宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一 up grade 00/03 信時 哲郎
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一 〔いたつきてゆめみなやみし〕
いたつきてゆめみなやみし、 (冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、 うち鼓して過ぎれるありき。
その線の工事了りて、 あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、 かくてまた冬はきたりぬ。
語注
そのかみの高麗 九一八年~一三九二年まで朝鮮半島にあった国名。ここでこの言葉が用いられるのは字数の関係で、ことにこの時代に限定する意味はないように思う。
軍楽 朝鮮の農村では「農者天下之大本」と書いた旗を先頭にした農楽隊が編成される。その起源として、戦時に農民軍を組織的に動かすための訓練であったという説がある。また「農楽隊が広い地域を巡る場合、彼らは乞粒隊つまり乞食、門付と同じ身分になる」(『朝鮮を知る事典』平凡社・昭和六一年)という。
うち鼓して いわゆる「朝鮮飴売り」の行商人が客寄せのために太鼓を打ち鳴らして歩く様。
その線の工事 賢治が病臥していた昭和初年、岩手県下では大船渡線、山田線、花輪線などの鉄道(区間)工事が相次ぎ、「その線」が具体的にどこを指しているかの特定はしにくい。
あるものは…… 区間工事が終了したために解雇された朝鮮人労働者の陥った境遇については、『岩手日報』などで報道されることがままあった。
『装景手記ノート』に記された口語詩「鮮人鼓して過ぐ」を文語詩化したもので、下書稿一、その裏面にある下書稿二、定稿の三種が現存しており、生前発表はない。
先行研究は『文語詩稿 五十篇』の冒頭におかれているせいか、文語詩としては例外的に多く、『小沢俊郎宮沢賢治論集3 文語詩研究』(有精堂・昭和六二年)に収録されている「太鼓のリズム」、「「疾中」と<文語詩>」をはじめ、奥田弘の「宮沢賢治周辺資料(十)」(『銅鑼』・昭和六十年十月)、青山和憲の「文語詩〔いたつきてゆめみなやみし〕の改稿過程 宮澤賢治の表現及び主題意識の変化について」(『言文』・昭和六一年十二月)、斎藤文一の『宮澤賢治 四次元論の展開』(国文社・平成三年)、山内修『宮澤賢治研究ノート 受苦と祈り』(河出書房新社・平成三年)、尹明老の「宮沢賢治における朝鮮人像」(『実践国文学』・平成七年三月)、『宮沢賢治 文語詩の森(柏書房・平成十一年)』所收の会田捷夫論文などがある。
宮沢清六は「賢治の世界」(『兄のトランク』ちくま文庫・平成二年)でこう書いている。
ドンガドンガ ドンガドンガ
ドンガラドンガラ ドンガラドンガラ
というように――。それはずうっと続いて聞えてきて、表の道路を通りすぎて行きました。それを賢治はじっと聞いておりました。私と二人は暫くの間、ものも云わずに聞いておりました。
その中に賢治は「ずいぶん、たいした人なんだなあ」というようなことをいいました。
さて病床の賢治は、この太鼓の音に何を感じたのであろうか。この作品群の第一形態である「鮮人鼓して過ぐ」は次の通りである。
下書稿一になると、新しいテーマが挿入されてくる。すなわち
さらに下書稿二になると、「鮮人鼓して過ぐ」や下書稿一にあった正確な太鼓のリズムが病気を忘れさせた、といった私的モチーフは表面上姿を消し、「われ」「なれ」という人称代名詞も消え、これが定稿に接続している。
こうした改稿過程について、青山和憲は「人称の消失、季節感を担う語の抽象化と役割の変化、モティーフとして取り上げられた体験・伝聞相互の関連の希薄化」とし、「世界は限りなく大きく、その意志は測り知れず、その有無さえ窺い難い。人はその自然に生かされ、滅ぼされるが、その過程における喜びや苦渋の意味もまた定かではない」とまとめている。
青山の言には説得力があるが、伊藤与蔵に宛てて「弱く意気地ないながらも、どうやらあたり前らしく書きものをしたり石灰工場の事務をやったりして居ります。しかしもう只今ではどこへも顔を出す訳にもいかず殆んど社会からは葬られた形です、それでも何でも生きてる間に昔の立願を一応段落つけやうと毎日やっきとなってゐる所で我ながら浅間しい次第です。(昭和八年八月三十日)」と書く中の「昔の立願」とは何なのか。また柳原昌悦に宛てた「咳のないときはとにかく人並みに机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやう〔に〕なりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。(昭和八年九月十一日)」という最後の書簡(賢治はこの十日後に逝っている)の中の、「それ(おそらく農村での活動)に代ること」とは何なのか、と考えて行くと、賢治が青山の言うような悟りきった心境でいたとは考えにくいのである。
