宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 二

信時 哲郎

 

6  上流

 

   秋立つけふをくちなはの、  沼面はるかに泳ぎ居て、

   水ぎぼうしはむらさきの、  花穂ひとしくつらねけり。

 

   いくさの噂さしげければ、  蘆刈びともいまさらに、

   暗き岩頸 風の雲、     天のけはひをうかゞひぬ。

 

  語注

 

秋立つけふ 立秋のこと。下書稿によると取材は一九二七年七月だが、一九二七年の立秋は新暦の八月八日である。

くちなは へびのこと。朽ちた縄に似ていることからこう呼ばれる。ヘビは農耕民にとって重要な水を司る神(水神)の化身あるいは使者として信仰の対象になることがある。

水ぎぼうし 土岐泰「《文語詩稿》の植物」(『弘前・宮沢賢治研究会会誌7』平成二年十二月)によると、ミズギボウシは近畿から中国地方に分布するもので、ここで詠まれているのは東北地方から九州地方の山地に自生するコバギボウシだろうとしている。ユリ科の多年草で、名前の由来は擬宝珠(橋の欄干の柱頭につける飾り)に似ていることから。葉は葉柄が長く、長楕円形で先端がとがっている。夏に漏斗状の花を総状につける。

蘆刈りびと 芦を刈る農民。下書段階では「肖像」というタイトル案もあがっていた。

暗い岩頸 岩頸とは火山が侵食された結果、火口をふさいでいた火成岩だけが円筒形に残っているものを言う。本作の先駆形態である『詩ノート』「一〇八〇〔栗の木花さき〕」によると、「幾重の山なみ」、「飯岡山(紫波郡都南村)」といった語があることから、ここでいう岩頸は『文語詩 一百篇』の「岩頸列」に並べられた紫波郡西部にある「西は箱ヶと毒(ドグ)ヶ森、 椀コ、南昌、東根の、/古き岩頸(ネック)の一列」であったということになろう。ただし後述のように石鳥谷町での取材に基づくものだとすれば、葛丸川近辺に散在する岩頸を指していた可能性もある。

 
 
  評釈

 

『詩ノート』の「一〇八〇〔栗の木花さき〕」と「一〇八一〔沼のしづかな日照り雨のなかで〕」が合体して、『春と修羅 第三集』の口語詩「一〇八〇 〔さわやかに刈られる蘆や〕」に発展し、それを文語詩に改めたものが本作である。断片稿(下書稿一)、「一〇八〇 〔さわやかに刈られる蘆や〕」の余白に書かれた下書稿二、定稿の三種が現存する。生前発表はない。先行研究には岡井隆「「文語詩稿」の意味」(『文語詩人 宮沢賢治』筑摩書房・平成二年)、近藤晴彦「死の視線2 宮沢賢治への接近16」(『時間と空間35』・平成七年七月)がある。

『詩ノート』に記された一〇八〇と一〇八一をまず挙げておきたい。

  一〇八〇
一九二七、七、七
栗の花さき
稲田いちめん青く平らな
イーハトーヴの七月である
    洞のやうな眼して
    風を見つめるもの……
はんのきと萱の群落
さわやかによしは刈られて
今年も燃えるアイリスの花
またわづかにひかる あざみの花
幾重の山なみに雲たゞなびき
月見草の花瓣萎む
    そのひとみのいろ灰いろにしてつゝましく
    短く刈られて赤いひげと
    風にやつれたおももちは
    更に二聯の
    精神作用を伴へば
    聖者の像ともなる顔である
飯岡山の肩ひらけ
そこから青じろい西の天うかび立つ

 

  一〇八一

一九二七、七、一〇、
沼のしづかな日照の雨のなかで
青い芦がおまへを傷つけ
かきつばたの火がゆらゆら燃える
 

雨が、雲が、水が、林が
おまへたちでまたわたくしなのであるから
われわれはいったいどうすればいゝのであらう
 

けりが滑れば
黄金の芒

一〇八〇には「七、七」の日付、一〇八一には「七、一〇」の日付がある。しかし内容的には似通っており、賢治がこれらを一作品にまとめてしまったとしても不思議ではない。

ところでこの昭和二年七月十日という日は、人口に膾炙される「稲作挿話」(『詩ノート』には「一〇八二、〔あすこの田はねえ〕」として収録。『聖燈(昭和三年三月)』・『新興芸術(昭和四年十一月)』に発表。)に付された日付と一致しているが、この三者は内容的にも極めて近い間柄にある。まず農民の疲れややつれを指摘し、農業に携わる者の苦しみを描いているという点。すなわち一〇八〇における「風にやつれたおももち」、そして一〇八一の「青い芦がおまへを傷つけ」、一〇八二の「今日はもう棹ましく汗と日に焼け/幾日の養蚕にやつれてゐる」が共通している。そしてそれにもかかわらず、いやおそらくはそれゆえに農民を激励し、顕彰しようとする言葉がある点も共通である。すなわち一〇八〇における「聖者の像ともなる顔である」、一〇八一の「風が、雲が、水が、林が/おまへたちでまたわたくしなのであるから」、そして一〇八二の「雲からも風からも/透明なエネルギーが/そのこどもにそゝぎくだれ」である。したがって「稲作挿話」にあるよく知られた一節

しつかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわずかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
という花巻農学校の教員をやめ、羅須地人協会の運動に没頭していた頃の賢治らしい思想は、一〇八〇や一〇八一、そしてかなり抑制されてはいるものの口語詩「一〇八〇 〔さわやかに刈られる蘆や〕」や文語詩「上流」にまで息づいているのではないだろうか。

ところで賢治は文語詩定稿の三行目を、一旦「蘆刈びとはいまさらに、 赤くたゞれし眼あげて」と書いていたのに、同じインクで現行の形に修正を加えている。つまりいままではどこの段階でも登場することのなかった「いくさ」という語が、定稿を書き終えた後に、突然用いられることとなったわけである。岡井隆(前掲)は「昭和二年とすれば山東出兵であろうか。昭和八年ならば、すでに満州事変を経た日本であるから、東北の農村にも、戦争のかげは濃くふかく射していたはずである」としながら、起承転結の「転」にあたる部分で「いくさ」のモチーフを出すことを(レトリックとして)見事であると言う。これを拡大解釈して考えてみると、人間性の解放や労働の賛美といった大正デモクラシー的な視点で書かれていた作品が、帝国主義・全体主義の匂いのする昭和の視点で書き直されたのだとすることもできるし、また、あくまでもレトリックの問題であると考えて、「赤くたゞれた眼」以上にインパクトのある言葉として「いくさ」が選ばれたのだとすることもできるかもしれない。しかし本稿ではさらにもう一つの可能性について付け加えてみることにしたい。

