血紅星
露伴子作
(『尾花集』明治25年初版。明治33年6版。青木崇山堂発行。 による)
其一
一も非なり二も非なり、三も非なれば四も非なり、五六七八九十、乃至百千萬億悉皆非なり、昨日は素より非今日も又非明日は又々非に極まつたり、何かは知らず生れ出でしが抑々の非、壮も非老も非病死愈々非、吉凶悔吝善悪邪正問ふまでもなく非の非の非なり、我一大恨を懐いてより以来非の目以て見非の耳以て聞けば他の笑ひの其笑ひが可笑いほど非に、他の悲みの其悲みも可悲いほど非、思へば曼倩が冷罵皆贅語長沙の熱涙も亦空哀、况してや高が悪露を吸ひ取るだけの効能しかない女に向つて恋ぢやとやら情ぢやとやら下らぬ詮議を尽し、毒物より外は買へぬ銭欲しがつて眉間に醜い皺を寄せ胸算に眼の珠ばちつかせる世間一統の虫めらが所行、非とするにさへ足らざる事よ、気の毒ながら拿破翁殿天下を奪ればそれでよいのか、扨々大きな御願望、里の小児めが御山の大将になりたがるやうな大きい御願望でござるは、ハヽヽ耶蘇様とか釈迦様とか異に捻つた物好から天晴よい侠客気取りで居らるゝけれど、一切衆生を弟あしらひ、鬼に与るまい奪らせじと、子を取ろ子取ろの親のやうな顔付して、それで実際二価なしのところ御自分の御内証煎じ詰て確に何程か余りましたるか承りたい、非、非、非、孔子型の聖人になれば人は可いのか、デカルト、カント肌の学者になれば可いのか、賢人になれば可いか豪傑になれば可いか君子が可いか郷原が可いか、風に鳴る蘆の葉同然虚空にひらめく人の舌の餌食になつて甘がられ悦ばれ褒めらるゝ者となれば可いのか、身を利の狗に、利を名の馬に、名を気の奴に、気を道の犠牲にする何れが可のか、但しは勝手放題優游自適がよいか、長い浮世に短い生命太く短く強盗強淫放火殺人がおもしろいか、非、非、非、了らぬ了らぬ、白い歯出して一世を嘲けつて居れば是で我皆非居士は満足か非、喝、茫々たる宇宙人有るなし窓外唯見る死肉の行くを、嗚呼我も亦死肉なり口惜けれど死肉なり、死肉も死肉も世間普通に腐らばまだしも腐れこじけの死肉我ながら所置に方なし。其往時東京に住みて、生きて居るため生きて居る御芽出度い男、死ぬる為め活きて居る可憐な奴輩と伍をなせし頃は、豆糟に鼻を鳴らす豕、虎の前の羔羊とも身を知らいで長閑に食らひ無邪気に睡りしが、悟らずば大蛇の●(「諤」のヘンがゴンベンでなくニクヅキ。あご)に腰も掛くべけれど覚えては一匹の蚤にも心騒ぎのせらるゝ通り、なまじゐに一篇の新詩作り出さんとの望みより少しばかり我といふものに気がついて、驚嘆し揚句は沈思に耽りたく、都会を抜け出でゝ此所雁行山に来たりしより既二年、庵室と云はゞ云へ、我が手で引き結びしばかりの草蘆、里人に無理押付けせられし小童に朝夕を任して我れは唯専念に詩思を錬れど、此所ぞと把ゆべき胴骨をいまだ得ず、あはれ見るもの一人なく褒むるもの半箇なくとも唯我微笑して瞑目するに足るだけの詩作りたきに、歳月空しく流れて功尚立ず、落葉に誘ふ風に秋を送り花を促す雨に春を迎へて、思ふ事たゞ一声に鳴く雉子を羨み、暗夜の空を縫ふ蛍ほどの光輝をも発し得ざるに恥づ嗚呼とばかりに嘆息しつ拳を握り小机を拍つ男、齢は三十二三なるべく髪は縮れて舞ひ上る火炎のごとく、頬髴腮髯鍾鬼に似たり、爛たる眼稜たる骨、見るから薄気味の悪い容態なるに、肉痩せ面垢づき黒める様木彫の羅漢何年の煤に染られ塵壌に汚れしに異ならず。扨も奇怪元是何物と尋ぬるに、産れは日蓮と同じく此山下の小港村、其所に有名の豪家が秘蔵の独り子、父母まだ世にある頃学問修業にと江戸に出でしが抑々の発端で我儘三昧、十六七より詩歌好みしを病の根にして段々怪しく物狂はしうなられ、里に居らるれば何不自由なき身で神仏軽蔑しながら行者じみたる品行、世には不思議の人もありと柴刈る翁の云ひける。
其二
