宮澤賢治「文語詩稿五十篇」評釈 三

信時 哲郎



 
十一  [たそがれ思量惑くして]


   たそがれ思量惑くして、銀屏流沙とも見ゆるころ、

   堂は別時の供養とて、盤鉦木鼓しめやかなり。

   頬青き僧ら清らなるテノールなし、 老いし請僧時々に、

   バスなすことはさながらに、 風葱嶺に鳴るがごとし。

   時しもあれや松の雪、 をちこちどどと落ちたれば、

   室ぬちとみに明るくて、 品は四請を了へにけり。
 

     語注
 

思量 曹洞宗の開祖・道元の『正法眼蔵』に「座禅箴」があり、そこに「思量箇不思量底(しりょうこふしりょうち)」の語がある(もとは『景徳伝燈録』の中の言葉)。座禅とは通常の意味における「思い」のおよばないことを「思う」ことだ、という意味。本作の舞台は盛岡市内にある曹洞宗の報恩寺であるから、賢治は敢えて道元の語を用いたのであろう。

惑く 座禅を組んでいるうちに「思量」を離れ、「思量箇不思量底」の境地、すなわち「非思量」に至ったことを表す。読み方は『新語彙辞典』では「わわく」、丹治昭義は「くらく」(『宗教詩人 宮澤賢治』・平成八年・中公新書)としているが、どちらも一般的な読み方ではないので、朗読されても意味は通じないだろう。よってここでは最も一般的な読み方だと思われる「まどく」と読んでおくことにする(島田隆輔「文語詩稿定稿語彙索引」未発表)も「まどく」の読みをあてている)。

銀屏流沙 銀の屏風が流沙、すなわち水に流れる砂(あるいは水分を多く含んだ砂)のように見えてきたということ。「流沙」は西域地方のタクラマカン砂漠のことを呼ぶこともあり、賢治のイメージの中には当然それが含まれていたとすべきだろう。流沙という語は「〔学者アラムハラドの見た着物〕」、「〔雁の童子〕」などにもタクラマカン砂漠のこととして登場する。

 盛岡市北山の曹洞宗・報恩寺の僧堂のこと。賢治は盛岡中学校五年の時、住職・尾崎文英について参禅している。

別時 通常の供養ではなく、特別の場合の供養のこと。賢治の歌稿に「いまはいざ/僧堂に入らん/あかつきの、般若心経、/夜の普門品(歌稿B・大正五年三月より 三一九)」とあることから、この寺では通常、朝に般若心経、夜には普門品(『法華経』の観世音菩薩普門品第二十四)を読誦していたことがわかる。この時は賢治が最も敬っていた『法華経』の「如来寿量品第十六」が読まれていたようだ。

盤鉦木鼓 仏具楽器としての鉦と木魚のこと。

請僧 他の寺から招請した僧のこと。下書稿二には「主座の老僧」、定稿初期形には「寄寓の老僧」とあることから、明治四四年にこの地に招かれた尾崎文英を指すと思われる。

葱嶺 パミール高原のこと。先の流沙とともに西域地方の地名。パミールも賢治作品には頻出する。賢治は座禅と読経の声から西域を幻視・幻聴したわけである。

室ぬち ぬちは「のうち」の略。部屋の中のこと。

とみに 間をおかないさま。急に、にわかにの意。

 仏典の章や篇の意味に用いる語。

四請を了へにけり 「如来寿量品第十六」には、弥勒が釈迦に教えを請おうとして三請(三回教えを請うこと)、さらに四請する場面がある。ここまで誦し終わっていたということ。
 

     評釈
 
「雨ニモマケズ手帳」に書かれた下書稿一、黄罫詩稿用紙(22-0行)に改めて下書稿二。その裏に下書稿三。そして定稿の四種が現存。生前発表はされていない。下書段階では「報恩寺」「書院」のタイトルが付されていたが、定稿では省かれている。また下書段階では五七調だったものを、定稿で七五調に変えており、冷静で理知的なものになっている。

下書稿一の書かれた「雨ニモマケズ手帳」の次ページには『文語詩一百篇』所収の「涅槃堂」の下書稿一があり、後述するとおり本作との関係は密接である。先行研究には小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』(昭和五三年・東京創元社)、丹治昭義(前掲)がある。

『文語詩篇ノート』の1916(大正五年)に
 
一月
報恩寺◎寒行に出でんとして、
 銀のふすま、◎暁の一燈、◎警策
            ◎接心居士、

品行悪しといふとも
   なほこの僧のまなざしを見よ、


とあり、本作が盛岡高等農林学校一年の冬、賢治が「寒行」に出た際の体験に基づいていることがわかる。後半の内容は文語詩「涅槃堂」のものと思われるが、その下書稿二は次のようにある。
 

よべよりの雪なほやまず
松が枝も重りにけらし
棟遠き羅漢堂には
衆僧いま盤(ママ)若を転ず
定省を父母に欠き
養ひを弟になさで
ひたすらに求むる道の
疾みてなほ現前し来ず
起き出でて北をのぞまじ
松なみのけむりにも似ん
雪の山また雪の丘
ふるさとのいとゞ遠しも
かの町の淫れをみなと
事ありと人は云へども
なほしかの大悲のひとみ
おゝ難陀師をまもりませ
松の枝かすかに枝(ママ)れて
どと落ちし雪の音あり
衆僧いま看経を終へ
こなたへととめくるごとし


