矢野誠一『大正百話』

(平成10年3月10日)


邑井貞吉の悩み

 『八軒長屋』『甲斐勇吉』『正直車夫』などなど、明治の情感あふれたものを読ませて釈界の第一人者、しかもこざっぱりとした色男で、女義太夫の妻君竹本東猿と連れだっての洋行帰りですっかり垢抜けしたところを見せ、同僚の神田松鯉のごとく稼いだ金をなにかにつぎこんでしまうこともなく、好きな骨董いじりさえしていればそれでいいというしごくオツな人物である邑井貞吉だが、これでまったく悩みがないわけではない。
 こたびは、その「邑井貞吉が悩み」は、抜き読みの一席。
 貞吉が弟に吉弥と名乗る若手の講釈師がある。のっぺりとした色白き男前がわざわいとなるのか、身持ちのほうがどうもよくない。数年前のことになるが、さるご婦人を誘拐して罪となり、別世界と申すにはいささか涼しすぎる暮しを余儀なくされ、ようやく娑婆に出てくれば、そこは気のよい兄貴のこと、捨ててもおかれず引き取って世話をする。仲間の者も貞吉が気の毒だからと、当人の罪は罪として、懺悔もすんだことでもあるし、高座にあがることを許し、吉弥のほうも張扇をたたいて兄貴の口真似よろしく探偵物など読んでいたものだ。ある講釈師の前座がポンと張扇をたたいて、「さてお客様もよくご存知の監獄生活は」と口にして客になぐられたというはなしがあるが、そこは当人も体験ずみの監獄ばなしとあって、すこぶる呑気に読んでみせた吉弥の探偵物には、ほかの者には真似のできない味があったが、考えてみれば当り前のはなしだ。
 根が利発者の吉弥、いかものながらも大島着こなした立派な身装で仲間のところへ突如現われ、百両稼ぎのうまいはなしをば持ちかける。かねてからこのことあるを心配していた貞吉が、あらかじめ口車に乗らぬよう八方に手をつくしてあったから、おかげで仲間うちの被害は少なくてすんだものの、なにせ男前が売り物ときてるから、ひろげた大風呂敷にぞっこん打ちこむご婦人もあって、ふたたび起した刑事問題。兄貴の貞吉はやつれるほどに心配し、いろいろ意見もしてみたけれど効き目なく、家を出てからしばしは姿をかくしていたが、ほとぼりさめてからは立派ななりに身をつつみ、浅草の石川バーあたりをのたくり、渋皮のむけた女を引っぱり出してはまるめこみ、ぶらりぶらりと贅をつくしていたのが知れて、得意の読物を地で行く始末とあいなった。
 仲間の噂によるならば目下未決にいるそうな。それにつけても気の毒なのが兄貴の貞吉。道楽はせず、人間はかたく、芸は良く、それでいながらひとりの愚弟がために仲間への気がね、世間への遠慮、商売以外に外へ出ることもせず、好きな骨董をせめての慰みに、渋茶をすすり、年寄じみた真似をしている。吉弥のためにこさえた借金の愚痴を言うでもなく、ただ黙っている貞吉に、贔屓の客は気の毒がって、あの極道の弟は鬼界ケ島へでも流すがいい。


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菊池真一 mailto:kikuchi@konan-wu.ac.jp or kikushin@kikuchi.dddd.ne.jp