矢弦上にあれば発せざるを得ず、人世界に居つて豈能く長く静ならむ、どうでも一度は、鷲の羽にもあれ七面鳥の羽にもあれ、風を切つて飛行の勢するどく、鏃に血を見むと矢は空を走り、愚の男にもせよ大才の男にもせよ鳴門より恐ろしく浪立ち騒ぐ大川を渉り越えむ意気込強く、是非とも彼岸に先登の功を樹てむと人は水を泳ぐもの。今こそ寂然と音もさせず香もさせず雁行山の庵室に籠り居るものゝ、皆非居士とて初めから其様なものではなく、旧は英気の満々たりし好漢、言を放つては舌を截らるゝことを辞せず拳を揮つては腕を折らるゝことを避けざるほどの猛者なりしなれば、聞くに随分胆抜かるゝ話しの有り。挺天の勢もつて地を破りあらはるゝ筍に斉しく凌霄の望を未来に抱いて何事にまれ躊躇なく突進する十六七の頃、不図せしことより漢詩の面白味に感じて、先は東坡が俊邁の気象紙上に躍るところの平生万事足る欠く所は唯一死といふやうな心意気を慕ひ、移つて李白が雋味に悦び、頓ては鄙みながらも楽天が流麗にして然も異骨を具せるを愛し、飜つて飯顆山頭の嘲りはありながら豪邁にして森厳なる杜工部が雄篇大作に真実畏れ入り、国破れて山河在り城春にして草木深しといふ質の浅露ならざる調を尊びしが、多情の性とて楊誠斎の眼の光り細いところへ届くも捨得ず韓に張に孟に賈に陸に范に山谷に少游に一々感服して是を尋ね彼を追へば、五年早く過ぎ三年また過ぎて二十五六の男盛り、普通の者ならば功名の念燃え立つ胸の中、夢も金紫に撹さるべき筈の齢に明けても暮れても吟誦三昧、もとより家豊に衣食足らざることなければ営々として朝夕の米味噌寒暑の綿入れ単衣に気を揉むことなく、唯好むところの書を買ふばかりの屈托に日を送り月を費しけるが、二十七の春父母引つゞいて世を逝りしに、家を老僕に任し、自己は相変はらず李杜韓蘇等が傍去らず、淵明が粗中に妙あるを愛し玉蟾が実中に虚あるを笑ひ、得々とのみ暮しける。読書千巻眼漸く眠らしく読書万巻見識僅に見識らしと誰やらの云ひしは虚言たらず、皆非何時となく一副の皆非が眼を有ち一箇の皆非が見識を有つやうなりて、自然/\に是を嘲り彼を蔑し、杜によつて李を斥け李によつて杜を斥け、韓によつて蘇を下し蘇によつて韓を下すほどに、元来誰も彼も欠点はあるもの、其所を見られては顔色なきが常なれば遂に皆非が心を飽かすもの一ツもなくなりければ、いで此上は姿こそ変れ詩と何の変つたる訳は無き歌を見て我が欲塞がむと、読むは読むは撰集家集の別なく、手に得るまゝに読みあらせど、漢詩したゝか読むだる眼にて照すに眼に立つものもなく、西行の歌は木拾ひ入るべからずと差配の爺が札にものせし無造作な風情に似たり、定家の詠は何見ても御幣荷ぎが門松立つる詮義のやうに悪く極りきつた姿、人丸赤人は土器くさく景樹は玻璃のぽかん/\、彼も可厭なり是も可厭なりと一概に早も罵り尽し、狂歌川柳俳諧渉猟つて、蜀山は豆蔵、真顔は隠居の囈語川柳は折助と夜発の雑談、芭蕉は中気病みの独語、其角は幇間の太平楽、茶番師の支考蕩楽者の宗因と是また散々に嘲り倒せし末は、飛んで笠翁が伝奇羅貫中施耐庵が小説までを一篇の詩と見つもつて読みたる揚句、傀儡師めらが何巫山戯ると一喝して、西鶴を髪結床の亭主と評し、近松を児童に謎かける婆様と軽蔑し、地口行燈に楽書するは京伝よからむ、箱庭造るは馬琴上手ならむと大笑ひに笑ひし後、いざ我古今第一の妙詩つくらむとおもひ立ちぬ。
其三
何れにも是にも満足せずなりて、増長慢の火焔熾んに胸裏に燃え立てば、皆非自己を天下古今第一のもののやうおもひなしつ、筆下に生じ来たらす花万朶紙上に織り出す錦千段といふほどの伎倆我に備はりありと心得、百鬼の真相を照らすの明眼、七情の帰所を諦むるの妙慧を有するもの我ならで誰かあらむ、あはれ天地の秘機を把へて髄とし人間の本来をとつて骨とし、陰陽の消長盛衰の往来、由つて信ぶるところ由て屈するところを肉とし血とし、草木禽獣一切万物を髪とし膚とし爪牙とし、活溌々たる一大雄篇直ちに是人たり是世界なりといふべきものを作り出さむと健気にも覚悟せしが、気の毒なるは想天地をつゝむにたらず、筆真趣を描くにいたらず、十枚書いても役たゝず百枚書いても役たゝず、忌々しや口惜しやと筆を投じて思考に耽る幾十日、漸く豆ほどの趣向を得しに天晴大願成就とよろこび、小斎に危坐して思へば/\我ながら感服の妙案、よくも考へ出せし事かな、恐らく詩といひ歌といふもの多くとも我が此考への上に出づるものあるべしとも思へずと虚空に悦び嬉しがり、机に向つて直に筆を下せば前とは似つかず千言万言洪水の流るゝごとく電光の閃めくごとく迸りて露淀みなきにます/\勢つき、知らず/\の間に作り了つて、見れば十有余万言句々珠を聯ね金を展べたる名作、是でこそ一世を震蕩し後代に遺すに足れと自ら出板して世に問ひしが、是非の評さへするものなし。