明治大正の辻講釈(改訂六版)

菊池 真一

『甲南女子大学研究紀要』第三十四号(平成十年三月)に発表したものに、田邊孝治氏・延広真治先生等の御教示に基づき、改訂を加えた。特に吉沢英明氏『講談明治編年史』倉田喜弘氏『明治の演芸』の両書を参照せずして明治期講談を論ずべからずという教訓を今ごろになって得たのはお恥ずかしい次第である。

 

 

 

一 明治前期の辻講釈

 辻講釈・辻講談というと、江戸時代というイメージが強いが、東京では、明治・大正時代にも行われていたらしい。

 

 明治八年六月七日の「読売新聞」に、次の投書(寄書)がある。

  貴社の新聞は子供だましの眼醒し菓子で一文落雁の塩煎餅さうかと思へば利屈ばり大道講釈の下手前座また落語家の鬮売同様アンナ新聞は誰が見てが有るものか昔話の桃太郎か舌切雀の方が余ツ程面白いと人の話を真にうけて買ても見ずに悪る誹謗をして陰弁慶の痩我慢で二タ月三月過すうち此頃聞けば日/\の御出版に成ツても摺立数がへらぬうちいよ/\当時は一万の余程上へと御越の様子で御社中残らず祝ひが有ツたと貴社の職人衆の話しを聞きそんなら一枚試みに買ツて見やうとおもひつき拝見したが病つきで配達人の足おとを待ツて居る身に成りましたが是まで此日本の新ぶんやに一万の以上を越したといふ話しはとんと聞きません

 この記述によれば、一人でやる大道講釈の他に複数人でやる大道講釈もあったようである。

 

 明治八年十一月二日の「郵便報知新聞」には、次の記事が見える。

  去る廿七日の朝だと申ますからチト聞後れたお話ながら馬鹿気た事がありました万世橋の広場へ陣を張つたる辻講釈の王清は例の通り張扇を敲き立てゝ宮本武蔵か荒木又右衛門の講談に声を励まし肱を張り寄らば斬らんと見構へたりなどゝ意丈け高になり豪傑気取りで遣つて居る後ろの方より顕はれ出たる三四人の荒武者は三寸角の棒杭を上段に振冠し目にもの見せんと王清に撃てかゝれば……彼荒武者は……さしたる遺恨はあらねとも蜻蛉切の平八といふ講釈師は王清より余程上手なるゆへ平八に荷担して不意に王清を襲ひ此場を退陣させ平八を出講させんとの計略……(吉沢英明『講談明治編年史』による)

 これにより、当時王清・蜻蛉切の平八という辻講釈師のいたことが分かる。この蜻蛉切平八については、正流斎南窓との関係で資料があるので、本稿末尾の(付記一)を参照されたい。また、王清については、(付記二)を参照されたい。

 関根黙庵『講談落語今昔譚』(大正十三年)には、

  その頃(明治十三年=菊池注)、佐竹の開き、即ち辻講釈に、とんぼ切りの平八といふ、可なりの老人がゐて、修羅場、武道物、侠客物と、三種を巧によみ分けて聴客を吸収してゐた。

とある。

 

 明治十一年九月十三日の「かなよみ新聞」には、次の記事がある。

  今度大道の講釈師が照降群談と名号営業するに付て鑑札を願ひ出るとお下渡しに成り税上納その他の取締を講談社会の頭取へ申し付ると頭取は承諾したが真打連が往来商売の者と一所になるのは否だとか云ひ出し夫に付て昨日今川橋の山の井(待合)で寄合をしましたが穢多も乞食も平民になる世界に其様な毛並を嫌ふには及ばない(吉沢英明『講談明治編年史』による)

 これによれば、大道講釈師も鑑札を受けていたかのようであるが、無論無届け営業も多かったことであろう。

 

 明治十二年九月四日の「読売新聞」には、次のようにある。

  蛎殻町二丁目の鈴木良平の二男宇吉(十三)は、寄席や大道講釈で因幡小僧や鼠小僧抔の盗賊話しを聞き、己も一番盗賊になり狸小僧とか鼬小僧とか人に呼れ、講釈師の御厄介に成らないまでも新聞位には載せられて見たいと、途方も無い心願を起し、まづ手初めに近所の家へ忍び入り、または往来の人の懐中物を抜きなどすることが両親へ知れて厳く異見を加へると、宇吉は此様な気の小さい親の側に居ては迚も立派な盗賊には成れないとて、此ほど家を駆出して諸所を漂ひ歩くうち、持合せの金も無くなり小遣ひに不都合な処から、一昨日浅草の仲店で買物をして居た下谷金杉下町の安間喜六の風呂敷包より金三十銭を抜き取って逃げ出す処を巡査に取押へられて分署へ拘引されたが、此様な横道を働き自分のみか親の名まで出て世間へ恥を晒すのが望みとは、さてさて因果な性分だ。(倉田喜弘『明治の演芸(二)』による)

 

 

 尾崎紅葉は明治十一、二年頃(十二三歳頃)の辻講釈を次のように回想している。

  太閤記の一節は何の辺であるかと云ふに、尾州清洲の城中に於て木下藤吉郎と上島主水とが鎗の長短を論じて御前試合を為ると云ふ名高い条。所が手前が「阿米利加のハンカチイフ」と対照せうと為る眼目の本文と云ふ処は真書太閤記には出て居らぬ。確に太閤記に在つたと念つたのが、手前の覚えたやうに出て居らぬから、段々考へて見ると、子供の時武者絵の本で見、又能く大道講釈で聴いたのでありまする。

  今でも其の講釈師を記臆して居りますが、十二三才の頃所好で、毎晩聴きに出掛けました。場所は芝の浜松町二丁目と三丁目との角で、土蔵の前が先生の定席、縁台を三脚並べて、其の正面の畳牀几に座を構へて、机も張扇も無い、要の弛んだ、楽書のして在る名古屋扇を以て膝を拍きながら、点燈頃から十一時ぐらゐまで立続に弁じる。髪を撫付にした、色の黒い、痩削けて、目の鋭い、皺嗄声の四十約の男、是は誰の弟子で、名を何と云ふのか、知る者も無い、本人も亦名乗を揚げた所で知る者も無いと知つたか、曾て一たびも名乗らなかつた。けれども既に其形有つて其名無きは、大きに不都合な場合が有る、之を聴きに行く友達が三人ほど有りましたが、遂に彼を仇名して「合点三郎」と呼んだのでありまする。其故は、彼が講談中に「畏つた」と云ふ口上を必ず「合点さぶらふなり」と遣る。で、其の合点三郎直伝の鎗仕合を些と御聴に入れる。

 これは明治三十三年三月二日から二十五日まで「読売新聞」に連載された『月下の決闘』の初めの方の部分である。(岩波書店『紅葉全集』第八巻。一九九四年五月刊による)これにより、明治十一、二年頃、芝浜松町の土蔵の前で辻講談が毎晩のように行われていたこと、客席として縁台三脚があり、講談師は畳牀几に座り、机も張扇もなく、名古屋扇で膝を叩きながら、夕方から十一時くらいまで演じ続けたこと、子供が誘いあって聴きに行っていたこと、などが分かる。