これらの書簡から、賢治が外出できないほどの病状でありながら、毎日「七八時間」もの間「やっきとなって」いたものとは、文語詩の改稿作業であったと推測できる(文語詩稿五十篇は同年八月十五日、一百篇は八月二二日に作業を終えている)。賢治はこれを「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」とまで思っていたわけであるが(妹クニの証言による)、この言葉は決して誇張ではなく、実際、末期の結核患者が毎日やっきとなって机に向かっていたら、それが自分の命を縮めることになるというくらいのことはわかっていたはずである。その文語詩が、大自然の中で翻弄される人間の営みを描く、という程度の消極的なものであったというのは本当だろうか。ことに本作が全一五一篇の文詩定稿群の冒頭に位置することから考えて、ここには何かもっと積極的なもの、つまり「昔の立願」にあたるものが込められていた、とすべきではないだろうか。
その「積極的なもの」とはいったい何なのだろう。
定稿では「いづちにか ひとは去りけん(下書稿二)」が、「かくてまた冬はきたりぬ」に改稿され、「鼓者」その人の身の上に焦点が定まらないようになっている。そうして焦点は、太鼓の音を聞いた「冬」の方に移行しているわけである。そしてこの「冬」であるが、賢治にとっては「いたつきてゆめみなや」んでいた季節であり、失意のどん底に病臥する季節でもあり、また病床の彼をはっとさせる太鼓のリズムに出会った季節でもあったわけである。
日本に居住する朝鮮人の置かれていた状況がどれだけ過酷だったかは、小沢俊郎の紹介する朴慶植『朝鮮人強制連行の記録(未来社・昭和四十年)』などに明らかであり、賢治も「新紙(新聞のこと。小沢は賢治の造語だとしていたが、入沢康夫は用例を挙げ、これが一般的な言葉であったことを指摘している。「「新紙」について(『ユリイカ』平成六年四月)」。もっとも小沢自身も栗原敦宛書簡で自分の誤りについて書いていた(栗原敦「解説」『小沢俊郎 宮沢賢治論集3』・有精堂・昭和六十二年))」を読むまでもなく、うすうす知っていたと思われる。そうした状況にありながらも「鮮人」の叩く正確な太鼓のリズムは、賢治を「そのリズムいとたゞしくて/なやみをもやゝにわすれき」という状態にさせたわけである。失意の底にあった賢治は、このリズムによって我が身を反省させられ、また勇気づけられたのではないだろうか。逆境にありながらも、正しくリズムを刻んでいけば、人に感動を伝えることはできるのだ、と。
ここで鼓者の叩く太鼓のリズムと、病床にありながら正しいリズム、すなわち文語定型の五七調のリズムに言葉を精練させていく賢治の営為はシンクロするわけである(もちろんここで賢治がかつて団扇太鼓を叩き、お題目を唱えながら花巻の町を歩いたことをシンクロさせてもいいだろう。なぜなら賢治の文語詩とは、「南無妙法蓮華経」をその時々に言い換えたものであったと言ってもいいからである)。
賢治が初めて文語詩を載せたのは『女性岩手 創刊号(昭和七年八月)』であったが、捗々しい反響も寄せられず、文語詩の発表を控える気にもなったようだ。ところが第二号(昭和七年九月)に「花巻町 I子」なる人の批評が載ると、賢治は「(新たに発表するのは)口語の方をと思ってゐましたが雑誌の批評を見て考へ直して定形のにしました(昭和七年十月(?)・藤原嘉藤治宛書簡)」という書簡を書くようになっている。
賢治に文語詩発表の意欲を湧かせたI子の批評がどのようなものだったのかというと、
「歴史や宗教の位置を全く変換しやうと(大正十四年二月九日・森荘已池宛書簡)」して発表した『春と修羅』が空振りに終わり、「こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同調者から「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです(昭和七年六月二一日・母木光宛書簡)」と書くところまで後退していた賢治であったが、それからわずか数ヶ月の後「完全な同調者」を得るわけである。つまり賢治は表出の意図を変換させることなく、文字を重視した「読ませる詩」から、声を重視した「詠ませる詩」に表出の方法を転換させることによって成功を勝ち取ったわけである。
アフリカで無文字社会の研究をしていたカロザーズはこう書いている(「文化、精神医学および記述文字」 M・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』みすず書房より)。