扨は俗物めらに我が詩は分らずと見えたり、分らぬも道理、大声は俚耳に入らず浪花節の却つて流行る世なればと皆非苦々敷く冷笑ひしが、さるにても当時文壇にさる人ありと知られ我も少しは話せる奴とおもふたる一是といふ男の何とも云はざるは如何にぞや、試みに一度其男を訪ふて見んと平常は閉ぢ籠りてのみ日を暮せる皆非、満腹の不平を抱きながら山の手に住へる一是を訪ひ、初対面の口誼終るか終らざるに既傲然と我作の善悪を質せば、一是気の毒そうな顔つきしつゝ、貴作の善悪は小生申すに難し、御心づかれずの事には相違なかるべきも全体皆古人のものなり、と斯く申しては必ず否々と仰せらるべけれど、先しばらく聞き玉へ、何処を一ケ所貴公が御手柄といふべきところ全く無く、詳く見れば御趣向も誰やらの何に誰の何を綴ぎ合したるものに過ぎず、直言を許し玉へ、徹頭徹尾一ツも古人のものたらざるなし、形も変り姿も異りてあらはれ居るところを見れば貴公もまさかに剽竊生呑をしやうとはおもはれざりしなるべきが貴公の特所といふもの一ツもなければ、仮令何十万言つらねられしとて悉皆貴公のものにはあらず、失礼なれど一章を取つて指摘いたさば此句はそれ陸亀蒙が句と同意、此所は躬恒が詠を其儘、梅村の彼言は此所に斯うなつてあらはれ居り、岫雲詞逸が何処の趣向で此章の全体は立つて居りまする、次の情話は金鐘児と如玉の紛紜にひとしく、此の一段は西楼記の楼合と同竇より出で居るではござらぬか、篇中の此男は元来前年に誰が作中の誰やらで後年は誰の作中の誰ではござらぬか、と一々指摘され、皆非大きに驚いて、はつと心づけば皆云はるゝ通り、自分に一向其気は無かりしが考ふれば一言一句も皆古人のもの、散々に云ひこなされて答も出ず、早々と逃げ帰つてどつかりと坐し、溜息ばかりついたりける。
我もとより古人の功を奪つて我が名成さんなどいふ野心一点も無かりしに、口惜しや多読真を害して、何時しか我といふものゝ悉く読みし書物に奪ひ取られしも知らず、雑然と訳も分らず手あたり次第に読みしものの自然凝りて我となりしとも又心づかず、我が我がとのみおもふて作りたりしもの云はれて見れば真に我れの作にはあらず、我の天より感得して我の発し出せるもの何一ツあることなし、忌々し/\十年の苦学枉げて他人の奴となりしか、夫れ書を読んで書に服さば奴たるに過ぎず書を読んで書を用ゐ初めて可なるべし、最早我用ゆるに暇なし腹立しの書物めらに我が本来を失はれたりと憤を発して黄巻赤軸取つては投げ取つては投げ、秘蔵し来れる詩集も歌集も恨みの一片、裂き捨つるやら唾かくるやら、乱暴狼藉白痴を尽して夫より雁行山に一身の他の味方を頼まず、肝胆を錬る二年なり。
其四
丸木の桂笹葺の屋根、竹椽わづかに二方をめぐれど雑巾がけの面倒も入らぬ無造作の庵室、日出づれば皆非悠然と渓について漱ぎ日暮れば短檠の下に兀然と端座し、明けても思考夜に入つても思考、或は春の朝、霞万里の海原の涯に靉靆て禽●(クチヘン+「皆」。かい)々と屋後の孤松の梢に鳴けども、立出でゝ山の欠に仄白う見ゆる花尋ねやうでもなく、或は冬の日脚短く時雨ばら/\と降る間に闇となつて、木枯の音淋しき裏に猿啼く声虚空をつんざき渡れど、酒にひとり寝の床を温めて物悲しき山住の憂さ忘れむとするでもたし、唯一心に尋るところは詩趣、もとむるところは妙文、観じ来れば古往今来の詩遂に是れ漆桶不会、罵り去れば錦心繍腸の客も未だ抜舌の罪囚たるに過ぎず、一念を天上に馳せて考ふるに丹桂籍上名を録せらるの詩仙もなく、想ひを地獄にめぐらして案ずるに鉄札金字あり/\と某悪歌をつかね某淫詞を作つたりと記されあり、我皆非つら/\慮るに六千年来の人皆盲聾●(ヤマイダレ+「音」)唖、仮令青紗の衣紅玉の唇よく歌ひよく吟ずるものあるも畢竟籠裏の痴鸚鵡なり、眼を転ずれば他の泥塊肉団なるのみならず頭を抬げみれば自己既に斬られて三段となりぬ、噫言下に言の非を知り、念頭に念の非を知ることは既に得たり、何の日か一物も来らざる底の肩を休めて巌頭に横臥し清風を領せんと工夫の外は無かりける。