 

 明治十八年九月二十九日の「絵入自由新聞」には、次のような記事がある。

  上州祭文の仕合 麹町にお住居ある華族だか奏任以上の官員様だかが、何か御心願の事でもありてや、毎夜小君を携さへ赤坂の豊川稲荷へ参詣せられ、お帰りには露天を素見し、新内、チョボクレ、大道講釈、なにに寄ず聴るる事が常なるが、去る二十五日の夜は上州祭文へ立寄れしに、語り物は定り文句の「小栗判官照手姫」にて、照手が美濃国万屋長者の炊女となり、判官に面会の段をヲホホン/\語って居ると、公は照手の貞操と語り人の巧みなるを感じ、数多の聴衆を押分高座の許に行れ、褒賞として一円与へ、「予と近辺まで参るべし」とあるに、祭文語りは後坐を他の者に依頼し恐る/\公の後へに随ひ、或料理屋に至り見た事もなき御馳走にあづかり、盆と正月を一度にした上、又候包み物を頂戴し、持前の栄螺でなく真身に礼を厚く述、お前を辷り足元もデロレンとして戻りしが、異な事を好まるる殿にてあると人の風説。(倉田喜弘『明治の演芸(三)』による)

 これによれば、赤坂の豊川稲荷の縁日に大道講釈の出ていたことが分かる。

 

 永井荷風は明治十二年生まれであるから、次の記述は明治二十年前後のことであろうか。

  衰へた夕日のやうな入梅の薄日和、牛天神の森陰に紫陽花の花咲く頃、又は旅烏の群の啼き騒ぐ秋の夕方、沢蔵稲荷の銀杏の樹の止む時もなく落葉する頃、私は散歩の足を伝通院の門外なる大黒天の階に休める度々、そこに安置された昔の儘なる賓頭廬の像を撫でゝ変り果てた小石川の故里に、過ぎ去つた時代の人達の今頃はどうなつて仕舞つたかを思はずには居られない。

  そも/\私に向つて、母親と乳母とが話す桃太郎や花咲爺の物語の外に、最初のロマンチズムを伝へて呉れたものは、此の大黒様の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世物と辻講釈の爺さんとであつた。

  二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。然し私がこの世に生れて初めて縁日と云ふものを知つてから、其後小石川を去る時分までも二人の爺は油烟の明の中に幾年たつても変らない其の顔を見せてゐた。其れ故或は今でも同じ甲子の夜には同じ場所に出て来てゐるのかも計られぬ。

  カラクリの爺は眼のくさつた元気のない男で、盲目の歌ふやうな物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺、八百屋のお七はお小性の吉三に惚れて……。」と節をつけて云ひながら、カラクリの絵板につけた綱を引張つてゐたが、辻講釈の方は歯こそ抜けて居れ眼付のこわい人の悪るさうな爺で、余程遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋に脚半掛け尻はしよりと云ふ出立で、帰りの夜道の用心と思はれる弓張提灯を、腰低く前で結んだ真田の三尺帯の尻ツぺたに挿してゐた。縁日の人出が二人三人と次第に多く其の周囲に集ると、爺さんは煙管を啣へて路傍に蹲踞んでゐた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子をパチリ/\と音させて、二三度つゞけ様に鼻から吸ひ込む啖唾を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い皺枯れた声が次第/\に専門的な雄弁に代つて行く。

  「………あれえツと云ふ女の悲鳴。こなたは三本木の松五郎、賭場の帰りの一杯気嫌、真暗な松竝木をぶら/\とやつて参つた………」

  話が興味の中心に近いて来ると、いつでも爺さんは突然に調子を変へ、思ひもかけない無用なチヤリを入れて其れをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開きにした爺さんの扇子が其の鼻先へと差出されぬ中にばら/\逃げて仕舞ふ。すると爺さんは逃げ後れたまゝ立つてゐる人達への面当らしく、「彼奴等ア人間はお飯喰はねえでも生きてるもんだと思つてゐやがらア。昼鳶の持逃野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振つて人々を笑はせるかと思ふと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、又何とか云つて叱りつけて自分も可笑さうに笑つては例の啖唾を吐くのであつた。

 これは『伝通院』(明治四十三年七月成稿、八月「三田文学」、明治四十四年三月五日『すみた川』に収録)の一節である。これにより、伝通院の大黒の縁日に辻講釈が出ていたこと、適当な区切り目に、半開きにした扇で料金を集めていたこと、などが分かる。

 

 明治二十年八月二十五日の「絵入朝野新聞」には、次のような記事がある。

  ○釈師の堕落 と題をおけば和尚の不品行話かとも思はるれど左様ではなく是は彼御記録読といふは表で例の見て来た様な嘘をつく講釈師連中の噂で如何なる訳か近比名に応じた交際をし外見を張て借金に苦しむより辻講釈に落ちるが割と若手で評判のよき玉窓花勢などを初め数人身をおとしたが(ママ)るが今度また此社会では門閥の正流斎南窓も仲間を脱け此方賀気楽と改名して佐竹の原の辻講釈に出るのでなか/\大入をとつて居るといふが世はさま/゛\なものです(吉沢英明『講談明治編年史』による。倉田喜弘『明治の演芸(四)』にもあり)

 これは、若手の玉窓・花勢など数人が辻講釈に転じ、更に正流斎南窓が此方賀気楽と改名して辻講釈に転じて、名よりも実を取ったという報告で、注目に値する。これが事実であったろうことは、以下の記事によっても証明される。

 明治二十年九月十日の「改進新聞」には、次のようにある。

  ●南窓の断絶……正流斎南窓は欲と両個連で辻組へ落ぶれ親玉と改名して佐竹の原の親玉となり南窓の名は弟子の南海へ譲しが何故か釈子仲間が新南窓へ交際をしないので何故の席へも出られず……桃川燕林が気の毒に思ひ彼方此方と周旋して我弟子分にし燕飛と名を改めさせヤツト二枚目へ出すことになつたが南窓の名前は先づ之れで当分断絶の姿なりと

 こちらでは「此方賀気楽」ではなく「親玉」と改名したということになっているが、辻講釈に転じたことは間違いなかろう。

 明治二十一年十月十六日の「絵入朝野新聞」には、次のような記事がある。

  ○釈師の改名 軍談師の正流斎南窓といひては仲間中でも屈指の者なりしに弟子の玉窓をはじめ一両人辻講釈に落ち却て実入が宜いといふに迂闊と気がさして自分も親玉とかおやだまとかいつて辻講釈に落ちしに遉本場で叩いた咽ゆえ受もよく毎日大入と聞き斯いふ連中が跡から跡からと出来れば仲間の衰微になると取締の桃林燕尾などが気を揉み出し頻に南窓の親玉に説てもともとの身分になる様にと勧めたので思ひ直し夫では一旦京坂でも廻つて来て其上もとに復しませうと約束して東京を出立したは此一月中なりしと此頃各地を廻つて帰京したので取締たちも猶ほ厚く意見し名を南耕と改めさせて近日より席亭へ出る事に漸く相談が纒りしと(吉沢英明『講談明治編年史』による)

