇蝎のごとく嫌われた。
 どこの講釈場にも、木枕が備えてあって、来客の求めに応じて貸す。聞きたくないと思えば、それに頭をつけて眠る。これは定連ばかりでなく、一般の来客にも同じく貸すのであるが、これは悪い習慣で、あまり感心はできなかった。昨今になってようやく木枕は、撤廃されたとのことである。
 伯円は、これをひどく気にして、よく高座から、当てこすりをいうては、定連の怒りにふれたことがある。
 けれども、さらに屈せず、客の不行儀に嘲罵を加えていた。これだけは、他の先生のなし得ぬことで、ひとり伯円の見識として、多くの人のうちには、これがために、伯円を好きになったものもある。
 定連の特権として、読物の注文をする。それには先生も従順であって、その注文どおりのものをやる。
 これにも伯円は、すこぶる不平であった。ややもすると定連の注文をしりぞけることがあるので、定連にははなはだ喜ばれなかった。
 その伯円が、従来の講釈通のほかに、新らしい縄張りをつくり得たのであるから、その喜びは一ととおりてなかった。
 したがって、自分の読物については、ひじょうに研究したもので、他の先生の及ばぬところは、この一事であった。
 定連の干渉から免れ、いやな木枕を見ずにすむので、これだけでさえ喜ばしい、と思っているのに、報知社の人々から後援されて、紳士や学者の間に、顧客を得たのであるから、伯円の鼻は、だんだん高くなって、ついには仲間のものとの折合いも悪くなった。
奇警諷刺の夢物語
 藤田茂吉の『文明東漸史』を読んで、伯円は新たに『高野長英夢物語』を語りはじめた。
 長英は、奥州水沢の生まれ、はやく長崎へ行って、オランダ人について、医学を修めた。豪邁な気質の長英は、病人の手を握って、一生を送ることを嫌った。
 蘭書によって、世界の事情も、よくわかったので、ぐずぐずしていると、わが帝国は、世界の脅威を受けて、抜き差しのできぬ立場になる、とみて、はやく国民を警醒する必要を感じ、そこで、『夢物語』なる書物を出版した。
 仮想物語に托して、世界の大勢も説けば、日本の立場も論じ、やがて世界各国の脅威をうけて、開国の余儀なきにいたることを、暗に諷刺したものが、それであった。
 当時、要路の役人の頑冥なりしことは、想像以上のもので、仙台の林子平が、
「江戸の日本橋の下を流れておる水は、倫敦のテームス河に通うている」
と喝破して、時人の眠りを醒まそう、としたが、幕府の役人は、怪談妄説をもって、世間を騒がすものとして、子平に、終身禁錮を命じた。
 その著書は、すべて焚き捨てられたのみならず、版木までこわして、再版されぬようにしてしまった。子平も、また長英と同じように、近く外国から使節が来て、開国を迫ることを予言した。長英のは、さらにそれを詳説したのであるから、幕吏は怒って、長英を、獄に投じた。
 伝馬町の牢にはいった長英は、生涯をここに送るべく覚悟した。しかるに、ある夜の火事に、思いがけなくも釈放されて、出牢することを得た。
 そのころのおきてとして、火の牢獄に及ぶ時は、いかなる重罪犯といえど、一時の釈放をすることになっていた。
 釈放されたものは、二十四時間のうちに、立ちかえるべき申し渡しをうけている。もし、その命にそむく時は、罪一等を加えられることになっていた。
 長英は、釈放されてから考えてみると、ふたたび立ち帰る心になれなかった。沢三伯と名を変えてしばらく地方にしのび、劇薬をもって顔を傷つけ、前歯を折って、その相好を崩し、まったく別人のごとくなって、ふたたび江戸へ入り込み、四谷に住居を構えて、医を業としていた。
 長英の人相書は、全国へ配布されてあったが、眼と鼻の間なる、四谷に、その本人が来ていようとは、さすがの幕吏も思わなかった。
 大胆な長英は、この境遇にあって、蘭書の翻訳をして、識者に知られた。
 伊予宇和島の伊達宗城は、当時の諸侯中、賢君として知られた人である。生まれは旗本であるが、その材幹を認められて、宇和島藩主の養嗣子となったほど、その人物は立ちまさっていた。
 いつか長英は、宗城に知られて、宇和島へ迎えられた。
的中した長英の予言