皆非例の如く思考に耽りける折しも、明け放したる窓よりさしこむ月光の膝に落ていと美しきに、思はずも頭をあげて空打仰げば、紺青色の天に繊塵の舞ふ無く、月澄み渡りて何とも云へず清らかなり、流石頑僻に凝りかたまりたる男も、景色のおもしろさにそゞろ浮れて庵の前に立いでつ、何所を的といふことは無く●(ギョウニンベン+「尚」)●(ギョウニンベン+「羊」)すれば、人の香もなき山中の事、殊更夜間の物静かさ、万籟皆死して唯折々黒みて見ゆる杉立の中に微風の囁く声するばかり、気も自然清みに清み、一点邪悪の念慮なく、足に任せて漫々と辿り行く上り下り、左に折れ右にまがり谷に近づけば水音●(サンズイ+「堂」)々と鳴り響き、森を過ぐれば露ひいやりと領に落つ、欲は軽き単衣なり道は左までに難渋ならねば何時しか峯の頂上に来りぬ。此所は芝一面に平地を掩ふて東は際限なき太洋に望み、見上るに目に障るものもなく、連山左右にひかへ、小湊勝浦は彼所等とばかり、里の人家も隠れて知れず、皆非ひとり峯頭につゝたちて足を止めしまゝ見渡せば、洋の面遥に異国かけて輝らす月影我を包み、八重の潮路の潮煙り朦朧と遠く下界を罩め、長風両腋を煽りて音もなく降る露冷かに衣襟を潤す心よさ、我自身俗界の人でなく既天宮裏の客となりしやう覚え、寂然として唯月を望みつゝ心の中に、世々の人の月はながめし紀念ぞとおもへば/\濡るゝ袖哉と昔時の人の読みしも道理、嗚呼、我襁褓の中に在りて風車麦藁笛に余念なく遊びし頃も此月の光り柔かに我が顔を照したるらむ、また/\●(クチヘン+「瓜」)々として啼き蠢として動く嬰児なりし頃にも柔く我を訪ひたるなるべし、馬の尾を抜き蜻蛉縛りて遊びし頃にも我を照らし、吟詩詠歌に耽りし頃にも無情からず学びの窓を音信れ、今また我を照らすをおもへば、何年かの後皆非居士の、名は卒塔婆に朽ち骨は荒野に瘠狗の嬲りものとなるとも、其朽かゝりの名に慈愛の光を加へ其嬲られものゝ骨に平等の輝きを与ふるなるべし、よしや我、我が望を遂げず此儘に死すとも夫によつて見捨ざるは此月、我仮令ば悪事をなすともまた見捨ざるは此月、嗚呼生の前をつゝみ死の後をつゝみて始終平等の愛を我にそゝぐもの彼所にあるものゝ他には誰あるべきや、葎生る宿にも檜の木作りの殿にも同じ和しき光りの美人の頼もしさ、世をすべて詐偽我欲争闘ばかりのあさましきものと見たる我も其頼もしさ其美はしさ限りなき其誠ある光りを浴びて限りなき悦びを今こそ得たれと、首をあげて高く仰げば、月光水の如く額上に注ぎて、満身の汚濁を清めたるかとおぼゆるほど心よく、恍然と我を忘れ時を忘れけるが、何方より風に吹かれ来しか雲も無かりし月の前に少しの白雲起ると見る間に冉々として降り来ぬ。
其五
綿花の如く白き雲を踏むで一箇の美人飄然と地上に下り立てば、奇異の光明衣袖の間より迸つて其所等ばつと明るく、妙香かすかに薫じて万木に花あるかと疑はるゝばかりなれば余りの不思議さに皆非其方を屹と見る時、蓮歩を移して近寄り来る女、面は白玉の如く唇は丹花をあざむき、曲眉豊頬まことに人間以外の仙姿、身には素地の錦の衣ゆたりとまとひ頭には玉の簪をいたゞいて一点無雅なるところもなく、皆非に向つて慇懃に会釈しつ。