また、同年同日の「東京絵入新聞」には、次のようにある。

  軍談師にて正流斎南窓と言たら、釈師仲間では歴々の門閥家で在たが、弟子の玉窓はじめ数名の者が皆辻講釈へ堕落したので、南窓は苦々しい事に思って居ると、其弟子達の言ふには、「名を取ふより徳を取れ。中々金に成りますぜ。遣てごらふじろ」との勧めに乗たか、急に親玉と改名して弟子並に辻の仲間入をし弁舌を振った処、名にし負先生株の南窓故、辻とは言へ客もあり大喜びで居ると、是を聞て釈屋の取締り桃林、燕尾なんどが、「幾許銭になると言て、立派な名前を持て居ながら辻へ落るとは不名誉ではないか。如何か我々軍談師社会の名誉を汚さぬ様にして貰ひ度」と談じ込れて、遉の南窓も至極と思ひ先非を悔て頓と承知し、「夫では辻は止に致すべし。然ど一旦辻へ出て名を汚したものだから、一先京坂地方を叩き廻り汚れた名を清めて参りませう」と、本年の一月中名古屋へ出立し、彼地方を並よく饒舌廻り、此程漸く帰京したので其旨を仲間へ通じ、名も更に南耕と改め、各席亭へ出講することになりましたと。(倉田喜弘『明治の演芸(四)』による)

 南窓については、その他の資料を本稿末尾に(付記一)としてまとめてあるので参照されたい。

 

 「東京朝日新聞」明治二十一年九月二十八日号三面には、次のような記事が見られる。

  ●白洲で講釈  辻講釈師春風亭事小石川駒井町一番地の清水半七(六十五)が去る廿四日の夜牛込区柳町の地蔵の縁日を当込んで大岡政談越後伝吉の条を読み中入後に扇を出して、何卒少々願ひます、ヘイお端銭をと貰つて廻はる処へ鳥渡立留つたは牛込若松町四十七番地の佐藤国十郎深谷磐の両人にて逃るのは可愛さうだ汗水流して読んで居るから植木を買かぶつたと思ひ二三銭払つて遣れと財布の中から掴出し扇の上に載せた儘何所ともなく立去りしが春風亭は存外貰溜の多かりしより大抵にして仕舞片付け帰途に榎木町の蕎麦屋に立寄り疲休みに一杯飲りさて勘定となつた時財布の中な(ママ)ら五十銭の銀貨が転げ出たのでハテ不思議な大道講釈も永年遣つて見たが銀貨を貰つた事は今夜が始めて是は慥かに銅銭と見違へたのに相違ないアヽ気の毒な事をした嘸呉れた人は困つて居やう兎に角間違つたものを貰つて置くのは気持が悪いと渡世柄に似合はぬ正直な心より最寄の交番所へ訴出しに巡査も処分に当惑し間違かどうか分らんが何にしても客から呉たものなら貰つて置いても差支ないとのことに春風亭も漸く安堵して立帰りしが彼深谷佐藤の両人は帰宅の後始めて銅貨と銀貨とを間違へて辻講釈に呉た事を心付き余まり馬鹿々々しいから取返へして遣らうと一昨廿六日の朝柳町の交番所へ訴出しにより直に警察署に廻はし前夜の春風亭を呼出して深谷佐藤を引合せ此両人が五十銭を二銭と間違へてやつたと申すが何ぢや其折の事を申立て見よとあれば春風亭は畏まり頓て懐より張扇を取出し衣紋を繕ひ卓子に向ひエヘン/\パチ/\さて中入前より読続きましたる越後伝吉はパチ/\夫婦別れを致して江戸に参り、コレ/\何を申すか、吉原の三浦屋に傭はれてと巡査の止めるも耳に掛けず叩立て読上げとう/\一段読切りし後巡査と深谷佐藤に対し実は正直な心から頂いては相済ませんと存じて一昨夜巡査さんにお届けまをしましたら兎に角貰ふた物だから取つて置くが好いと仰しやつたので其儘家に帰りますと丁度米屋からもどんな都合かと尋ねられましたので実は悉皆払切り今日の処一文なしでございます迄アノ五十銭は今読立ました分に遣つたとでも思召してお借置き下さるやうに願ひますと申立た処から両人も深く春風亭が潔白な心に感じ左様云ふ訳なら今の講釈の礼に五十銭はお前に上ると快よく相談が付て三人白洲を下りしとは愛敬のあるお話しなり

これにより、春風亭なる辻講釈師が、明治前半期、東京で辻講釈をやっていたこと、明治二十一年には牛込区柳町の地蔵の縁日に辻講釈を行っていたこと、料金として中入後、扇に小銭を受けていたこと、一人当り二、三銭払うのが普通であったこと、などが分かる。

 

 「東京朝日新聞」明治二十一年十二月二十一日号第四面には、次のような記事が見られる。

  ●袴垂保輔の講釈に感ず  元は鎗一筋の家に生れながら斯も了簡が間違ふものか滋賀県犬上郡西浜町九十番地士族吉井駒吉は今年の春遊学を思立ち男児志を決して郷関を出づ学若し成らざれば死すとも帰らずと老母一人を国に残して東京に来りし後は根が放蕩無頼の質故ノラ遊に学資を遣捨て食ふ事にさへ困つた処から麻布飯倉片町なる或大工職へ奉公して小僧同様に働きしが此奴一の道楽と云ふは辻講釈が飯より好き鳥渡親方の用足に出掛けても張扇の音を聞ては帰る事を忘れる程にてアヽ斯な面白い話を朝から晩まで聞て居たら嘸楽しい事であらうと遂に親方の道具を持出し夫を売つて場銭を払ひ買喰に遣ひしより去る四月懲役となりしが放免の後は国元なる老母が深く心配して帰国旅費十円余を送り越せしも空な事に皆失し夫からと云ふものは雇人口入所と監獄署とを互ひ違ひに出入して去月二十二日迄柿色のお仕着を受けしが此度は信実改心して帰国せんと思立ち母に頼遣はして再び旅費を送つて貰ひ去る三日弥々出立せんとて仕度万端整ひしが責めて名残りに今一度辻講釈を聞て置かんと芝久保町の原に出掛けし時は錦城斎一流と云へる者が袴垂保輔の実録を得意気に読む最中なりき駒吉は息を凝らし唾を呑んで一心に聞きしが扨々保助はゑらい男ぢや中々泥棒も馬鹿にはならぬ好や我に雨を呼び風を起すその術なくとも多くの手下を召抱へて大袈裟に遣付けたら後世講釈の種にでもならうと急に帰国を思止り是から手下募集に掛り先芝愛宕下町三丁目二番地士族武田金之助(十九)を説伏せ一の手下と定めて贓品売捌方を命じ其身は手初めの働きとして三田小山町二番地岩瀬勇助方へ忍入り短刀一口金時計珊瑚珠等代価六七十円の品を盗み此後は短刀を振廻して晴々しく強盗を働かんと一昨日愛宕下町三丁目の往還を通る折匿し持ちたる短刀から刑事巡査に目を付けられ遂に捕縛となりて右の始末を白状しせにぞ早速金之助もお手当になり数珠つなぎで其筋へ