「一〇八二、〔あすこの田はねえ〕」の下書稿に、花巻農学校時代の教え子である菊池信一の名が記されていることから、モデルとなったのは菊池信一ではないかとする説が菊池忠二によりなされている(「ある師弟関係について 宮沢賢治と菊池信一」・『賢治研究48』・昭和六三年十月)。菊池信一は農学校を卒業後、大正十五年一月から三月まで開設された岩手国民高等学校で賢治から「肥料」、「農民芸術」を学んでいるほか、羅須地人協会の協会員として多くの行事に参加したり、昭和三年には実家のある石鳥谷に賢治を招き、肥料相談所を開く手助けもしている。「透明なエネルギーが/そのこどもにそゝぎくだれ」と書かれている点に疑問を持つむきもあるかもしれないが、昭和二年に菊池がまだ満十七歳であったことを考えれば納得できるのではないだろうか。

もしもそうだとすれば、同日の日付がある一〇八一のモデルとなったのも菊池信一である可能性が強くなる。さらに「一〇八〇〔栗の木花さき〕」と合体された口語詩「一〇八〇 〔さわやかに刈られる蘆や〕」や、それをもとにした文語詩にも、モデルとして菊池信一をあてはめて考えることは許されるだろう(内容的にもこれらの作品が似通っていることは、先に述べたとおりである)。

菊池信一は昭和五年一月から昭和六年七月まで弘前の歩兵第三十一連隊に入隊する。菊池忠二によれば(前掲)、賢治は弟・清六から軍隊生活のひどさについて聞き知っていたので、同じ花巻農学校の教え子である沢里武治が徴兵検査を受ける際には、不合格となるように目の悪いことを訴えろとアドバイスし、めでたく丙種不合格(実質的に)になったことを知ると、お祝いとしてベートーベンの第五交響曲のレコードを贈ったという。そんな賢治であったから、愛弟子と言ってよい菊池の軍隊生活をどれほど心配したか想像に難くない。例えば昭和五年一月二十六日に入隊中の菊池に送った書簡に「寒さもまづこれからは下り坂でせうが、それにつけてもおからだを大切にねがひます」、「どうにも行き道がなくなったら一心に念じ或はお唱ひなさい。こっちは私の肥料設計よりは何億倍たしかです」といった言葉があり、賢治の愛情を十分に窺うことができる。

賢治が定稿用紙に文語詩「上流」を書き、それに「いくさ」の語を書き加えたのは昭和八年の前半であった。この頃、菊池はもうとうに除隊して帰農していたが、賢治はこれら<稲作挿話作品群>に手を入れるにあたって菊池信一のことを思い浮かべ、彼らは農業をすること自体がつらいだけでなく、その上に徴兵制/戦争といった重荷まで背負わなければならないということを付け加えようとしたのではないだろうか。

 

 

7  〔打身の床をいできたり〕

 

   打身の床をいできたり、   箱の火鉢にうちゐれば、

   人なき店のひるすぎを、   雪げの川の音すなり。

 

   粉のたばこをひねりつゝ、  見あぐるそらの雨もよひ、

   蛎売町のかなたにて、    人らほのかに祝ふらし。

 

  語注

 

打身の床 打撲傷でふせっている病床。

雪げの川 雪解け水の流れる川。

蛎売町 栗原敦は下書稿五の余白に「東京市蛎」に続けて「殻」と書いたとおぼしきメモがあることから日本橋蠣殻町(かつて米穀取引所もあった日本の商業の中心地)を構想していたと推測している。さらに日本橋にはかつて蛎売町という町名もあったが、「雪げの水」が流れていることから、虚構の町だろうと推定する(「「文語詩稿」試論」『宮沢賢治 透明な軌道の上から』・新宿書房・平成三年)。
また蠣殻と言えば、昭和七年頃、賢治が東北砕石工場の宣伝用パンフレットとして作った「肥料用炭酸石灰に就て」の「家禽用炭酸石灰」の章に「この目的(家禽の弱脚症対策、換羽期の迅速な換羽、堅固な卵殻、産卵力の増大等・信時注)で只今蠣殻が盛んに用ひられて居りますが何分高価でありますので、寧ろ之と同成分の廉価な炭酸石灰を与へる方が得策であります」とあり、また『孔雀印手帳』に書き付けられた「〔朝は北海道拓植博覧会に送るとて〕」で、拓植博覧会(昭和六年七月一日~八月二十日)に出品予定の標本に添えて「大連蠣殻の移入を防遏すべき点/殊に審査を乞ふなどと/やゝ心にもなきこと」をパンフレットに書いたことも考慮に入れるべきだろう。賢治の頭に日本橋蠣殻町のイメージがあったことは確かだろうが、東北砕石工場の技師時代の作品であるだけに、炭酸石灰のライバルであった(大連)蠣殻のイメージもまぎれていたとすべきではないだろうか。また『詩ノート』の「一〇五七 〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕」という作品にも、「肥料を商ふさびしい部落を通るとき/その方屋根がみな貝殻に変装されて/海りんごのにほひがいっぱいであった」といった記述もあり、これも無視できないだろう。

 
 
  評釈

 

王冠印手帳に書かれた二つのメモ(下書稿一、一’)。下書稿一を改めた下書稿二。その下書稿二に下書稿一の要素を加えた下書稿二’(これを定稿に書き換えたものが『文語詩稿 一百篇』中の「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」である)。紙面を改めて下書稿三、その裏面に下書稿四。さらに紙面を改めて下書稿五。紙面を改めて清書稿。最後に定稿用紙に定稿を書いている。現存稿の数は、数え方によるが『新校本全集』に習えば九となる。生前発表はないが、『新校本全集』では何かに発表するつもりで清書稿を書いたのではないかと推定している。

先行研究は比較的多く、山内修「非在の個へ 文語試論」『宮沢賢治研究ノート 受苦と祈り』平成二年・河出書房新社)、栗原敦(前掲)、島田隆輔「『文語詩稿』構想試論 『五十篇』と『一百篇』の差異」(『国語教育論叢4』・平成六年二月)、近藤晴彦「死の視線2 宮沢賢治への接近16」(『時間と空間35』・平成七年七月)などがある。

下書稿一、一’は、東北砕石工場時代に使っていた『王冠印手帳』に、当時の賢治の心境を語るかのような走り書きがある。まず四三~四五頁に記された下書稿一とされるものを掲げておく。

あらたなるよきみちを得しといふことは
たゞあらたなる
なやみのみちを得しといふのみ
 

このことむしろ正しくて
あかるからんと思ひしに
はやくもこゝにあらたなる
なやみぞつもりそめにけり 

あゝいつの日かか弱なる
わが身恥なく生くるを得んや
 

野の雪はいまかゞやきて
遠の山藍のいろせり 

肥料屋の用事をもって
組合にさこそは行くと
 

病めるがゆゑにうらぎりしと
さこそはひとも唱へしか
続いて一二一・一二二頁に記された下書稿一’を掲げる。 農民ら病みてはかなきわれを嘲り
ましろき春のそらに居て
その蔓むらに鳥らゐて
雨に小胸をふくらばす
 