法恩寺の住職・尾崎文英は行動が粗雑で、ここにあるように売笑婦との噂も囁かれていたようだ。普通なら賢治が最もきらいそうな人物だが、彼は尾崎の学識や人物をそうとう重く見ていたようで、師のために、出家を志すも妻との愛欲を絶ちがたかったという難陀に救いを求めてさえいる。ここまで尾崎を重んじるに至ったのは、本作にあるように参禅の際、若い僧たちのテノールと尾崎のバスによる「寿量品」が賢治の幻想を誘い出し、法華経の伝わってきた経路である西域の風景を見せたという神秘的体験によるところも大きいのだろう。もちろん虚構が混じっている可能性も考慮に入れるべきだろうが、そこまでして師の人間的な魅力や霊力を表現しようとしたことにこそ、むしろ注目すべきであろう。

「涅槃堂」下書稿二の第五連にある松の枝から雪が落ちるという件りは、このまま下書稿二にあるだけではただの状況説明にしかならない。しかし、本作に転用されることによって、瞑想にふけっていた賢治を現実の世界に呼び覚ます役割を帯び、さらに雪国の一月の厳しい寒さや僧堂の静寂をも感じさせる効果を生んでおり、まことに効果的である。
 

 
十二  悍馬〔一〕


   毛布の赤に頭を縛び、     陀羅尼をまがふことばもて、

   罵りかはし牧人ら、      貴きアラヴの種馬の、

   息あつくしていばゆるを、   まもりかこみてもろともに、

   雪の火山の裾野原、      赭き柏を過ぎくれば、

   山はいくたび雲シ翁の、     藍のなめくじ角のべて、

   おとしけおとしいよいよに、  馬を血馬となしにけり。
 
 

  語注
 

悍馬 たけだけしい馬の意。

毛布 『春と修羅 第一集』の「日輪と太市」や『注文の多い料理店』の「水仙月の四日」には「けっと」というルビがある。よって(賢治は下書段階でもルビを振っていないが)、ここでも「けっと」と読むことにしたい。英語のblanketを略したもので、当時はよく使われた語。馬を引き連れた農婦が、赤い毛布で作った「かつぎ」を被っているのである。

陀羅尼 梵文の長い句を翻訳なしにそのまま読誦するものを陀羅尼と言う。神秘的な力を持ち、これを誦することによって、さまざまな障害を除き、功徳をうけることができると信じられていた。馬をはやす声が陀羅尼のように聞えたというのである。

牧人 下書稿によれば「まきひと」と読ませたかったようである。牧場に雇われている人ではなく、種畜場に向かう農民たちのこと。

アラヴ ここではアラビア馬のこと。乗用馬として珍重されてきた。

まもりかこみて 集ってきた「牧人」たちが、羨望の対象である種馬を見守り囲んでいる様子。

シ翁 『新語彙辞典』には「うんおう」のルビが振られているが、そこにも指摘があるように、賢治には「〔Largoや青い雲シ翁やながれ〕」とルビを振ったものをタイトルにした例があり、また下書稿にも「雲かげ」とあることから、本稿では賢治の意図にしたがって「くもかげ」と読んでおくことにする。「シ翁」は本来「雲気の起るさま」を意味し、「かげ」という意味は持っていない。

藍のなめくじ角のべて 山の斜面に雲影が映り、雲が移動すると、まるで藍色をしたなめくじが角を延ばすように見えた、ということ。

おとしけおとし 『新語彙辞典』では「落とし、また落として」と訳し、「大なめくじの角のような雲の先が、勢いよく空から垂れ、また湧き立っては落ちてくるようで」としている。長沼士朗「悍馬〔一〕」(『宮沢賢治 文語詩の森 第二集』・平成十二年・柏書房)では、「「馬を追い落とす」意味で、「どんどん馬を追い立てるさま」を表現している」とする。が、これは「落し毛落し」であると思われる。春先になると馬は冬毛から夏毛に変わる。冬毛が抜けかかったまだらの状態だと見栄えが悪いので、牧人たちは自分たちの馬を少しでもよく見てもらおうと思って、抜けた冬毛を丁寧に落としてやっているのである。

血馬 『新語彙辞典』では「一日に千里を走ると言われる伝説上の駿馬」である「汗血馬のことであろう」とし、長沼も同じ見解をとっているが、元小岩井農場長の畠山章一が言うように、これはサラブレッド(Blood Horse)のことであろう(「悍馬〔一〕 心象スケッチ」・『宮沢賢治記念館通信』・平成十二年五月)。

サラブレッドとは、イギリス原産の軽種の競走馬で、十七世紀から十八世紀にかけて在来種にアラブ種やバルブ種の馬を交配させて作り上げた馬。日本では明治四十年に小岩井農場がイギリスから雄一頭、雌二十頭を輸入して以来、本格的な生産が始まった。
 

  評釈
 

「雨ニモマケズ手帳」に下書稿一(断片)、下書稿二(黄罫詩稿用紙26-0)、裏面に下書稿三、四。紙を改めて下書稿五(22-0行)、定稿の六種が現存。生前発表はしていない。下書段階では「牧人」のタイトルが付されていた。先行研究には島田隆輔「宮沢賢治・文語詩稿五十篇/<詩系譜>の論へ(下) 〔翔けりゆく冬のフエノール〕試注から」(『論攷宮沢賢治2』・平成十一年三月・中四国宮沢賢治研究会)、畠山章一(前掲)、長沼士朗(前掲)がある。

本作は「火山の裾野原」とあるので、岩手山の裾野にある小岩井農場を舞台としたものだと考えられ、先行研究もそう解釈しているようである。しかし実際は、外山にある岩手県種畜場を賢治が訪問した際にスケッチしたものが元になっていると思われる。『春と修羅 第二集』所収の「七五 北上山地の春」がそれで、下書稿一は次のとおり。