これによれば、明治二十一年当時、芝久保町の原で辻講釈が行われていたこと、錦城斎一流という辻講釈師のいたこと、などが分かる。

 

 『風俗画報』第十九号(明治二十三年八月十日)に、乙羽庵主人の「浅草の賑ひ」という文章があり、そこに「辻講釈」が出てくる。

  さて奥山の見物には、赤前垂の矢場女。二人で六銭如何様と五月蠅勧める写真屋あれば、竹田からくり独楽廻し。親は代々猟師にて、親の因果が子に報ひ、生れもつかぬ轆轤首、ドロン/\の太皷の音。春は花かは花屋敷、役者の似顔造菊、高いはパノラマ銀閣寺。手品大象大仕懸、これ鏝細工玉突場、吹矢にパン屋ゆで玉子。芝居は花の吾妻座に、鈍帖なれど常盤座は知る人そ知る大繁昌。幽霊も赤顔で出る猿芝居。辻講釈の黄色い声。出て来る人も千差万別。

 

 

二 明治二十四年の品川風

 明治二十四年十月十一日の「中央新聞」には、次のような記事がある。

  ○品川風辻講釈に及ぶ 従来京橋際江戸橋際其他各所の人溜り多き場所にては滔々見台を叩き口角沫を飛ばして義士の仇撃勇士の伝史等得意に講演し居たりし辻講釈師等は品川風の為に一掃せられし由(吉沢英明『講談明治編年史』による。倉田喜弘『明治の演芸(五)』にもあり)

 同年同日の「朝野新聞」には、次のようにある。

  従来、府下、人溜り多き場所には辻講釈なるものありしが、此度、其の筋より取払を命ぜられたり。(芝清之『新聞に見る浪花節変遷史 明治篇』による)

 

 これは内務大臣品川弥二郎による風俗取締強化を指すものと思われる。明治二十四年八月九日の「日出新聞」には、杞憂老人による「落語家諸君に申込候」という題の投書が掲げられているが、その初めの方には、

  内務大臣が品川弥二郎様と替り候てより、風俗上の取締向、至極厳重に相成、新聞紙の雑報、挿絵抔、少しにても猥褻き事之有候へば、忽ち発行停止の厳命を下され候ことに相成り、新聞社会、特に小新聞記者などは別してピリリと致し候哉に承り及び居り候。

 とある。(倉田喜弘『明治の演芸(五)』による)

 

 これはかなり徹底した取締りのようで、以後、前節で引いたような類の新聞記事はほとんど見られなくなる。しかし、転職の周旋まで徹底してやったのでなければ、しばらくしてまたあちこちでやり出すであろうことは、誰にでも想像がつく。

 

 明治二十八年十月十日発行の『風俗画報』第百号の「余興」の中、「●講談」の項で、大田才次郎は、元禄頃の太平記読みを「此等に拠りて視れば当時の太平記読てふものは今日の辻講釈の如き体裁なりしと覚ふ」と評している。

 

 明治二十八年十二月十一日の「都新聞」には、次の記事がある。

  ○講釈師の立往生 本名は醍醐寺伝次郎(六十二)と云て静岡県の士族、芸名は赤龍斎飛電と云て近在を渡り歩く大道講釈師あり一昨日の午前十時ごろも千住掃部宿の往来に起ち張扇にて手の平を叩きながら武蔵坊弁慶が奥州衣川に於て立往生の講釈をして居たが如何いふ病かウンと云て倒れたまゝ往生を遂たり同人は明治八年ごろ東京に来り種々商法をしたが所謂士族の商法にて失敗をした果が十五六年ごろより大道講釈となり近ごろは千住一丁目十三番地の旅人宿中村仁助方に止宿し居たる者なりと、死体は制規の通り(吉沢英明『講談明治編年史』による)

 

 明治三十一年十月三日の「朝日新聞」には、「辻芸人と観覧物の今昔」と題する次のような文章が掲載されている。どういう訳か「講釈」が出てこないが、大道芸の復活を証するものといえよう。

  ●辻芸人と観覧物の今昔

  汚くろしき味噌漉の胴に杓子の天神もて造れる三味線弾きつゝ鐘太皷を合に入れ美音を発して人を驚かせし紅勘も今は既亡数に入りて其亜流を汲む者も現はれけれど乍ちにして跡を絶ちぬ其他飴売の猫八、よし原の勘ちやん、浅草の三坊等も皆死して今や都下の辻芸人中に名物男と称へらるゝほどの者なし又美人には麻布藪下より出でし門付お豊といふがあり又四十前後の老美人にて浅草松葉町より出でしお嬢お鶴といふもありしが両人とも今は影なしされば現今の辻芸人中には三曲合奏、常磐津、新内、義太夫、長唄の各種を始め祭文、浪花節、コセ節、ホウカイ節、清楽合奏、人形遣ひ、豆蔵、手踊、手品つかひ、棒呑み等の種々あれど彼等は昔の辻芸人の多くの如く道楽の結果芸が身を助けるといふにもあらず皆安宿にありて一夜稽古せし輩なれば一として聞得べきものなく又三味線は弾けども僅に二三段より知らず其他は端物ばかりなれば客に招かるゝ事あるも皆同じ事を繰返すに過ぎず自然収入も薄しといふ果然瞽女にて鈴木主水一段を語り得るは少なく浪花節は国定忠次、新内は明がらす、義太夫は太閤記、長唄は越後獅子に定まれるが多きやうなり又角兵衛獅子は養成すること容易ならずして而も収入は其割合に多からず玉乗軽業師に株を奪はれ鶴の丸丸に二つ引の大神楽は家元連綿としてあれど昔のやうに大名旗本の花主あるにあらず偶々祭礼等に招かるゝ事はあれど其余の月日を凌ぎ難きに皆手品師の鑑札うけて興行し居れり次に又竹田機関の書割の画は太だ拙けれど口上の節に一種の趣ありしがそれも近来のはいたく劣りたり是を少しく改良して押絵の狂言や戦争の写真絵など一時流行を極めしが此種の覗眼鏡は間もなく一般小供にまで倦かれ今は却つて香具師の山猫両頭の蛇など争ふて観物するやうになりたれば香具師等は頻りに購入を競ひ居れど昔と異りて造り物を見せることは一切其筋より厳禁せられあれば観物人の眼を晦ます事出来ず唯一時うまくやりしは轆轤首なれど今は斯る馬鹿らしきものを見る者なく活人形は衣裳に莫大の入費を要すれば不入なる節は全損となるに付上等の物は到底出来ず曾て活動写真と白猩々を二州楼にて観覧物とし意外の利益を占めし者ありしが全く珍らしかりし結果にて当今は芸の秀でたる者又は巧緻なる細工物等を観せるよりは新奇異様なる風変物ならでは喝采を博さゞれば彼等の渡世も難しくなりたりと其道の者は語れり(倉田喜弘『明治の演芸』(六)にもあり)