自由奔放な口語自由詩『春と修羅』で知られる賢治が、晩年になって文語詩の制作に打ち込んだことは、一般に「後退」であると受け止められ、例えばそれは今日の文語詩研究の層の薄さとして現れてもいるのだが、「なってもだめでもこれがあるもや」とまで賢治が言うことができた理由について、もう少し真剣に論議されてもよかったのではないだろうか。 ――賢治がなぜ文語詩を書いたのかと言えば、文語詩とは日本語を使う人々にとって最も口にしやすく、また聞きやすい形式であり、最も覚えやすい形式でもあったからであろう。そしてI子の場合のように、日本人一般になじんだ形式であるだけのことはあって、そのイメージ喚起力は、新参の口語自由詩などといった文字言語によるものよりずっと強かったという点も挙げられるだろう。
口語自由詩から文語定型詩への変化は、近代詩史としては確かに「後退」と言うべき現象であったかもしれないが、宮沢賢治の表出史としては、I子なる「完全な同調者」を得た初めての<成功作>であり、それは口語自由詩時代の成果に比べれば、明らかな「前進」であったと言うべきなのである。
品田悦一によれば上代文学の「口誦文学」としての特質を、はじめて積極的に評価したのは昭和初年の久松潜一であったという。また柳田国男は「口承文芸」について口にし(「交渉文芸大意」昭和七年四月)、昭和九年二月には『文学』が「口誦文学号」を出しているという(「民族の声 <口誦文学>の一面」・『声と文字 上代文学へのアプローチ』・塙書房・平成十一年)。賢治がこれらの学者たちの影響を受けていたかどうかは、伊藤清一筆記による岩手国民高等学校の講義ノートに「上古の文学は口唱により伝へたのである」とあることから推測する程度でしかないが、民族概念の高まりと呼応した国文学ルネッサンスの空気に、賢治も触れていた可能性については指摘しておくべきだろう。
『文語詩稿 五十篇』の冒頭に、「リズムの正しさ」を称える詩篇の載っているのは、決して偶然ではない。リズムこそが賢治とI子を繋げ、またかつて朝鮮人鼓者と賢治を繋げたものなのである。逆境の中から、力強いリズムを発信しつづけること―― 確かに晩年の賢治には、肉体的な衰えや、それに伴う気力の衰え、想像力の枯渇があったように思える。しかし文語詩がただの手遊びであったというのはやはり誤りであって、賢治は病床から「毎日やっきとなって」、心象スケッチという方法によっても、農学校教員としても、また農村活動を通じても実現できなかった法華経世界の表現に(かなりの勝算を期待しながら)努めていたということは、認められねばならないだろう。
二 〔水と濃きなだれの風や〕
水と濃きなだれの風や、 むら鳥のあやなすすだき、
アスティルベきらめく露と、 ひるがへる温石の門。
海浸す日より棲みゐて、 たゝかひにやぶれし神の、
二かしら猛きすがたを、 青々と行衛しられず。
語注
温石の門 蛇紋岩のこと。寒冷期に、これを暖め懐炉のかわりにしたことからこう呼ばれる。オンジャクと読むが、賢治は下書稿二で「なめ石の門」としている。早池峰山には「温石の門」とでも言いたくなるような蛇紋岩の突起物が散在しており、それをこう表現したと思われる。
海浸す日より棲みゐて 「海浸す日」とは、下書稿に「洪積」の字があることからもわかるように、白亜紀(約一億年前)の頃、北上山地一帯が海で、早池峰山もその麓を海水に浸されていたことを示す。「たたかひにやぶれし神」は、その頃からここに棲んでいたらしい。
たたかひにやぶれし神の…… 小沢俊郎の「語註」(『新修宮沢賢治全集六』・昭和五五年)では、柳田国男の『遠野物語』にある早池峰山に関する古伝承を引いている。曰く、一人の女神が三人の娘に「今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべし」と言った。深夜、姉姫の胸に霊華が降ったのを見た末の娘が、それを自分の胸に置いた。そうしてその末娘(瀬織津姫神)が、早池峰山の神となった。姉達はそれぞれ六角牛山、石上山を得た。賢治の詩句にある「二かしら」を二人の女神、すなわち二つの山だとすれば、最後の「青々と行衛しられず」は、その「二山」が見えないことの擬人的表現だと解することができる。また亀井茂は「早池峯とその南向いの薬師岳を、二かしらの姿と歌ったものであろうか」としている(「賢治と早池峯山(Ⅱ) 稗貫郡地質及土性調査」・『早池峯』・昭和四八年十月)。
一方、佐藤栄二(前掲)のように、インドラ神話をあてはめる考え方もある。曰く、昔、山々には翼がはえており、思い通りに飛びまわっていたが、それでは大地が安定しないため、インドラは山々の翼を断ち切り、大地を安定させた。そしてその翼が雲になったのである、と。佐藤は翼を断ち切られた山々が「たたかひにやぶれし神」なのであるとしている。そして「二かしら猛きすがた」も「温石の門」も、二つの聳え立つ山の比喩であると続ける。