 七五、 浮世絵

   一、                   一九二四、四、二〇、

かれ草もかげらふもぐらぐらに燃え
雲がつぎつぎ青く綾を織るなかを
女たちは黄や橙のかつぎによそひ
しめって黒い厩肥をになって
たのしくめぐるくいちれつ丘をのぼります

かたくりの花もその葉の斑もゆらゆら
いま女たちは黄金のゴールを梢につけた
年経た栗のそのコバルトの陰影にあつまり
消え残りの鈴木春信の銀の雪から
燃える頬やうなじをひやしてゐます

   二、

風の透明な楔型文字は
暗く巨きなくるみの枝に来て鳴らし
また鳥も来て軋ってゐますと
わかものたちは華奢に息熱い純血種(サラーブレッド)に
水いろや紺の羅紗を着せて
やなぎは蜜の花を噴き
笹やいぬがやのかゞやく中を
泥灰岩の稜を噛むおぼろな雪融の流れを遡り
にぎやかな光の市場
その上流の種馬検査所に連れて行きます

   三、

いそがしい四十雀のむれや
また裸木の蒼い条影
水ばせうの青じろい花
ぬるんだ湯気の泥の上には
ひきがへるがつるんだまゝで這ひ
風は青ぞらで鳴り
自然にカンデラーブルになった白樺があって
その梢には二人のこどもが山刀を鳴らして
巨きな枝を切らうとします
小さなこどもらは黄の芝原に円陣をつくり
日のなかに烏を見やうとすれば
ステップ住民の春のまなざしをして
赤いかつぎの少女も枯草に座ってゐます


岩手県種畜場訪問の際の作品であるということについて、先行研究には言及がない。しかし、一連目の「雲がつぎつぎ青く綾を織るなかを」は、文語詩の「山はいくたび雲の、 藍のなめくじ角のべて、」における語句・状況といずれもが似ており、また「女たちは黄や橙のかつぎによそひ」が文語詩の「毛布の赤に頭を縛び」に通じることなどから、両者の関係は極めて密接であると言えそうである。その他にも「種馬」「純血種」「アラヴ(口語詩の最終形態に「息荒いアングロアラヴ」という表現がある)」などの語や状況設定も近いため、同じ時の取材だとしてよいだろう。

先行研究では晩秋から初冬にかけての作品であると解されているが、「雪の火山」という言い方は春にもあてはまるし、「赭き柏」についても、秋に葉が枯れても落葉せずに春を迎えるカシワの性質からすると、春に残っていても不思議ではない。舞台を小岩井に移したのは、小岩井農場がサラブレッドなどの競争馬の生産で名高かったからではないだろうか。

『春と修羅 第二集』を中心とした<外山詩群>については、池上雄三の『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(平成四年・雄山閣。ただし、本文語詩との関係についてはここでも指摘されていない)が詳しいので、以下、同書に従って本作のバックグラウンドについて見ていきたい。

農民たちは種畜場に自分の家の(牝)馬を持ち込み、そこにいる「貴き」「種馬」に種をつけてもらうための審査を受ける。自分の家の馬にいい種をつけてもらえれば、軍馬として高く売ることができたのである。そこで少しでも自分の馬の見栄えをよくするために「水いろや紺の羅紗を着せ」ていたわけである。文語詩に「おとしけおとし」とあるが、これも彼等が自分の馬をよく見せようとした様子を表しているのだろう。

「血馬」、つまりサラブレッドについてだが、種馬として外山にいたのはアングロノルマンやハクニーといった中間種で、アラヴやサラブレッドなどの競争用・乗用の軽種はいなかったらしい。まして種畜場に持ち込まれる馬の中に「純血種」などがいたわけはない。池上はサラブレッドを厳密な意味で捉えるのでなく、美しく上品に見える馬のことを、賢治がそう呼んだだけであろうと考えている。

文語詩にある「血馬となす」という表現も、もちろんおかしい。どんなに丁寧に育てたところで、農家に飼われている馬が「純血種」になどなるわけがないからである。もちろん賢治もそれくらいのことはわかっていただろう。しかしイギリスの在来種が外国産の馬と交配されることによって洗練の度を加えたのがサラブレッドであったように、山間の家々で飼われていた農耕馬も、交配によってだんだんと洗練の度を加え、いつの日か秀麗なサラブレッド(のような馬)になっていくだろう、という意味に解することもできるのではないだろうか。

 
 
十三  [そのときに酒代つくると]

   そのときに酒代つくると、  夫はまた裾野に出でし。

   そのときに重瞳の妻は、   はやくまた闇を奔りし。

   柏原風とゞろきて、     さはしぎら遠く喚ひき。

   馬はみな泉を去りて、    山ちかくつどひてありき。
 

  語注
 

酒代 これだと「さかだい」としか読めないが、音数律の関係で「さかて(酒手)」と読ませたかったのだろう。

裾野 下書稿や関連作品から、舞台になったのは岩手山の東の登山口にあたる柳沢(現・岩手郡滝沢村)であったことがわかる。

重瞳 「ちょうどう」または「じゅうどう」と読む。二重になっている瞳のこと。小沢俊郎(「重瞳の妻」・『小沢俊郎宮沢賢治論集3』・昭和六二年・有精堂)は『大漢和辞典』の記述から、この眼の持ち主を非凡な人物であるとして、本作を読み解いている。また須田浅一郎(後掲)は、「天台大師和讃」、「十訓抄」、「椿説弓張月」、「黒百合(泉鏡花)」にも用例があることを指摘した。いずれも賢治が読んだ可能性の高いものだが、何によるものかは特定していない。