 宇和島へ移ってからの長英は、はなはだ幸せの人であった。藩主の宗城は、沢三伯の長英であることを知って、その蘭学に詳しいところから、いろいろと蘭書を翻訳させた。
 時には、宗城の前に出て、世界の大勢を説くこともあり宗城はすこぶる優遇してくれた。幕吏の追跡もうけず、安泰の生活はつづけていたが、宇和島にいるのもあきて、しばしば仕えを辞したが容易にきかれなかった。
 そのうちに、老臣の心配から、長英を、宇和島に永く留めるのは、幕府に対してよろしくないという説が出た。
 本人の長英は、江戸へ立ち帰りたい、というし、藩の老臣は、長英の解雇を主張する。ここにおいて宗城も、長英を、手放すことになって、久し振りで長英は、江戸へ帰って来た。
 もとの四谷で、あいかわらず医を業とすることになった。この大胆な振舞は、かえって幕吏の眼をかすめ得て、しばらくは気安く世を送ることになり、国元から妻子を呼び迎えて、平穏の生活をつづけた。
 薩藩の島津斉彬は、不世出の英主、歴代の藩主中、もっともすぐれていた人であるが、これもまた長英のことを知って、三田の藩邸へ引き入れ、その説に聞き、その翻訳書によって、世界の大勢を知ることを、この上もなき楽しみとしていた。
 宇和島藩と薩藩には、長英の翻訳本は、多く残っているはずであるが、藩主の偉いほど、家臣が偉くなかった。
 宇和島藩の手から離れた、長英は、同じ事情から、斉彬のもとからも、離れることになった。
 その頃に、伝馬町の牢で、いっしょにいた悪ものに見つけられて、幾度か強請られた。弱身のある長英は、いつもその要求に応じていたが、限りある力で、限りなき要求に応ずることはできない。三度に一度は、拒絶することもあった。
 悪ものは、ついにそれを怨んで、その筋へ密告した。たちまちにして長英は、幕府の捕吏に襲われた。もはや逃れぬ運命と覚悟して、長英は、みごとに切腹してしまった。
 長英が、外国から脅威をうけることを予言したとおり、嘉永六年には、アメリカの使節がやって来た。引つづいて英仏露その他の国からも、開国を迫ってきた。
 長英は、自分の予言が災いとなって、天保の昔に死んだが、外使は、やはり長英の予言どおりにやってきた。
 長英の最期は、実に悲惨であったが、先覚者の名は、長く歴史の上に残ることになった。長英の獄に連座したのが三州田原の渡辺崋山であった。
 崋山は、藩主に累の及ぶことを憂えて、切腹してしまった。長英と崋山は、師弟のごとき、関係になっていた。
 この顛末を叙述したものが、藤田の『文明東漸史』であった。
高座から客を叱り飛ばす
 伯円は、長英の事跡を演ずるに、『文明東漸史』を基礎とした。
 この書物は、全篇の結構が、史論体になっていて、そのままには講談にならぬから、長英と崋山の逸話をたねに、技巧と潤色を加えて、まったく講談物にしてしまった。
 ただ聞いておれば、なんとなくおもしろいが『文明史』と比べたら、似ても似つかぬ小説的のものになっている。
 長英の江戸へ来たときのことなぞは、あまりに講談化して、おもしろくはあるが事実には、遠ざかってしまった。
 語る間に、ちょいちょい『文明史』中の議論を、よく砕いて話し込んであるが、そこはさすがに、伯円の技倆を現わしている。
 この講談は、ひじょうな評判になって、いたるところに大入りを占めた。今のように読書欲も進んでおらず印刷術も整うておらなかったから、出版物もきわめて少なかった。長英や崋山の事蹟のごときも、今日ほどに広く知られておらぬので、伯円の講談によって、天保の昔、すでにそれほどの先覚者があったかと、はじめてその事蹟を、知るくらいのものであった。
 その後、新富座において、団十郎と左団次が、この芝居をしたので、いよいよ長英と崋山は、一般に知られるようになった。
 崋山は、その絵が評判であっただけに、名前はよく知られていたが、伯円の講談を聞き、団十郎の芝居をみて、さらに崋山の信者がふえてきた。
 伯円は、新講談の第一人者として、ここに極めをつけられることになった。
 しかし、伯円には、南玉ほどの学問がなかった。ただ才気で、書物を取り扱うたのであるから、高座に立っても、不熟の漢語で聞く人を苦しめたことは、しばしばであった。