さてははるかに鳴る川と
冷えてさびしきゴム沓や
あゝあざけりと屈辱の
もなかを風の過ぎ行けば
小鳥の一羽尾をひろげ
一羽は波を描き飛ぶ

賢治は昭和三年夏より体をこわし、羅須地人協会の試みを諦めざるを得ない状態となっていたが、自宅で病気療養をしている間に東北砕石工場の鈴木東蔵と知り合い、やや病状の回復した昭和六年二月二一日には同工場の嘱託技師となっている。岩手県は酸性土壌で植物の生育に支障があったが、石灰岩の粉末は土壌の改良に効果を発揮するもので、賢治の師・関豊太郎教授も賢治がこの事業に関わることに賛意を表している。またこれは賢治をなんとか実業につけようと考えていた父にとって、そして羅須地人協会の試みに失敗し、それにかわる何かができないかと考えていた賢治にとって、願ってもないチャンスであったと思われる。これが下書稿一に「あらたなるよきみち」と書かれた所以であろう。しかし商品を売るということが賢治に向いていたはずもなく、それは容易に「あらたなるなやみのみち」に転化するものであった。

下書稿二になると、冒頭に「かすかに汽車のゆれそめて/なにか惑へるこゝろあり」と舞台設定を変え、さらに下書稿二’でも
 

商人ら
やみていぶせきわれをあざけり
川ははるかの峡に鳴る
 

ましろきそらの蔓むらに
雨をいとなむみそさゞゐ
やがてちぎれん土いろの
かばんつるせし赤髪の子
 

恥いや積まんこの春を
つめたくすぐる春の風かな


というように舞台を変えている。先に述べたように、この稿が『文語詩稿 一百篇』の「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」に発展しているわけである。

そして下書稿四になると内容・構成とも定稿に限りなく接近してくる。『新校本全集』では「米穀肥料商」というタイトルになっているが、生原稿を見ると「米穀」と「肥料」の字体は明らかに異なっており、米穀と肥料の両方を扱う店を想定していたわけではないことがわかる。賢治は当時、石灰の販路拡張のために肥料商へ、また米の精白用搗粉の販路拡張のために米穀商をまわっており(例えば七月三日の鈴木東蔵宛の書簡には、盛岡の米穀商を回った際の一部始終が書かれているが、「当初甚険悪」「甚頑固」「主人不在」といった店々を三十軒まわり、「遂に注文としては一車をも得ざりし」結果となっている)、この段階ではどちらを題にしたらよいか決め兼ねていたために両者が併記されたまま残ったのだと考えられる。この後、下書稿五、清書稿では「米穀商」に一本化され、内容的にも殊に大きな変化は認められない。

さて問題なのは下書稿四以降の視点人物が、セールスマン賢治の相手であったはずの米穀(肥料)商になっているということである。『文語詩稿 一百篇』には先述のとおり、本作と同じ下書稿を共有する「〔商人ら やみていぶせきわれをあざみ〕」が収録されているが、本作とは視点人物が裏表の関係になっているわけである。賢治が自宅で肥料の注文をとっている姿に書き換えたのだととることもできようが、売り込む側(=賢治)を中心に推敲を重ねているうちに、売り込まれる側(=商人)の姿も書いておきたくなったとする方が自然だろう。と言うのは、ここにも人称を越えて世界のあるがままをあるがままに記述しようとする賢治の文語詩の特徴が現れていると思うからである。

ところで賢治はしばしば指摘される文語詩のこうした特徴を、自らに強いて本作のように特異な発展経過をたどる作品を残したのだろうか。詩法に関するメモが多く残っているということは、自分自身にも言い聞かせる必要があったということであるから、そうした側面がなかったとは言えまい。しかしもともと気質的に他者と同化してしまいやすかった賢治にとって(例えば鹿の繰り広げる歌と踊りを見るうちに、鹿と人間の違いを忘れ、思わず鹿たちの踊りの輪に飛び込んでしまう童話「鹿踊りのはじまり」の嘉十の悲喜劇を思い浮かべてもらえばよいだろう)、推敲の過程で「我と彼」とを入れ替えてしまうということは、後代の読者が想像するよりもずっとたやすく行ったように思われる。そしてそのような賢治であったから、読者にもまた作品世界の人物と読者自身という「彼と我」とを入れ替える読み方を要求していたとは考えられないだろうか。

賢治の言語表現にかける熱意は、一つの作品を何度も何度も推敲していたというよく知られた事実にも明らかだが、彼を「推敲魔」にさせたのは、言語の不可能性に追い詰められたためだと言うより、むしろこうしたまことに楽天的と言うしかないコミュニケーション理論を信じきっていたからだとする方があたっているのではなかろうか。このような楽天性なしには、さすがの賢治もいつ世に受け入れられるとも知れない作品を、何百枚も書き溜めることなどできなかったはずである。

童話「茨海小学校」(大正十二年頃?)で賢治はこう書いている。

たゞ呉れ呉れも云って置きますが狐小学校があるといってもそれはみんな私の頭の中にあったと云ふので決して偽ではないのです。偽でない証拠にはちゃんと私がそれを云ってゐるのです。もしみなさんがこれを聞いてその通り考へれば狐小学校はまたあなたにもあるのです。 これをただの童話の中の言葉であるとしてはなるまい。この楽天的な存在論(=コミュニケーション論 =読者論)とそれに起因する表現理論は文語詩制作時でも、ずっと一貫していたように思えるのである。

 

 

8  〔氷雨虹すれば〕

 

   氷雨虹すれば、        時計盤たゞに明るく、

   病の今朝やまされる、     青き套門を入るなし。

 

   二限わがなさん、       公 五時を補ひてんや、

   火をあらぬひのきづくりは、  神祝にどよもすべけれ。

 

  語注

 

氷雨 二連めの冒頭「二限わがなさん」の音節が三・五であることから、ここも三・五であると考えられるので、「ひさめ」と読みたい。

病の今朝やまされる 下書稿二に「かの僚は 病ぬらし」とあることなどから、この病欠者は花巻農学校の同僚であることがわかる。ただ単に風邪をひいたといったことではなく、長い間病気を患っていることが「今朝やまされる」とあることから窺える。となると大正十二年十二月に結核で花巻農学校を退職した奥寺五郎がモデルであった可能性が高くなる。ちなみに独身の奥寺は退職後、母の看護を受けながら療養していたところ、賢治は奥寺の収入が途絶えていることを心配し、自分の月給から毎月三十円ずつを届けていたという。奥寺は翌大正十三年十一月二十七日、奇しくもトシの三回忌の日に没している。