さはしぎ 山間の水辺に生息するチドリ目シギ科の鳥。
 

  評釈
 

書簡下書きの裏面に下書稿一、その裏面に下書稿二、定稿の三種が現存。生前発表はない。先行形態に『春と修羅 第二集』の「三三〇〔うとうとするとひやりとくる〕」があったと思われる。また榊昌子(「柳沢」・『宮沢賢治「初期短篇綴」の世界』・平成十二年・無明舎)は、散文の「葡萄水」や「かしはばやしの夜」なども含めて、これらが「初期短篇綴」の中の一篇である「柳沢」の経験に基づくものだとして、本作を「「柳沢」が最後にたどり着いた世界である」と論じている。また榊は『文語詩稿 五十篇』の「〔月のほのほをかたむけて〕」、およびその先行形態である「六九〔どろの木の下から〕」(『春と修羅 第二集』)も関連作品だとしている。

先行研究には小沢俊郎(前掲)、続橋達雄『賢治童話の展開』(昭和六二年・学校図書)、小寺政太郎「文語詩九編」(『賢治研究』・平成元年九月・宮沢賢治研究会)、牧野立雄「宮沢賢治・愛の宇宙」(『宮沢賢治 愛の宇宙』・平成二年・小学館ライブラリー)、須田浅一郎「「ちょうどうのめ」考」、「宮沢賢治の文語詩に拠る挑戦」(ともに『宮沢賢治に酔う幸福』・平成十年・近代文芸社)、榊昌子(前掲)などがある。

一連一行の四連詩であるが、前半二連と後半二連がそれぞれ対になっており、前半と後半の内容や形式の差がはっきりしている。前半では夫と妻のそれぞれの行動が「そのときに」「また」「し(過去を表す助動詞)」を同じくすることによって対句的に表現され、後半では彼らを囲む自然が、「……て、……き」と、やはり対句的に表現されている。

酒代をつくりに裾野に出るというのは、下書稿一の手入れに「馬盗りて畑を食ましめ/わが畑を荒しぬと云ひ/酒の代うちつくらんと/風荒き裾野に出でぬ」とあることでわかる。一方、妻はなにゆえ闇を奔るのかと言えば、同じく下書稿一の手入れに「重瞳の妻は家内にも/密夫のおとづれ待てり」とある。

小沢は「重瞳」が非凡な人物に特有のものだとして、「小人物の夫に配する大人物の妻という組み合せの下で、妻が密夫の下へ奔ることを、賢治は一概に非とすることができなかった、むしろ、その切なさに同情に近いものを抱いたと見ていいのではなかろうか」とする。さらに須田になると「女性が性の充足に奔る姿にひそかな賛嘆を送っている」として、世俗の倫理観に対する挑戦なのだという(「宮沢賢治の文語詩に拠る挑戦」・前掲)。

しかし夫と妻を対句的に登場させながら、夫を小人物、妻を大人物に解釈しようというのは無理があるのではないだろうか。ことに小沢や須田の立論の元になっているのが「重瞳」という言葉だけであるというのはなんとも心細い。たしかに「重瞳」は貴人の相なのかもしれない。しかし、もともとは身体的特徴を指すだけの語であり、これを非凡な人物に多い相だと即座に思い浮かべるのは、よほど漢籍に通じた人でもない限り無理だろう。むしろ『新語彙辞典』にあるように「ひとみ黄いろのくはしめ」(「〔うとうとするとひやりとくる〕」)の表現が変質したもの、つまり純粋に身体的特徴を表現しただけのものととらえた方が自然ではないだろうか。その意味で、二人は「男は酒飲みのならず者、女は不貞の淫婦」という「似た者夫婦」であるということが、対句的な表現をされていることからもわかるという小寺政太郎(前掲)の言が最も説得力があると思われる(ただし「似た者夫婦」を描いているから駄作だ、という評言は受け入れ難い)。

では本作から読み取るべきものは何なのだろう。筆者は僻村を舞台としたピカレスク・ロマンのおもしろさではないかと思っている。関連作品である「柳沢」や「葡萄水」、「かしはばやしの夜」には、いずれも葡萄酒密造のモチーフが現れ、「〔うとうとするとひやりとくる〕」では、さらに人身売買の話も混じっている。賢治は宿を同じくした帝室林野局の局員同志が交した会話を、このように再現している。
 

(何でせうメチール入りの葡萄酒もって
 寅松宵に行ったでせう)
(おまけにちゃんと徳利へ入れて
 ほやほや〔燗〕をつけてゐた〔〕
 だがメチルではなかったやうだ〔)〕
(いやアルコールを獣医とかから
 何十何べん買ふさうです
〔〕〔寅〕松なかなかやりますからな)
(湧水にでも行ったゞらうか)
(柏のかげに〔〕寝てますよ)
(しかし午前はよくうごいたぞ
 標石十も埋めたからな)
(〔寅〕松どうも何ですよ
 ひとみ黄いろのくわしめなんて
 ぼくらが毎日云ったので
 刺戟を受けたらしいんです)
(そいつはちょっとどうだらう)
(もっともゲルベアウゲの方も
 いっぺん身売りにきまったとこを
 やっとああしてゐるさうですが)
(あんまり馬が廉いもなあ)
(ばあさんもゆふべきのこを焼いて
 ぼくにいろいろ口説いたですよ
 何ぼ何食ってったからって
 あんまりむごいはなしだなんて)
(でも〔寅〕松へ嫁るんだらう)
(さあ〔寅〕松へどうですか
 野馬をわざと〔〕畑へ入れて
 放牧主へ文句をつけたことなどを
 ばあさん云ってゐましたからね)