 後には文字のある人を、高い月給を出して雇い入れ、これを秘書として、むずかしいものは、その人に調べさせたのである。
 創作の名人は、一つの創作に満足せず、それからそれへと移って、創作を発表した。『安政三組盃』も、『天保六花撰』も、みな伯円の創作であった。
 柳橋の芸者、秀吉なるものが箱屋の峰吉を、大川端で殺した。それをすぐに講談として、高座にかけた時のごとき満都の人気は、伯円に集まり、毎夜の大入りつづきで、どこの講釈場でも引張り凧にしたほどである。
 声ははなはだよくなかったが、その悪い声を、巧みに使いこなして、男女の情話なぞ、実にうまいものであった。
 そのかわり、高座のやかましい人で、たとえ聞きにきておる客でも、講談の邪魔になるようなことをすると、高座から叱りつけたものだ。
 はなはだしい時には、席主を呼びつけて、その客の退場をさせたこともある。したがって、伯円には、古い講釈聞きの反感がすくなからずあった。
雨の夜大川端の惨劇
 芸者の秀吉は、花井お梅のことである。
 川村伝衛という、弗旦がありながら、役者の沢村源之助を情夫として、ばかの限りを尽くした。どうせ芸者のことだから、ほかにもいろいろの道楽はあったろう。
 旦那のお蔭で、浜町へ酔月という、待合を出させてもらい、それは親の商売として、お梅はあいかわらず芸者をしていた。
 川村は、三十三国立銀行の頭取で、豪華な生活をした人であるが、お梅には、すっかり惚れ込んで、どんなことでも、お梅のいうことならいやといわぬほどに、鼻の下を長くしていたのだからお梅に、芸者をやめたい心があれば、いつでもやめることはできたのだ。
 ところが、源之助を情夫にしておるため、芸者をやめると、思うように逢引がならぬから、それであいかわらず、芸者をやっていた。
 芸者は、旦那をだまして、金を絞りあげる。それを役者が芸者から召しあげてしまう。その役者には、また相応の道楽があって、やはり悪銭身につかずの諺のごとくなる。世間のことは、裏からみると、まことにおもしろいものだ。
 源之助は、お梅をあまり好いていなかった。自分にはほかに好きな女があって、それに入り上げている。お梅も、いつか感づいて、悋気の角を生やす。旦那の川村に、これが知れたので、親がやかましくいうので、お梅は、くそやけになって、一時はつつしんでいた酒を、また飲みはじめた。
 酒を飲む、と気が荒くなって、いつも間違いをしでかすから、川村がやかましくいうて、やめさせた。親も、お梅の酒癖には、心配していたので、川村が、いうてくれるのを幸い、親からも意見して、酒はやめさせてしまった。
 その酒をまた飲みはじめて、お梅の乱暴は、日増しにひどくなってきて、源之助と逢引きのために、親にいわれぬ借金もする。その内緒の使いは、箱屋の峰吉がやっていた。
 峰吉の心がよくなかったので、お梅の弱点につけ込んで、口説いてみた。勝気のお梅は、峰吉をひどくはずかしめた。それを遺恨に持って、これから峰吉が、親子の間に争いの起こるようなことをしむける。旦那の川村にも、お梅の秘密を、いっさい告げてしまった。
 お梅の身は、四方から責められるようになった。とうとうお梅は雨の夜の大川端に、峰吉殺しの惨劇を演じた。
 お梅が、殺人犯として、公判に回された時、その弁護を引き受けたのは、今の大岡育造と、死んだ角田真平であった。
 なにしろ、美人の箱屋殺し、というので、公判は大入りであった。弁護の甲斐あって、お梅は死刑から一等を減ぜられて、無期徒刑の宣告を受けた。
 伯円が、これを巧みに脚色して、高座にかけたのみならず、公判の模様から、弁論のまねまで演ったので、ひじょうな人気を博した。
泥棒伯円から新聞伯円
 どんなに上手な、講談師でも、それぞれに領分があって、堅いものにむく人と、柔らかいものを得意とする人との別はあった。
 第一流の人になると、どちらをやっても、聞く人をうなずかせるだけの、技術を示すにしても、やはり得意のものほど、その妙味は、発揮し得るものだ。
 しかるに、伯円という人は、その点においては、じつに偉いところがあって、どちらへ回っても、じつにうまいものであった。