君は人世の塵に交りて居たまへど元はこれ大羅の真仙、皆非居士と自ら称び玉ふ方にはおはさずや、妾は月界の賤婢海棠と呼ばるゝもの、今宵図らずも我が主広寒殿より此土を望みて才高く学博き君あることをおもひ出され、あはれ君を招きて一篇の詩を得むとおぼしたゝれしまゝ、妾命をうけて是まで参りし事なれば、いざ諸共に虚空をふみて月宮殿に来玉へかし、駕雲の術は君得玉はずも妾御手をとりてまゐらすれば登天の道危きことなし、いざとばかりに雪の如き腕さしのべて皆非が手を取らむとするに、普通の者ならば願ふてもならぬ桂の都へ仙女に手引かれながら行くこと気の狂ふほども嬉しよろこぶべきに飽までむづかしき皆非、莞爾ともせず、下らぬこといふて来て我を煩はすものかな、才高く学博きとは其方の御世辞、世辞をよろこぶほど皆非いまだ老耄はせず、我は人世の塵に埋もれ居て沢山なり、仙界うらやましとて汝が主人の奴となるは厭なり、我は詩を人のため作ること出来ず、達て詩が欲しくば他所を尋ねよ、詐偽で長者になりしものゝ為にも一度か二度三四十銭の料理甜らせられ地廻りの酒飲まさるれば、雕虫篆刻の技倆をふるひ円機活法やら佩文韻府やらを切り抜き糊張り色々の事して別荘を褒めたつるやうな詩人は滅多にないといふ世ではなし、我は無器用にして左様いふこと下手にも拙劣にも全で為た覚えなければ謝絶まする、と苦々気に云ひ放てば、海棠羞を含みて尚もすり寄り。まことに御言葉はさることながら、君を奴とするの何のと申すではなし、かね/゛\君が高徳をお慕ひある姫宮の、君を尊び玉へばこそ遥々殊さらに君が詩をもとめらるゝなれ、月宮殿に行くこと厭と仰せあるとも、其通り帰りて申さば使命を果さぬ罪は勿論、君の来玉はざるも畢竟は妾が言葉の足らず心の到らぬ故と姫君に恨まれ申して、此海棠の立つ瀬無くなるべし、願ふは妾を可愍と思し諸共に兎も角も彼方へ行て玉はるべしと手をとりにかゝるを振り外し、厭なりと一声高く叫ぶ折しも、亦又其辺ばつと明るくなり清香陣々と空に浪打ち、年は二十三四とも見ゆる明眸皓歯の仙女忽然として天下り、緑り勝の錦の衣の裾長く曳き、孔雀石の挿頭をゆら/\と月光に輝かせながら、皆非を三拝望して恭しく云ふところは海棠が言葉に異らず。先に海棠といふを御迎ひにさし上げたれど、御来臨なきに如何の様子かと妾嬌鶯姫君の命を受けてまゐりし、といふだけを附け加へて叮寧に云へど、厭とばかり答て空嘯ぶく皆非をもてあまし、去りもせず迫りも得で如何はせんと二人ひそ/\談合ところへ、紅き光りさつと射して緋色の雲乗り捨てつ下り来るは紅の錦着て紅玉を聯ねたる腕輪首輪肉に食ひ込むやう穿め、見るから活溌した身の挙動、つゝと嬌鶯海棠の傍によつて、何故早う皆非先生を迎へ玉はぬ、姫君は海棠さま嬌鶯さまの何時まで帰り玉はざるに御気を焦躁ち玉ひて、夭々疾く行て来よとの仰せ、早速来は来ましたるが何した訳といへば二人は口を揃へて、先生は厭とばかりで御承知なければ帰つて斯と姫君に申すも悲く、詮方なしにいろ/\と言葉を尽し月界に御来臨あるやう御すゝめ申せど其甲斐なきに弱つて居りまするとの云訳、聞くより早年も十六か七の若さだけに夭々無邪気に感情するどく突然皆非に身を投げかけて。君月界に来玉はぬ中は此身を無いものにしても飽まで御傍は去らざる覚悟、あはれとおぼさば妾と共にいざ来玉へ、と手をとるに、尚も情無く厭とばかり返辞すればわつと泣き立つて袂を放さず、嬌鶯も取り縋れば海棠も附きまとふに皆非弱り果て、さらば登天せんと云ひつゝ油断見すまし逃げ出して麓へと心ざし、息も為敢ず駈け下りる前面に忽ちあらはれ出でたるは、黄金の線の縫模様かゞやき渡る衣裳して黄金の笛を持つたる女、銀色の衣霜より白く白金の撥を片手に持つて女の妾に伽羅の琵琶いだかせ従はせたる女、玄衣玄裳黒曜玉の簫もつたる女、齢は三十ばかり品格飽まで高く紫地の衣に紫水晶の飾りつけたるを着たる女と合せて五人の仙女後より追ひ来る女どもと共に皆非をこそは取り巻きたれ。
紫色の衣着たる女弁舌さわやかに頻りに五月蝿まで説きすゝむれば皆非大喝して。左程我を迎へたくば汝等が主と頼むもの自ら来て迎へよかし、何十人汝等来たりて如何やうに説くとも汝等のみでは行くことにあらず。
其六
艶も無く膠もなく皆非おもふさまの我儘云ひ散らして豪然と身を脱れんとする折しも、虚空昼の如く明るくなつて桂花の芬香人を襲ひ、雪より白く蝶より軽く風に舞ひ下る玉の華珊瑚の莟繽々紛々と頭上に墜ちかゝりては幻と消え光ときらめくに、驚きあきれて天見あぐれば、虹を其儘七彩爛然たる長橋斜に蒼穹に懸りて、それを今珠を綴りし衣裳●(カネヘン+「将」)々と鳴らしながら下り来る一個の仙媛、桂の宮の姫君とは是なるべし。齢は三五か二八とはなられぬ様子、容顔の気高さ風采の清く麗しさ、人間界の言葉では万が一も形容およばず、楚々たる姿勢に一点塵俗の気なく亭々たる気宇自然仙境の君たる徳溢れて、流石の男も我知らず頭の下るやうな心地す、まして海棠夭々等は一斉に敬み礼して立迎ふれば、附き随ふて来し幾多の仙女も威儀を崩さず態度を乱さず整々として守護つゝ、漸く此方に近くにぞ皆非は金紫に照らされ珠●(オウヘン+「幾」)の光に撲たれて、我が身の鄙しく汚げに我が衣の垢づき破れたるも今更のやうにおもはれ、少しは恥かしさに殊更とでは無くて鼻白めど元来怪しく捻れたる性質、何の其様なものに一寸たりとも我が魂魄の居所動かさるべきやと首昂然と擡げて見てあれば、毫末の懸念もなく見栄もつくろはず何一つ心を置く風も見えず悠々として彼姫皆非が前にすゝみ、会釈程よく微笑を含みて。幾度か先程より使ひをもつてお迎へ申せしは妾の不敬、招きたくば自ら来よとは御道理なる御言葉、斯の通り礼薄く心浅かりし罪は御わび申して妾自身お迎ひにまゐりたる以上は最早厭とは仰せられまじ、いざ御来臨あれや妾が住居へ、是とまをす風情もなけれど君が御足を載せたる此世界とは自然変りたる趣もありて少しは可笑うおぼさるゝ節もあるべし、予てより一度御遊を仰いで月界の山川が霊にも詩仙の君が一顧の栄を荷はせ、草木の神にも高邁奇偉の君が一言の評を賜はるの誉を得させたく思ひ侍りしに、今宵是より御遊あらばひとり妾等が喜悦のみならで非情の山川草木も知己に感じ御恩恵の雨露に浴するを如何ばかり喜び申さんいざとばかりに一句も云はせず誘なへば。此上は何御辞退まをすべき、但し疎放の野客礼義は嫌ひでござる、御前様は月宮の尊さ比ひなき御身に渡らせらるゝも皆非元来傲慢に節付したる礼義といふもの、弱い奴が甲冑とし強い奴が利器とする虚礼虚文といふものは、理非は兎も角も一体嫌ひでござれば、頭をひよこ/\と下たり腰を無暗に屈めることは御免蒙りまする、御客でござれば座は広寒殿の第一位に願ひたい、言語は此通り無遠慮でよいとして欲しい、食ひたいと望むものあらば食はして貰ひたい、飲みたいものは飲まして貰ひたい、寝たくなつたらば寝かして下され、躍りたい時は躍らしていたゞきたい、加之見たところ千紫万紅さても奇麗な女どもが多いが彼等をば皆御前様が使ふ同様此皆非にも頤で使はして横にせうと縦にせうと勝手にさせて下され、如何でござる姫、一切御承知とあらば御招きに応じて月世界に此眼の光りを一寸与れませうが、一ツの条でも否左様はならぬと仰せあれば、折角お出向ひにはなりましたが行く事は我厭でござる、庵へ帰つて寝た方がよろしい、随分時間は我等の方でも高いものでござる、一夜にもあれ二夜にもあれ我が生命の片割れ寿命の何割かにあたるものを廉価く御前様のために費ふて堪るものではござらねば、此方の云ひ分通して貰はぬ以上は御免と、すつかり云へば姫は笑ひながら。其様な御注文に否と申すやうな悋な人の当御世界には多いと見えて大分御念入りながホヽヽ御笑止や、何の一ツも御望み通りに致し得ない事はござりませぬ、との答。さらばまゐらう、先夭々左の手をとれ海棠右の手をひけ、嬌鶯は傍について居て煙草の世話せよと云へば皆其通りに立働らくを、殊勝/\と褒むる間に既足の下は錦雲起り、雁行山は豆のやうになつて見え、大空一ぱい仙女等が音楽響きわたる中につゝまれて天地一白の月光の裏を昇り行きぬ。
其七