 

 明治三十二年一月四日の「時事新報」には、「張扇一本に世を渡る講談師の内幕を記すべし。」として詳しい記事があるが、その一節に次のようにある。

  ▼真打以下の総数 現今講談師と称する者、真打以下の者を合算して総数三百名程(内五十名程は、俗に大道講釈師と唱へ、一定の席亭へ出でざる者あり)。(倉田喜弘『明治の演芸(六)』による)

 

 明治三十三年一月十一日の「時事新報」には、「講談師社会の近況」と題する記事があるが、その初めの方に次のようにある。

  講談師に関する話は曾て本紙上に記載せしが、尚ほ現状を聊か記さんに、

  営業の人員 は別にさして著しき増減なく、十人廃業する者あれば更に十人の新顔が出来ると云ふ模様にて左したる変動を見ざるも、何れかと云へば幾分か減少する方なり。現在の人員は約四百名に近くして、其内一等鑑札(月税二円六十銭)を受け居る者は僅に二名。二等鑑札(同一円三十銭)を受け居る者は三十四名。三等鑑札(同二十六銭)を受け居る者は約三百名。其他は孰れも無鑑札(俗に大道講釈師)の者なり。(倉田喜弘『明治の演芸(七)』による)

 

 

三 大正期の辻講釈

 

 大正三年四月五日発行の『風俗画報』第四五六号の「詞林」のうち、「狂歌」は、課題が「辻講談。野外劇」で、「辻講談」「辻講釈」などの語を含む多数の狂歌が掲載されている。以下、「狂歌」の項目を引用する。(「野外劇」の狂歌は省略)

 

狂  歌

  文の屋大人選(課題) 辻講談。野外劇、

 

【八点之部】

馬子共が辻講談に聞ほれて半時余り喰し道草

鈴木緑香

机をば叩く扇を開きては銭を集める辻の講談

鶴のや千寿

夏の夜に辻講談を立聞けば足蚊が責る新田くすの木

京人形

七人の真田奇計の辻講師四十二文の金もあつまる

焼打を今見る様に辻々で鉄砲ばなしあぐる講談

人の浪立ぎく阿部の乗切は御厩河岸の大道講釈

永夕庵

講談を駿河町にも人の寄る富士の裾野の曾我の仇討

佩香園

紫の衣かゝげて浅学ののりの法談すなる僧たち

佩香園

辻へ出て痛めし声も張扇打て身過ぎもどうか講談

人寄のよき辻立の講釈に気も張扇打たゝきつゝ

京華亭

入り代り立替る人の新らしき辻講談は古めかしくも

大道に声をも高く張扇講談めかす口の出たらめ

人寄に声張あげし扇より頬げた叩く大道講釈

梅の原

 

【十点之部】

大声も俚耳に入りつゝ往来の人足とめる辻の講談

千寿

孔明の琴を弾ずる講談によせ来る客も聞迯やせん

京人形

試合場の辻講談に立客の手許へ早く迫る銭乞ひ

富士山人

立客をまつ坂町の辻に出て夜討をかける義士の講談

萍水

よしず張りけふの日和を見て居るは辻講釈も山崎合戦

永夕庵

鼻をもぐ夜鷹は居ねど耳をひく講談の出る闇のよつ辻

泰霞落仙

這入たる客は出さじと面白く辻講談のきかす八陣

田鶴子

塵ほこり積る大道講談に貰ひし銭も山と成るらむ

佩香園

矢矧なる長者町にて講談をきくも浄瑠璃御前一段

寝覚居三叟

人の寄る辻講談も太功記家業の顔も古い焼香場

紅葉の家

打留の辻講談も両国の橋の袂で義士の引あげ

往来の人は竪横十文字辻講釈のあたるすぢかい

山陰房

懐の日照し辻の講釈師はらり/\と投銭の雨

 

【秀 逸】

腰叩く按摩も立て聞ならん辻講釈の清洲評定

泰亭落仙

星月夜鎌倉河岸に源平の盛衰記よむ辻の講釈

山陰房

 

【入 賞】

人(省略)

一山者京人形

素通りはさせぬ両国橋際に辻講釈に義士の引揚げ

鶴の屋千寿

境内の辻講釈に宮本の試合に客の手の内を乞ふ

選者 文迺屋

焼香場よみて其日の煙りたつ柳はらなる辻の講談

 

 

 これらから、東京では、大正になっても街のあちこちで辻講釈の行われていたらしいことが分かる。名称としては「辻講談」「辻の講釈」「大道講釈」「辻立の講談」「辻講釈」「大道講談」「辻の講談」などが見え、場所としては、御厩河岸・駿河町・筋違見付・両国橋際・鎌倉河岸・柳原などが見える。又、昼間のみならず、夜間にも行われていたことがうかがえる。

 中には、空想や言葉の遊びによるものもあるようだが、完全に消滅した訳ではないと思わせる資料ではなかろうか。ただ、他に大正期の資料を見出すことができないのは残念である。

 

 

 

付  記 一

 

 吉沢英明『講談資料集』に「都新聞」明治三十四年から三十五年にかけて連載の「寄席の楽屋」から講談師関係の記事を抜き出している。その中に「正流斎南窓」の項があるので引用しておく。「寄席の楽屋」講談師関連の部分は明治三十五年のようであるが、「正流斎南窓」の部分が何月何日なのかは未確認。

 

  ▲正流斎南窓

  (一)此の講釈師も一風変つた面白い講釈で如燕、貞水、南玉などゝ同等の看板です、此の講釈師の噂さをするに就ては彼れの舅に当たる下谷佐竹原の釈席宝集亭の主個(あるぢ)蜻蛉切平八と云ふ老爺の事を少し云はねばなりません、蜻蛉切平八は俳名を化笑と号し狂歌などをやりますが、蜻蛉切は故人になりました花雲と云つた釈師の弟子で雲鶴と云つた者です、講釈も中々達者であつたけれども音声が低いために大看板になれなかつたさうですが、併し能く物を調べて居る男で今時の若い釈師などは迚も及びますまい、今年ハ六十九才の老人となりましたが壮健なもので彼れが四十二の年にハ立派な芸を持つて居るも声の低い為めに真打になれないのを遺憾に思つて大道釈師に為つて蜻蛉切平八と妙な名を付たものなさうですが昔しの大道釈師に青柳観来と云ふ物がありまして其の観来の弟子には青龍刀関羽に蛇棒刀張飛と云ふ者があつたので、夫れから割出して本田平八郎が蜻蛉切の鎗を振つて戦場を蹴散らした事を思ひ出して斯んな名を付けたものでせうが其の弟子に笹切小平太に蛇の目坊可当と云ふ者がありました、蜻蛉切ハ太閤記が得意で普通の太閤記読みよりも余程面白く演つたさうです