賢治は数々の犯罪を告発するのでもなく、かと言って困窮した人びとを憐れむのでもなく、彼らのしたたかな生きざまをあるがままに描こうとしたようである。

榊昌子(前掲)は大正八年七月十九日未明に柳沢で殺人未遂事件が起ったことを紹介し、当時の『岩手日報』に載った「瀧澤の女房殺し」の記事をこうまとめている。
 

加害者の夫は、これより十一年前に自分の情婦の夫を殺害するという事件を起こしている。捕らえられて北海道樺戸集治監に送られたが、恩赦により大正六年出所。実家のある滝沢村大更(おおふけ)に帰った。その後前科を隠して未亡人であった被害者と同棲。しかし、やがて夫の過去を知った被害者に疎まれるようになる。被害者が先夫の弟と通じているという風評を真に受けて殺意を抱き、鎌で喉を滅多切りにしたというのが事件の顛末である。九死に一生を得た内縁の妻は、「瀧澤村大字柳澤三三二ノ二岩手山神社々務所下」で「旅人宿業」を営む女性であった。


賢治は大正六年十月に散文「柳沢」の元になる岩手山登山を試みた際にこの宿に泊まり、大正九年九月には妹のシゲ、クニらと再びここに泊まっている。シゲは「何年かしてから、賢さんから、アソコの宿のおかみさんが殺されたよということを聞かされました」(「賢治の妹さんから聞いたこと」・『宮沢賢治の肖像』・昭和四九年・津軽書房)と証言しているが、大正九年に妹たちと登った時には、もう事件はおこった後であり、また殺人と未遂の違いも気になるところだ。しかし、柳沢には他に宿舎にあたるものはなかったようなので、彼等が「柳沢」作品群に登場する寅松や「くわしめ」のモデルとなった人物と一致することは確かなようである。

また、既に小沢にも指摘があるように、本作を「艶笑譚」として捉える必要もあるだろう。森荘已池は「牡丹雪が降る夕暮れ」の中で(『二〇一人の証言 啄木・賢治・光太郎』・昭和五一年・読売新聞盛岡支局)、
昭和六年七月七日――これはわたしの日記にあるんだが――岩手日報にやってきた賢治は、わたしに、いずれ”岩手艶笑譚”のようなものを書きたいと言った。彼が砕石工場の技師をしていた時で、今の県立病院のところにあった県農会に、石灰肥料の販売先を紹介しに来た帰りだった。

彼は、方々の村を歩き回っていたから、この類の話題は実に豊富だった。村人から聞かされたこともあっただろう。花巻の若い連中が集ってワイ談に花を咲かせていても、最後には必ず彼が話題を独占したものだった。(略)結局、賢治はこれを書かなかった。あのコレクション(引用者注・浮世絵の春画)も知人らにやってしまった。晩年は、作品の手直し――とりわけ口語詩の文語詩への書き換え――に一生懸命で、その時間がなかったのだと思う。例えば柳田国男は、おそらく無数のそういった話を知っていながら、立場上、法律にひっかかるようなことは書けなかったんだろうが、野にあったワイ談の名手賢治ならば、すばらしいものを書くことができたに違いない

と書いている。長坂俊雄の「猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるものだと語り、誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だといわれたことを覚えております(佐藤成・『証言 宮沢賢治先生』・平成四年・農文協)」という回想を併せて考えても、「重瞳」という言葉のみから高邁な思想を引き出すより、大自然の中で繰り広げられる男と女の物語を、物語られるそのままにおおらかに受け入れるべきだと思われる。

 

十四  [月の鉛の雲さびに]

   月の鉛の雲さびに、      みたりあやつり行き過ぎし、

   魚や積みけんトラックを、   青かりしやとうたがへば、

   松の梢のほのびかり、     霰にはかにそゝぎくる。

 
語注
 
月の鉛の雲さびに 雲がちの空に出ている月が鉛色に見える状態。あるいは雲のたち込めた夜空をいうか。いずれにしろ「さび」は「荒び」「寂び」「錆」であり、「生気・活気が衰え、元の力や姿が傷つき、いたみ、失われる意(岩波古語辞典)」。下書稿'一の段階から定稿まで、賢治はずっとこの表現を使っているが、プラスの感情は読み取りにくい。

あやつり (トラックを)運転するの意。

魚やつみけん 魚を積んでいただろう、の意。「魚」は音数から言って「うお」と読ませたかったのだろう。

青かりしや 「青かっただろうか」の意。ちなみにトラックの色は下書段階で「黒」「緑」「縹(薄い藍色)」とさまざまに変わっている。

霰 「ほのびかり(=雷)」した瞬間から霰(あられ)が降り注いだというのであろう。

 
   評釈
 
『新校本全集』に従えば、現存稿は十一。七枚八面が現存。短唱集「〔冬のスケッチ〕」に下書稿一と一’。黄罫詩稿用紙(26-0行)に下書稿二。別の黄罫詩稿用紙(26-0行)に下書稿二’。下書稿二の余白に下書稿三。下書稿二、三の裏面に下書稿四。その余白に下書稿五と六。黄罫詩稿用紙(22-0行)に下書稿七。別の黄罫詩稿用紙(22-0行)に下書稿八。そして定稿用紙に定稿。生前発表はない。下書段階では「線路」「国道」といったタイトルが付されていた。