 かつて、『曽我物語』を聞いた。もっともむずかしいとしてある、小袖乞いの一席であったが、しわがれた声で、満江らしいその人の、昔を偲ばせた。
 富士の狩屋へ忍び込んだ時、兄弟の強勇を、よく現わし得た。十郎の強いうちに、やさしみのあるところと、五郎の遠慮なく勇ましいところとを二つながら巧みに語り分けた。
 なんでもないようで、じつはむずかしい、紋尽しなどの鮮やかなこと、多くその比を知らぬ。
『赤垣の徳利の別れ』も、へんな漢語を使う難はあっても、それがさまでに邪魔もせず、しっとりと涙をそそるところ、さすがに老巧の人は、と思わせた。
 無理に泣かせるものは、たくさんにあるが、自然に涙をそそる人は、多くあるものでない。いまの浪花節語りに、伯円を地下から呼び返して、一度聞かせてやりたいが、思うことは、多くままにならぬものだ。
 そういう堅くむずかしいものを、やる人が『花井お梅』を語ると、まるで生世話に砕けて、なんともいえぬ情趣を味わわせる。
 源之助が、友禅の長襦袢で、お梅の悋気にこらえきれず、待合から逃げ出して、巡査に交番へ引張りこまれるところがある。
 その巡査が、源之助を女と間違えて、いろいろにいいわけをする源之助と、ちんちんかんの応酬をする間の滑稽味は、いま思い出しても吹き出すほどだ。
 お梅と源之助が、痴話るところを聞いて、巡査は注意して、
「どうも、若いものに悪いから、あの一段は、今後やめたらよかろう」
と、いうたほど、男女の情話などもうまかった。
 西南戦争が始まると、すぐ西郷隆盛を題材として、薩摩隼人の活躍を語る。そのかわり、潤色と技巧が勝って、事実に遠ざかる弊はあったが、とにかく、新問題を捉えることは速かった。
 泥棒伯円といわれた人は、いつか新聞伯円といわれるようになって、日本全国を押し回して歩いた。
 旛いかに技倆があっても、創作の力に乏しければ、新生面を開くことはできぬ。伯円は、講談にたくみで、しかも創作の力をもっていた。その点からいうと、明治年間の講談師としては、たしかに第一人者といい得る。いまのいわゆる、名人と称する輩は、真に愧死するほかあるまい。
『安政三組盃』の大人気
旧幕時代に、潤沢係という役があった。これは物価問題から、土木事業にまで関係を持っている役であるが、主として物価調節に任じたのである。
 安政年間に、鈴木藤吉郎というものがあって、ひじょうに才幹のあったところから、身分は低かったが、抜擢されてこの役に当たった。
 鈴木が、この役についてから大きい仕事がはじまり、その目論見がるすべてよかった。鈴木の勢力は、にわかに強くなって、今でいえば東京市の一課長ぐらいであるが、どんなことでも鈴木が呑み込んだら、大丈夫であるというほどに、上下の信望を得ることになった。
 当時、鈴木のもっぱら関係した、大きい仕事は、下総印旛沼の開墾をはじめ、品川台場の工事、今川橋筋の埋立、筋違門火除地の設定、その他にもたくさんあるが、すべて鈴木の意のごとく行なわれた。
 そこで、鈴木に驕慢の心が生じてきた。上役への気受けが好く、下の方へのにらみがきいて、何事も自分の手にかかる、となれば、だれにしてもいくぶんの慢心はでるものだ。
 鈴木が、勢力を得て、多くの人から尊敬をうけるようになると、そろそろ慢心が出て、ぜいたくな遊びを始めた。鈴木を利用して、何事かなさんとする輩は、しきりにその心を取り入れようるとして、御馳走をする。
 それを知りつつ鈴木は、招宴に応ずる。なじみもできて、遊びはますますおもしろくなる。果ては、数寄をこらした妾宅を設け、讌遊に日を送るようになった。
 その遊興費の大部分は、政商のふところを絞るのであるから、どこかにその報いをする仕事は、あるにきまっている。不正不義の行なわれるのは、そういう場合である。
 米油の取引をする市場について、その関係者から、すくなからず不正の金を絞り上げた。積年の不義は、ようやく上役の知るところとなった。
 鈴木が、腕のきくだけ、その仕事は大きく、したがって、関係するものもすくなくない。そのうちには嫉妬の眼をもってみるものもあり、それらの密告もあって、ついに鈴木は、入牢の身となった。