青き套 青い外套のこと。

二限わがなさん 病欠した同僚が担当する予定だった二時間目の授業は自分(=賢治)がかわりにやろう、ということ。

公 五時を補ひてんや 二時間目の授業を「わ(=賢治)」が担当するかわりに「公」には五時間目を担当して欲しい、ということ。

火をあらぬひのきづくり ヒノキと言えば、賢治は童話「ひのきとひなげし」や短歌の連作で、ヒノキを聖性と魔性を併せ持つ神のごとき存在として描くことが多いが、ここでは建築材料としてのヒノキを指すようである。
『文語詩稿 一百篇』の「〔鐘うてば白木のひのき〕」、「四時」などにもヒノキは表われ、特に後者の「時しも赭きひのきより、 農学生ら奔せいでて」から、農学校の校舎が「ひのきづくり」であったことがわかる。これは佐藤成『証言 宮澤賢治先生』(農文協・平成四年)の「新校舎(大正十二年三月三十日落成・信時注)の本館は、青森檜を使った堂々たる二階建であった」といった記述とも一致する。
しかしこれが「火」や「神祝」にどう関わってくるのかというと、その意図はよくわからない。下書稿段階で「火をあらぬ→あたらしき→火をあらぬ」と表記が揺れていることから、校舎が新築であることの喩えであったらしいことが推測できるだけである。
古語動詞で「ある」は「生れる」の意味であるから、「火をあらぬ」は「火を出さない」の意味かもしれない(もっともこの「ある」は下二段動詞なので、「あれぬ」とすべきだが)。ヒノキとは「火の木」であり、古来、火を熾すのに使うことが多かった(ただし万葉時代、檜の発音は甲類の「ヒ」で、火の発音が乙類の「ヒ」であったことからこの説を認めない立場もある)。例えば伊勢神宮の神殿はヒノキ造で、神饌のための火熾しの際もヒノキの火鑽臼を使うらしい。本作にもこうした神道の儀式に由来するものが背景にあった可能性もある。また賢治の好きだったゴッホの糸杉(ZYPRESSEN)の絵が、燃えあがる火のように描かれていることなども、どこかで関係していたのかもしれない(この項は大塚常樹「心的現象論」(『宮沢賢治 心象の記号論』・朝文社・平成十一年)によるところが大きい)。
 

神祝 『新語彙辞典』には「神寿、神賀、とも書く。神を祝ぎ祭る神事の原義から、天皇のみ代を壽ぐ(ことほぐ)意にも用いた」とあるが、神に向かって申し上げる言葉だけでなく、神が人に向かって下される言葉を意味することもある(岩波書店の『広辞苑』、『古語辞典』には後者のみ記載)。さらに「出雲の神を祭る出雲国造が新しく任ぜられた折、大和朝廷への服従の誓を新たにする意味を込めて、一年の潔斎の後に上京して、出雲の神のことばとして天皇にささげる(『角川古語大辞典』)」言葉を指す場合があるという。

 
 
  評釈

 

下書稿一、その裏面上半に下書稿二、下半余白には下書稿三。紙を改めて定稿、現存稿は四種。生前発表はない。先行研究として『新宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍・平成十一年)を挙げることができる。

まずは下書稿一(初期形)を見てもらいたい。

公(きみ)が眉うちひそめるは
さはつらく物うち云ふは
また今朝も方言をもて
きみが妻餉(け)を進めしか
さてはまた粉雪のなかに
村技手の自転車に乗り
人も身もうちはゞからず
悪しざまに物や云ひたる
しからずばかの崖下の
小堰をばはねそこなひて
あらたなるカンガル革の
靴をこそ浸らしたまへる
かにかくにきみがうれひは
きみのみに事足れるらし
さはつらく物な云ひそね

ここには同僚の病欠に関する記述が見当たらず、不機嫌な「公」を冗談めかしながら責めるものとなっている。下書稿二になると「僚友」のタイトルが付され、「かの僚は病きぬらし」や「三限はわが補はん/もしやきみ五時をとらずや」という言葉が挿入され、不機嫌な同僚を責めるものから、病気で欠席した同僚のコマを埋める相談の方に重点が移っている感がある。「僚友」の仮題は、病欠した友に付されたものなのか、それとも不機嫌な友に付されたものなのか、あるいは両方なのか、判断に迷うところである。

さてこの「公」のモデルであるが、これは花巻農学校の同僚・白藤慈秀のことではないだろうか。奥寺と思われる人物が病欠した分の空き時間を埋める相談を「わ」がもちかけているのは、賢治と白藤が共に教務部の担当だったからであろう。『文語詩篇ノート』の一九二四年「三月」の項に「過渡期ノ風習」「何故シカク機嫌ワルキカ(白藤ヨ)」とあるが、これは本作に出てくるこの機嫌の悪い「公」が白藤だという傍証になるかもしれない。拙稿「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈一」(『山手国文論攷20 』・平成十一年三月)の「〔雪うづまきて日は温き〕」の評釈でも『文語詩篇ノート』の同じ箇所を引いて、白藤を揶揄する内容の作品であることを述べたが、少なくとも「何故シカク機嫌ワルキカ(白藤ヨ)」に関しては、本作の方が状況として近いと思われる。「〔雪うづまきて日は温き〕」の評釈でも書いたが、白藤本人は気づいていなかったようでも、賢治は白藤のことを箸の上げ下ろしまでが気に入らないとでもいった風な嫌い方をしていたようである。原因はもちろん白藤が浄土真宗の僧であったからであるが、賢治の悪口雑言は宗教的な対立というよりも、生理的嫌悪に基づくものだとした方がいいかもしれない。

ただ「公」は白藤ではなく、大正十三年一月に賢治が介添人となって結婚式を挙げた堀籠文之進である可能性もある。賢治は盛岡高等農林学校の後輩にあたる堀籠と親しく、その「まっすぐないゝ(小岩井農場 下書稿)」人柄を愛していたというが、新婚早々の僚友をひやかして書いた戯詩として読んでみれば、ユーモアに包みながら先輩としての忠告をしているように読めなくもない。

ところで奥寺が退職したのは大正十二年十二月である。堀籠の結婚は大正十三年一月、そして『文語詩篇ノート』の白藤に関する記述は大正十三年三月。つまり病欠の人物が奥寺であるとすると、ここまで述べてきた「公」のモデル詮索は、全く成り立たないことになってしまう。しかし他の作品がそうであるように、本作も虚構を交ぜて(実際に経験した時間や空間を適宜アレンジしながら)書いていた可能性は十分にある。機嫌の悪い「公」だけにスポットをあてていた下書稿一に、下書稿二以降になって僚友の病欠を組み入れたという推敲の過程を見ても、そうした改変がなされた可能性は十分にあると言えよう。

さて問題は難解な最終行の解釈である。『新語彙辞典』では「神の行事の折にこそ賑々しく騒ぐべきだろう」としているが、これでは誰が、なぜ賑々しく騒ぐべきなのかについて触れられていないので、その意図するところが掴みかねる。そこで下書稿を見てみると「ことばもてひゞかすべけれ」「神代なることにひゞかす」「ことばもてどよもすべけれ」といったヴァージョンがあるので、本稿で読み解いてきた方向に従えば、「公」の立ち居振舞いの粗暴さに対し、大声を出すのなら教室で出してくれといった非難の言葉であったということになりそうだ。また「神祝」を語注の最後に書いた「神の言葉を代言すること」ととると、神(→阿弥陀仏? →宗主?)の威を借りて大声をはりあげる白藤慈秀への痛烈な批判、というように読むこともできるかもしれない。

 

 

9  砲兵観測隊

 

   (ばかばかしきよかの邑は、   よべ屯せしクゾなるを)

   ましろき指はうちふるひ、    銀のモナドはひしめきぬ。

 