ところが「白亜紀」という年代が特定されていることから考えると、「白亜系の頁岩の古い海岸」、すなわち北上河岸のイギリス海岸(と賢治自らあだ名をつけた場所)で、「二つづつ蹄の跡のある大さ五寸ばかりの足あと(〔イギリス海岸〕)」を見付けたことを思い浮かべざるを得ない。賢治は『春と修羅 第一集』の「小岩井農場 パート九」で、「ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た/どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを/白亜系の頁岩の古い海岸に求めただらう」と恐竜の幽霊のようなものを幻視した体験を綴っているので、ここでもまた同じようなものを幻視していたように思えるのである。下書稿二にある「妖精も出でなんけはひ」といった語から考えても、幽霊めいたものを思い浮かべている可能性は十分にあるのではないだろうか。
浅沼利一郎の『宮沢賢治と早池峰山』(昭和六三年)によると、早池峰の山頂付近の「竜ヶ馬場」というところでは、大正の頃、「竜の爪跡」を見ることができたという。それは「体長二米前後もあるトカゲのような動物らしい。小さな爪跡もあったから親子、或は数匹の群れかもしれない。昼夜の別なく歩くようだが、昔からその正体を見た人がいないから不思議なことである」とのことである。賢治はこの爪跡の話(あるいは実見)から、早池峰山に棲んでいる(いた)恐竜を思い浮かべたのかもしれない。また爬虫類ではないが、「花鳥図譜、八月、早池峰山巓」には、早池峰山にだけ生える植物があるように、早池峰山だけに生息する動物(雷鳥、鳴兎?)もいるはずだとして「トラップ二十買ひ込んで/あちこちへ装置した」高橋学士なる人物を登場させているが、時代の新旧や実体のあるなしを問わず、賢治が早池峰の<生物>に並々ならぬ関心を抱いていたことは確かなようである。
さて、このように大きく三つの立場を考えることができるが、正直言ってどれも決定力には欠けると言わざるを得ない。女神説は穏当であるように思えるが、それでもこれを「たゝかひ」と呼ぶのはふさわしくないし、また「猛きすがた」とするのも似つかわしくない。インドラ神話説にも納得できる点が多々あるが、インドラ神話上のできごとを、白亜紀の早池峰に流用できる根拠はあるのか、また山々を「二かしら」に限定したのはなぜか、その山々とは具体的にどの山を指すのか、といった点で不透明さが残る。最後の恐竜説では、彼らが「猛きすがた」をしていたとすると辻褄があうし、また「たゝかひにやぶれし」を生存競争、または環境の激変による恐竜の絶滅であると考えれば、さらに話はうまく通じることになる。しかし「神」、「二かしら」、「青々と」等の語とはつりあいがとれない。ただ「二かしら」に関して言えば、小岩井農場に現われたものが「ユリアとペムペル」の「二かしら」であったことから、これが賢治の幻覚の一つのパターンであったと考えることもできるだろう。また「青々と」の語に関して言えば、下書稿二の段階で「青々とうちも湛ゆる/北上の野はなほねむる」とあることから、「北上の野」の形容として考えれば、彼ら自身が青々としていたと考える必要はなくなる。
口語詩「三七五 山の晨明に関する童話風の構想」の改稿形「〔水よりも濃いなだれの風や〕」を文語詩に改めたもの。下書稿一、二。下書稿二の裏面にある下書稿三、定稿の四種が現存する。生前発表はない。
大正十四年八月十一日の早池峰山登山の時に取材した作品。この時の作品として『春と修羅 第二集』に「三七四 河原坊(山脚の黎明)」と「三七五 山の晨明に関する童話風の構想」がある。また大正十四年夏の早池峰行のほぼ一年前、大正十三年八月十七日にも賢治は早池峰山に登り、「一七九 〔北いっぱいの星ぞらに〕」、「一八一 早池峰山巓」を残している。前者の下書稿は、はじめ「谷の昧爽に関する童話風の構想」という題であったことがわかり、「三七五」のタイトルとの類似性から言って、本作品群との関連が極めて深いことを示唆する。二つの実体験が作品面で交錯している可能性も考えた方がいいかもしれない。
文語詩になってからの本作については佐藤栄二(前掲)、『宮沢賢治 文語詩の森』所收の杉浦静論文がある。口語詩についての言及は多く、恩田逸夫(『宮沢賢治論』・東京書籍・昭和五六年)、小沢俊郎(『宮沢賢治論集二 口語詩研究』・有精堂・昭和六二年)、続橋達雄(『国文学 解釈と鑑賞』・至文堂・昭和六一年十二月)に言及があるほか、大塚常樹(『宮沢賢治 心象の宇宙論』・朝文社・平成五年)、鈴木健司(『宮沢賢治 幻想空間の構造』・蒼丘書林・平成六年)、大沢正善(『春と修羅 第二集研究』・宮沢賢治学会イーハトーブセンター・平成十年)らによって「銀河鉄道の夜」における宇宙観との関連で言及されるようになっている。賢治と早池峰山の関係については、先述の浅沼利一郎の個人発行による『宮沢賢治と早池峰山』、亀井茂の「賢治と早池峰山(Ⅰ)~(Ⅷ)」(『早池峯』・昭和四七年~五五年)などがある。