 なみならぬ才幹は、こういう究境に陥入っても、よく働くもので、調べの奉行も、鈴木の弁疏のたくみなるに、舌を巻いて驚いた。
 この事件は、結審に先だち、鈴木の牢死によって、あいまいの落着をつけた。
 伯円は、この事件を巧みに脚色して、講談物として高座にかけた。満都の講釈通は、さきを争うて聞きに出かける。
 鈴木に配するに、芸妓の小染をもってし、その間に、幕府腐敗の内情を、ちょいちょい現わし、鈴木を穢多の子として、階級圧迫のはげしい、武家時代の社会制度の一斑を示した。
 創作手腕の非凡と、講談の巧みと、ともに伯円の真価は、これによって、いよいよ一般の認むるところとなった。これが『安政三組盃』である。
春雨のような円朝
 『天保六花撰』も、また伯円の創作にかかるもので、人物の配置と対照、一席ごとの背景、いずれ一として、敬服に値いせざるものはない。
 伯円が、下谷練塀小路に、宅を持ったことがある。その家が、天保の昔、河内山宗俊の住んでいたところであった。
 ある日、年とった差配人が来て、いろいろの話から、河内山のことに及んだ。それを聞いて伯円は、河内山を中心人物として、その時代の伝説を調べ、ここに整うた講談物にした。題して『天保六花撰』とは、演題の命名からしてじつにうまいものであった。
 お数寄屋坊主の河内山が、その才智を、悪い方へ働かせて、徳川大奥の法度を、心得ているのを利用し、いろいろのことをする。
 それに配するに、片岡直次郎という御家人をもってし、当時の旗本や御家人の風儀が乱れて、純良な町人を苦しめる情態や、こういう連中にありがちの、遊蕩的気分を、そのままに現わしたところに、この脚色の働きがある。
 吉原の三千歳を、直次郎の相手に使って、荒っぽいところに色気を持たせ、さらに金子市を引張り出して、両人の情縁に波瀾を起こさせる、妙手腕にいたっては、ただ恐れ入るほかはない。
 新富座に、団十郎と菊五郎が、これを演じて、劇画家を驚喜せしめ、岩井半四郎の三千歳で、さらに吉原の情趣を味わわせてくれた。『天保六花撰』の名は、これがため、全国に鳴り響いた。
 私は、いまでもその当時を思い出して、伯円と団十郎の対照に、得もいわれぬ感想が湧く。さきには高野長英、後には河内山宗俊、伯円の力をもって、高座にかけられたものを、団十郎が手をかけて、さらに劇的のものとして、巧みにこれを取り扱う。その名人同士の得意の顔が、ちらちら眼の前にみえるようだ。
 この伯円の晩年が、はなはだ気の毒なものであった。門人には、右円、伯知、伯鶴の三人はあっても、いわゆる師の半減にも及ばず、右円が、伯円の名を冒したが、それはいたずらに、師の名をはずかしむるに過ぎなかった。
 伯円は、あれだけの大家でありながら、賭博好きの癖があり、老後になってから、せっかくの貯えもみな賭博のために失い、万事不如意のうちに、七十歳の高齢をもって、この世を去った。
 私は、伯円のために、数回を費して、その真価を伝えたが、この人によって、講談界は一新機軸を現わしたことにいたっては、それ以上に、激賞すべき価いがあるると思う。
 伯円に比すべき落語家としては三遊亭円朝があった。この人も、創作の力があって、その高座のうまかったことは、近世の落語界に比すべきものはない。
 柳桜もあったが、円朝には及ばなかった。円朝の話は、しとしとと締めてゆく間にも、どこかに温かいところがあって、なお春の雨のごときものがあった。柳桜も巧い人ではあったが、いかにも寂しい。まるで、冬の雨のように、人の心を楽しませるところがなかった。
邑井吉瓶出世物語
 創作の力には乏しかったが、講談の名人には、邑井吉瓶があった。
 伯円には、重言片語が多く、その講談は、速記のままでは、文章になっていなかった。どうしても、十分の訂正を要した。
 吉瓶の講談にいたっては、さらにその弊がなく、言々句々、すべて文章をなしていた。重言片語なぞは、薬にしたくもなかった。
 眼に一丁字なく、郵便はがきすら書けなかったが、一度読んだり聞いたりしたことは、けっして忘れぬ、という不思議な、頭脳を持っていた。