先行研究には小野隆祥「「冬のスケッチ」時代の恋」(『宮沢賢治冬の青春』・昭和五七年十二月・洋々社)、山内修「非在の個へ」(『宮沢賢治研究ノート 受苦と祈り』・平成三年九月・河出書房新社)、関本昭太郎「俗世のスケッチ」(『賢治研究』・平成三年十一月・宮沢賢治研究会)、島田隆輔「宮沢賢治/〔月の鉛の雲さびに〕/試注 殊に「凝縮化」への過程」(『国語教育論叢8』・平成十年七月)、澤田由紀子「宮澤賢治「文語詩稿」における“定稿性”についての考察」(『甲南大学紀要 文学編Ⅲ』・平成十一年三月)、栗原敦「〔月の鉛の雲さびに〕」(『宮沢賢治 文語詩の森』・平成十一年六月・柏書房)、山内修「文語詩稿について 賢治の《エロス》の行方」(『国文学 解釈と鑑賞』・平成十二年二月・至文堂)などがある。

原初的形態と思われる下書稿一’は「きみ」への思いを断ち切れずに悩む短唱群。 下書稿'一は「月の鉛の雲さびに/罪なげ送れども/すべなし」という萩原朔太郎『月に吠える』を思わせる短唱である。この両者が下書稿三で統合される。その最終形はこうなっている。
 

ひたすらにおもひたむれど
きみがおもかげなほさらず
はせ行く汽車の窓あかく
みぞれさびしく降りくるを
月の鉛の雲さびに
声なげやれどすべもなし、
遠ざかりゆく汽車の灯と
地平かなしき縞なせり


山内修(平成三年・前掲)は、こうした段階から定稿に至るまでの経緯を「『恋』の無化・物語化」と捉え、定稿を「何のイメージも喚起しないような平凡なもの」としている。一方、栗原敦(前掲)はこうした過剰に《意味》を読み込もうとする試みを「各次稿の間にある表現内容の質的転換の意義をつかみ損なって」いると批判し、定稿は初冬の北国の天候が変化する瞬間を捉えたもので、「切り取られた一瞬に、人事、天象のすべてを包む生きた世界の奥行きまでもが捉えられている見事さを味わうべきであろう」と積極的に評価している。

島田隆輔(前掲)は、山内とは違った方向での《意味》付けを模索している。島田はトラックに乗った三人組に着目し、「◎青くしてみのらぬ穂のこなたを/なかばはなにか企みつ/のどにて笑める/運送屋の店員ら/三人ひとしく髪なでゝ/鋭きカラをうちそろへたる/さあらぬさまに過ぎ行けり(『兄妹像手帖』)」という凶作時の農村を訪ねた時の賢治のメモから、「身なりを整えて何処かへ(魚を運ぶためではけっしてなく、たぶん遊興の場に)トラックで繰り出そうとほくそ笑む三人の若者の姿を<罪業>という大きな枠組の中で重ねてゆくものとみえる」とし、また嬰児遺棄事件を扱った「〔鉛いろした月光のなかに〕」と共通する語句があることから、「「月の鉛の雲さびに」という語句のもとには癒えることのない<罪業>のあらゆる存在をおぐらく照らし浮かばせ、それをまた暗示してもいるともいえよう」と論を進める。当否についての判断はつけられないが、そのようなことはあったかもしれない。少なくとも「月の鉛の雲さびに」という言葉のうちに暗いイメージを抱かせようとしたという点について、反対する理由はみつからない。

このように比較的多くの人が本作を論じているが、それは「このこひしさをいかにせん(下書稿一)」と恋の悩みを語ったり、「死なんとそらになげかへば(下書稿五)」というように自殺願望をほのめかす語句が下書稿にあったことも関わっているのだろう。しかし賢治は下書稿六で、自らを「酔ひし助役」に擬してみたり、定稿では、ついに恋や自殺願望といったスキャンダラスな要素の一切を削除し、読者にとってはまことに掴みどころのない作品に改変させてしまっている。そこで山内のように「何のイメージも喚起しないような平凡なもの」として定稿を切り捨てる立場や、栗原のように下書稿との連関の方を断ち切ろうする立場が生まれるわけだが、それも必然だったように思われる。

しかし下書稿から一貫しているのは、なにも「月の鉛の雲さびに」や「みぞれ」、「霰」といった自然現象を表す語句だけではない。夜空の下で一人悩み、いつしか自分の世界に閉じこもってしまった話者の前に、いきなり他者(汽車・トラック。副次的にみぞれ・霰)が現れるというモチーフはずっと共通しているのである。

いや、このモチーフが現われるのは下書稿に限らない。賢治の多くの作品に共通して用いられている。

山内も書くように下書稿一、一’の書かれた「〔冬のスケッチ〕」よりもさらにさかのぼり、歌稿Aの大正三年四月の部分には「はだしにて夜の線路をはせ来り汽車に行き逢へりその窓明く(一八〇)」とあり、これがこのモチーフの現われる最初だろう。何がしかの激情に駈られ、はだしで線路まで走ってきてしまった自分だが、汽車はそのような自分にとっての大事件など意に介さず走り続けている…… 彼が一貫して書きつづけようとしたのは、どうもこのことのようなのである。

「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニが、友人たちから「らっこの上着が来るよ」とからかわれ、丘に駆けあがるシーンに、次のような記述がある。
そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。

「銀河鉄道の夜(最終形・第四次稿)」


ここで唐突に「汽車」が現われるのは、もちろん銀河「鉄道」の旅への伏線なのだろうが、この時ジョバンニの抱いた「何とも云へずかなしくなっ」た気持ちこそ、一連の作品に通底するものだと思われる。

