|
大正四年に博文館から発刊された『講談雑誌』は誌名の通り、速記講談を主力とした万人向きの雑誌であった。当時の娯楽雑誌は、講談、落語の速記が大半を占め、花柳裏話、探偵実話、などが加えられていた。『講談雑誌』も「小説よりも講談の方に人気があり、各社の大新聞も、小説を廃して講談を連載せる故、本館でも」(「博文館五十年史」)ということで創刊され、何の変哲もない娯楽雑誌として号を重ねていた。 ところが、大正九年、少し変ったことが、同誌上に起きた。同年一月号に江戸の文明探偵発達史≠ニいう角書のある「怪建築十二段返し」という作品が登載されたのである。作者は白井喬二。本号は従前のように、講談落語の内容である。その中でこの「十二段返し」が、題名もそうだが、一風変っていた。これは明らかに講談ではなかった。一見捕物帖風だが、旧調の捕物帖ではない。斬新な文体、奇想の構成。新しい読物の誕生である。 大衆文学の確立者といわれる白井喬二は、この作を契機として大きく登場することとなる。『講談雑誌』の編集長生田蝶介は、新味を盛り込んだ雑誌作りを意図し、徐々に実行に移していった。白井喬二には次々と作品を書かせ、大正十一年には、六月からついに長篇を開始させた。「神変呉越草紙」という。また生田は同学の国枝史郎という無名に近かった劇作家に、場を提供して長篇を書かせた。「蔦葛木曾棧」という。かくして『講談雑誌』は、あくまでも講談を謳いながらも、この二つの大長講≠呼び物としていくことになった。 「神変呉越草紙」も「蔦葛木曾棧」も、立派な大衆文芸作品であり、のちには平凡社の「現代大衆文学全集」中に収められ、今日では古典ともなっている。だがこの二作品が『講談雑誌』に連載され始めた当初は、評判こそ高けれ、また新鮮さを読者が感じたにせよ、まさかこれがはしりとなって、一つの大きな文学の動きが形成されようとは思わなかったであろう。だがそれは、急速にはっきりとしてくるのである。 大正十三年、はじめて「大衆文芸」という名称が活字となって現われる。その起りの詳しい時期は、前の章でも述べたように、はっきりしないが、『講談雑誌』が大きな役割を果したことは事実であった。 『講談雑誌』が大衆文芸史に占める功績は大きなものがあったが、しかし生田が大正十五年四月号を限りとして、『講談雑誌』から去ったのちは、積極的な意味での大衆文芸史への役割は終った。 昭和に入ってからの『講談雑誌』は、従来の講談や大衆物をとり込みながらも、世相を反映した風俗読物雑誌的な傾向を強め、とくに昭和初期のエログロナンセンス調を見事といっていいくらい紙面にただよわせていく。 生田蝶介より三代のちの編集担当となった真野律太は、昭和三年から十年に至る足掛け八年の在任中、怪奇世界に一見識を有する畑耕一を起用して、「高橋お伝邪淫鏡」「とかげ娘」「黒風ミイラ船(続とかげ娘)」とつづく一連の頽唐小説を書かせた。畑の淫蕩不健全小説は、この時期の『講談雑誌』の傾向を代表して現わしているいるといってもよく、教育とか良識とかにまったく無関係に、どろどろした反知性の時代感情を基底とした真野編集は、是非の論はともかくとして、『講談雑誌』を一の特色ある雑誌として固定せしめたことの意義は大きい。 昭和十年、真野に代って上塚貞雄(乾信一郎)が編集担当となると編集方針が一変し、小説中心の態勢がとられる。小説雑誌として『講談雑誌』は角田喜久雄、横溝正史、海野十三などの『新青年』作家の執筆が目立ち、また山本周五郎、富田常雄、などの博文館子飼いの作家が活躍し出す。時代の趨勢もさることながら、真野時代の奇異な色調は影をひそめ『講談雑誌』は平均的な、娯楽一本槍の大衆雑誌として戦時から戦後をタフに生きぬくのである。戦後の、風間慎一編集担当の時期に、山本周五郎の味のある作品が『講談雑誌』の呼び物となっていたことを、記憶している人はまだ多いであろう。『講談雑誌』の終刊は昭和二十九年。大正昭和の博文館系統の娯楽雑誌では最も長命であった。 |