 生粋の江戸っ子であるから、タンカの切れもよかったが、本文を叙する一段になると、馬琴の七五調を、そのままに、少しの淀みもなく、畳みかけ畳みかけ、聞く人をして、呼吸をもつかせぬ、その調子は、この人以外に、絶えてなかった。
 体は二十貫以上あって、色の黒い、鼻は獅子をそのままで、厚い唇をぺろりとなめて、いよいよ語りはじめたら、瀬のはやい渓間の水のように、じつに人の気を、すうっとさせる、妙技を持っていた。
 邑井一が、貞吉と称していた時、身幅の狭い着物に三尺帯、どうみても、折助か職人としか見えない男が、ふいに訪ねてきて
「ええ、先生、どうか弟子にしてくだせえ」
と、いうから、貞吉は、じろじろその様子を眺めていて、容易に返事をしなかった。
「先生、いけねえのか。なんとかいっておくんなせえな」
「お前さんはなんだね」
「職人です、折助もやりやした」
「字は読めるかね」
「読めねえ」
「講釈が好きなのか」
「そうです」
「聞いていると、やさしいようでも、さて商売としてやってみると、なかなかむずかしいものだ。お前さんは、どんな心持ではじめようというのかえ」
「べつにどんな心持って、そんなことはわからねえが、ただやってみてえのです」
「そんなことでは、とてもだめだ」
「うまくなったら、いいのだろう」
「字が読めないでは、都合が悪い」
「聞いておぼえたらおなじことでしょう」
 この押問答をしているうちも、その顔が、いかにもおかしいので、貞吉はややもすると、笑いを留どめ得なかった。
 二、三日続いて来るうちに、ついに貞吉も、許して入門させた。
 講釈場へは、よほど通っていた、とみえて、材料は相応にもっている。教えてみると、その呑み込みのよいことは、じつに驚くほかなかった。
 この男を吉瓶と名づけて、高座へ上げてみたら、もう一人前の力があった。
任侠よく世話を見る
 弟子入りをして、まず一年は、飯焚きをしたり、廊下や格子の拭掃除、それから二年目に、空板叩きになって、当分は戦記ばかりを、怒鳴っていた。
 声の調子がきまってから、なにか端物を教えられ、よほど進歩の速いものでも、三年ぐらいかかって、ようやく二つ目になる。それから五年ぐらいたって、中座よみに昇進して、師匠のつなぎをするくらいのものだ。
 真打になれるか、なれぬかは、それからきまる。この修業を積んでくるから、昔の講談師は底力があって、今の講談師のように、あやしいものは少なかった。
師匠が、堅いものを得意にしても、弟子がそのとおりになる、とはいえぬ。その人の質にもよることで、それはいちがいに、きめることはできない。
 貞吉は、世話物がうまかった。堅い物もまずくはなかったが、世話物の方がうまかった。そのもっとも得意とした読物は、『紀文』と『玉菊燈籠』、それから『鈴木主水』『義士伝』等であった。
 吉瓶は、盲縞の腹掛に三尺帯で、押し通した男。黒紋付の羽織なぞは着たことのない、という変わったふうで、その得意としたものは、『佐野の鉢の木』、そのうちでも例の馬方問答が、一番によかった。
 『八犬伝』『為朝』『水滸伝』『大島屋政談』『因果小町』『赤格子九郎右衛門』『源平盛衰記』なんでもござれであったが、ことにうまかったのは、以上の数題であった。
 任侠のふうがあって、よく人の世話をして、その家は、いつも食客の五人や六人、絶えたことがなかった。
仲間のものに不幸のあった時なぞ、この人がいないと、みなこまったくらいで、生涯を貧乏で通したが、人の世話をしつづけたのは、じつにえらいものであった。
 いまの貞山は、初代の貞山の弟子で、貞花と称し、いまの典山と相弟子の間柄であったが、吉瓶に拾い上げられて、貞山の亡き後は、吉瓶のために、教えをもうければ養われもしたのである。
 私なぞも、講談の呼吸については、吉瓶に学ぶところが多かった。
 ただ口調が、あまりに軽快であったため、聞く人に頭脳がないと、その巧拙を聞き分け得ぬので、俗受けはしなかった。
 晩年は、すこぶる不遇で、まことに気の毒であったが、持って生まれた江戸気質で、いやしくも人に屈せず、やせ我慢で押し通したが、ついにやり切れなくなって、京阪の地へ出稼ぎに行き、神戸で、赤痢にかかって死んだ。