まず口語詩「三七五 山の晨明に関する童話風の構想」の改稿形「〔水よりも濃いなだれの風や〕」の全文を引こう。
水よりも濃いなだれの風や
縦横な鳥のすだきのなかで
ここらはまるで妖精たちの棲家のやう
つめたい霧のジェリイもあれば
桃いろに飛ぶ雲もある
またはひまつの緑茶をつけたカステラや
茶や橄欖のや
青いつりがねにんじんの
花にきらめく一億の露
みやまうゐきゃうの香料から
碧い眼をした蜂のふるふ
蜜やさまざまのエッセンス
オランダ風の金米糖でも
Wave〔ll〕iteの牛酪でも
またこめつがは青いザラメでできてゐて
さきにはみんな干した葡萄がついてゐる
青く湛える北上河谷のこどもたち
この青ぞらの淵に立つ
巨きな菓子の塔こそは
白亜紀からの贈物
あらゆる塵やつかれを払ふ
その重心の源である
「童話風の構想」としただけあって、『注文の多い料理店』の序にある「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」を思い出させるすがすがしい山の冷気が漂うような作品である。賢治はこれを文語詩化するにあたって、はじめは詩句の圧縮に専念していたようだが、四度目の改稿、すなわち定稿を書く段になって突然「たたかひにやぶれし神」のイメージを挿入し、童話風のトーンを一気に崩している。なぜこうした書き換えをしたのか、今のところ解く術はないのだが、前段階までのいかにも童話風な、悪くすると作品が甘くなる傾向に対して、賢治は神秘的な早池峰山の印象を付け加えたかったようにも考えられる。と言うのも、賢治は極めて<童話的な>気分(この場合の<童話的な>とは、いわゆる大正童心主義的な気分を指すのではなく、現空間に異空間が紛れこんでくるという神秘的・宗教的な気分を指すとすべきだろう)で早池峰登山を試みていたことが察せられるからである。
同日朝方の取材に基づく「三七四 河原坊」で、賢治は早池峰山の上り口である河原坊で野宿した時に、金縛りの状態となり「透明な足音」と「南無阿弥陀仏」の念仏の声を聞いた経験を書いている。
あゝ見える
二人のはだしの逞ましい若い坊さんだ
黒の衣の袖を扛げ
黄金で唐草模様をつけた
御輿を一本の棒にぶらさげて
川下の方へかるがるかついで行く
これが山に入る際の、一種のイニシエーションであったとすれば、この日の早池峰登山に於て、賢治が終始「たたかひにやぶれし」姉神達(あるいは山々、白亜紀の恐竜たち)を思い浮かべていたとしても不思議はない。
ところで伊能(慶応三年~大正十四年・遠野出身の民族学者)の『遠野のくさぐさ』(『日本民俗文化資料集成第十五巻 遠野の民俗と歴史』平成六年・三一書房)では、「早池峰の七不思議」として次の七つを挙げている。
佐藤隆房の『宮沢賢治(富山房・昭和十七年)』に、
三 〔雪うづまきて日は温き〕
雪うづまきて日は温き、 萱のなかなる荼毘壇に、
県議院殿大居士の、 柩はしづとおろされぬ。
紫綾の大法衣、 逆光線に流れしめ、
六道いまは分るらん、 あるじの徳を讃へけり。
語注
六道 人間は死して後、次に何として生を享けるかわかるまで四九日の日数がかかると言われている。六道とは天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界のこと。ここでは、今こそ大居士がどこの世界に行くかの境目である、ということか。
口語詩〔めづらしがって集ってくる〕の裏面にブルーブラックインクで下書稿一を書いている(鉛筆書きの口語詩をブルーブラックインクで抹消した跡を残している)。定稿の二種が現存する。生前発表はない。
県会議員のものものしい葬儀のありさまを揶揄したかなり露骨な階級批判、個人批判の詩に読める。しかし口語詩の方では、
となっており、ここには「県議院殿」の姿はない。職員室で場違いな僧によるパフォーマンス(めづらしがって子供たちが集ってくるような)を、皮肉った作品であるように思う。「禅機」という言葉があるが、これは『広辞苑』によると、「禅を修行することによって得たはたらき。主に、禅僧の意表をつく鋭い言動によって瞬間的・直観的に修行者に与えられる」とあるが、何も「禅宗」という宗派に限定する必要はないだろう。
