夏目漱石『硝子戸の中』

(『大正4年1月2月)



十九


 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは言いじょう、その実小さな宿場としか思われない位、子供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引き内か朱引き外かわからない辺鄙なすみのほうにあったに違いないのである。
 それでも内蔵造の家が狭い町内に三四軒はあったろう。坂をあがると、右側に見える近江屋伝兵衛という薬種屋などはその一つであった。それから坂をおり切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこのほうは倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵を討つ時に、ここへ立ち寄って、桝酒を飲んで行ったという履歴のある家がらであった。私はその話を子供の自分から覚えていたが、ついぞそこにしまっているといううわさの安兵衛が口を着けた桝を見たことがなかった。その代わり娘のお北さんの長唄は何度となく聞いた。私は子供だから上手だか下手だかまるでわからなかったけれども、私の宅の玄関から表へ出る敷き石の上に立って、通りへでもゆこうとすると お北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過ぎなどに、私はよくうっとりとした魂を、うららかな光に包みながら、お北さんのおさらいを聞くでもなく聞かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身をもたせて、たたずんでいた事がある。そのおかげで私はとうとう「旅の衣は篠懸の」などという文句をいつのまにか覚えてしまった。
 このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋も一軒あった。少し八幡坂のほうへ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ場もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんはなんでも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、つきあいからいうと、まるで疎濶であった。往来でゆき会う時だけ、「いいお天気で」などと声をかけるくらいの間がらに過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水といい仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞きに覚えてはいるが、まとまった記憶は今頭のどこにも残っていない。子供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰を掛けて、矢立てと帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢のいい声で下にいるおおぜいの顔を見渡す光景のほうがよっぽどおもしろかった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度にあげて、みんな仙太郎そんのほうを向きながら、ろんじだのがれんだのという符牒を、罵るように呼び上げるうちに、しょうがや茄子や唐茄子の籠が、それらの節太の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
 どんな田舎へ行ってもありがちな豆腐屋は無論あった。その豆腐屋には油のにおいのしみ込んだ縄暖簾がかかっていて門口を流れる下水の水が京都へでも行ったようにきれいだった。その豆腐屋について曲がると半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後ろは、深い竹やぶで一面におおわれているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でするお勤めの鉦の音は、今でも私の耳に残っている。ことに霧の深い秋から木枯らしの吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷たいある物をたたき込むように小さい私の気分を寒くした。


二十


 この豆腐屋の隣に寄席が一軒あったのを、私は夢うつつのようにまだ覚えている。こんな場末に人寄せ場のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな目を見張って、遠い私の過去を振り返るのが常である。
 その席亭の主人というのは、町内の鳶頭で、時々目暗縞の腹掛けに赤い筋のはいった印ばんてんを着て、突っ掛け草履か何かでよく表を歩いていた。そこにまたお藤さんという娘があって、その人の容色がよく家のものの口に上った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。のちには養子をもらったが、それが口ひげをはやした立派な男だったので、私はちょっと驚かされた。お藤さんのほうでも自慢の養子だという評判が高かったが、あとから聞いてみると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席もやめて、仕舞うた屋になっていたようであるが、私はそこの宅の軒先にまだ薄暗い看板が淋しそうに掛かっていたころ、よく母からこづかいをもらってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかだれも出なかったようである。この男の家はどこにあったか知らないが、どの見当から歩いて来るにしても、道普請ができて、家並みのそろった今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像をたくましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁え、と言われて八ツ橋なんざますえと振り返る、とたんに切り込む刃の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教わったのか、それともあとになって落語家のやる講釈師のまねから覚えたのか、今では混雑してよくわからない。
 当時私の家からまず町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畑とか、竹やぶとかまたは長い田んぼ道とかを通り抜けなければならなかった。買い物らしい買い物はたいてい神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に慣らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。



三十五


 私は子供の時分よく日本橋の瀬戸物町にある伊勢本という寄席へ講釈を聞きに行った。今の三越の向こう側にいつでも昼席の看板が掛かっていて、その角を曲がると、寄席はつい小半町ゆくかゆかない右手にあったのである。
 この席は夜になると、色物だけしか掛けないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、度数からいうといちばん多く通った所のように思われる。当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便がよかったからといって、どうしてあんなに講釈を聞きにゆく時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。
 これも今から振り返って遠い過去をながめるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起こさせるようにできていた。高座の右側には帳場格子のような仕切りを二方に立て回して、その中に定連の席が設けてあった。それから高座の後ろが縁側で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜めに井桁の上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余分の地面を取り込んでいた。その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。
 帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない有福な人たちなのだから、みんな相応な服装をして、時々のんきそうに袂から毛抜きなどを出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんなのどかな日には、庭の梅の木にうぐいすが来て鳴くような気持ちもした。
 中入りになると、菓子を箱入りのまま茶を売る男が客の間へ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。箱は浅い長方形のもので、まずだれでもほしいと思う人の手の届く所に一つといったふうに都合よく置かれるのである。菓子の数は一箱に十ぐらいの割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、あとからその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。私はそのころこの習慣を珍しいもののように興がってながめていたが、今となってみると、こうした鷹揚でのんきな気分は、どこの人寄せ場へ行っても、もう味わう事はできまいと思うと、それがまたなんとなくなつかしい。
 私はそんなおっとりと物さびた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろの人から聞いたのである。その中には、すととこ、のんのん、ずいずい、などという妙な言葉を使う男もいた。これは田辺南竜と言って、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。そのすととこ、のんのん、ずいずいははなはだ有名なものであったが、その意味を理解するものは一人もなかった。彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。
 この南竜はとっくの昔に死んでしまった。そのほかのものもたいていは死んでしまった。その後の様子をまるで知らない私には、その時分私を喜ばせてくれた人のうちで生きているものがはたして何人あるのだか全くわからなかった。
 ところがいつか美音会の忘年会があった時、その番組を見たら、吉原の幇間の茶番だのなんだのが並べて書いてあるうちに、私はたったひとりの当時の級友を見いだした。私は新富座へ行って、その人を見た。またその声を聞いた。そうして彼の顔も咽喉も昔とちっとも変わっていないのに驚いた。彼の講釈も全く昔のとおりであった。進歩もしない代わりに、退歩もしていなかった。二十世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前にすわりながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想にふけっていた。
 彼というのは馬琴の事で、昔伊勢本で南竜の中入り前をつとめていたころには、琴凌と呼ばれた若手だったのである。


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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp