宮沢賢治とエマーソン ――詩人の誕生――

信時 哲郎  


 宮沢賢治の比較文学的研究はこれまでにアンデルセン・トルストイ・モリス・デ=アミーチス・ルイス=キャロル・ホーソン・ヴェルヌなどが取り上げられているが、作品上に引用や影響の痕跡をほとんど残さないうえ、蔵書が現存しないためもあってか、膨大な賢治研究の現状からすると立ち遅れた領域であるとの観は拭えない。

 そんななかでエマーソンについては、賢治が読んだことがはっきりしていながら、ほとんど注目されないままでいる。エマーソンの汎神論的世界観が賢治と「似ている」と、漠然と言われることはこれまでもあったが、具体的に両者のテクストにあたって、賢治の法華経理解の前提にエマーソンがあったと言うには大沢正善氏(「宮沢賢治と『エマーソン論文集』」/『文芸研究』/昭57・5)を待たねばならなかった。しかし管見のかぎり大沢氏の後にも先にもエマーソンが本格的に扱われたことはないようである。

 賢治は自分の作品を「詩」ではなく「心象スケッチ」であると強調していることから、近年の賢治研究は「心象スケッチ」を「詩」としてではなく、独自の表現形態であるとして法華経信仰から追求するようになってきた。しかしエマーソンの「詩人論」の影響を考慮すると、本物の「詩」のことを「心象スケッチ」と呼んでいるととる方が自然に思えてくる。賢治が自称した如く彼を「心象スケッチ屋」と呼ぶべきかもしれないが、本稿で敢えて「詩人」と呼んでいるのはそのためである。大沢氏の論文は優れたものだが、エマーソンの「詩人論」には触れていないので、本稿では詩人宮沢賢治の誕生とその方法論にエマーソンがいかに深く関わっていたかを中心に論じていくことにしたい。

 『校本宮沢賢治全集』の年譜、明治44年二学期の項に、盛岡中学の寮で賢治と同室だった藤原文三氏の証言に「(賢治が)教科書は見ず、『中央公論』の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いた」とある。また賢治の教え子である照井謹二郎氏は、昭和7年1月に病床の賢治を見舞った際、妹トシの署名・落書き・書き抜き等のある大正2年第五版発行の戸川秋骨訳『エマーソン論文集 上巻(玄黄社)』を譲り受けたという(「妹トシの落書」/『啄木と賢治』/昭和51・1)。藤原氏の記憶は「三学期とも考えられる」とのことであるから、明治44年9月から45年3月までの期間である。論文集の上巻が明治44年2月、下巻が明治45年1月の発行であるから、発行後すぐに読んだと考えることができる。尤も照井氏の譲り受けたものは大正2年発行なので、これらの資料だけでは中学時代に読まれたものが確かに戸川訳であったとは言えない。しかし明らかに読んだと言えるのも戸川訳だけなので、今回は戸川訳の影響に限って考察することにしたい。

 さて賢治の大正15年頃のメモ「農民芸術の興隆」には、「エマーソン 近代の創意と美の源は涸れ 才気 避難所」「エマーソン 斯ノ如キ人ハ」とあるが、これが「上巻・芸術論」からの抜き書きであることが大沢氏によって指摘された。

然るに近代の社会に於ける創意と美の源は殆ど乾涸し去れり。(略)而して今日の芸術家並に鑑賞家は芸術に於て己の才気を示さんとし若くは人生の害悪よりの避難所をこれに求む。(略)抑も芸術は皮相的の才能たるべきものに非ず、人間の内心に於ける遥かの背後より出でざるべからず。然るに今や人々は自然を以て美なるものと為さず、而して美なるべき立像をつくらんとす。(誤れりといふべし)斯の如き人は世間の人々を以て趣味なき遅鈍なる度し難きものとなし、絵具袋と大理石の幾片かを以て自ら慰む。
以上の事実から大沢氏は賢治が『上巻』を熱心に読んでいたことを確認し、その影響を考察するが、『下巻』については、賢治が読んだという証拠もないし、また影響もないだろうとしている。実際、大沢氏の言うとおり、目次をみると『上巻』には初期エマーソンの汎神論的思想の大略がわかるようなエッセイが収録されており、賢治に与えた影響も大きかったと思われる一方、『下巻』は具体的な各論を収めているので影響を指摘しにくい。しかし『下巻』の巻頭には「詩人論」が収められており、賢治の詩論はこれによっていると考えられるため、まず賢治が『下巻』も読んだということから立証する必要がある。

 大正15年頃の「農民芸術概論綱要 農民芸術の(諸)主義」の中に「四次感覚は静芸術に流動を容る/神秘主義は絶えず新たに起るであらう」という記述があるが、大沢氏はこの部分の前半だけについて「上巻・芸術論」中の「真実の芸術は決して固定せるものにあらずして、常に流動せるものなり」の影響を指摘し、エマーソンのこうした考え方に、時間と空間が密接な関係にあるという賢治の四次元意識の源流を見出す。この指摘自体に反論する気はないが、後半を切り離して考えるべきではないと思われる。

乍併想像の性質は流るゝにありて凝結するにあらず。而して詩人は色彩や形状にのみ止まる事を為さず、万物の意義を読む、雖然彼は又只この意義にのみ静止する事を為さず、その物象を以て彼の新しき思想の説明者となすなり。詩人と神秘家の相違こゝにあり(略)夫れ一切の符牒は流動的のものなり(略)神秘主義は臨時的にして個性的なる符牒を普遍的のものと誤認するより起る。
「下巻・詩人論」
ここでは神秘主義が芸術の流動性を否定するものとしてはっきり定義されており、賢治の記述もこれをふまえていると考えられる。上下巻を通じて神秘主義を定義づけているのがここだけであることからも、賢治が『下巻』も読んでいたことはほぼ明らかである。

 エマーソンと賢治の詩論を検討する前に、まず彼らの世界観から考えてみたい。

 エマーソンはこう言う。全宇宙には唯一絶対の大霊が存在しており、人間の住む世界はこの大霊の部分的な現れに過ぎず、真の実在ではない。いかなる個人も仮の姿をとっているに過ぎず、キリストもこの大霊の現れのひとつの例で、これのみを尊重するのは誤りである、と。これは人間存在を蔑ろにする立場にも見えるが、実はいかなる個人も心の奥底では大霊に繋がっているということで個人を尊重していこうとするロマンティシズムであり、個人が心の奥の大霊の導きに従うところに真の生き方を見出しているのである。

 一方賢治が信仰していた法華経の世界観は、エマーソンのそれとたいへん似ている。法華経によれば、宇宙とは唯一の生命体であり、それは時間的にも空間的にも限りなく広がっている。歴史上のブッダという人物もこの大生命体のひとつの現れであり、個人もまた大生命体のひとつの現れである。だからこそ個人は大生命体の意志に従って雄々しく生きるべきなのである。法華経を最重視する日蓮宗の自力本願の思想がすなわちこれであり、浄土真宗などの他力本願の思想とは対照的な考え方である。

 さて、賢治は「心象スケッチ」を「歴史や宗教の位置を全く変換」させるために発表したのだと書いている(大正14年2月9日・森佐一宛書簡)が、大沢氏はこの「歴史」という言葉が「上巻・歴史論」の、歴史とは客観的な事実を羅列することではなく、諸現象のうちに神の現れを見てそれを記述すること、つまり「歴史は此の心の働きの記録なり」という考え方によるとする。それが賢治に至って、心の働き(心象)の記録(スケッチ)が歴史を変えるというように解釈され、それが全ての現象を心の中に感じとるという日蓮宗の一念三千の考え方に通じるという。

 賢治は昭和元年2月、羅須地人協会の集会で「真の詩とは…人間の魂の記録で有る」と講義したというが(伊藤忠一ノート)、ここにもエマーソン的なものが感じられ、心象スケッチが真の詩であるという本論の立場を補足してくれもする。

 ところで大沢氏は、自己と超越的存在との一致が、他者を介在させることなく信じられている初期の賢治を「神秘主義的」だと批判しているのだが、先に確認したように、賢治は超越的存在からの啓示を流動的に捉えず、ひとつの考えにこだわり、教条化・制度化することが神秘主義だと言っているのであって、啓示を受けること自体に批判的ではない。

また大沢氏は賢治の他者に対する意識が妹トシの死後に生まれ、ようやくその後「神秘主義」を離れ、社会化(作品の発表や農村活動など)することができたと言うのだが、思想の深化をそこに認めることはできない。トシの死は共同体の論理(信仰)では納得できなかったために絶対的他者体験と言いうるにしても、その後の社会化とは、この体験を意識的に忘れ、拡散させようとすることであり、共同体内の「みんな」に対する狂信的呼びかけにすぎないからである。信仰を揺るがせる絶対的他者を前にした時にのみ、賢治は我が身を修羅と呼び「ふたつのこころ(無声慟哭)」を見たのではなかったろうか。

 いずれにせよ賢治には理解不能な絶対的他者が存在せず、すべての人も生き物も汎神論的な共同体の住人だと信じていられたことは確かであろう。賢治が「わたくしの中のみんな(『春と修羅』序)」と言ったり、農民に向かって「われら(農民芸術概論綱要)」と言ったりできたのも他者性の欠如のためである。

 このようにエマーソンも賢治も楽天的な世界観を抱いていたのであるが、それは彼らが悩みなき人生を送ったということではない。尤も楽天的世界観を信じられない人の存在が彼らの悩みになったことはあったかもしれないが。

 さて、これから賢治の詩論を、まず大正13年12月刊の童話集『注文の多い料理店』から見ていくことにしたい。序文にはこうある。

 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたがないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
賢治が書いたとされる広告文にも、

これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあっても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。
とあり、正確に対応している。童話集に収録されたなかでも「黒坂森のまんなかの巨きな巌が、ある日、威張つてこのおはなしをわたくしに聞かせました」に始まり「黒坂森のまん中のまつくろな巨きな巌がおしまひに云つてゐました」に終わる「狼森と笊森、盗森」や、「わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたの精神を語りました」に始まり「それから、さうさう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほつた秋の風から聞いたのです」に終わる「鹿踊りのはじまり」など、それぞれの作品が作家に依る<創作>ではなく、自然の声の<再録>であることが強張され、序文や広告文で言っているとおりの構成をとっている。これは賢治作品の最も重要な特徴であると思われるが、大正15年に岩手国民高等学校で農民芸術を担当した時の「詩とは/われわれの魂の内奥から/ひとりでに湧き出るところの/節奏することば(伊藤清一ノート)」というのもやはりこの点に関わっているのであろう。

 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
ここでは作者(情報提供者というべきか)にとってさえわからないことでも、その心象に現れたものであれば万人に共通だというが、その根拠は明らかではない。広告文でも、

たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。
とある。こうした考え方も賢治の作品観を示すものとして有名であるが、どうもエマーソンにヒントがあったようである。エマーソンは詩についてこう書いている。

詩なるものは時間の始まりし以前に書かれたるものなり、而して吾人の心精美にして大空のやがて音楽をなすその境地に到達するや、吾人はかの原始の自然の歌をきゝ、これを筆にせんと試む
「下巻・詩人論」
「自然の歌」が、レトリックとしてではなく、ここでは真面目に取り上げられているのが注目される。詩人については、
人は又その身に遭遇せし事を対話に依りて他に伝え得る限りに於て芸術家たるなり。雖然吾人の経験に於ては自然の光輝若くはその衝着は只吾人の五感に達する丈の力を有するのみにして、吾人の生命に達し、それをして自から言語に再現せしむるにたるべき力を有せず。然るに詩人は斯の如き力の平衡を得たる人にして、又その身に何等の障害を有せず、他の人々の夢想せるものを実際に見且つ実際に取り扱ひ、経験の全局面に亘りて横行し、外物を受け又これを分与する最大の力を有する点に於て、人間の代表たるべき人なり。
「下巻・詩人論」
とあり、凡人には聞き取れない自然の声を聞き、言葉にできるのが、天才=詩人であり、人間の代表だとされている。賢治も「詩人とは…常に来たるべき文化の先陣に立つものにして、個人によりて理想異るもので有る(前掲・伊藤忠一ノート)」と言っている。
己の考ふる処を信ずること、即ちこの心の秘奥に於て真実なりとする処のものは、軈て又総ての人々の真実とする処なりと信ずることはー此れ即ち天才なり。(略)人はその思想の己より出づるが為に、却つて之れに留意せず、これを委棄するものなり。故に吾人は天才の一々の事業の内に吾人が放棄し去りたる思想の存在するを認む、即ち吾人の放棄したる思想は異なりたる威厳をとりて再び吾人に帰り来るなり。芸術上の大作が、吾人に影響するほどの教を与ふるも亦此の一事に外ならず。
「上巻・自恃論」
詩人の仕事とは、突飛さや非凡さを追求するものではなく、万人に共通でありながら見過ごされたり忘れられたりしているものを明らかにすることなのである。

 賢治は自分にはわけがわからないことにも価値を見出そうとして、「詩は裸身にて理論の至り得ぬ/堺を探り来る/そのこと決死のわざなり(文語詩未定稿裏表紙裏メモ)」とか、「諸作無意識中に潜入するほど美的の深と想像力は加はる(略)無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である(農民概論綱要 農民芸術の製作)」と言ったりもしている。一方エマーソンも「上巻・自恃論」で「人はみなその心の有意的活動と、不用意的覚知とを識別し、完全なる信仰はこの不用意的覚知に帰すべきを知る」と、無意識的知覚ともいうべきものからくるわけのわからなさを積極的に評価しようとしている。

 また賢治は自分にもわけのわからないような内容でも万人に共通なのだとしていたが、これもエマーソンの「上巻・報償論」にある「各作者の尤も勝れたる個処は、即ちその内に作者の私意の挟まれざる所、即ち作者の性質より自から出でたるものにして、殊更にその作為せざる処、一人の芸術家の研究に於ては容易に認められざれども、多数の芸術家を研究せばその精神として、抽象し得らるべき処にありて存す」に対応している。

 今度は、賢治の詩論とされる小品「龍と詩人」(初稿大正10年8月20日・現存稿大正15年以降)に則して考察してみることにする。

 詩の競技会で大詩人アルタは若者スールダッタに敗れ、東方の雪深い山に去っていった。スールダッタは大得意になるが、彼が詩の会で披露したのは岬の洞に住む龍チャーナタの詩を盗み聞いたものだという囁きを聞いてしまう。思い当たるふしのあったスールダッタは龍に許しを乞いに出かける。龍は、詩とは自然の声を聞き、それを言葉に直して、明日の世界の見取り図を示すものであるから、おまえを許すも許さないもないとして、却ってスールダッタの才能をほめたたえる。

 まず詩人の目的については「あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる」こと、あるいは「そらを見水を見雲をながめ新しい世界の造営の方針を」語ることとして精神的・宗教的に捉えられている。エマーソンも「上巻・芸術論」で「美は宗教と愛情との上よりこれを求むるにあらずして、唯快楽の為に求めらるゝ以上、その逐求者を堕落せしむるなり。」と言っているが、芸術を快楽や功利に安易に結びつけるべきでないことは次の書簡にも明らかである。

 図書館へ行ってみると毎日百人位の人々が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を借りやうとしてゐます。なるほど書く丈なら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。うまく行けば島田清次郎氏のやうに七万円位忽ちもうかる、天才の名はあがる。(略)これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。いくら字を並べても心にないものはてんで音の工合からちがふ。頭が痛くなる。同じ痛くなるにしても無用に痛くなる。
「大正10年7月13日・関徳弥宛書簡」
 賢治は心象を描くことに専念して、いわゆる抒情詩にあまり魅力を感じていないようであるが、エマーソンも「詩人論」の中で、或る抒情詩人の才能を十分に認めながらも「果して彼は啻に抒情詩家たるのみならず、又詩人たりやとの問題の一度び起さるゝに至りてや、吾人は彼が云ふ迄もなく当代の人にして永劫の人にあらざるを言明するの已むを得ざるに至れり」としている。また「詩人論」の「抒情詩人は飲酒し寛容なる生活をなし得べし、雖然叙事詩人に至りては神々とその人間の間に於ける下降とを歌ふものなれば、宜しく木杯により水を飲むべきなり(略)卿等若し卿等の脳裏を充たすにボストンとニューヨークと、流行と貪欲とを以てし、酒とフランスの珈琲とを以て卿等の困憊せる五感を刺激するとせんか、卿等は静寂なる松林の荒廃せる処に於ける智識の光輝を見る事はかなはざるべし」といった言葉と、賢治の酒・コーヒー嫌いは、影響とは言えないまでも、人為的インスピレーションの批判という点で同じ発想に基づいていると言えよう。

 次に「龍と詩人」で、龍がスールダッタに向かって説いた詩論を見てみよう。

スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おゝスールダッタ。そのときわたしは雲であり風であった そしておまへも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに瞑想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。アルタの語とおまへの語はひとしくなくおまへの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分の精神のうたである。
ここには先に確認した詩の原理、すなわち自然の声を聞いたままに言葉にするのが詩であるということと、その故に詩の内容はどの詩人にも共通だということが再確認できる。

 多少難解なのが、詩人たちが同じうたを聞いて同じうたをうたうとされながら、わたしとおまえの言葉や韻は違うだろうとされているところである。さらに意地悪く考えれば、あれほど競争を嫌った賢治が詩の善し悪しを論じることに何のためらいも見せていないのも不審である。優劣については「詩人論」の次の記述を見れば謎が解ける。

これ(自然の声/筆者注)を聞くに足るべき微妙なる耳を有する人はそれ等の物象の奏する音楽をきゝ、これを稀薄にし若くは毀損する事なくその曲調を記さんと力む。こゝに批評の正当なる標準あり、即ち心意の信仰の上より吾人の詩は、その当然一体としてあるべかりし自然に於ける本文の拙劣なる翻訳なりと云ふの一事これなり。
一つのうたがさまざまであるというのは、前引の伊藤忠一ノート中の「個人によりて理想異るもので有る」にも通ずるが、先に触れた詩の流動性についての考え方を導入するとわかりやすくなる。すなわち流動性には、1.同じ時のことを詩にしても、人によってその内容は異なる(空間的流動性)、2.同じ人であっても、その時々で詩の内容は異なる(時間的流動性)の二つが考えられ、この場合は1.を適用できる。そしてそれはエマーソンの、

これ等の符牒の各自、むしろ幾百万の符牒の各はそれ等を以て意義あるものとなす人には等しく効力あるものなり。只これ等の符牒は凡てこれに重きを置く事なくして、容易に他の人々の用ゆる同様なる符牒に変更さるべきものならざるべからず。
という「詩人論」の記述に対応しており、2.については、先の神秘主義批判にも明らかであるが、「上巻・自恃論」の次の言葉も参考になる。

愚なる前後の一貫なるものは偏狭なる心の妖怪にして、小政治家、小哲学者、小宗教家に依りて景仰さるゝものなり。(略)今日卿等の考ふる処を切言し、明日は再び明日考ふる処を切言せよ、よしそは今日語りし処と一々矛盾するも可なり。
そうすると古びた詩の価値は低くなるのだが、エマーソンはそれが言語なのだと言う。

一々の言語はその当初に於ては天才の作成したるものにして、その当時に於てはこれを語る人と聞く人とに対し、世界の符牒たりしの故を以て世に流通するに至りしものなればなり。(略)言語は化石したる詩なり。
「下巻・詩人論」
もちろんエマーソンの意図は言語の価値をおとしめることになく、真実をありのままに伝えることのできる最高の言語(=最高の詩)を求めることにある。賢治がやはり最高の言葉を求めていたことについて、筆者はかつて言及したことがあるが、そのことにもつながるばかりか、「永久の未完成これ完成である/理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる/畢竟ここには宮沢賢治一九二六年の考があるのみである(農民芸術概論綱要 結論)」というほどに徹底していた賢治の推敲癖や、一か月に三千枚の童話を書いたこともあったと言われている多作性にもつながっていく。

 さて最後に賢治がエマーソンから受けた影響が詩論だけにとどまらなかったという可能性について触れることにしたい。

 エマーソンは詩人であったが、博物学者(ナチュラリスト)になろうと考えていたことも知られている。賢治も詩人でありかつ科学者であった。賢治が詩人になったことの背景にエマーソン体験があったことはほぼ明らかになったと言ってもよかろうが、科学者になった背景にもエマーソンが考えられるのである。

 詩人は形に従ひて生命を用ゆる事を為すにあらず、生命に従ひて形を用ゆ、これを真正なる科学となす。天文学、化学、生育並に生命の授与等を知る、何となれば詩人はこれ等の事実に於て止まる事を為さず、これを符牒として用ゆればなり。
「下巻・詩人論」
詩人と科学者ではずいぶん違うように思えるが、超越的存在が世界にどのように現れるのかを記録するという意味では本来同じなのである。さらに「上巻・細慮論」では、

世界に関し自得せる知識にはあらゆる程度あり。今現在の目的にはその三種を指摘するを以て足れりとせん。第一種の人は象徴の利用を主とするものにして、即ち健康と富とを最終の善と考ふるものなり。第二種の人はその標準を上げて、この象徴の美を主とす、詩人、芸術家、動植物学者、科学者等これに属す。第三種の人は象徴の美を超え、その象徴が代表せる本体の美を主とす、この種の人は賢人なり。第一種の人は常識を有し、第二種の人は趣味を有し、第三種の人は精神上の知覚(悟入)を有す。
と書かれている。ここでエマーソンが読み始められたのが中学三年の頃、嫌っていた家業の質屋を継がねばならない自分の将来に悲観的になった時期であることを思い出すべきだろう。健康と富を善とする常識人、第一種の人として父政次郎はぴったりあてはまる。同じ道を歩かねばならない賢治に第二種の人である詩人・科学者がどれほど輝かしく見えたことだろう。そんな賢治が生涯プロの詩人にもプロの科学者にも落ち着くことができなかったのは奇異にうつるかもしれないが、それは賢治が第三種の人である賢人としての生き方を重視していたからなのだろう。

 以上、戸川秋骨訳『エマーソン論文集』の影響を見てきた。エマーソンの他の著作からの影響や解釈の時間的変化など、論ずべき多くの点を残してはいるが、とにかく賢治におけるエマーソン体験の重要性を強調しておきたい。

 注

1 ただし賢治が大正元年11月3日、父に宛てて「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書いていることから、エマーソン受容の実際は、かなり複雑だったと考えられる。しかし賢治がエマーソンを暁烏敏の『歎異抄講話』(明治44年4月刊)によって知ったとすれば状況は変わってくる。この本は歎異抄を世に広く普及させるもとともなったもので、熱心な真宗信者であった賢治の父は著者の暁烏との交流も深く、じきじきに本が寄贈されていることが知られる(彼らの交流については栗原敦氏の諸論文、提供された資料とその注釈に詳しく、本論もこれらによった)。賢治は当時、歎異鈔の第一頁を全信仰としていたのだから、この本を読んだのはほぼまちがいない。さてその歎異鈔の第一頁にあたる部分の解説で、暁烏はエマーソンを「吾人は吾人をしてその真理の受容者たらしめ、その活動の機関たらしむる大智慧の懐に横たわるものなり。吾人が正義を知り真理を知るときみずから何物をもなすにあらずしてこの大智慧の光明の通路となるのみなり」と引用して、これを「真によく摂取不捨(如来の慈悲は永遠でかわりがないということ)の味わいを現実的にいいあらわしたものである。ゆえに私はエマーソンのこの語について明らかに仏力他力の摂取の妙趣を味わうのであります」とする。暁烏はエマーソンの「大智慧の光明」を重視するあまり、自恃の精神を見落としており、その解釈は絶対他力の真宗にひきつけられている。父子ともに信頼していた暁烏の言葉であれば、若い賢治がエマーソンをまず真宗的に捉えてしまったとしても無理はないのではなかろうか。

2 山根知子氏は「賢治の『宇宙意志』をめぐって」(『国文目白』/昭和63・11)で、エマーソンやタゴールを重視した日本女子大学校長の成瀬仁蔵の思想が、トシを通じて賢治に影響した可能性を論じている。

3 戸川秋骨訳の『エマーソン論文集 上・下巻』は、エマーソンの『エッセイ第一、二集』の全訳で、上巻には、歴史論・自恃論・報償論・霊法論・恋愛論・友情論・細慮論・勇壮論・大霊論・円環論・智力論・芸術論が、下巻には、詩人論・経験論・人格論・作法論・進物論・自然論・政治論・名目論者及実在論者・新英州之改革者が収められている。

4 拙論・「宮沢賢治の言葉」(『上智近代文学研究』/昭和63・3)