   (いな見よ東かれらこそ、    古き火薬を燃し了へぬ)

   うかべる雲をあざけりて、    ひとびと丘を奔せくだりけり。

 

  語注

 

屯 軍の部隊が駐屯すること。しかし後述するとおり、砲兵観測隊を戯れに自分たちを軍隊に見立てて呼んだものだとすれば「仲間やある職業の者が集まること(広辞苑)」の意味に解するべきだろう。

クゾ 『新語彙辞典』に、「岩手県稗貫郡宮野目村(現花巻市)に大字葛がある。クゾは葛のなまりか」とある。しかし下書稿一ではミラノ、下書稿二ではセガに改められていることから実際の地名をあてはめるのには無理がある。ただ雫石町を流れる葛根田川の「葛」の字が命名のヒントとなった可能性はある。

モナド 単子。ライプニッツ(一六四六~一七一六)はもはやこれ以上分割することのできないもの(モナド)のみを真の実体であるとした。モナドは窓を持たず、物が出たり入ったりすることはないが、それぞれが宇宙全体を映し出すことができる。あたかもマンダラのように、個にして全、全にして個なる存在である。賢治は他の作品でも好んでこの語を使っている。

 
 
  評釈

 

『東京ノート』に下書稿一。さらに下書稿二、定稿の三種が現存。生前発表はない。先行研究としては、『新語彙辞典』の項目のほか、中谷俊雄が文語詩稿作品論集の「原稿規程(平成十年一月)」に見本として掲げたものがある。

下書稿一は『東京ノート』の「一九二一年一月より八月に至るうち/大正十年」とまとめられた箇所に書かれている。

(ばかばかしからずや
かの白光はミラノの村)
そを示す白き指はふるひ
そらより落ち来る銀のモナドのひしめき
これは文語詩定稿の前半にあたるが、これだけでは何を言わんとしているのか全くわからない。ただ文語詩の標題から、辛うじて軍隊に関連する詩であることがわかるだけである。中谷や『新語彙辞典』では花巻市葛近辺でおこなわれた砲兵の軍事訓練を題材にしたと考えているようだが、地名は下書稿一ではミラノ、下書稿二ではセガとされていることから、あまり花巻近辺での取材に限定しない方がいいだろう。また下書稿一が「一九二一年一月より八月に至るうち/大正十年」と書かれたと同じページに、同じ筆記具で一気に書かれたものであることも無視できない。これは賢治が家業と家の宗旨とを嫌って家出上京した時期である。それでは東京の葛(葛飾?)で軍事訓練が行われたのかというと、そういうわけでもまたなさそうだ。本稿では先行作品として「初期短篇綴」と仮称される短篇集の中の一篇である「秋田街道」を挙げ、解釈を試みることとしたい。

「秋田街道」は賢治が盛岡高等農林に在学中の大正六年七月七日、同人雑誌アザリアの第一回小集会の終わった後、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行の三人と、夜十二時を過ぎてから秋田街道を経由して春木場(盛岡高等農林学校の実習地があり、彼らにはなじみの場所であった)まで歩いた(保阪はこれを「馬鹿旅行」と名付けている)時の経験を、心象スケッチ風に描いたものである。伊藤眞一郎によれば初校の執筆は大正九年九月、現存草稿の執筆は大正十一年とされている(『宮沢賢治必携』・昭和五五年五月・学燈社)。

『東京ノート』の大正十年の項目に大正六年のできごとを記しているのは奇妙に思われるかもしれない。しかし大正十年の上京中であっても、岩手時代に書きつけた短篇と完全に切り離して考えることはできない。例えば恩田逸夫は大正十年八月十一日に賢治が関徳弥に宛てて書いた書簡の裏面にある「〔蒼冷と純黒〕」と称される戯曲断片に、やはり同じ「初期短篇綴」所収の「女(大正八年夏取材、大正九年五月初校?)」と「盛岡停車場(大正七年取材)」の文言が含まれていることを指摘している(「「こわしてしまった芝居」の諸問題 宮沢賢治における「青と黒」」・『四次元78』・昭和三二年一月)。それを受けて榊昌子は「大正十年の上京中も、これらの作品が心にかかっていた証拠だろう」とし、賢治が家出した際に持っていたのは御本尊と御書と洋傘だけでなく、それまでに書き溜めていた歌稿や短篇群も含まれていたのではないかと推測している(「「初期短篇綴」クロニクル・「柳沢」編」・『宮沢賢治研究Annual9』・平成十一年三月)。「〔蒼冷と純黒〕」は岩手県の外山高原で農業をするといったことが述べられている極めて岩手色の強い作品であるから、上京中に書き留められたという本作の下書稿一が「秋田街道」のような岩手色の濃い作品と密接に関わっていたとしても不思議はないはずである。榊昌子はまた「秋田街道」を賢治の歌稿と比較対照した結果、過去数回の経験および、それに基づく短歌数首をまとめたものであることを論証し、「秋田街道」という作品自体も後の作品と関わる可能性があることを指摘している(「秋田街道の成立について」・『秋田風土文学10』・平成十年十一月)。

では早速「秋田街道」と本作の関係について見ていくことにしよう。

「秋田街道」はこのように始まる。

どれもみんな肥料や薪炭をやりとりするさびしい家だ。街道のところどころにちらばって黒い小さいさびしい家だ。それももうみな戸を閉めた。

おれはかなしく来た方をふりかえる。盛岡の電燈は微かにゆらいでねむさうにならび只公園のアーク燈だけ高い処でそらぞらしい気焔の波を上げている。どうせ今頃は無鉄砲な羽虫が沢山集ってぶっつかったりよろけたりしてゐるのだ。

これが文語詩とどう関わるのか、と思われるかもしれない。しかし山の方に向かって一行が歩き始め、もうだいぶたったと思った頃、ふと後ろを振り返ってみるとそこには盛岡の街の燈が見えている―― 「ばかばかしい。あれは昨夜タムロしていた盛岡の街の燈じゃないか」―― こんな場面を想像することはできないだろうか。

