電子メディアと宮沢賢治  Kenji's Adventures in Cyberland

信時 哲郎


 

 今日は電子メディアと宮沢賢治ということでお話をしてみたいと思います。しかしいざ面と向かって、「一体両者にどういう関係があるのか」と問われたら、「ほとんど関係らしい関係はない」とお答えするしかありません。今日は「これからの賢治」というテーマに甘えて、かなり勝手なことを話すということをあらかじめご了承願います。

 しかしだからといって、これが本当に単なる「こじつけ」なのか、というとそうでもないのです。賢治の思索や行動の軌跡をよく考えてみると、昨今のエレクトロニクス全盛時代の、とりわけインターネットというものは、賢治にとって理想的なメディアであったのではないかと思えてくるのです。

 インターネットどころかもっとずっと大昔、人間がまだ文字を持っていなかった頃、そこでは言葉を書き留める術がまだないわけですから、すべては口承で伝わっていました。しかしこれはただ「文字という技術」がなかったというだけの問題ではありません。「文字という技術」を使うかどうかというのは、生活が楽になるとか便利になるとかいった、人間の外身だけの問題ではなく、人間の中身、すなわち精神にもたいへんな影響を及ぼしたと考えられるからです。例えばカロザースという人は、文字というものを使っていないアフリカの部族について研究した結果、次のようなことを言っています。

ことばが記述されるとき、いうまでもなく視覚世界の一部となる。視覚世界を構成するほとんどの要素とひとしく、書かれたことばは静的な事物となり、聴覚世界一般、なかんずく話された語に特徴的であったあの力強さ、ダイナミズムを失ってしまう。書き言葉は、聴かれたことばがもつ聴き手への直接の呼び掛けという個人的な要素の多くを失ってしまう。見られた言葉はそれを読む自分に対して書かれたものではない。……ことばは視られる存在となることによって視る者に対しどちらかというと冷淡な世界の側へと加わるのであり、その世界はそれまでのことばがもっていた呪術的な魔力が抽象化によってすっかり抜き取られてしまった世界なのだ。
M・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系(みすず書房)』より

「文字」の発明により、人間はいままで一回かぎりのできごとでしかなかった「言葉の伝達」という事件を、いつでもどこでもはっきり目の前に提示し、また時空を超えて伝達できる可能性も生まれたのです。しかし便利さと引き換えに、多くのものを失ってしまったのも事実なのです。そうして時代は音声中心のコミュニケーションから、文字中心のコミュニケーションの時代に移ったわけです。

 さてコミュニケーションの歴史上で、次に起こった大事件は、グーテンベルクによる印刷術の発明です。今までは文字を書く人間の手だけが頼りですから、一冊の本を書き写すというだけでも、大変な労力が必要でした。しかし印刷機によれば、ほんのわずかな時間で、手書きよりもずっと読みやすい活字による本の大量生産が可能になります。事実この時代から大量の本が流通し、また大量な情報が、活字を通じて行き交うことになります。

 この印刷の普及という純粋に技術的な進歩も、人間の心に変化を起こさせました。そして情報というものは目から入るものだ、とばかりに、視覚ばかりが重視され、他の感覚が貶められる時代、to see is to believeの時代、日本語で言えば「百聞は一見に如かず」の時代になったのです。

 しかし視覚だけが突出する時代も長くはありませんでした。人々はやはりその不自然さに耐えられなかったのか、聴覚や触覚などをコミュニケーションに復活させる動きがでてきます。それがエレクトロニクス時代の始まりでした。エレクトロニクスというとテレビ、すなわち「見るもの」を思い浮かべるかもしれません。しかしテレビから得る情報のほとんどは、実は「聞く」ことによって得ているのです。例えばニュース番組一つをとっても、我々は情報をほとんど音声によって得ており、ニュースが字幕で放送されるのは、番組の放送中に地震が起こった時くらいのものではないでしょうか。

 エレクトロニクス時代もレコード・ラジオ・テープ・テレビ・ビデオ・CD…… とさまざまな分野に展開し、その究極的なものとしてマルチメディアコンピューターが生まれました。これ一台でワープロやゲームをするばかりでなく、テレビを見たり、ビデオを見たり、CDを聞いたり(このCDというのは音楽を聴くだけでなく、さまざまなプログラムを読み込んだり、画像や映画を見る時にも威力を発揮します)、さらにインターネットに接続して、世界中の文字・映像・音声による情報を受信したり、自分の方から発信することも簡単にできるようになりました。