  其の後蜻蛉切ハ女房と娘を連れて横浜に赴き伊勢崎町の釈場にて演つて居る折柄、今の南窓其のころハ松柳亭太麗と称した本名高野藤人が同じく横浜へ来て蜻蛉切と共に演つて居た処が太麗は二十三の年で講釈も達者なので蜻蛉切爺は此の太麗の将来に見込あるを見抜いて何や彼やと世話をして居る中此の蜻蛉切の娘のお花が十七才となつて婿を貰ふ妙齢となりしかバ相談の上終に此の太麗を貰ひ受けてお花と夫婦に為たのですが、婿舅の間も好くツて親子共稼ぎをして居たので小金なども貯つた処で浜の方もチト古くなつたと云ふので蜻蛉切ハ家族一堂引纒めて帰京し、神田相生町の今の秋葉の原へ小さな講釈場を拵へて宝集亭と称し茲で昼夜親子で高座を勤めて居ました、其中追々佐竹の原が賑かになつて来たので今の処へ乗出して相応の席にしたものなさうです、

  然るに先代の正流斎南窓が酒の為めに借金が出来て非常に零落し、終に大道講釈に落ちて矢張り佐竹原に出て居ましたが、流石に南窓を名乗つて居る事も出来ませんから気楽斎親玉と称し、蜻蛉切平八とも親しくして居ましたが此の南窓なども芸ハ達者なものでありましたが酒が好きな計りで惜しいかな大道講釈で終りました

  (二)此の四代目南窓の実父ハ上総の吉野田村の百姓であるが百姓を稼ぐのハ可厭だと云つて東京へ出て神田小柳町に居て商法を営んで居る中同人を挙げた者で、種ハお百でも生れハ全く神田ツ子です、

  彼れが子供の頃神田多町の八百屋の小僧になりましたが、此の頃ハ彼の筋違見付の広場にハ種々の家台店が出て居るので、例の大道講釈其の外掻惚チヨボクレ祭文語りなどが出て昼夜とも賑つたものですが、彼れハ八百屋の小僧を廃して此の筋違見付へ天麩羅の家台見世を出した、

  是が大道講釈の隣りであつたのだから天麩羅を揚げながら隣りの講釈が手に採る様に聴れます、彼れハ小僧の癖として同じ講釈を毎日聴く所から聴き覚えに何時其の講釈をソツクリ覚えて天麩羅を揚げながら演つて見ると中々面白い、その中に年頃にもなり愈よ偸み覚えの此の講釈を演つて見たいから女房を持つて天麩羅の方は女房に営業(うら)せ自分は大胆にも傍らへ開きを張り出して自分勝手に松柳斎太麗と名を付けて大道講釈を演り出したのです、是程器用な男であるから聴き覚えの講釈ではありますが中々旨いので体操客が来たさうです、

  其の後筋違見付を取掃つて女房と供に浜に出稼ぎをして居る中不幸にして女房に死なれましたので、底で前回に記した通り太麗ハ蜻蛉切平八の婿になつたものなさうです、夫れから太麗ハ蜻蛉切爺と佐竹原で開きを演つて居ましたが、雨の降る日などハ何時も一杯の客で這入りきれない程であつたから欲が出てモウ一軒を殖さうとて新たに若松亭と云ふを拵へ、従来の宝集亭ハ爺の蜻蛉切若松の方ハ太麗が専ら演つて居たのです、併し蜻蛉切は婿の太麗を立派な真打に為て遣りたいと思ふ処から今の南玉斎も承知して弟子と為し鶴窓と改名させて大道講釈を廃めて本席へ出る様な事になりました、

  然るに彼れハ開きにて十分咽喉を吹切り舅の蜻蛉切平八に仕込まれた太閤記が一種変つた面白味があつた上に、彼れの滑稽が客を倦かさないので非常に客受けが好いのです、

  師の南玉も頻りに骨を折つて居るので本席に入りて益す芸道も発達して来ました、彼の事を釈師仲間でハ御相談/\と綽名を呼びますが、是れハ高座で講釈中「何うだお客人、此処ハ一ツ御相談ものだよ」と云ひ様が頗る面白味があるので終に綽名に呼ばるゝ迄になつたのです、彼れの講談ハ客受けも好いので追々後席を勤むる様になりましたが、例の睦と正派と二派に分離(わかれ)て競争した時ハ師の南玉派で爺の蜻蛉切と反対に立つて睦まじかりし婿舅の間で二ツの席を持つて居て呉越の思ひをして相反目すると云ふ有様でありましたが、何にしろ睦派にハ芸人の数が少くないので鶴窓も爺の蜻蛉に切幕られて非常の困難をしたさうです、其の後正睦和解して此の親子も元の如く睦合ひましたが、親子で席を二個持つて居ては勢ひ競争を免れず、随つて親子の間に不和を生ずるから寧そ席を人に譲つて仕舞はんと若松亭を八百円で他人に売つて自分は入谷町へ家を買求め、講釈の方は河村与三郎と云ふ番頭に補助を為せ傍ら養鶏業を始めました、……

  (三)〈省略〉

  (四)鶴窓の弟子に鶴雲と云ふ者がありましたが、此奴は非常の偸安者で仕方のない男であるから鶴窓ハハ度々意見を加へて人並の芸人に為様と骨を折つて見ましたが何しても直らない、

  底で鶴窓もいよ/\愛想を尽して終に破門を為ました、然るに鶴雲ハ己れの非を悟らず破門を食せた師匠の鶴窓を怨んで居たものと見え、或時鶴窓ハ馬喰町の常磐亭の高座を終つて楽屋へと来るや鶴雲ハ何時の間にか高座の後ろへ忍入て鶴窓の姿を見ると突如飛蒐つて物をも云はず鶴窓の左の頬部へと食付、大福位の頬肉を食ひ取つたから堪りません、鶴窓ハ思はずキヤツと叫んで其の場に倒れた、此の消魂しき物音に席亭の者も何事ならんと駈付たが鶴窓ハ面部一面血塗れになつて居るから一同驚いて介抱して居る間に鶴雲ハ雲を霞と逃げて仕舞ました、

  彼れの面体の左りの眼の下に食取られた疵の痕ハ今でも残つて居ます、鶴窓ハ今より六年計り前に柴田南玉より南窓の名を貰ひまして改名したのですが、三代目の南窓ハ信州松本の生れの者で講釈も達者で客も相応に取つた者ですが、前回に記した通り酒の為めに終に本席より大道講釈に堕落しました、其の伜の鉄之助と云ふ釈師が南窓の名を襲ぎましたが、此奴も親父に似て酒の上が不良ない男で借金など計り拵へて人に迷惑を掛け手の着様のなき釈師でありましたが、南玉斎や今の伯円などが相談の上、彼んな者に南窓の名を付けさせて置けないと取上げて仕舞ひました、