 さらにこの両作品の間に『文語詩 一百篇』所収の「岩手公園」をおくとどうなるだろう。

「かなた」と老いしタピングは、  杖をはるかにゆびさせど、
東はるかに散乱の、        さびしき銀は声もなし。
 

なみなす丘はぼうぼうと、     青きりんごの色に暮れ、
大学生のタピングは、       口笛軽く吹きにけり。
 

老いたるミセスタッピング、    「去年(こぞ)なが姉はこゝにして、
中学生の一組に、         花のことばを教えしか。」
 

弧光燈(アークライト)にめくるめき、 羽虫の群のあつまりつ、
川と銀行木のみどり、       まちはしづかにたそがるゝ。

第一連は本作とイメージが共通し、第四連は「秋田街道」とイメージが共通している。どの言葉(イメージ)を残し、どの言葉(イメージ)を棄てたのか、その過程をはっきり追うことはできないものの、これら三つの作品が岩手公園という場所によって結びつきそうなことは確認できるはずである。 けれども今は崇高な月光のなかに何かよそよそしいものが漂ひはじめた。その成分こそはたしかによあけの白光らしい。 やがて夜が明けてくる。そして月光の中に目には見えない「何かよそよそしいものが漂」うのが心の目に映り始める。これこそが「銀のモナド」なのだろう。下書稿一が記されていたのと同じ『東京ノート』に つめたくさびしきよあけごろ
蚊はとほくにてかすかにふるひ
凝灰岩のねむけとゆかしさと
銀のモナドぞそらにひしめき
とあり、これも「砲兵観測隊」、「秋田街道」、「岩手公園」のいずれにも通じるものが感じられよう。 みんなは七つ森の機嫌の悪い暁の脚まで来た。道が俄かに青々と曲る。その曲り角におれはまた空にうかぶ巨きな草穂を見るのだ。カアキイ色の一人の兵隊がいきなり向ふにあらはれて青い茂みの中にこゞむ。さうだ。あそこに湧水があるのだ。 そしてここで兵隊が出てくる。小沢俊郎はこの兵隊を幻影であると、自信がないとしつつも書き(『小沢俊郎宮沢賢治論集3・有精堂・昭和六十二年)、福島章は賢治だけが見た幻像だと断定している(『不思議の国の宮沢賢治』・日本教文社・平成九年)。なるほど福島の言うとおり他の同行者が兵隊に関する記述を残していないので、その可能性は否定できない。しかし翌日、賢治が荷馬車の持ち主に怒られた体験がそうであるように、他のメンバーの書いていない内容も「秋田街道」には含まれていることから断言するのは行き過ぎだろう。

賢治は大正十四年五月七日に農学校の生徒を引率して小岩井農場に出かけており、その日の日付のある「遠足統率」に、「いつかも騎兵の斥候が/秣畑をあるいたので/誰かゞちょっととがめたら/その次の日か一旅団/もうのしのしとやってきて/大演習をしたさうです」とあることから、小岩井近辺でも演習が盛んに行われていたことは確かである。また盛岡市北西部の観武ヶ原には陸軍の演習地があり、馬鹿旅行の当日には歩いていないようだが(行程については亀井茂「賢治作品『秋田街道』の秋田街道まで 保阪嘉内歌稿ノートより(『早池峰8』・昭和五四年十月)」参照)、中学校時代の明治四四年九月には、賢治もこの付近で発火演習に参加している。これも岩手山周辺と兵隊のイメージを、(たとえ幻想であったにしても)強く結びつけるきっかけになっていたのではないだろうか。

東がまばゆく白くなった。月は少しく興さめて緑の松の梢にかかる。 彼らは盛岡から雫石へ、つまり東から西に向かっていたので、歩きやめて後ろを降り返ってみないと東の空の異変には気付かない。一行のうちの一人が、東の空が白み始めていることを指摘する(いな見よ東)。そしてつい先程見た兵隊の姿から「さっきの兵隊が古くなった火薬でも燃やしているんじゃないか」とジョークを飛ばす。あるいは盛岡市よりも少し北側の空が白み始めていたために、その直下の観武ヶ原で演習が始まっていることを、指摘したのであったかもしれない。いずれにせよ「砲兵観測隊」とは、そんな「砲兵」たちの仕業(実像であれ虚像であれ、また友人同志で交わした冗談であれ)を「観測」する馬鹿旅行の一行(=隊)、という意味だったのではないだろうか。 葛根田川の河原におりて行く。すぎなに露が一ぱいに置き美しくひらめいてゐる。新鮮な朝のすぎなに。 こうして「ひとびと」は「丘」から川べりに「奔せくだ」るわけである。語注で「クゾ」の由来を葛根田川ではないかと書いたが、それは取材時の体験と関わる地名だったからである。

本作そして「秋田街道」は、このように第三者からすれば実に他愛のない経験を描いているに過ぎない。しかし賢治だけでなく同行三人のそれぞれにも印象に残る出来事であったらしく、彼らもこの経験を歌や俳句に詠んでいる。保阪嘉内の自筆ノート『我は独り』には、小沢俊郎が指摘するように「秋田街道」と語句の似たものも散見する(前掲)。ことに

盛岡の空は/まつたく/しめりたり、公園の/電燈も、これもしめりて、

北上がまったく白し、/わが立てる/夏の夜更けの/電燈が光り、

東の方の林のはじが/白く見ゆ、その上の/雲もすこし明るく

雲去りて又雲が来たる/大空の月の象牙の/一巻の銀

といった歌は、「砲兵観測隊」の記述に近いと言えるのではなかろうか。

ところで大正十年といえば、賢治は保阪に向かって執拗に国柱会への勧誘を続けていた時期である。保阪と共通の思い出である馬鹿旅行を、東京の賢治はいったいどう振り返っていたのだろう。

 

 

10  〔盆地に白く霧よどみ〕

 

   盆地に白く霧よどみ、  めぐれる山のうら青を、

   稲田の水は冽くして、  花はいまだにをさまらぬ。

 

   窓五つなる学校に、   さびしく学童らをわがまてば、

   藻を装へる馬ひきて、  ひとびと木炭を積み出づる。

 

  語注

 
 

盆地 岩手県遠野市一帯の盆地を指す。
うら青 「うら」は「うら若い」の「うら」と同じ接頭語。下書稿三に「めぐれる山のうら青し」とあることなどから、山の青さを表現しているととるべきかもしれないが、本作の先駆形態と思われる「〔盆地をめぐる山くらく〕」(『兄妹像手帳』)に「稲は青穂をうちなめて」とあることや、東北地方を襲った「サムサノナツ」を扱ったテーマから考えて、稲の穂がまだ青いことをいう、ととりたい。「の」は「(多く、和歌の序詞の技法)上の語句の内容を比喩・例示とするもの。「…のように」の意。上の語句の内容を比喩、例示するもの。「……のように」の意。(広辞苑)」であると考えられる。

冽く 本来なら「さむく」と読むが、水は「つめたい」ものであって、「さむい」ものではない。下書稿一、二には「清く」とあることから、「洌く」(きよく)の間違い。あるいは無理に「きよく」と読ませ、水の冷たさをもイメージさせようとしたとも考えられる。『文語詩 一百篇』の「化物丁場(下書稿二)」の書き入れに「  し」と自らルビを振っている例がある。

花はいまだにをさまらぬ 稲の花が、未だに咲きやまないことを言う。先に「うら青」の解釈を稲田の青さととったことと矛盾すると思われるかもしれないが、賢治は「祭日〔一〕」(『文語詩稿 一百篇』)で、「穎花青じろく」と書いているから、稲花を「青い」と捉えていたことになり、解釈上の問題はない。

ただ先駆形態である「〔盆地をめぐる山くらく〕」の関連作品とされる(『新校本全集』の記述による)「〔topazのそらはうごかず〕」に、「蓮華には白き花さき」とあることから、ハスの花が未だに咲きやんでいないことを指すと考えるべきなのかもしれない。「花」から「ハスの花」を連想させようというのは説明不足のようにも思えるが、青い稲田とのコントラストは取材時に強く印象に残ったと考えられ、そのまま定着させた可能性も否定できない。