 いまから当時を追懐して、どう考えても、この人よりうまい、と思うものが見い出せない。これらは、真の名人とでもいうべきであろう。
 立会の呼吸一つで、うまいと人に思わせたのが、神田伯山であった。
 いまの伯山の師、松鯉と改めて、七十七まで高座を勤め、少しも衰えをみせなかった、という不思議の人である。
出藍のほまれはひとり貞吉
 どんな芸人でも、七十歳を越えると、元気に何分の衰えがくるものだが、伯山には、これが絶えてなかった。
『高田の馬場』の安兵衛、十八人を斬り倒す、その勇ましい闘いの呼吸が、死の際までも、同じようであったのは、ただ敬服のほかはない。あまりに勢いがよくて、どうかすると、入れ歯を吐き出すことがあり、それがために、悪落ちのあったこともあるが、それは芸の上の失敗でないから、かえって愛嬌の一つとして、見逃すことができる。
『越後伝吉』の勤倹克己は、伯山によって、まったくその人が完成され、かつ活躍された。『天一坊』の山内伊賀亮が、大岡越前を相手の問答なぞ、息もつけぬおもしろみがあった。『柳沢昇進録』の吉保とおさめ、徳川大奥の堕落は遺憾なく剔抉された。大坂冬の陣、真田幸村の入城、倅大助の家康刃傷まで、技神に入るとは、これをいうたのであろう。
 相続人の伯山、先師を辱めぬよう、おおいに奮発すべきである。
 伊東陵潮の『力士伝』、桃川燕林の『越後騒動』、それぞれに入神の妙があった。御前講演で名を博した如燕、『暁星五郎』と『佐賀の怪猫伝』で、その真価を現わしたが、すべてその頃の人は、自分に創作の力がなくても、故人の作によって、自分の腕を示すことは、十分にできたのであるから、故人の作ったものを、いつか自分の作ったもののごとくして、あえて人も怪しまず、年の経つとともに、かえって創作の人以上に、珍重がられるようになる。したがって、故人を辱めるようなことは、絶対になかった。
 それははじめ修業が、本式であって、十分に鍛錬された技芸の賜であった。いまの芸人のように、卑劣な剽窃で、一時をごま化すものとは、天地の相違である。
 小金井芦洲の『日蓮記』、『川中島の車掛かり』、ともに天下の絶品と称すべく、類と真似手はいまだにない、後の芦洲、これは物になっておらなかったが、ぜんたい、芦洲の名を冒したのが間違いであった。
 伯円の後に、右円が名を襲いだが、これも先人を辱めただけのこと、なんの変哲もない。伯知が、たって襲名を争わなかったのは、おのれを知るものというべきである。
 先人の名を襲いで、先人よりうまかったものが、たった一人あった。それは邑井一の倅、貞吉であった。
 高座振りが、いかにも憎体であったため、あまり人気はなかったが、技においては、父の一より、数等の上にいた。
 評定物でも、世話物でも、新聞物でも、行くところ可ならざるなく、なんでもうまかった。なんでもうまいものに、名人はないはずであるが、貞吉は、その格を破って、なんでもうまい名人であった、昔からよくいう芸の虫、それは貞吉のごとき人を指して、いうのであろうと、私は、いまでも思っている。
吉瓶、貞雄を指導す
 芸人の襲名が、近ごろになって乱脈に流れ、なにがなんだか、さっぱりわからなくなってしまったことはだれもみなさよう思うであろうが、ことに寄席芸人の襲名ほど、乱暴なものはないだろう。
 現在の講談師についてみるも、典山・伯山・貞山の三人だけが、形式からいうても、はた内容からいうても、当然のように思われるが、その他の襲名は、めちゃめちゃだ。
 先人の名を襲ぐには、そのことによって、給料の引上げを、考えているのみで、少しも襲名の真意義には、触れているものでない。それであるから、襲名披露は、賑やかに行なわれても、しばらくすると、その存在は認められなくなる。
 貞吉は、一の実子であり、その技倆も凡を抜いていた。それまでに仕上げたのは、実に吉瓶の力であった。
 一は、貞吉を、講談師にすることを欲しない。その説によると、
「私は、世間から許されて、巧いといわれている、私にも、多少の自信がある。私の倅が私のとおりになるものと、きまっておればよろしいが、芸事はそういう次第にならぬ、昔から名人に二代なしというているくらいだから、倅のこの商売になることは、私の好まぬところである」