  底で鉄之助は実(みのる)の弟子になりまして燕林と改名せしが、前年肺病で死んで仕舞ました、今の南窓ハ大道講釈で十分勉強したのであるから種も沢山にあるさうですが、夫れでも今尚ほ釈種を作へて居るとの事です、彼れハ夫婦の間に男女七人の子供を挙げ長女ハ本年十九才で本所の若松亭の伜の嫁になりました、

  彼れの弟子にハ南凌に玉窓と云ふのがありますが、南凌ハ元松林伯鶴の弟子であつたが、何か子細があつて南窓の弟子となり本社の実話清水定吉を得意に読んで夜講の真打などをして居るさうです、亦玉窓も講釈ハ下手ではないが芝居がゝりの講釈は気障である、モウ一人の南遊ですが、此の男も勉強次第で夜講の真打位にハなれる釈師ですが、是も惰気者で夫に賭博が好きで年中ピイ/\で居るから今の中に改悛して立派な釈師になる様心掛けるが宜しい(南窓おわり)

 

 これによれば、信州松本の生まれで、明治二十一年に大道講釈に転じ、此方賀気楽とか親玉とか気楽斎親玉とか称したのは三代目南窓である。百姓の伜ながら神田ツ子の本名高野藤八、天麩羅屋台をやって大道講釈を聞き覚え、蜻蛉切平八の婿になった、もと松柳亭太麗・鶴窓で、明治二十九年頃南窓になったのが四代目ということになる。そうすると、(四)で述べられている三代目南窓の伜鉄之助が南窓の名を襲いだというのはどういうことなのか、よく分からない。

 

 「東京朝日新聞」明治二十五年六月二十九日の記事に、

  ●正流斎南窓 三代目南窓は先年物故し忰南海は桃川燕林の門弟となり燕飛と呼れて可なりの講談師となりしにぞ今度神田伯山柴田南玉松林右円等の尽力にて来る七月一日より亡父の名跡を襲ぎ正流斎南窓と改名するよし

とある。これが事実行われたものとすれば、三代目の息子が四代目、本名高野藤八は五代目ということになるのではなかろうか。

三代目旭堂南陵「明治の上方講談師(3)」(『上方芸能』第九号。昭和四十四年十月)には、

  すると二三カ月して、旅先きからフラリとこの席にはいつてきた東京の講談師で四代目正流斎南窓という三十がらみの男が、「よし引き受けた」と胸をたたいた。講釈を終つて茶碗酒の二三ばいも引ツかけたあとだけに威勢がよい。「東京と大阪とは違うんだ。東京では十四五歳から修業をする。オレなんぞは三代目南窓のせがれに生れて、十歳ぐらいから修業したんだ。よし東京流に仕こんでやろう」とその場であつさりと子弟の約束をしてくれた。

とある。この項の初めには「当時(明治二十四五年頃)」とあるが、つる造(二代目南陵)が十八歳とあるから、明治二十七年のことである。「東京朝日新聞」の記事と矛盾しない。これらによれば、本名高野藤八の南窓は五代目ということになる。

 四代目宝井馬琴述・野村無名庵筆記「講談界昔話」三十八回(都新聞。昭和三年)には、次の記述がある。

  これが三代目南窓で、その伜の鉄太郎が四代目を相続し、本名を頭字に鉄南窓と呼ばれてゐましたが、通り名の割には丈夫でなく、三十八か九で若死をいたしました、その後先代馨になつた先々代の柴田南玉が正論、睦両派の紛紜しました際、鶴窓を引上げてこれに五代目南窓をつがせた、御承知の通りデツプリした大坊主で一癖あり気な面魂、脅かしも利いて一風変つた読口でありましたが、この人本名を高野藤八と申し、最初は大道の天麩羅屋で秋葉の原へ露店を出し、百に四ツの天麩羅をあげてゐた、その隣へ大道講釈の定店を張つてゐたのが有名なとんぼ切り平八といふ先生で、藤八は此平八の種本を借ては熱心に写して覚え込み、人よせにコツ/\と空板を叩いて前座を勤め、客が集まると自分の店へ帰つて天麩羅の方へ取かゝつてゐたものでしたが、これがとう/\本職の講釈師になつて鶴窓から五代目南窓になつたとかういふ次第、

 以上によって、「寄席の楽屋」で高野藤八を四代目とするのは誤りであろう。

 

 また、次の記事は本名高野藤八の南窓であることが確認できる。これは明治三十三年一月二十八日から二月十七日まで「毎日新聞」に連載された「釈師一口評」の(十)の一節である。

  正流斎南窓、元の鶴窓にて体格梅の谷に彷彿せり演ずる所大道講釈なれども当時大人気(吉沢英明『講談明治編年史』による)

 これは、技量が大道講釈並みだということであろう。

 

 三代目南窓の最期については、関根黙庵『講談落語今昔譚』(大正十三年)に、

  晩年は売れなくなつて、不平の結果講談組合を脱し大道の辻講釈へ出演し、此方賀気楽と名乗り、後に親玉と名を改めた。これはしんぎよくと読ませたものの、心中ではいふ迄もなく、おやだまのつもりであつた。その時に落首が出来た。曰く『南窓閉ぢておのれで暗くして、これが気楽と馬鹿のおや玉』かくて明治二十四五年の頃、不遇の内に歿し、其伝を詳かにせぬのは遺憾である。

とあるが、先の「東京朝日新聞」明治二十五年六月二十九日の記事によれば、三代目の死亡は明治二十四年のこととなる。

 

 本名高野藤八の南窓については、大正十二年六月二十二日の「都新聞」に次のような死亡記事がある。

  ●正流斎南窓が下足番に殺さる 枕許の金入を盗まんとし発見されてナイフで刺す 犯人は程経て捉まる 二十一日午前四時頃下谷竹町十二の四号寄席とんぼ主人正流斎南窓事高野藤八(六三)が二階六畳の間で就寝中同家雇人下足番通称小野信五郎こと良一(二一)が枕元にある主人の金入れを窃取せんとして忍び寄った処を発見されたので矢庭に隠し持った海軍ナイフを揮って藤八の胸部を突き刺し其まゝ逃走した……(吉沢英明『講談大正編年史』による)

 

 

付  記 二

 昭和三年に「都新聞」に連載された四代目馬琴述・野村無名庵筆記の「講談界昔話」の九十八回・九十九回には、大道講釈の「鶯誠」なる人物が出てくる。

 