この口語詩には「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」と、それを文語詩に改めたものである「来賓」、さらに口語詩「〔四信五行に身をまもり〕」と、それを文語詩に改めた「〔さき立つ名誉村長は〕」と複雑に関わっていることが『新校本全集』の記述や語句から窺える。しかしそれらには文語詩にあるような県議院殿とその葬儀に関する記述がなく、「〔職員室に、こっちが一足はいるやいなや〕」も職員室に現れた宗教者を描いている点では「〔めづらしがって集ってくる〕」と同じだが、訪れたのが「日高神社の別当」であれば、彼が「握り鐘(文語詩下書稿一)」を持って葬儀を執り行ったとするわけにもいかないだろう。
平成十一年版の拙論では「「あなた」とは、「拙者」と一緒に「職員室」にいることなどから考えて、花巻農学校の同僚で浄土真宗の僧であった白藤慈秀であると推定できる(なぜ職員室なのか、また農学校の職員室になぜ「こどもら」や「訓導(旧制小学校の教員)の姿があるのかも気になるところであるが)。」と、疑問点を残しながら本作品に白藤批判を読み取ってみたが、「紫朱珍(だか何だか)の大法衣」を「逆光線のまったゞ中に/さっとまばゆく着」るというのは文語詩と同じであるから、白藤が「県議院殿」を荼毘に付する儀式を行った後、職員室に帰って来たところを描いたのが口語詩だと考えられないこともない。また「あるじの徳を讃へけり」(下書稿の書き入れは「讃仏偈をぞ唱へけり」)には、やはり揶揄が含まれているように思われ、賢治は「県議院殿」か「僧」を、あるいは双方を俗物として揶揄する作品を書こうとしたように思えるのである。
さて白藤は、賢治にとってどのような存在だったのだろうか。木佐敬久は(「宮沢賢治とシベリア出兵(その二)」・『天秤宮』・平成二年十一月)で、『春と修羅 詩稿補遺』の「心象スケッチ 林中乱思」の「火を燃したり/風のあひだにきれぎれ考へたりしてゐても/さっぱりじぶんのやうでない/塩汁を呑んでも/やっぱりからだはがたがた云ふ/白菜をまいて/金もうけの方はどうですかなどと云ってゐた/普藤なんぞをつれて来て/この塩汁をぶっかけてやりたい/誰がのろのろ農学校の教師などして/一人前の仕事をしたと云はれるか」を引いて、この「普藤」が「白藤」ではないかとしている。またその下書稿にも、「ところが向ふは酔興なので/一生の語り草にもなる考で/凍った飯もがつがつ喰べ/漬物水の辛いスープも/これはうまいといふだらう」とあり、この内容は白藤が羅須地人協会の賢治を訪ねた折の文章(『こぼれ話宮沢賢治』・トリョーコム・昭和五六年)とも一致している。白藤は賢治と信奉する宗派が異なったため、しばしば法論を戦わせたようだが、向こうはそうでなくとも賢治の方はかなり露骨な敵愾心を持っていたようである。
『春と修羅 第二集』の「氷質の冗談」にも、「白淵先生 北緯三十九度辺まで/アラビヤ魔神が出てきますのに/大本山からなんにもお振れがなかったですか」とあるが、この白淵が白藤であるのもほぼ間違いなく、「冗談」とのことわり書きこそあるものの、浄土真宗の、「大本山のお振れ」さえあればどうにでも動く(と、賢治が想像するところの)体質を揶揄していたのではないかと考えられるのである。
以上のことから考えて、賢治の白藤に対する敵愾心がそうとうのものであったことがわかるが、本作における僧も白藤だということになれば、これは「県議院殿」を批判するものではなく、威風堂々と「あるじの徳」などを讃えている(下書稿の書き入れは、「讃仏偈をぞ唱へけり」)俗物・白藤慈秀(と、その宗派)に対する揶揄で成り立った作品であったと言うべきであろう。
「文語詩篇ノート」の一九二四年三月の項に、「過渡期ノ風習」「何故シカク機嫌ワルキカ(白藤ヨ)」とあるが、賢治はこの頃花巻農学校に在職中で、しかも季節も一致していることから、(詳細はわからないにせよ)本作が生まれるきっかけとなったできごとを記したものだったように思えるのである。
さて昭和八年九月十一日の柳原昌悦宛書簡を読むと、晩年の賢治は自分の人生を「(増上)慢」による失敗であったとし、その反省に基づいて文語詩を書いていたということになるのだが、このような「俗情」をテーマとした作品を残しているのは、「慢」の意識とは矛盾していると思う人もいるかもしれない。しかし賢治はこうした「俗情」を排したところに人間の真の人生を描くことはできないとして、文語詩稿にはむしろ積極的にこうした「俗情」を描いたようにも思えるのである。と言うのは、賢治が草野心平に宛てて書いた書簡下書で「それにしても「春と修羅」などの故意に生活を没したるもの、貴下に同感を持ちしこと兼て之を疑問とす(昭和六年九月~十一月)」と書いているから、この頃取り組んでいた文語詩には「故意に生活を取り入れよう」としていた可能性があるわけである。関本昭太郎は文語詩稿五十篇の読後感として、これを「俗世のスケッチ」と呼んでいる(「俗世のスケッチ ―文語詩稿五十篇を読む」・『賢治研究』・平成三年十一月)。まだ一般的に同意を得られる考えにはなっていないようだが、重要な指摘であると思われる。