寂寞たる石室の中風死し人空しうして静に立上る金猊の香の煙りの如く、皆非が一行雲を踏へて蒼穹を安らかに上れば、少時する間に月宮につきぬ。いざ此方へと愛らしき夭々が導くまゝ随いて行くに、鏡の如く滑かに照り渡る石敷きつめし道尽くるあたりに白珊瑚の楼門立ち、それをくゞつて堂に昇れば金碧煌々として眼も眩むばかり、扉は斉貝をもつて張り床は銀板をもつて填め、琅●(オウヘン+「干」)の柱琥珀の天井、善尽し美尽し到らぬ事なし。されども皆非一言褒めもせず愛想も云はず、むづと玳瑁の椅子に腰かけて姫と対ひ坐し、侍女等が持ち出す瓊漿玉露を飽まで飲み●(オウヘン+「其」)菓瑶芝を無雑作に食ひ、様々饗応す姫の心尽しを何ともおもはぬ面魂、何時しか仙家の酒に酔ふて耳熱し瞼紅うなり来れば、笑ひ高く声大に。先刻より色々の美味珍膳を侑められたるは嬉しけれども、我物を貰ふて悦ぶ乞食にはあらず、人の心の誠我にやさしきをこそ悦べ、姫若し我を捨むとならば是にて足れり、一篇なりと我が詩を得むなど思はばまだ/\待遇足らず、何ぞや此様なる下物食ふと其儘腹膨れて一向さらに妙でなし、可笑もなし面白くもなし、皆非下界に在る時は唯松風を酒の下物に窓撲つ霧を晩食の菜とせしが未だ聞かざる仙界の歌聞きたし、それを下物に今少し飲まむ、未だ見ざる天女が舞見たし、それを下物に猶少し飲まむ、歌舞に錬熟せるものあらば誰彼とは面倒なり一度に残らず百人にもあれ千人にもあれ、此薄寒く広い堂に揃へて出し歌はせよ舞はせよ、一曲所望と望めば姫は打笑ひ。何事も珍客の御意そむくは畏し、それと指揮に海棠嬌鶯夭々はじめ、広寒殿裏三千の麗●(「女」+「朱」)弾ずるものは弾じ吹くものは吹き、歌ふもの歌ひ舞ふものは舞ふにぞ、嚠喨たる物の音、清朗の人の声、彼雲を遏め是腸を断し、翩々たる廻雪の袖より蘭麝の香迸りて、佩玉戞と鳴り金釵時に遺ちて響くも風情ありけるが、舞終る頃には皆非はや酔ふて泥の如く、肢体まさに流れむとするやうになつて椅子にも堪らざる様子なり。姫は峨眉をば皺めつゝ。如何に皆非先生、今は既時も逼りて長くは此所に君をとゞめむこと難きに、其様に酔ひ玉ふては折角願ひしことながら一篇の詩も作り玉はむこと難かるべければ、妾が望みの叶はざるは御恨めしう存ずれど今宵はお送り帰し申すべし、重ね/゛\君が御筆の痕をもとゞめ得ざるは悲しけれどと、少し恨を含みたる眼中鬼をも蕩けさすべき美しさ、皆非夢幻になつてほと/\死せる如くなりしが、今の一言聞くと均しく、酔眼濶と見開きて、紫色の煙りもや出づると疑はるゝほど怪しくも瞳を光らせ、虹の如き気長く吐きて後斗大の鋼鈴風に鳴るごとく、アツハヽハヽと巨口あいて打笑ひ。酒が詩を食つて終ふものでもあらじ、酔が詩を腐らすものでもあるまじ、酔つて詩がならずば飯食つても詩はならじ、酒に食はるゝ詩ならば女にも食はるべく財にも食はるべく豆腐にも食はるべく茶にも汁にも食はれて仕舞はむ、ハヽヽ其様な詩が成程/\死人の多いを願ふ坊主の食物となり、婚礼の世話したがる陰徳家の食物となり、心に隣家の娘覗つて実際悪所通ひせざる君子の食物となり、随分世間に褒めらるゝであろうよ、ハヽヽヽ我皆非酒に詩は飲まれず食はれず、我が詩が酒を食ふばかり、李白が詩も酒も食らつたればこそ一斗百篇、酒に食はれて何詩のなるべき、酔ふたれば作り得じとは憚りながら酒に詩を食はるゝ奴等にいふてやつて下され、皆非が詩は酒をも食つて自を肥やし女をも●(「肴」+「殳」)子をも鴆をも劔をも孔子の汗をも金蓮が涙をも食ひに食ひて自己を肥やさむとするほどのもの、其様な御心配無用でござる、いで/\筆を揮つてくれむ夭々汝墨を磨れ、海棠汝紙を展べよ、嬌鶯汝尚一杯を我に与へよ。
其八
皆非が云ふこと露辞まず、夭々墨を磨し海棠箋を展ぶれど、夫等には目もくれずして嬌鶯が斟み来る酒に舌鼓うちつゝ一杯一杯又一杯、酔ひの上に酔を重ねて今は既睡らむとすれば姫は気遣はしさに声をかけ、先生先生と呼べど漸く答も疎し。是ではならぬと夭々主人が意を受け、もし/\と揺りさませば瞼すりすり大欠伸して睡りはせぬ安心しやれと高笑ひしながら、我前に展べたる白箋とり除け。是ほど酔ふては屈むで物書く事大迷惑、あはれ白壁もがな、突立たるまゝ仰向いて筆取らむとの我儘に、姫は例の微笑を含みて、さらば楼上に来り玉へ屈竟のものこそあれと先に立つ。お随伴いたさうかと身を起して蹌踉となるを機転の利いたる海棠衝と走り寄り肩貸せば。