「銀河鉄道の夜」を持ち出したのは、なにもこれだけが理由ではない。本作の下書稿一を次に示そう。
 

     ※ 汽車

汽車のあかるき窓見れば
こゝろつめたくうらめしく
そらよりみぞれ降り来る。

     ※

まことのさちきみにあれと
このゆゑになやむ。

     ※

きみがまことのたましひを
まことにとはにあたへよと
いな、さにあらず、わがまこと
まことにとはにきみよとれ、と。

     ※

ひたすらにおもひたむれど
このこひしさをいかにせん
あるべきことにあらざれば
よるのみぞれを行きて泣く。

     ※

まことにひとにさちあれよ
われはいかにもなりぬべし。
こはまことわがことばにして
またひとびとのことばなり。

     ※

かなしさになみだながるる。

     ※

みぞれのなかの菩薩たち
応はひゞきのごとくなり
はかなき恋をさながらに
まことのみちにたちもどる。


一読するだけで、これがいわゆる「恋の悩み」でないことは明白である。ここには『春と修羅 第一集』の「小岩井農場」において主張した「もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ」と同じことが述べられている。そしてこれが「銀河鉄道の夜」で「ほんたうの幸」に繋がっていくというのは、すでに多くの指摘があるとおりである。

同じ思想がいろいろな作品でくりかえし述べられるのは、作家としてはめずらしいことではあるまい。ただ、その思想が述べられる度に同じ言葉やイメージ、モチーフが用いられているとしたら、それは偶然やクセと言って済ませることはできないのではないだろうか。

伊藤眞一郎は「黄いろなあかりを点じ電車はいっさんにはしり 「早春独白」再読」(『宮沢賢治研究Annua11』・平成三年三月)で、『春と修羅 第二集』所収の「早春独白」において、賢治は同じ電車に乗り合わせた女性に対して好印象を抱くが、「黄いろ」「電車」「みぞれ」といったキーワードから、伊藤は賢治が彼女に亡妹トシのイメージを重ね合わせたのだとし、恋愛に対する禁忌のイメージを読みとった(「黄いろ」といういう語こそ本作には見出せないが、例えば下書稿一における「汽車のあかるき窓」は「黄いろ」であったのだろうし、すれ違ったトラックのライトも、「黄いろ」だったのではないだろうか)。

伊藤の論に付け加えたいのが、一連のキーワードの適用年代を広げることである。モチーフの共通性を指摘できる作品は、大正三年の「歌稿」にはじまり、「〔冬のスケッチ〕」、『春と修羅』、「〔手紙四〕」、「銀河鉄道の夜」、「文語詩」。さらに『注文の多い料理店』の「月夜のでんしんばしら」や『孔雀印手帳』の「ロマンツェロ」を含めれば、賢治が書き残したほとんどすべてのジャンル、ほとんどすべての時代にまたがっている。

こうなると原体験がいつだったのか、改稿の過程はどうなっているのか、といった詮索はほとんど不可能である。原体験自体が複数回繰り返されたか、一種のオブセッション(トラウマ?)になっていたと考えた方がよいかもしれない。

いずれにせよ、現存する本作の下書稿の数は、新校本全集によれば十一あり、文語詩中で最多であることを考えても、わずか三行の作品ではあっても、賢治は「小岩井農場」や「青森挽歌」、「銀河鉄道の夜」のテーマを凝縮させようとした可能性は十分にあったと言ってよいだろう。

さて本題に戻ろう。こうした経緯を踏まえると、本作をどう読むことができるだろう。

月あかりさえ薄暗い夜の街道を一人歩く。こんな夜は孤独を癒してくれる何物も見つけられない。と、突然そこに三人の男を乗せたトラックが通り過ぎる。魚でも積んでいたのだろうか、たしか青いトラックだったようだが……。その時、今度は松の梢の向こうに稲光。そして霰も降り始める。 ――あぁ、情けない。自分はたった今まで自分が「孤独」であると感じていた。しかし、この世界に「孤独」などというものはそもそもないのだ。なぜならこの宇宙に生きている者は、みなお互いに兄弟なのだから。みせかけだけの「孤独」にとらわれているより、たとえば過ぎ去ったトラックに乗っていた三人の男のために、自分はいったい何ができるかを考えるべきだったのだ。自分のことなどを考えるのは、二の次、三の次。寂しい時、悲しい時こそ、あらゆる生き物のために祈りを捧げるべきだったのだ――。

ここまで読み取ってくれる読者を、果たして賢治は求めていたのだろうか。栗原の言うように、賢治はただ「切り取られた一瞬に、人事、天象のすべてを包む生きた世界の奥行き」だけを伝えようとしたのかもしれない。しかし賢治にとって文語詩とはいったい何であったかを考える際、制作の背景まで考察してみる必要は、やはりあるように思うのである。


 

十五  [こらはみな手を引き交へて]
 

   こらはみな手を引き交へて、  巨けく蒼きみなかみの、

   つつどり声をあめふらす、   水なしの谷に出で行きぬ。

   厩に遠く鐘鳴りて、      さびしく風のかげろへば、

   小さきシャツはゆれつゝも、  こらのおらびはいまだ来ず。
 

  語注
 
 

つつどり ホトトギス目ホトトギス科の鳥でカッコウによく似ているが少し小さい。托卵の習性を持つのもカッコウと同じ。ポポッポポッと竹筒をたたく音に鳴声が似ているところからその名がきている。本作ではその声を雨の音に喩えている。

おらび 叫び声。

  評釈
現存する下書稿は四篇。下書稿一は短歌七一〇の余白にある。黄罫詩稿用紙(0行)に下書稿二と、その余白に下書稿三。そして定稿用紙に定稿。生前発表はない。先行研究には恩田逸夫「賢治の文語詩に現れた母性像」(『桃李』・昭和四六年)、伊藤眞一郎「文語詩篇」(『国文学 解釈と鑑賞』・昭和五七年十二月)、栗原敦「賢治の口語詩と文語詩」(『日本語学』・平成九年九月)、澤田由紀子「宮澤賢治「文語詩稿」における“定稿性”についての考察」(『甲南大学紀要 文学編Ⅲ』・平成十一年三月)などがある。