 さて地球上で起こったメディアの歴史についてのあらましをお話してきましたが、この何千年にもわたる人類の変遷を、たった四十年足らずの人生で駆け抜けた人がいました。それが宮沢賢治だったのです。

 賢治は感覚のたいへん優れた人でした。しかしここで言う「優れた感覚」というのは、目がよかったとか、耳がよかった、とかいうような具体的な話ではありません。また芸術のセンスがあった、というような抽象的すぎる話でもありません。この両者の仲立ちとなる感覚、すなわち「共通感覚」が優れた人だったように思えるのです。

 共通感覚というのは、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚という人間の五感を統合する感覚のことです。この感覚の働きによって、一つの感覚器からはいった情報と、他の感覚器から入った情報がうまく統合されるのです。ですから共通感覚の鋭敏な人は、例えば絵を見てもその中に「リズム」を感じ取ったり、「温かさ」「冷たさ」を感じ取ることができます。つまり視覚が絶えず聴覚や触覚と連絡を取り合っているので、このようなことが可能なわけです。ですからこういう素質のある人は音楽をやっても「甘い」「とろけるような」メロディーを奏でることができるでしょうし、文を書けば「ピリッと辛みの効いた」「生きのよい」文章を書くことができるわけです。

 ですから山の中や野原を歩いている時に、自然のさまざまな声を聞いたと言われている賢治は、絶えずこの共通感覚を働かせていたのだ、ということになります。このような素質を持つ人はしばしば有情体験という経験をしたとされています。心理学者の福島章さんは、有情体験について

自分と対象の距離が非常に近くなる状態です。見るもの聞くもののすべてが、生き生きと生命をもつもののように感じられます。太陽、月、星、石、山など、本来は生命をもっていないはずのものが、あたかも生命をもっているかのように、自分に語りかけ、笑いかけ、あるいは怒り脅かす存在として感じられるのです。木や草などのように、生命はもっているが、本来は心がない存在も、自分の感情を表現したり、話しかけてきたり、人間の喜怒哀楽に共感したりすると感じます。
福島章『機械じかけの葦(朝日出版)』

とまとめています。例えば賢治の短歌に「白きそらはひとすぢごとにわが髪を/引くここちにてせまり来りぬ(26)」とか「ブリキ罐がはらだたしげにわれをにらむ、つめたき冬の夕方のこと(59)」などといった奇妙なものがありますが、これらは本来生命を持たない存在が、共通感覚の複雑な作用によって生命を持つもののように感じられた、という有情体験をそのまま詠み込んだものだということになります。もちろんすべての作品が有情体験を詠み込んだのだ、などとは言えませんが、特殊な感覚を通して感じた「世界のあり方」を書き付けることが、賢治の創作活動の重要な部分を占めていたことは確実です。

 ところで賢治は兄弟の前でよく朗読をしたり、他に誰もいない山の中で自分の詩やお経を朗誦したと言われています。つまりそれは「声」の重要性に気づいていたということではないでしょうか。「文字」というものは、言葉に対する人間の感覚のうち「視覚」だけを強調してしまうのだ、と先に言いましたが、共通感覚的に、すなわち体中のすべての感覚を使って世界を感じ、それを表現しようとした賢治ですから、他の四つの感覚に栓をしてしまうような「文字の文化」に全面的に賛成したとは思えません。「視覚」とは目の前にあるモノの、表面だけを知覚し、細かく分析するには抜群の威力を発揮するのですが、「声」の方は自分のからだを取り巻く世界の情報を集めて、自分が今、世界のどこにおかれているかを察知する感覚なのです。切り離し分析する「視覚」と、統合し察知する「聴覚」のどちらがより「賢治的」でしょうか。いまさら言うまでもないでしょう。

 では賢治はなぜ「声の力」を単純化・抽象化してしまうような「文字によるコミュニケーション」を始めたのでしょう。「文字」というものを知らなかった西アフリカの或る王子は、初めて文字に出会った時のことをこう書いています。

ペリー神父の家で人がかたまっていたのは本棚のところであった。だんだんわかってきたことは、紙の上のしるしが捉えられたことばであったということであった。だれもがその記号を解読することを覚え、ふたたびもとの話されることばに解き放つことができた。……これがどういうことなのか、その認識が洪水のようにわたくしを襲ったとき、わたくしはコナクリーの明るい光をはじめてかい間見たときのような戦慄と驚愕を経験した。わたくしはこのすばらしいことを自分でもできるようになりたいという強烈な欲求で身が震えたのであった。