四 〔温く妊みて黒雲の〕
温く妊みて黒雲の、 野ばらの薮をわたるあり、
あるひはさらにまじらひを、 求むと土を這へるあり。
からす麦かもわが播けば、 ひばりはそらにくるほしく、
ひかりのそこにもそもそと、 上着は肩をやぶるらし。
語注
妊みて 雲がたっぷりと雨を含んでいるさま。
からす麦 燕麦、オート麦。オート・ミールとして食べるが、普通は家畜の飼料。アルコールや味噌の原料にもなる。
上着は肩をやぶるらし 下書稿では「上着の肩のやぶるなり」とあり、これだけでもからす麦を播く「われ」を客観化した表現になっているが、この書き換えによって一層やぶれた上着を着る「われ」よりも「上着」の方に注意が行くよう工夫されている。島田隆輔は「「熊→ぼく→ひと→わ」となっており、もともとは種まきをおこなう他者の姿をとらえたものであったと考えられる」(「宮澤賢治《文語詩稿》における番号・日付喪失詩篇の文語詩化」・『島大国文』・平成九年二月)とするが、「「春と修羅 第三集」収録作品のうち四十二篇の、現存する限りでの最も所期の形態を示すもの(新校本全集)」という言葉を信じれば、やぶけた服で農作業をしているのは「おれ(一〇二三 〔南から また東から〕」となっていることから、ここでは自分自身をモデルにしていると考えたい。
『新校本全集』によると、口語詩「心象スケッチ、退耕」を文語詩に改めたもので、口語詩の下書稿裏に文語による下書稿、用紙を改めて書かれた定稿の二紙二面が残されており、生前は未発表、ということになる。しかし「心象スケッチ、退耕」に描かれている言葉からすると、「詩ノート」の「一〇二三 〔南から また東から〕 一九二、四、二、」から「一〇三〇 〔あの雲がアットラクテヴだといふのかね〕 四、五、」あたりにかけての作品が複雑に混交して本作が成り立っていることがわかる。本論ではその推移をたどることはせず、「定稿」の評釈に徹する立場を取りたいが、推移について一つだけ記しておけば、文語詩になると<酒を買うために川を溯っている船>のモチーフがすっかり消え失せ、このテーマは『文語詩稿 五十篇』中にある〔秘事念仏の大師匠〕〔一〕の方に溶け込ませているのが注目される。先行研究としては、佐藤栄二「文語詩を誦む(三)」(『賢治研究』・昭和六一年九月)、山内修『宮澤賢治研究ノート 受苦と祈り』(河出書房新社・平成三年)、島田隆輔(前掲)などがある。
「詩ノート」のなかで、最も文語詩定稿に近いのは「一〇二三 〔南から また東から〕」であろう(後に最終連は削除)。全文を引こう。
定稿の前連に「あるひはさらにまじらひを、求むと土を這へるあり」とあるのは、黒雲が「恋愛自身」であるゆえに、土に「まじらひ」を、つまり交接を求めているわけであって、山内修の指摘にもあるように、これは極めて性的な比喩であるというべきだろう。「温く妊んだ」も性的な比喩だが、つまり黒雲は「この野原」で働くわかもの(男)たちを誘惑する女性原理のようなものとして登場しているわけである。
短い文語詩の中であっても、こうして二種の雲の姿を描いている賢治について、佐藤栄二は島崎藤村のエッセイ「雲(『落梅集』所収)」を引用し、さらに藤村が触発されたというラスキンの名前を出しているが、賢治が彼らの影響下にあったのは間違いないところであろう。
賢治が農学校教師を続けることを潔しとしなかったことは、「〔雪うづまきて日は温き〕」の評釈の項で述べた農学校教師・白藤慈秀への批判や、「わたくしもいつまでも中ぶらりんの教師など生温いことをしてゐるわけに行きませんから多分は来春はやめてもう本統の百姓になります(大正十四年四月十三日・杉山芳松宛)」という書簡などから明らかだが、職を辞してちょうど一年たった自分に対する満足が下書稿に「退耕(下書稿のタイトルだった)」の字を書かせたのではないかと考えられる。ここに「帰去来辞」の陶淵明的なヒロイズムが反映しているのは明らかで、「詩ノート」の「今年はおれは/ちゃうど去年の二倍はたしかにはたらける」や、「なぜならきみと同じやうな/この野原の幾千のわかものたち」と、自分を「野原のわかものたち(農民)」と同一視できてしまうあたりの楽観性に、それは窺うことができよう。
佐藤はからす麦を播く姿にミレーの「種播く人」の姿を重ねているが、さらにここに大正デモクラシーを代表する雑誌であった『種蒔く人(大正十年二月創刊)』のイメージを付け加えてもいいかもしれない。また山内は、下書稿にある<酒を買うために川を溯っている船>のモチーフは、酒を飲む楽しみしか考えていない連中への憎悪がこめられており、農作業に勤しむ自分はそれと対比されることによって聖化されると指摘しているが、このような箇所にも、自己を英雄視するような意識が見え隠れしていると言っていいだろう。