定稿からは題が削除されているが、下書稿二の段階で「狭流の母」「準平原の母」「外山所見」といったタイトルが考えられていた。定稿からは見えにくくなっているが、我が子の帰宅を待つ母親の視点から描かれていることは、このことからも明らかである。下書稿二は次の通り。
 

こらはみな、手を、引き交へて
巨きく蒼き みなかみの
つゝどりの声 あめふれる
日射しのなかに出で行きぬ
二列亘れる岩なみの
水なき谷の青草を
こもごも過ぐる雲かげに
かの前髪やひそむらん

風にとらるゝその歌や
わづかに円きくちびるを
うたひつかれていまはかも
アネモネの毛や毬すらん

ひるの緑油(あぶら)のしたたりて
さびしく風のかげろへば
乾きしシャツのみなゆれて
子らの叫(おら)びはいまだ来ね


つまり子どもを遊びに送り出した後の母親が、今頃わが子は何をしているのだろうか、と想像をめぐらしているわけである。推敲が進むにつれ、賢治は字下げされた第二、第三連を削除、つまり自分の頭の中で作り上げた字句を省き、簡潔で引き締まった作品に仕上げている。しかしそのせいで何を言わんとする作品なのかがわかりにくくなっている印象も否めない。

伊藤眞一郎(前掲)は「この作品は、村の子供たちが集って山奥に行き、そして再び帰って来なかった、という一つの出来事を、その事件が確定する以前の情景によって語った作品」だとし、神隠しをモチーフにしているのだと言う。伊藤は
 

まず<鐘>や<風>による夕暮の気配は、ここでの夏の午後の明るい情景全体に<さびし>い翳りを帯びさせ、読者の内に一抹の不安の念を喚起する。そして、その明るいけれども<さびし>い風景中の、はたはたと揺れている<小さ>な<シャツ>は、子供たちの不在の現実を暗示的に強調し、ひょっとすると、それを着る筈の子供は、このままもう二度と帰って来ないのではあるまいか、という不吉な疑念を読者の脳裏によぎらせる
と書いている。栗原敦(前掲)は、伊藤論を「書かれていない部分についての解釈や評価について、本編では異にするところがある」として、おそらくは伊藤の大胆過ぎる論断に対して異をとなえているようであるが、下書稿二の第二、第三連を参照すれば、賢治が神隠しなどという事件を仕組んでいなかったことは明白であろう。しかし、かといって伊藤の読みが全く根拠のないものかというとそうでもない。


「神隠し」こそ持ち出さないにしても、自分の子が「巨けく蒼きみなかみの」「水なしの谷に出で行きぬ」ということであれば、人の親たるものなら、我が子の安否について一抹の不安を覚えずにはいられないのではなかろうか。まして本作では子供たちのかよわさ、小ささが強調される一方で、自然はあくまでも大きく、強くある。例えば下書稿二の第三連にある「風にとらるゝその歌や」では、子供の声がいかに小さくかぼそく、風にさらわれてしまうごときものであるかが書かれている。また「わづかに円きくちびるを/うたひつかれていまはかも/アネモネの毛や毬すらん」では、小さいくちびるで歌いつづけた歌も、もはや自然の中で遊ぶうちに消耗し、疲れきってしまったことを書いている。加えて、行先は「水なしの谷」なのだ……。

柳田国男は『山の人生(大正十五年)』で、子供が神隠しに遭うという現象を、人々は古来ずっと意識しつづけていたことについて、「村をあるいていて夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖もあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分るが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好くないか、小児はまだその理由を知っている。」と書いている。ほぼ同時代の農村を舞台にした本作における「こらのおらびはいまだ来ず」にも、こうした夕暮れ時の母親の心理を読み取ることができるのではないだろうか。

本作は「外山所見」と名付けられていた。しかしまた、「準平原の母」というタイトル案がとられたこともある。準平原とは浸食輪廻説における最終期の地形を指し、長い期間の浸食によって作られる平坦面あるいはゆるやかな小起伏面のことで、本作の舞台となった外山はこれにあたる(正しくは隆起準平原)。しかし「準平原」と言われると、どうしても頭に浮かんでくるのが種山だ。

賢治はこの種山を舞台に、子供が自然の大きさ・強さに翻弄され、「神隠し」の危機に遭う物語、すなわち「種山ヶ原」や「風の又三郎」を書いている。「外山」と書いてはいるが、そこに種山での経験やイメージが紛れ込んでいる可能性はないだろうか。

準平原は峻険な山ではなく、ゆるやかな丘であるから、子供たちでも簡単に登ることができる。しかしそこに落とし穴がある。逃げ出した馬を追いかけていって迷子になった嘉助は、ようやく兄に助け出され「危ながった。危ながった。向ふさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ(風の又三郎)」と言われる。賢治は種山を「東の海の側からと、西の方からとの風と湿気のお定まりのぶつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした(種山ヶ原)」と書いているが、実際ここは天候が変わりやすく、地形的にも道に迷いやすい場所であるという。つまり種山は、賢治にとって日常空間のすぐそばに異空間が口を広げている場所、柳田風に言えば「神隠しに遭いやすき」場所だと認識されていたのではないだろうか。――とすれば「準平原の母」と名付けらたこともある本作が、神隠しを描こうとしていたというのも、それほど突飛な発想であるとは言えまい。そんな本作を、母親の側から見た「種山ヶ原」であり「風の又三郎」であった、と言っては言い過ぎだろうか。

 註 馬について神戸山手大学教学部の川越友靖氏の助言を得た。謝意を表する。