M・マクルーハン『メディア論(みすず書房)』より

 なぜ賢治は「書いたのか」。これは簡単に結論の出せる問題ではありません。しかし私には賢治の心の中にも、このアフリカの王子と同じ「この世の中におこる現象を文字にしてみたい」という強烈な欲求があったと思うのです。さらにこの王子の言葉が教えてくれるのは、彼が興味を持ったのが「言葉を紙の上に捉えること」だけでなく、「文字をもとのことばに解き放つこと」でもあったということです。賢治にとって文字を書くということは、例えば夏の景色を冷凍することです。冷凍してあるのだから、然るべき手順をふめば、すなわち上手に読めば、いつでもどこでも「夏の景色」は解凍できるのです。夏の景色のつまった詩集をポケットにいれておけば、いつでもどこでも「夏の景色」を解凍して味わうことができるのです。ですから賢治の書き付けたものは、決して「景色の残骸」ではなく、いつでもゆりおこすことのできる「眠っている景色」の集成なのです。賢治は自らの経験した「景色」を忘れないために、またいつでも取り出しては解凍して楽しめるように、「歌稿」や「冬のスケッチ」を、コレクションとして貯えていったのではないでしょうか。

 さて、そこで賢治の表現意識に変化が訪れます。それが大正十三年の心象スケッチ『春と修羅』と、童話集『注文の多い料理店』の出版です。賢治は『春と修羅』を「歴史や宗教の位置を全く変換しやう」という意図の元で編んだと告白しています。この自信過剰気味の言葉は、内容に対する自負からきた言葉だ、とのみ理解してはいけないでしょう。歌稿や同人誌では、どれだけすばらしいものであったにせよ、影響範囲など限られています。そこで影響力を飛躍的に増大させる方法として採用されたのが「印刷という技術」だったのではないでしょうか。

 さてこの遠大な計画はどうなったかと言えば、森荘已池宛の書簡にあるように「宗教家やいろいろの人たち」は「どこも見てくれませんでした」という結果になります。詩としては幾人かの評者から絶賛に近い言葉を与えられるのですが、詩を書いた気などさらさらなく、あくまで心象スケッチを書いたつもりの賢治には、満足すべきこととは思えなかったようです。

 そうして賢治はこの二冊以降、単行本を自費で出版するといったことはありませんでした。その理由として考えられるのは、自分の才能の欠如、日本の宗教家たちへの幻滅、そして金銭的理由等々が考えられます。しかし私はさらに「印刷」という方法自体が、賢治から愛想を尽かされた可能性を付け加えたいと思うのです。

 賢治はその後『春と修羅 第2集』の印刷を計画します。しかし計画だけで実際に印刷はされていません。ところで「印刷」をすると言っても、この第2集の場合は「活字」によるものではなく、賢治は「謄写版」による印刷を計画していたのです。その後、友人たちの勧めを受けて、活字による出版も考えたようですが、その時に書かれた序文の草稿を見ても、そこには「わたくしの敬愛するパトロン諸氏は/手紙や雑誌をお送りくだされたり/何かにいろいろお書きくださることは」、「何とか願ひ下げいたしたいと存じます」という言葉があります。また「わたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は/同人になれと云ったり/原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり/わたくしを苦しませないやうおねがひしたいと存じます」といった言葉もあります。こうした言葉からすると、どうも「印刷」や「出版」といった世界から、賢治は距離を置こうとしていたように感じられるのです。

 いったいなぜそうなったのかと言えば、第1集の序文で「正しくうつされた筈のこれらのことばが」「すでにはやくもその組立や質を変じ/しかもわたくしも印刷者も/それをかわらないとして感ずることは/傾向としてはありえます」と戒めているにもかかわらず、いつしか印刷された活字たちが「かわらない」存在として固定化・絶対化していることに、自分自身で気づいたからではないでしょうか。

 賢治が推敲をよくした人だというのは有名です。印刷された『春と修羅』や一度活字になった雑誌にまで、推敲のペンをいれていたくらいです。しかしそうした手元にあるものなら削除や追加、推敲が可能でも、日本中にちらばってしまった印刷物すべてにペンをいれることはできません。それどころか印刷された活字たちは、いつしか一人歩きして「すばらしい詩集だ」などという、賢治にとっては見当外れの批評までもらってしまっているのです。