定稿になると「退耕」のテーマが目に付かなくなり、酒買船も現われなくなっているが、これは自分の全ての失敗が「慢」に由来するものだという考え(昭和八年九月十一日・柳原昌悦宛書簡)に至り、職を辞し農業に勤しむ自分を聖化するような部分を後退させたためではないかと考えられる。語注で述べた「ひかりのそこにもそもそと、/上着は肩をやぶるらし」という自分を客体化するような書き方も、ここに由来するのではないだろうか。
五 暁
さきは夜を截るほとゝぎす、 やがてはそらの菫いろ、
小鳥の群をさきだてゝ、 かくこう樹々をどよもしぬ。
醒めたるまゝを封介の、 憤りほのかに立ちいでゝ、
けじろき水のちりあくた、 もだして馬の指竿とりぬ。
語注
指竿 「させ」と読む。水田耕作のとき、牛馬の鼻につけて誘導するための竿のこと。
口語詩「〔鳴いてゐるのはほとゝぎす〕」を文語詩に改めたもの。口語詩に手入れしながら文語詩化した断片稿(下書稿一)、その上方余白に書いた下書稿二、定稿の三種が現存する。生前発表はない。先行研究として栗原敦の『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房・平成三年)があるほか、『続 宮沢賢治 文語詩の森』(柏書房・平成十二年予定)に信時哲郎の論がある。
先駆形である口語詩「〔鳴いてゐるのはほとゝぎす〕」では、発話者であると思われる賢治が、寝汗をかきながら目覚め、 ――そのうちカッコウや小鳥たちが鳴きだし、となりの佐吉(この段階では封介ではない)がぶりぶり怒りながら目を覚ますだろう。しかし今はまだ夜中の三時十分、もうあと四五十分眠ろう―― と想像をめぐらせる作品であった。賢治はこれを文語詩に改作するにあたって、未来形を完了形に、さらに発話者である自分の位置を消して、自分が感じたはずの明けゆく朝の様子を、第三者である封介が感じたかのように書いている。賢治は書き溜めていた口語詩を文語詩に改作していく際、自分自身の姿や思想を排除していったことはよく指摘されるところだが、本作の改稿過程はその典型的な例だと言えそうだ。
香取直一によれば『春と修羅 第三集』の「悍馬」に出てくる「封介」が、伊藤忠一(大正十四年に花巻農学校で一年学んだ。羅須地人協会の脇に住んでいたため、賢治の独居自炊時代以降は特に関係が深い)であり、伊藤にアレキサンダーのあだ名がついた理由まで論じているが(「宮沢賢治、その魅力4 アレキサンダー封介とその愛馬」・『東洋の人と文化』・昭和六二年十一月)、口語詩の或る段階では忠一とされていたこと、また封介は本作でも「悍馬」でも馬を持ち、「すっかりむしゃくしゃして」いる人物として描かれていることなどから、モデルとして伊藤忠一の名を挙げるのは妥当だろう。そうすると作中にある「となり」というのも、文字通り「隣家」を意味していたことになる。
さてこの封介という名だが、これは『文語詩稿 一百篇』中の「悍馬(二)」にも出てくるし、『春と修羅 第三集補遺』の「〔白菜はもう〕」(これも馬を持つ、怒りっぽい人物である)にも出てくるが、あまり一般的な名前であるとは思えない。香取は前掲論文で、伊藤忠一が袍(わたいれ)を着ていたという賢治の記述から、その音読みである「ホウ」をあてたのではないかとしている。これを「ほうすけ」と読むにしろ「ふうすけ」と読むにしろ、賢治がここで一番重視していたのが「音」であったことは確実である。
賢治はこの他にも甲助という名の人物を『春と修羅 第三集』の〔甲助 今朝まだくらぁに〕をはじめとした多くの作品に登場させているが、賢治が「ほ(ふ)ーすけ」や「こーすけ」を選んだ背景には、島崎藤村の「鳥なき里」(『落梅集(明治三四年)』)があったように思える。そこには「鳥なき里の蝙蝠や/宗助鍬をかたにかけ/幸助網を手にもちて/山へ宗助海へ幸助」といった一節があり、藤村はここで「幸助」「宗助」の発音の面白さを利用しているわけである(『日本近代文学大系一五 藤村詩集』(角川書店・昭和四六年)によると、小説『家』にも似た部分があり、藤村はこの音調をかなり気に入っていたことがわかる)。
これだけで断言するには無理があるが、賢治が藤村の詩をかなりまじめに読んでいたことは確かである。前作品「〔温く妊みて黒雲の〕」の評釈でも、佐藤栄二が賢治における藤村の『落梅集』の影響を指摘していることを述べたが(「文語詩を誦む(三)」・『賢治研究』・昭和六一年九月)、賢治は「文語詩双四聯に関する考察」(「社会主事佐伯正氏」・下書稿四裏)として、「概説文語定型詩、双四聯、沿革、今様、藤村、夜雨、白秋、」と書いていることからも、文語定型詩人としての藤村を、ことに文語詩稿を清書する際にはよく読んでいたと思われ、両者の関係については、今後さらに注意して調べる必要がありそうである。