学校 賢治の教え子である沢里(旧姓・高橋)武治の赴任した上郷小学校をモデルにしているか。

藻を装へる馬 柳田国男の『遠野物語』の序文に「馬は黔き海草を以て作りたる厚総を掛けたり。虻多き為なり。」とあることを奧田弘(「風と光」・『賢治研究6』・昭和四五年十二月)が指摘している。黒い海草で編んだ「厚総」を馬の首・肩・尻などに掛けると、馬が歩くたびに揺れるので、虻を追い払うことができるのである。

 
 
  評釈

 

『新校本全集』によれば現存稿は四篇。下書稿一と、その裏に下書稿二と下書稿三。そして紙を改めて定稿。生前未発表。ただ後述のとおり、下書稿三以降に導入されたテーマのもとになると思われるメモ、およびそれを文語詩化する過程の断片が『姉妹像手帳』にある。

先行研究としては青山和憲「〔盆地に白く霧よどみ〕の形成過程に見る主体の変化 宮澤賢治の表現及び主題意識の変化について」(『言文34』・昭和五二年十二月)、岡井隆『文語詩人 宮沢賢治』(筑摩書房・平成二年)、山内修『宮澤賢治研究ノート 受苦と祈り』(河出書房新社・平成三年)、栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(新宿書房・平成四年)、島田隆輔「宮澤賢治/〔盆地に白く霧よどみ〕/試注」(『国語教育論叢6』・平成九年三月)、信時哲郎「〔盆地に白く霧よどみ〕」(『宮沢賢治 文語詩の森』・柏書房・平成十一年)などがあり、文語詩稿の中では比較的研究の進んだ作品となっている。

これまでの研究で明らかになっているのは、さびしく子供達を待っている人物が、「なれが胡弓(つまりヴァイオリン)を友として」という下書稿一の手入れから、賢治の教え子で昭和四年に上郷小学校に赴任した沢里武治だということである。沢里は農学校在学中、賢治から音楽の才能を認められ、ヴァイオリンを贈られてもいるが、ここではそのヴァイオリンを指すと考えられる。また賢治の残した『文語詩篇ノート』の「1929」と書かれた頁に、「四月、ナガ眼空シク果ツベキ眼力、高橋武治ニ送ル」という言葉があり、下書稿一の「とは云へなれがそのひとみ/かしこに朽ちんすがたかは」と類似していることからも、この作品が上郷小学校の沢里をモデルにしたものであるのは間違いないだろう。もっとも昭和四年の四月と言えば、賢治はまだ病床にあったわけであるから、ここに再現された遠野の風景は、この時スケッチされたものでなく、その以前か以後のもの、あるいは想像によるものだということになる。

この作品が多くの論者に取り上げられるようになったのは、文語詩稿の本質に関わる問題、すなわち「なれ」と二人称で書かれていた下書稿が、いつしか一人称の「われ」に書き換えられて定稿となっていることによると思われる。下書稿二を引用しよう。

そこは盆地のへりにして
稲田はせばく 水清く
馬は黒藻をよそほへり
 

やどり木吊(か)けし栗の下
丘に五つの窓もてる
宿直(いへゐ)をかねし校舎あり
 
髪やゝ赤きうなゐらの
白たんぽゝの毛を吹かん
 
とは云へなれがそのひとみ
そこに朽ちなんすがたかは
そらは晴れたりなれを祝ぐ

この段階では、遠野盆地のへりにある小学校、それも「五つの窓」しかないような学校に勤めることとなった沢里に、「いざかしこにてさびしさを/青ぞらにこそ織りて来よ(下書稿一)」とか、「そらは晴れたりなれを祝ぐ(下書稿二)」と、僻地にやられたからといって、教育への情熱を冷ますことなく、さびしさなどは晴れ渡った青空に織りこんでしまいなさい、と励ましを送るというのがテーマであった(「丘に五つの窓もてる/宿直をかねし校舎あり」とあるが、島田の調査によれば上郷小学校は昭和四年当時で三〇八人も児童がおり、事実とは異なっているという。また上郷小学校は「丘」の上にはなかったことも指摘されている)。ところが定稿では、この学校で学童たちをさびしく迎える人物が「われ」に変質しているわけである。賢治は自分の生涯を題材にして書いた文語詩でも、一人称的視点から言葉を発していることを感じさせない配慮をしているが、ここでは全く逆の書き換えをしていることになる。本作が問題視されてきたのは、こうした事情によっているのだろう。しかしこれは方法論にばらつきがあったのではなく、賢治はあくまで「「個」の幻想から解放されること(山内)」を頭に入れながら書いていたのであり、人称の問題にとらわれる読み方こそ、まず改められねばならない、とされるわけである。詳しくは諸家の論を参照してほしいが、表現や立証の手続きに違いはあるが、この件に関して言えば見解はほぼ一致していると言ってよいだろう。

もう一つ言及すべきことは、山内・島田が指摘しているように、下書稿一、二と、下書稿三から定稿に至るまででは、重複する言葉こそ多いものの、主題が変わっているということである。

賢治は昭和六年八月一八日、沢里に向ってこのような書簡を送っている。

この頃「童話文学」(正しくは『児童文学』・信時注)といふクォータリー版の雑誌から再三寄稿を乞ふて来たので既に二回出してあり、次は「風野又三郎」といふある谷川の岸の小学校を題材とした百枚ぐらゐのものを書いてゐますのでちやうど八月の末から九月上旬にかけての学校やこどもらの空気にもふれたいのです。 昭和六年七月より使われたとされる『兄妹像手帳』には、「風の又三郎」の構想メモが一頁から七三頁あたりにかけて記され、賢治は遠野を訪れる際に、これを持参したと考えられるが、そのメモの合間に「西〔暦〕一千九百三十一年の秋の/このすさまじき風景を/恐らく私は忘れることができないであらう/見給へ黒緑の鱗松や杉の森の間に/ぎっしりと気味の悪いほど/穂をだし粒をそろへた稲が/まだ油緑や橄欖緑や/あるひはむしろ藻のやうないろして/ぎらぎら白いそらのしたに/そよともうごかず湛えてゐる/このうち潜むすさまじさ(七~十頁)」といった記述が残されている。手帳にはそれを文語詩化したと思われる「盆地をめぐる山くらく/わづかに削ぐ青ぞらや/稲は青穂をうちなめて/露もおとさぬあしたか〔な〕(二九~三十頁)」といったものも含まれており、これがさらに文語詩定稿の前半部に発展したと考えることができる。賢治は九月九日、沢里に宛てて遠野訪問の際の礼状を出しているが、ここにも「一二日天気が続いてよろこんでゐたら今日また曇りだして稲作は実に心配です」とあるから、昭和六年秋の遠野行きは、賢治にかなり強烈なインパクトを与えたようである。島田の引用する『希望―上郷小学校100周年記念誌』には、昭和六年の遠野は「気温低く諸穀熟さず。稲作殊に甚しく実らざること所少なからず。村平均三割作と称せらる」とあるような冷夏、すなわち「サムサノナツ」に見舞われ、記録的な大凶作になったというが、八月十日には豪雨・大洪水があり、農村はさらに苦境に追いやられることとなった。