 グーテンベルクによる印刷術の発明以降、ヨーロッパでおこった事態について、オングは次のように指摘しています(『ラメの方法と商業精神』)。

本の生産に用いられた大量生産方式のために、本を思想の伝達の道具であることばの容器というよりも、物品として考えることが可能になったし、またそう考えることが必要になったのだった。本はますます製品として、そして売り捌かれるべき商品としてみなされるようになった。生きている人間の言葉である語はある意味で物象化された。

M・マクルーハン『メディア論(みすず書房)』より

 賢治にもこの頃、自分の出版物について、こうした苦い自覚が芽生えたのではないでしょうか。ですから「謄写版による印刷」という屈折した表現手段を採ろうとしたのではないでしょうか。

 我々はへたくそな手書きの文字で文書を作るより、ワープロのきれいな文字で文書を作りたいと思います。少なくとも私などはそうです。例えば「コンパのお知らせ」であっても、手書きよりはワープロの方がなんだか公の行事という感じがしますし、説得力もある気がします。ですから今日お配りした資料も、せめて立派そうに見せようと、ワープロで書いてあるわけです。そんな時に敢えて手書きで書くというのは、よほど字に自信があるか、あるいは親密さやいいかげんさをアピールしようとしていると解すべきではないでしょうか。

 賢治の場合「同人になれと云ったり/原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり」される可能性、つまり自分の作品が活字になる可能性が十分あったのに、敢えてそれを断ろうとしているわけです。ですから賢治は自分の作品を「やつそうとした」と考えるべきではないでしょうか。つまり敢えて取るに足らない下らないもののように見せることによって、活字では伝わりにくい何か ――作者はどうも字がうまくなさそうだとか、インクにムラがあるのは不器用だからだろうか、謄写版刷りにするというのはよほど貧乏なのだろうか―― といった推測を介入させる<隙>を作ろうとしたのではないでしょうか。

 共通感覚を駆使して世界を感じ、それをできるだけナマの形で表現しようとした賢治にとって、世界そのものを、ただの「文字」という視覚的情報に還元してしまうのは、かなり大胆な単純化だったはずです。さらにその単純化を一層推し進め、伝播力・普及力を爆発的に増大させたのが「印刷」であったわけですが、ついにそれは聴覚的コミュニケーション時代なら可能であった「言霊」とでも言うべきものを伝達できなかったのです。

 賢治が『春と修羅 第2集』を、なぜ活字印刷よりも頼りない謄写版印刷にしようとしたのかというと、対象をぐっと狭めて、「声の届く範囲」、つまり説明を求められたり、自分が推敲したくなったら駆けつけて行って手直しのできる範囲にだけ流通させようとしたからだったのではないでしょうか。

 できることなら賢治は世界中に自分の作品を伝えたかったのでしょう。しかし魂の抜けてしまった言葉が自分の知らない世界で流通するより、たとえ範囲は狭くても魂のこもった言葉が流通することの方を選んだのではないでしょうか。

 さて大正から昭和にかけて、エレクトロニクスが世界的に発達し、電話は普及し、映画やレコードも一大産業にまで発展しました。自分の言葉を印刷することに落胆していた賢治は、こうした技術の革新についてどう感じていたのでしょう。

 普通に考えれば、活字によるコミュニケーションから、より原始的なコミュニケーションの方に回帰した賢治ですから、こうしたものに興味を示さなかったのではないか、と思われそうです。しかし実は晩期になって、賢治はこうしたものにずいぶん関心を寄せていたことがわかっています。映画やレコードへの没頭について、弟の清六さんが詳しく書いておられますが、殊にレコードについては交換会を催して普及を促したり、書簡に「やがては雑誌乃至新聞のやうな調子に扱はれるかとさへ存ぜられます」と書いたりしています。

 この頃エレクトロニクスによる表現をめぐって、国内外の芸術家が発言していますが、懐疑的な発言も数多くありました。しかし職業芸術家ではない賢治としては、こうした「進歩」は自分の職域を侵す「脅威」であるより、自分の可能性を伸ばす「チャンス」に映ったのではないでしょうか。

 ここでまたオングの言葉を借りることにします。

エレクトロニクスの技術は、電話、ラジオ、テレビ、さまざまな録音テープによって、われわれを「二次的な声の文化」の時代に引きずりこんだ。この新しい声の文化は、つぎの点で、かつての一次的な声の文化と驚くほど似ている。つまり、この二次的な声の文化は、そのなかに人びとが参加して一体化するという神秘性をもち、共有的な感覚をはぐくみ、現在の瞬間を重んじ、さらには、きまり文句を用いさえするのである。