  【九十八】

  ……

  亡父(ちち)琴凌が四谷から神田へうつりましたのが文久三年のことで、前申上げた富松町へ移る以前は、久右衛門町に住んで居りましたが、その時左隣に居られたのが有名な仮名垣魯文先生で、山々亭有人だの、宮城玄魚などといふ当時の大家たちが多勢出入りをなさる、琴凌(ちち)も無論御懇意を願つてゐましたが、当時私が十二歳、思へば随分古いお話で、神田の久右衛門町から両国の盛り場は目と鼻の間ですから毎日遊びに出かけます、只今の両国とは大違ひで、江戸時代は此処が遊楽の場所になつてゐた、浅草とも道頓堀とも、又新京極とも趣きは違ひますが両国八景を述べてゐると長くなるからそれは又後日として、並び茶屋、見世物、大道芸、種々雑多な中にデロレンも出てゐれば浪花節もある、それへ交つて鶯誠といふ大道講釈の先生が定店を張つてゐましたが、これが大酒のみで年中酔つてゐる、その代り芸は至極の達者でした

  【九十九】

  この鶯誠は他の講釈を何も読まない、そもそも正月の二日から年末の二十八日まで、一年間あけてもくれても太閤記ばかりを読物と致し、三百六十巻を繰返しては連講するので御座います、実に巧くて面白いから馬琴(わたくし)は毎日正面へ廻つてはこれを聞き、とう/\この人から太閤記を覚えて了つたのだが、……(田邉孝治氏提供資料による)

 

 同じ馬琴の「如何にして講談師と成りし乎」(『文芸倶楽部』第十四巻第十号。明治四十一年七月)には、

  △……処が蛙の子は尚且蛙で、十三位から講談が好きになつて親父が昼席へ出て行くと其不在に家を飛び出して、其頃両国の広小路に出て居た、鶯清と云ふ大道講釈を聴きに行きました。

  △此鶯清と云ふ講釈師は、一年三百六十五日太閤記三百六十巻を立読みにして忌ましたが、私は其れが面白くつて、毎日々々出掛けて行つては一番端先きへ陣取つて、穿いて居る草履下駄を脱いで、其上へ腰を掛けて余念もなく聴いて居たのです。(吉沢英明『講談資料集』による)

ここでは「鶯清」となっている。

 

 有竹修二『講談・伝統の話芸』には、次のような一節がある。

  初代伯山には八十二人の門下生があった。これは「天一坊」という読物を創作した人である。この初代が、もっとも年齢の若い伯勇をもって自分の後継者とした。すると、兄弟子の伯鱗が怒って、「俺を木偶坊にしやがった」といって、自ら木偶坊伯鱗と名乗った。

  この二代目が後の初代松鯉、二代目松鯉のお父さんであることは、周知のとおりだ。伯山襲名は明治初年のこと。日本橋の伊勢本で、二代目襲名の看板をあげたが、そのころは昼席は六ケ月興行で、真打は三席やらねばならぬ。二代目は読物の不足を感じ、なにかいいネタはないかと苦心した。

  ちょうどその時、母親が入谷の鬼子母神へ参詣した帰途、坂本の通りで、大道講釈の鶯声という人が「水滸伝」を読んでいるのを聴いたが、これがなかなか巧い。当時、大道講釈が下谷の佐竹だの浅草の瓢箪池あたりにいたものである。佐竹ケ原の石川力山というのはもっとも有名だったが、この鶯声の「水滸伝」もなかなか達者だった。

 田邊孝治氏は、「王清」「鶯誠」「鶯清」「鶯声」は同音であることから、同一人物ではなかろうかと推測されている。

 

 

付  記 三

 

 菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』(明治三十八年十二月二十五日)下編に「大道講釈」の項目があり、絵もある。同書は殆どが「なり」「たり」の文語文であるが、この項目など数項目が「である」体の口語文であるのも面白い。この記述内容は時代が判然としないが、幕末のようである。

  大道講釈といふものは軍談の寄席で演る講釈を路傍へ葭簀囲を構其内の正面へ講壇を設て其上で講釈をするのである講壇の下は幾個も腰掛を並て客は其腰掛へ腰をかけて講釈を聴のだ煙草の火もなければ茶も出ない煙草が喫たければ互に雁首を煙管に移合ふてくゆらせる茶が飲たければ隣か前か後の団子や寿司やしるこやの露店へ行て呑のだ此大道講釈は木戸銭を取ないがロハで聴といふことも出来ない其は如何といふに講釈を演て居る中は絶ず扇を開て聴客の胸前へ突付て銭のある以上は遣ずには居れない様にするから知ぬ顔をして脇見をして居る訳にもいかないから、三度に一度は無拠遣る又向ふでも貰はずには置かないといふ面構だから客にも随分鉄面皮があるけれども持合せがある以上は寛永銭一ツ位ゐは遣ずにも置ない又持合せがなければ聴て居ずに外へ行くのであるが此講釈を終日聴て居る者はない先長くて二時か三時だがそれも十中八九は少時間の間聴て居るのだが腰掛へ腰を懸て聴く客人は皆遠国者か近在者で江戸で田舎ヘイといつた連中半である腰をかけずに外へ立て聴く連中は工商の小僧が使先の時間をぬすんで聴者が多い其外は諸侯旗本寺院の中間が立聴して居のは銭がないから腰をかけないのである江戸ツ子と女は大道講釈を聞者は一人もない大道講釈は宮本武蔵荒木又右衛門岩見十太郎金昆(ママ)羅利生記に限る其うち宮本武蔵は年中絶間がないが聴く人もよくあきぬと思ふ様だ大道講釈の出る場所は江戸に諸所ある中に木挽町釆女が原両国筋違橋内上野山下浅草橋内麹町堀端赤坂御門外堀端芝増上寺御成門外桜田久保町幸橋外堀端数寄屋橋外堀端などなり中には二三ケ所同所に出る所もあつたもんだ大道講釈にも上手や達者があつたものだが下卑て居て聴て居れない又上(ママ)素張て居なければ客が集らないといふことであつた

 

 また、明治初年のこととして松岡於莵衛の話が、森銑三『月夜車』(昭和十八年)に載っている。

    一 大道芸と私

  明治の初年は、私のまだ小さい時分で、当時のことをよく知つてゐるわけはないのですが、家に十八九の僕が一人ゐて、それが私に附けてありましたのが、自分が面白いものだから筋違―今の万世橋のところ―や、両国や、市内中引つぱり廻して、いろいろな大道芸などを見る悪い習慣を私につけてしまひましたので、もともと厳格な家に育ちながら、従僕に連れて行かれて、それで割合にさうした世界を知つてゐるわけです。……

    十七 講釈・ちよぼくれ

  講釈は、名は知りませんが、相当人気のあるのが筋違にゐて、盛にやつてゐました。それから大道講釈といふのが、日本橋の大通りや茅場町あたりの蔵の前など、店の邪魔にならないところでやつてゐました。しかしこれには、あまりうまいのはゐなかつたやうです。縁日へ出てやつてゐるのもありました。……

 同書によれば、松岡於莵衛は昭和八年に七十三歳で亡くなったそうである。

 

 

 

 田邉孝治氏からは度々の御教示を賜り、資料を御送付いただいた。伏して御礼申し上げる。

 「東京朝日新聞」の閲覧にあたっては、関西学院大学図書館及び森田雅也氏の御高配を仰いだ。御礼申し上げる。