こうして賢治は、文語詩推敲の途中で、当初のテーマであった「教え子激励」を破棄し、昭和六年の経験、およびそのメモなどを生かし、遠野盆地の「すさまじき風景」をテーマとする作品に書き換えるわけである(『新校本全集』では、下書稿二に「凶作地」と題があり、「この題名は上半右端。題名のみ後補か?」とあるが、「教え子激励」のテーマしか窺えない下書稿二にこの題はあわないし、生原稿を見ても、その位置からすれば、下書稿三に付されたものであると考えるべきである)。

では、こうした背景を考慮に入れて、定稿を読んでみることにしよう。

盆地には今日も白い霧がよどみ、山に囲まれた稲田には、青々とした穂が立っている―― つまりこれは「凶作地」の悲惨な初秋の景色なのである。稲田の水も、夏の間中冷たいままで、(稲/ハスの)花もいまだに咲いている。こうした異常気象の下で、まともに稲が稔るはずなどないのである。

後半になると、沢里を思わせる小学校の先生、つまり「われ」が「さびしく」子供達を待つシーンに移る。これを下書稿二までの段階と同じように、僻地の小学校の教員として甘んじている自分に対するロマンティックな感傷、と解してはなるまい。『新語彙辞典』によれば、この年十月の欄に「東北・北海道地方冷害凶作のため娘身売り多く(山形県最上郡の一村では娘四五七人中五〇人が身売り)、各地で家族離散の悲劇続出」という記述がある。沢里の教え子の姉や親類にも、同じような境遇にあった者は少なくなかったのではないだろうか。子供達のことを思えば、少なくとも今、必要なのは勉強などではない。それでも小学校の教員として子供達を待ち続ける自分とはいったい何なのだろう…… 「われ」の「さびしさ」とは、こうした事情によるものではなかっただろうか。

人々が木炭を積み出しているというのは、下書稿一にもあった描写である。しかし以上のような背景を考えると、これは「グスコーブドリの伝記」で、ブドリの両親が凶作の年の秋に「たびたび薪を野原の方へ持って行った」状況が思い出される(ちなみに荒唐無稽な幻想譚である「〔ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記〕」が「グスコンブドリの伝記(「グスコーブドリの伝記」の先行形態)」に書き改められたのも昭和六年頃であるとされており、ここにも「遠野体験」の影響を指摘することができそうだ)。すなわちなんとか現金収入を得ようとして、蓄えてあった木炭を売りに町に出かけるところであったように思えてくる。しかし木炭を売りに行った人々の生活がドラスティックに変化したかというと、『新語彙辞典』の昭和六年一月の欄に、「農産物生産過剰、繭価木炭価惨落。」とあることから、おおよその見当はつくだろう。

下書稿三の末尾には「農人たちの窮況/技手に直す」というメモがあるが、これは斜線によって削除されている。山内・島田は、賢治が「さらに自分にひきつけて物語化する意図があったと思われる(山内)」としながらも、結局構想そのものを破棄したのではないか、という。しかしここで賢治の文語詩全体の傾向を覆して、賢治自身が登場した可能性を考える必要はないだろう。下書稿三の手入れで「窓五つなる学校を/五とせなせと裁かれつ」を、「窓五つなる学校に/さびしく学童らをわが待てば」と改変した段階で、すでに構想が実現されていることに気づいて抹消した、とも考えられるからである(この手入れと斜線はどちらも鉛筆で書かれているが、生原稿によればどちらも同じ筆圧で書かれていると判断できるので、これらは同時に書かれたということになりそうだ)。

「農人たちの窮況」が作品に盛り込まれていることについては、もう説明を要さないだろう。問題は「技手に直す」についてである。簡単に考えれば、本来「かれ=沢里」であるべきところに「われ=当時東北砕石工場の技師だった賢治自身」を割り込ませたのはそのためだ、と言うこともできよう。しかしこれは文語詩全体の傾向としては「禁じ手」である。もちろん賢治が文語詩稿全体の一貫性を崩して、そのように改変した可能性もないとは言えない。しかしこのメモ一つからそこまで断言するのは危険だし、そもそも技手である賢治がなぜ「学童ら」を待つ必要があるかについても明らかにする必要が出て来よう(あるいは「風の又三郎」の取材のため?)。ここで下書稿三では、すでに凶作地というテーマに移行しているにもかかわらず、先生にはあいかわらず「五年間の田舎暮らし」を嘆かせていたことを思い出してもらいたい。手入れ段階になって、ようやく先生は個人的な感傷から抜け出し、農村と学童を嘆くことのできる場所に立てたわけである。そもそも賢治が「技手に直す」と書いたのは、果たして技手である自分を語りたかったからなのだろうか。むしろ学童の身の上だけでなく、「農人たちの窮況」をも見据えることのできる存在を登場させたかったからではないのだろうか。とすれば、この手入れで「技手」を登場させる必要も、またこの上さらに「農人たちの窮況」をさらに書き加える必要もなくなって削除に至った、と言うこともできるのではないだろうか。

それではなぜ「われ」などという言葉を使ったのか、と問われるかもしれない。賢治は「一人称にて甘きもの 三人称にてなすとき 応々奇異なる真美を生ずることあり(『文語詩稿 一百篇』「〔厩肥をになひていくそたび〕下書稿一メモ」)というメモを残したが、ここでは逆に、一人称で書くことによって「甘さ」を生じさせようとした、と解することもできるのではないだろうか。「甘さ」というのは、つまり感情の真摯さ・直接性のことであって、賢治は敢えてそれを用いることによって「さびしさ」を、すなわち「農人たちの窮況」を際立たせようとしたのではないか、とも考えられるのである。

昭和六年九月初旬、賢治の遠野盆地への取材は「風の又三郎」に生かされた。しかし童話世界に盛り込むことのできなかった「農人たちの窮況」は、下書稿三以降の本作に、そして「グスコーブドリの伝記」の方に流し込まれていたことにはならないだろうか。つまり本作品は、「グスコーブドリの伝記」と「風の又三郎」という二大長編童話の結節点にあったように思うのである。

 

 

 前年に発表した「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一」と同じく、本稿もホームページで公開し、誤りや新見を見つけたら適宜更新していくこととしたい(更新部分は赤字で表示)。尚、「宮澤賢治「文語詩稿 五十篇」評釈 一」は旧版の公開と同時に修正版も公開している。ことに栗原敦氏のご教示による「暁」、榊昌子氏のご教示による「〔雪うづまきて日は温き〕」は大幅に訂正してあるので参照されたい。
 

インターネット版註 ルビの表示がうまくできないので、( )で補った。ただし各章の冒頭に掲げたテキストには( )の表示も省いた。詳しくは全集その他を参照していただきたい。
 http://www.kobe-yamate.ac.jp/~tetsuro/nobutoki.shtml