W・オング『声の文化と文字の文化(藤原書店)』

 視覚型の文化である文字文化・印刷文化の限界を『春と修羅』の戦略上のミスに見出した賢治にとって、エレクトロニクスは救世主のように見えたのではないでしょうか。実現こそしませんでしたが、もしも自分の作品を朗読や、身振り手振り交じりの音声・画像で伝えることができれば、完全とはいかないものの、文字や活字では伝えきれなかった多くの情報ならざる情報、すなわち「言霊」を伝えることができると考えたのではないでしょうか。

 賢治はまだ文字がなかった頃に言葉が持っていた力の偉大さに気づいていました。そうして「声の文化」へ復帰する動きも見せました。これは一見すると懐古主義のようですが、実はそれは新しいテクノロジーへの、いちはやい反応だったとも考えられるのです。

 百年前に生まれ、六十三年前に没した賢治には知る由もないことですが、居ながらにして世界に向けて情報を発信し、また世界中の情報を手にすることのできるインターネットは、賢治の持っていた古代性と未来性を、最もうまく体現したメディアではないでしょうか。なにしろパソコンと電話線を接続するだけで、世界中の人を相手にしたリアルタイムでの情報交換ができるのですから、賢治が考えていただろう声の問題、推敲の問題等々は難なくクリアできるのです。

 本当はここでやれるといいのですが、設備の関係でちょっとできませんので、お手元にある私の作ったインターネットのホームページ(http://www.kobe-yamate.ac.jp/~tetsuro/nobutoki.shtml)をプリントしたものをご覧頂いて、インターネットとはこんなものだ、ということをご確認ください。

 これは字だけのごく単純な造りのものですが、アンダーラインの引いてある「tetsuro@kobe-yamate.ac.jp」と書いてあるところをクリック、これはパソコンのマウスという機器についているボタンを押すことですが、そうすると私宛てに電子メールを送ることができます。その下には「次の作家について研究中です」とあって、論文名のところにもアンダーラインがありますが、ここをクリックすると、資料の右ページにあるように、私の書いた論文がパッと画面に出てくるわけです。こういったものを作るのはワープロが打てるくらいの人なら簡単で、書き換えるのも簡単にできます。

 さてこのページの出来・不出来は、今は問わないでいただくことにして、とにかくインターネットによれば、手紙のように堅苦しくなく、また電話のように相手をわずらわせる事もなく、ページを作った本人と簡単に連絡が取り合えるわけです。また図書館や本屋に本や論文を探しに行く手間も省けます。自分の書いた論文に対して、反論や誤りの指摘などがあれば、すぐに修正することもできます。その他、例えば今日の会の映像や音声をインターネットで流せば、地球上のどこからでも会に参加でき、討論に加わることも可能になります。

 以上は大学にいる研究者としての特殊な例なのかもしれません。しかしこの他の分野でも、様々な利用法は考えられると思います。

 しかしホームページの最初の方にも書いてあるとおり、あるいはここに挙げたホームページを開設している近代文学研究者の数が少ないことからもわかるとおり、インターネットは文学研究にまだほとんど活用されていません。元来文系の人は機械に弱いものなので、仕方ないのかもしれません。しかし自己表現の手段として、これほど有意義なものもないと思います。せめて敏感なメディア意識を持っていた宮沢賢治に関心を持つ人くらいは、研究の活性化という意味でも積極的に使って欲しいと思うのです。

 賢治を偲んでイーハトーブに思いを馳せたり、無農薬野菜を作ったり、リサイクル運動に励むのも、確かに賢治精神の一面を延長したものにちがいありません。しかしもしも本当に「これからの賢治」を考えるならば、たいして歴史も古くない「活字メディア」ばかりを追いかけるのでなく、より賢治的なメディア、つまり電子メディアについても考えてみるべきなのではないでしょうか。

 

<質問>

賢治が自然の造形を感覚的にうまく表現したということですが、語句としてどこからどこまでが、感覚的表現なのか、よくわからないので教えて欲しいのですが。

<信時>

それは私の悩んでいるところでもあります。何を美しいと感じるかが人それぞれであるように、何を感覚表現だと感じるかというのも、人それぞれなんじゃないでしょうか。こういう問題は、とにかく自分のセンスを信頼して読んでみて、自分なりに思い込むしかない、と思ってます。答えにはなってませんが。