 こういうている。実にそのいうとおりでまったく名人に二代はない。財産の相続と違って、芸の相続はむずかしい。
 それを聞いて、吉瓶は、
「いちおうは御道理ですが、私がついていて、必ず師匠より上手にしてごらんに入れます。どうか私に任せてください」
 一の拒むを、ついに説き伏せて、吉瓶が預かって、修業させることにした。
 これから吉瓶が、一生懸命に仕込んだ。天稟の芸才は、恐ろしいものである、十六、七歳の時すでに真打の技倆が現われてきた。
 それを吉瓶は、まだまだというて、高座におる貞雄 初め貞雄というていた を叱りつけて、いくたびか聴客の前で、恥をかかせたこともあった。
 はなはだしい時は、貞雄を高座から引き下ろしておいて、客席の前に坐らせ、吉瓶が、貞雄のいまやったところを、そのままにやって聞かせ「ここはこう話すべきもの、あすこはもっと沈んでゆくもの」と、いちいち批評的に教えた。
 聴客は呆気にとられて、聞いていたが、あとになってからみな感心して、吉瓶の教え振りを賞めた、ということである。
貞雄は、こうして導かれ、ついに名人になって、これが三代目貞吉の名を冒した。
『荒木又右衛門の三十六番斬り』
 貞吉には、多少の文字があって、自分の講談は、速記者を煩わさず、すべて書いて出すようにしていた。
 漢詩のようなものも作り、俳句は、平凡な月並調ではあるが、とにかく、宗匠の部にはいっていた。
 故人の残した講談に、年代の相違があったり、事実のいかがわしいものは、無遠慮に訂正して、その次第を、高座で弁じ立てた。
 こういうことは、ひどく仲間の人の感情を害して、貞吉を、なんとなく嫌うものもあり、それがため、客受けもあまりよくなかった。
 左右のタンカが切れて、地の文がうまく、当意即妙の洒落は、群を抜いていた、ただ声がよくなかったので、修羅場は、はなはだ聞き苦しかった。
 毎日の新聞を見て、それをすぐ高座にかけて、一席にまとまりをつける腕は、じつにさえていた。
 新聞物として、もっとも得意にしたのは、矢野文雄の『浮城物語』と、都新聞の『南京松』であった。呑み込みの早い、こなしのうまい一例としては、こういうことがあった。
 私が、甲の席で、『加波山事件』をやっているのを、聞いていて、すぐ乙の席で、そのとおりやってしまう。それを私が知らずに、乙の席へ行って、貞吉のあとで、『加波山事件』をやり始めると、もう貞吉がやった、というので、客から故障が起こって、実に弱ったことがある。
 それほどに器用な質で、新旧両方にまたがり、うまい講釈を聞かせてくれたが、惜しい哉、肺を病んで、まだ四十にならぬ若い歳で、この世を去ってしまった。
 その時分の真打は、創作にも改作にも、相当の力をもっていた。その何人であったからは、いま忘れて思い出せないが、『荒木又右衛門の三十六番斬り』伊賀の上野で、渡辺数馬をたすけて、河合又五郎の味方を、撫斬りにする講釈がある。
 最初にこれをやり出した人は、はじめ荒木が三人斬ってまず今日はこれきり、と、その日は打出しにしたが、定連の一人は、楽屋へはいって来て、
「先生、今日の荒木は、じつによく斬ったね、おれあ、血が顔へ飛んだかと思ったよ、明日は幾人斬るか知らねえが、どんな斬りかたをするか、それが楽しみだ」
と、いって帰った。
 それを聞いた先生は、さあこまった。じつは三人ですませるつもりであったが、こういわれると明日もまた斬らなければならぬ、そこで工夫して、翌日は、すっかり斬りかたをかえて話した。
 客は、翌日を待ちかねて、どしどしつめかけて来る。先生も、いろいろに工夫して、斬りかたを変える。それがとうとう、三十六人までになったのである。されば荒木の斬りかたは、一人一人違っておるべきはずだが、今はめちゃめちゃになってしまった。

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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikusin@kikuchi.dddd.ne.jp