扨も柔●(「車」+「而」+「大」)うて心持のよいと悪戯まはり、彼方によろめき、此方によろめき、丿(へつ)●(「八」の右半分に似た字。ほつ)として堂の裏を歩めるほどはまだしも、瑪瑙を畳める階にさしかゝる時如何しても一人登れぬやうすなり、夭々左りの手をとり海棠右の手をとり嬌鶯やら其他の女どもやら後面より推し上げて辛くも楼に上すれば、此処はもとよりすべて水晶をもつてつくれる高楼、三面皆開けて一面わづかに白石の壁をもつて障げたるなれば、玲瓏洞徹水中にあるに異ならず、吹き来る風も一段涼しうて何の光のあるにはあらねど美人の眉毛を数ふべき程明るく、眼を放つて眺望すれば雲遠山を鎖し樹清泉を掩ふて、仙鶴輪をゑがき舞ふあれば、神鹿伍をなし遊ぶ風景、昼とも夜とも分別つかず面白し。姫は唯茫然として風に嘲き居る皆非に向ひ。はや夜の明くるも程近し、明けては口惜けれど君を此所に止むることならねば、申すは君を促すにて無礼なれど成ることならば彼所に御筆を揮ひ玉はれと指さし示すは白石の壁なり、仰せにや及ぶ心得たりと立寄つて皆非つく/゛\見るに、乳のやうに白く玉のやうに瑩れる一面の石板、いづれに綴目のあるでもなく正に是人間有ること無き仙界の奇物なり。あら快や、おもしろや、我はおもへば下界の匹夫、取るところもなき身の男たるに、秦皇漢武も見るに及ばざりし仙境に招かれ、不思議の美酒にかくまで酔ひ、幾千の天女が歌舞吹弾に慰められ、其上水晶楼上の白壁に我詩を超し我墨痕纂限の世に遺して、是は皆非居士が御筆のあとなり御心の遺像なりと姫をはじめ夭々海棠等月宮にありとあらゆる者どもに持囃され吟誦されむこと、思へば思へば大丈夫一生の快事、賁育が勇力も亡び、孫武が智術も滅し去り、覇図王業も烟りと消え露と散り了はつて、飛鳥の影止まらぬごとく宇宙を過ぐる中に千年経つとも万年過ぐるとも、此白壁に墨痕残らむ間は皆非は生るも同然なり、仮令骨は朽ち肉は流れ去るとも詩は是直に我が魂なれば、不死の魂魄此壁に残つて下界の皆非が仮り物の四大を返却を微笑せん、あら快や、おもしろや、いで/\姫が望みに任せて、如何なる題なり出さるゝまゝに思慮分別の虚飾須ゐず一呵真実の思ひを述べむと嬌鶯がさし出す筆を手にとりあげ、しどけなき夭々が捧げて持てる硯の墨汁たつぷりと含ませつ、姫の方顧みて莞爾と笑ひながら。此方寄り玉へ寄り玉へ、卿が肩を仮したまへ、余人が肩は好ましからず、我今酔にゆら/\として足定まらねば肩仮し玉へ、酒臭くとも厭ふことかはと云はれて姫は少しも厭ふ気色なく傍に寄れば、皆非得々と左りの腕さしのべて遠慮なく雪白の姫が細首に搦み我身もたせかけて哈々と又笑ひ、如何なる女も男も嫌ひなりし我なれど、初めて逢ひし其時より卿ばかりは真実好きなり、いざ何なりと題出し玉へ、題詠もとより愚な者なれども皆非みずから今撰まんより我気に入りし卿の撰まむ題にて吟じ出さんこそ却つて力も入るべけれ又可笑くもあるべけれ、苦しからねば望み玉へと芬々たる酒気吐きながら姫の顔見詰めて云へば、姫は繊手に力を籠めて蹌踉かゝる皆非を抱きつゝ、情を含める眼使ひ美はしく。題を望めとの仰せ如何にも嬉しく、思ふまゝの事申さば、人間界にては妾等の姿を絵にかき詩につくり珍らしがりて悦ぶよし、真実此月宮にてもそれと同じき道理にて人間界の事をこそ尊みもすれ慕ひもすれ、其他の事をば左迄はよろこばず、題を望めと云はれしを幸ひ、人間といふもの題にしていたゞきたけれど、あまりに意の広うてとならば其人間の一つにて居らせらるゝ皆非先生御自身を題にして御筆揮ふていたゞきたし、さあ月宮のものゝ望み無理ではござりますまい、題は人間、皆非様と、柔和い声にて云はるゝや否、脳沸え心裂け胆破れ、畏懼の氷胸に結び無念の火腸肚を焦がし、鬱悶に半身の筋脱け力亡び、憤怒に半身の肉動き脈躍ると斉しく、熱血霧となつて八万四千の毛孔より飛び、黒烟頭上に発つて奥歯の軋る音烈しく、見る/\眼は輝き渡り五体に火炎の燃え立つ途端、呀と一声叫ぶ刹那、身を躍らすこと八万由旬、血紅の光りを放つ怪星となつて流れ隕つる無辺際空 (終)